数字は倫理を超えたのか?―― ボクシング史上最大のリング禍と、世間の反応に見る終末の感。
先日の8月2日。
後楽園ホールで行われたボクシングの興行で、二名の選手が試合後、意識を失い、そのまま帰らぬ人となる惨事が発生した。同一興行における別々の試合で、二名が死亡するというのは、前例のない異常事態だ。
一昨年の年末にも、試合後、急性硬膜下血腫を発症し、まだ23歳だった選手が、意識の戻らぬまま、翌年2月に亡くなるという事故があった。彼の試合は、ボクシング協会が認定する「年間最高試合」ともされ、物議を醸した。
今年に入っても、5月にあったタイトルマッチの試合後、急性硬膜下血腫を発症し、今も意識が戻らない選手がいる(すでに引退扱い)。
そんな最中、遂に「一興行で二名の死亡」という、前代未聞の事故が起きた。
事故の起こった試合を「年間最高試合」と表彰する協会の行為は、いわゆる「事故の美化」「ロンダリング」に当たる。この歪んだ業界の感性こそが、その後も、立て続けに事故を起こす「呼び水」となってしまったのではないのか、と筆者には思えてならない。―― 事故を起こしてしまった試合は、興行運営における「最悪の試合」のはずであろう、本来。
日本人選手たちの主戦場ともいえる軽量級。この階級では、パンチが軽い分、一撃で昏倒するというケースは非常に少ない。倒れる時は、コツコツと当てられた「ダメージの蓄積」で倒れるので、スコーンと一発でダウンさせられるよりも、むしろリスクが高まる。
さらにいえば、近年、ボクシンググローブは以前のものよりも、大きなものが採用されるようになった。これには様々な理由があり、主に拳を守ることを目的としているとも言われているが、これがまた非常に危険だ。小さなグローブで殴られるよりも、大きなグローブで殴られる方が「脳がより揺れる」ためである。
減量のリスクもある。
いわゆる「水抜き」と呼ばれる手法が横行し、その後の人生における健康リスクも、無知なまま、見過ごされ続けている。過度な水抜きは、脳からも水分を奪う。脳の水分は、身体の水分とは違い、水分補給ですぐに戻ることはなく、回復するのに数か月を要するケースもある。事実、減量で死ぬ選手もいる。これはリング禍には当たらないため、ほとんどが一般の目に留まるニュースにもならない。
「事故は仕方がない」という連中がいる。
「そういうスポーツなのだから」と。
ボクシングは、他の格闘技と比べても、死亡リスクが突出して高い。頭部への打撃が、他競技と比べても多く、当然といえば、当然である。
だとすれば、最も重要となってくるのは、レフリーとセコンドの仕事となる。特にセコンドは、選手を育てているジムがつくことが一般。いわば、育ての親であり、子の生命を守ることは、親の義務ともいえる。
セコンドには「タオル」という、レフリーの判断によらず、「試合を止める権利」がある。しかし、これをまともに扱える人間が、極めて少ない。「危なかったら、きっとレフリーが止めてくれるだろう」という無意識の責任転嫁によって。
セコンドとレフリー。
もちろんレフリーにも責任はあるが、日頃からその選手を見ており、育てているジムの人間たちが、選手の異常な状態を察知できないというのは、言ってしまえば「他人を育てる資格がない」のではないか、と筆者なら考える。タオルの権利を使わずに、事故を起こしてしまったジムには、何らかのペナルティーが必要であり、その覚悟がないのなら、そもそもジムの経営などするべきではない。
時代と共に、ルールは変遷する。
このまま行くと、ボクシングそのものが、時代にそぐわないと「禁止」になる日も、そう遠くはないのかもしれない。
◇
―― さて、ここまでを読んで、みなさんはどう感じただろうか?
意外にも「ニュースそのものを知らなかった」というひとも、けっして少なくはないだろう。如何せん、世間の興味は「広陵高校の不祥事」であり、地上波放送も、もうされていないボクシングは「数字にならない」という判断から、テレビなどでも、あまり取り上げられていないことだからだ。
本来であれば、大惨事であり、大々的に検証されねばならぬ「事件」のはずだが、メディアは、そういった倫理すらをも放棄し、数字だけを追いかけている。なので、事故の情報が流れても、それはほんの一瞬のことであり、世間も世間で、広陵高校の「カップラーメン」で、ワーキャー言っている方が幸せなのだから、実にすばらしい。
ボクシングが今後、地上波に戻って来ることは、おそらく二度とないのだろう。「自分たちで選んだ道」ともいえる。