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第8話 星降る峡谷の祈り

夜明け前の図書館は静寂に包まれていた。薄暗い閲覧室で、夕凪蓮夜は古びた民俗学の書物に目を通していた。ページをめくる音だけが、広い部屋に小さく響く。


「おや、これは…」


蓮夜は眉を寄せ、ある一節に視線を留めた。彼の指先が、黄ばんだページの上をなぞる。


「アリゾナ州グランドキャニオン近郊に伝わる『星の涙』現象。1923年の夏至の夜、峡谷の空から降り注いだ青い光の粒は、触れた者の願いを叶えたという。現地の先住民族は『星の祝福』と呼び、それを体験した者は皆、不思議な力を得たとされる…」


蓮夜は黒髪を軽く掻き上げながら椅子に深く腰掛けた。窓から差し込む僅かな光が、彼の黒い瞳に反射している。


「興味深いな。科学では説明できない現象か…」


彼は腕時計を確認し、立ち上がった。図書館の誰もいない一角に移動すると、深く息を吸い込んだ。


「目的地、1923年7月21日、アメリカ合衆国、アリゾナ州、グランドキャニオン」


蓮夜の周りの空気が震え始め、淡い青色の光が彼を包み込んでいく。体が軽くなり、現実が歪んでいく感覚。


「夏至の夜、星の涙を見に行こう」


光が強まり、彼の姿は現代から消えていった。


――――――――――――――――――――――――


灼熱の風が顔を撫でる。目を開けると、眩しい太陽と赤茶色の大地が広がっていた。


「うん、予定通りだ」


蓮夜は周囲を見回した。眼下に広がるのは、地球が長い年月をかけて彫り上げた壮大な峡谷。複雑に入り組んだ渓谷と断崖絶壁が、夕陽に照らされて赤く輝いている。


彼は軽装の旅行者に変装していた。麦わら帽子に白いシャツ、ベージュのズボンと頑丈なブーツ。首から下げた古いカメラは、この時代の旅行者としては自然な装いだ。


「さて、最初にすべきことは…」


蓮夜は小さな町を目指して歩き始めた。峡谷の縁に位置する町は、観光客と地元民が入り混じる活気ある場所だった。木造の建物が立ち並び、馬車と初期の自動車が道を行き交っている。


町に着くと、彼は最初に宿を探した。「グランドビュー・イン」という看板を掲げた二階建ての宿屋に入る。


「こんにちは、一泊の予約をお願いします」


フロントに立つ白髪の男性は、温かな笑顔で蓮夜を迎えた。


「いらっしゃい、若いの。名前は?」


「夕凪…いや、レン・ユウガミです」


「日本からの旅行者かい?珍しいね」


男性はにこやかに宿帳を差し出した。


「そうです。グランドキャニオンの美しさを見に来ました」


「素晴らしい選択だ。特に今夜は夏至の夜。キャニオンが最も美しく輝く時さ」


蓮夜は興味をそそられた様子で尋ねた。


「夏至の夜に何か特別なことがあるんですか?」


男性は周囲を見回すと、声を潜めた。


「地元の話だがね、夏至の夜には星が降るんだよ。願いが叶うって言われている」


「星が降る…『星の涙』ですか?」


「おや、その言葉を知っているとは。そう、先住民たちはそう呼んでいる。でも多くの旅行者は迷信だと笑うがね」


蓮夜は微笑んだ。


「私は迷信も大切な文化だと思います。どこで見られるんですか?」


「イーグル・ポイントという場所がある。町から西へ3マイルほど行ったところだ。夕方になったら、そこに地元の人たちが集まるだろう」


蓮夜は頷き、部屋の鍵を受け取った。


「ありがとうございます。ぜひ見に行ってみます」


――――――――――――――――――――――――


夕方、蓮夜はイーグル・ポイントへと向かった。道中で出会った馬車に乗せてもらい、日が沈み始める頃に到着した。


峡谷の縁に立つと、その絶景に息を飲んだ。夕陽に染まった大渓谷は、まるで異世界のような光景だった。赤と橙と紫が混ざり合い、時間とともに変化していく色彩。その底知れぬ深さと広がりは、見る者の魂を揺さぶる。


場所にはすでに数十人の人々が集まっていた。先住民の人々と思われる集団と、好奇心旺盛な観光客たちが、それぞれ小さな輪を作っている。


蓮夜は静かに周囲を観察した。先住民の一団が特に目を引いた。彼らは円陣を組み、何かの準備をしているようだ。中心には年老いた女性が座り、若い女の子が彼女の隣に立っていた。


好奇心に駆られた蓮夜は、その集団に近づいた。すると、先ほどの若い女の子が彼に気づき、こちらを見た。


「こんにちは、旅人さん。星の祝福を見に来たの?」


彼女は15歳くらいだろうか。長い黒髪と澄んだ瞳を持ち、民族衣装に身を包んでいた。


「はい、そうです。『星の涙』について聞いて、見てみたいと思って」


「私の名前はナヤだよ。あそこにいるのは私のおばあちゃん、イタルラ。彼女は部族の長老で、星と話せる人なんだ」


蓮夜は微笑んで頭を下げた。


「レンです。日本から来ました」


「日本?遠いところから来たのね」


ナヤは興味深そうに蓮夜を見上げた。


「おばあちゃんに会わせてあげる。星の涙について誰よりも知っているから」


彼女は蓮夜の手を取り、円陣の中へと導いた。イタルラと呼ばれる老女は、深いしわが刻まれた顔に優しい目を持っていた。彼女は蓮夜を見るなり、奇妙な表情を浮かべた。


「あなたは…遠くから来た方ね。とても遠くから」


その言葉に蓮夜は一瞬たじろいだが、すぐに微笑んだ。


「はい、日本からです」


「いいえ、もっと遠くから。時を超えて」


周囲の人々は老女の言葉に首をかしげたが、蓮夜は静かに老女の目を見つめた。イタルラは知っているようだった。


「星の涙について聞きに来ました」


老女はゆっくりと頷いた。


「百年に一度、夏至の夜に星々は私たちに贈り物をくれる。願いを持つ者の前に降り立ち、その心を見透かす。純粋な願いを持つ者だけが、星の祝福を受けられるのよ」


「どんな祝福ですか?」


「人それぞれ。失ったものを取り戻す者もいれば、見えないものが見えるようになる者も。だが、欲深い心を持つ者には何も与えられない」


イタルラは蓮夜の顔をじっと見つめた。


「あなたは何を願うの?」


蓮夜は考え込んだ。何を願うべきか、彼自身にもわからなかった。


「まだ…わかりません」


「焦ることはない。星が降る時、心が答えを教えてくれるだろう」


ナヤが会話に割り込んできた。


「おばあちゃん、準備の時間よ」


イタルラは頷き、蓮夜に言った。


「儀式が始まる。見ていなさい」


イタルラとナヤを含む先住民たちは円陣を組み、静かな歌を歌い始めた。その旋律は不思議と心に染み入り、峡谷全体に響き渡るようだった。


夜が深まり、星々が空を彩る。月は細い三日月で、星の瞬きがより鮮明に見えた。蓮夜は崖の縁に座り、その幻想的な光景に見入っていた。


歌が高まり、人々の声が一つになった瞬間、空に異変が起きた。


最初は小さな流れ星のように見えたものが、次第に増えていく。青く光る粒子が、ゆっくりと空から降りてきた。それは雪のようでもあり、光の雨のようでもあった。


「星の涙…」


蓮夜はつぶやいた。峡谷全体が青い光に包まれていく。観光客たちからは驚きの声が上がり、カメラのフラッシュが光った。


青い光は峡谷を埋め尽くし、幻想的な風景を作り出した。まるで天の川が地上に降りてきたかのようだ。


光の粒子は人々の周りを舞い、時に誰かの肩や頭に触れては消えていく。蓮夜の前にも一つの光が漂い、彼の目の前で静止した。


「何を望むの?」


蓮夜の頭の中で声が響いた。それは誰の声でもなく、まるで星自体が話しかけているようだった。


「僕は…知りたいんだ。この世界の不思議を、説明できないものの真実を」


光が明るく瞬いた。


「好奇心。それは尊い願い。でも、真実を知れば幸せになれるとは限らない」


「それでも知りたい。どんな真実でも受け入れる覚悟はある」


光はさらに明るく輝き、蓮夜の胸元へと近づいた。その瞬間、彼は強い衝撃を感じた。まるで全身に電流が走ったような感覚。彼の視界が一瞬白く染まり、そして…


頭の中に映像が流れ込んできた。彼が今まで見たこともない場所、出会ったこともない人々、起こっていない出来事…それは未来の断片だった。


光は彼の中に吸収され、視界が元に戻った。周囲では他の人々も同じような体験をしているようだった。ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は驚きに目を見開いていた。


「レン!どうだった?」


ナヤが駆け寄ってきた。彼女の目は興奮で輝いていた。


「信じられない…未来を見た気がする」


「本当?私はおばあちゃんが若かった頃の姿を見せてもらったよ。とても美しかった!」


彼女は嬉しそうに跳ねた。


「おばあちゃんが言ってた。あなたは特別な旅人だって。どういう意味か教えてくれる?」


蓮夜は微笑み、頭を軽く振った。


「僕もよくわからないんだ」


そのとき、悲鳴が上がった。人々が一斉に振り向くと、崖の縁に老女イタルラが立っていた。彼女の体が光り、青い粒子が彼女から放たれている。


「おばあちゃん!」


ナヤが叫び、駆け出そうとした。蓮夜は咄嗟に彼女を引き止めた。


「危ない!」


イタルラは振り返り、平和な表情で皆を見た。


「心配しないで。私の時が来たのよ」


彼女の声は不思議と全員に届いた。


「星々が私を呼んでいる。私はこの日のために長い間生きてきた」


ナヤは泣きながら叫んだ。


「行かないで、おばあちゃん!」


「大丈夫、愛しい子。私はいつもあなたと共にいる。星になって見守るわ」


イタルラの体からは次第に多くの光が放たれ、彼女の姿が輪郭を失っていく。


「皆さん、忘れないで。星の祝福は心の中にある。願いが叶うのは、その願いを叶える力が自分の中にあるから」


そう言うと、老女の姿は完全に光の粒子となり、夜空へと昇っていった。残されたのは、彼女が身に着けていた首飾りだけ。


人々は息を呑み、この奇跡的な光景を見つめていた。やがて、ナヤが静かに歩み寄り、首飾りを拾い上げた。彼女の頬には涙が流れていたが、表情は穏やかだった。


「おばあちゃんは言ってた。いつか星になるって。私、信じられなかったけど…」


蓮夜は彼女の肩に手を置いた。


「彼女は星になったんだね」


ナヤは頷き、首飾りを胸に抱きしめた。


「でも、どうして?なぜ今日なの?」


その問いに答えたのは、部族の別の長老だった。


「イタルラは百年前、星の涙を受けたとき、この日に星へ帰る約束をしたのだ」


「百年前?でも、おばあちゃんはそんなに…」


「そう、彼女は百年以上生きてきた。星の祝福で長寿を得たのだ」


長老は空を見上げた。


「彼女は私たちの導き手だった。その教えは永遠に続くだろう」


人々は静かに頭を垂れ、イタルラの旅立ちを見送った。星の涙は次第に弱まり、やがて完全に消えた。峡谷は再び通常の夜の闇に戻ったが、人々の心に灯った光は消えなかった。


――――――――――――――――――――――――


翌朝、蓮夜はイーグル・ポイントに再び訪れた。昨夜の出来事は現実だったのか、夢だったのか。しかし、彼の心に残る映像と感覚は鮮明だった。


崖の縁に立ち、深呼吸をする。朝日に照らされた峡谷は、また違った美しさを見せていた。


「やあ、レン」


振り返ると、ナヤが立っていた。彼女は昨夜のイタルラの首飾りを身に着けていた。


「ナヤ、大丈夫?」


彼女は微笑み、首飾りに触れた。


「うん。悲しいけど、おばあちゃんは幸せだったと思う。彼女の望み通りになったから」


「そうだね」


「あなたは?星は何を見せてくれた?」


蓮夜は空を見上げた。


「未来の断片。でも、それが何を意味するのかはまだわからない」


「きっといつか分かるよ」


ナヤは首飾りから一つの石を外し、蓮夜に差し出した。


「これをあげる。星の涙が宿った石。おばあちゃんが言ってた。あなたのような旅人に渡すようにって」


蓮夜は驚いて石を受け取った。小さな青い石は、光を当てると内側から淡く輝いた。


「ありがとう。大切にするよ」


「また会える?」


彼は微笑み、頭を振った。


「たぶん、難しいだろうな。僕はこれから遠くに行くから」


「どこへ?」


「とても遠い場所だよ」


ナヤは賢明な目で蓮夜を見つめた。


「時間の向こう側?」


蓮夜は驚いたが、すぐに微笑んだ。


「おばあちゃんから聞いたの?」


「うん。おばあちゃんは言ってた。時を超える人が来ると」


彼は首を傾げた。


「なぜそれを知っていたんだろう?」


「星が教えてくれたんだって」


ナヤは手を振り、去っていった。


「さようなら、時の旅人。また会えるといいな」


蓮夜は石を握りしめ、彼女の後ろ姿を見送った。不思議なことに、彼が昨夜見た未来の断片の中に、成長したナヤの姿があったような気がした。


人気のなくなった場所で、蓮夜は帰還の準備を始めた。青い光が彼を包み込み、1923年の世界から彼の姿が消えていった。


――――――――――――――――――――――――


現代の図書館、閉館間際の静かな時間。蓮夜は専用のノートを開き、経験したことを記録していた。


「1923年7月21日、グランドキャニオンの『星の涙』現象を目撃した。科学では説明できない青い光の粒子が空から降り、人々の願いを映し出す不思議な現象だった。百年以上生きた先住民の長老が、光となって星に還る姿も見た。歴史書には迷信として片付けられているが、私の目で見たその現象は間違いなく実在した」


彼はポケットから青い石を取り出し、光に透かして見た。内側から淡く光るそれは、あの夜の記憶を鮮明に甦らせる。


「未来の断片…いつか意味がわかる日が来るのだろうか」


蓮夜はノートを閉じ、石を大切にしまった。窓の外では、夕暮れの空に最初の星が瞬き始めていた。


「次はどこへ行こうか…」


彼は静かに微笑み、次なる旅への期待を胸に秘めたのだった。

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