白き友と赤い杯
テーブルの上に空のグラスが二つと軽く炒めたナッツの入った皿が並んでいるのを見て部屋の主である老人は微笑んだ。少しずつしか動けないため準備にかなりの時間がかかったというのに、約束の時間にはまだ大分早い。
女性と会って話をするためにここまで張り切って準備を整えているのが子や孫たちに露呈したらなんと言われるか、そのことを想像して老人はいささかバツの悪いような気持ちになるが、老い先短い老体にも一年に一度くらいは楽しみがあっていいだろう、と自分に言い聞かせるように考える。
立っているのも辛くなった老人は安楽椅子に腰掛けると壁にかかった時計に目をやる。彼女が来るにはまだ早い。安楽椅子の上で半ば目を閉じながら老人は彼女と出会った日とそれからの年月のことを回想していた。
まだ老人が青年と呼ばれるような年齢だった頃のことである。ある夜青年は仲間たちとともに大学を抜け出して歓楽街へと繰り出した。娼館の下にある酒場で商売女たちをからかいながら安酒を喰らい、これぞ象牙の塔では得られぬ真なる知識などと知ったようなことを言いながら騒いでいたが、仲間たちは一人また一人と今晩の相手を見つけて二階へと上がって行き、ふと気が付けば最後の仲間が相手を見つけてお先にと青年を置いて階段を上るところであった。
辺りを見れば時間が時間であるせいかすでに手頃な値段でそれなりの女性はおらず、一癖も二癖もあるような女性か、学生では手が出せないような上玉しか残ってはいない。急に味のしなくなった酒を喉に流し込みながら青年は一人で肩をすくめ、今日は女なんかを買いに来たのではなくただ酒の味を楽しみに来ただけさ、と誰に言うでもなくそんな言い訳を心の中でしていた。
そんな青年へと誰かから声がかけられる。
「一人で飲んでいるのなら付き合ってくれ、少年」
人である以上は必要不可欠なナニカを欠いたような、それでいてどこまでも透き通るような透明な声だった。もし仮に植物が声を発することが出来たのならこのようなものなのではないかと思えるような不思議な声色だった。
だが酔っていたということもあり青年はその声質などまるで気にも留めず、酒も飲める年なのだから少年なんて言い方は止してくれと言いかけながら声のした方へと顔を向け、そして言おうとした言葉を飲み込んだ。
白、であった。
肌の色も、髪の色も、唇の色さえも。血の通っている部分など一つもないのではと思えるほどの、そこだけ世界から色が抜け落ちてしまったかのような純白。
もしその女性が動き、話しかけてきていなかったのなら青年は神代の時代から波の間を漂い続けた古い流木を材料に、神のごとき技を持った職人が自らの持てる技術の全てを捧げて削り出した精巧な像かなにかだと勘違いしてしまったことだろう。それほどまでにその女性は白く、異質で、そして美しかった。
その後のことはよく覚えていない。女性の持つグラスに注がれたワインの赤色だけが、恐ろしいほどに記憶に残っているだけである。
明くる日青年は酒場の二階の一室にあるベッドの上で目を覚ます。脱いだ服は椅子の上にかけてあったので手早くそれを着て青年は大学へと戻った。
女性のことは覚えていたがあまりにも現実感がなく、夢か深酒のし過ぎで見た幻覚だったのだろうと自分の中で結論を付け、やがてそのことも忘れていった。
それから十数年が経ち、仕事で成功を収めて妻子も持った男はある日所用で自らの母校である大学がある街を訪れ、そしてふとした気まぐれから自分が若い頃に行った歓楽街がいまどうなっているのかを確かめたくなった。
記憶を頼りにして足を向けると、はたしてそこには昔馴染みであった娼館がいまでも建っていた。こんなところに出入りしているのが妻や子にバレたら大目玉であると分かっていながら、しかし酒を飲むだけなら問題はないだろうと自分に言い聞かせながら男は懐かしさのままに酒場へと入る。立ち働く男女や客は当然ながら違ったが、雰囲気はそのままである。
懐かしさから酒場をぐるりと見回した男は、そこで思わず目を疑った。
酒場の片隅、以前彼が一人取り残されたあの席に、あの白の女性が座っていたのだ。
女性は男の視線に気が付いたのかこちらへと顔を向け、そして「おお」と声をあげた。相変わらず植物のようなその声は変わっておらず、否、彼女は見た目すらなにも変わっていなかった。まるで彼女だけ時が止まっているかのように。
「いつぞやの少年か。面白い偶然だ」
そして女性は男を自分の隣に座らせると自らをイスターと名乗り、とりとめのない話を始める。
そうしてこの年を取らない女性と男の奇妙な習慣が始まった。一年に一度、二人が最初に出会った日、この酒場で会い、酒を酌み交わす。ただそれだけの習慣である。二階には上がらない。本当にただ酒を酌み交わすだけだ。
イスターはありとあらゆることに対して驚くほど造詣が深く、まるで見てきたかのように歴史について語り、自分は歴史の一部なのだと嘯いた。男がなにか質問をすれば、必ず打てば響くような答えが返ってくる。生活を豊かにする新しい発明から、文献こそ残るが実在の疑われている古代都市、そして男の仕事や生活の愚痴など。
イスターと話をする一年に一度のこの習慣は、いつしか男にとって誕生日以上に楽しみなものになっていった。
やがて男は初老になり、夜中に一人で出歩くのが難しくなるとイスターは会う場所を男の家に変えることを提案し、妻にはすでに先立たれ、子供たちも独立していた男はこれを快諾した。
「待たせたようだな、少年」
そんな声を耳にして老人は目を開く。いつの間に入って来たのか、安楽椅子の前にはイスターが立っていた。
初めて会ったときとなにも変わらない神秘的なまでに白い肌と髪。雄大な植物を思わせる声。表情の読み取れない美しい顔。
女性を自分の向かいの安楽椅子に座るように促すと、老人はいつもと同じようにイスターと話をしようとした。だが、準備ですでに疲れていたのか、それとももう体力そのものがないのか、会話を長く続けることが出来ない。
それでもおそらく来年までは生きられないことが分かっていた老人は、できるだけ長くイスターと話をする。
そうして話をしている内にだんだんと老人は自分の言葉が、思考が散漫になっていくのを感じた。まるで眠る直前のような、だが眠るのとはまた違う、取り返しがつかないという確信の出来るような奇妙な感覚だった。
「イスターさん」
老人は力を振り絞った。これだけは言っておきたかった。
「いままで、ありがとうございました」
こちらこそとイスターは答える。そしてイスターは、彼女にしては珍しくどこか躊躇うような調子で老人に尋ねる。お前が死んだらなにか形見をもらって良いか、と。
老人が頷くとイスターはありがとうと礼を言う。その言葉を聞きながら老人はぼやけつつある視界でイスターの感情の浮かばない顔を見つめていると、目じりの横からほんの一筋だけ涙がこぼれるのを見た気がした。
この奇妙で美しい友人は果たしてこれまで何人の友人を見送って来たのだろうか。そんなことを考えながら、老人の意識は闇に消えていった。