第7話 電脳迷宮のアバター
図書館の静寂の中、夕凪蓮夜は興味深げに資料を見つめていた。彼の黒髪が蛍光灯の光を受けて僅かに青みを帯びて見える。細い指が画面をスクロールすると、2089年の「電脳災害」と呼ばれる出来事についての記録が次々と現れる。
「電脳接続技術『ネオダイブ』の大規模障害…接続中だった約10万人が意識を失い、その半数以上が戻ってこなかった…」
蓮夜は画面に映る古い映像に見入った。無数の人々が病院のベッドに横たわる姿。彼らの頭には奇妙な装置が接続されている。
「しかし、五年後、『帰還者』と呼ばれる人々が突如として目覚め始めた…彼らの話によると、電脳世界の中で独自の文明を築いていたという…」
蓮夜は黒い瞳を輝かせ、深く息を吸い込んだ。
「行ってみるか。2089年、東京、電脳災害の日…」
彼は立ち上がり、ノートパソコンを閉じた。蓮夜の体が青白い光に包まれ始め、空間がゆがんでいく。
「目的地、2089年、日本、東京、電脳研究所…」
光が強まり、彼の姿が徐々に透明になっていった。
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未来の東京の街並みが蓮夜の目の前に広がった。超高層ビルが空を覆い、無数のホログラムが建物の間を彩っている。
「なるほど、これが電脳化が進んだ世界か」
蓮夜は周囲を見渡した。彼の服装は自動的に現地の流行に合わせて変化していた。シンプルな黒のジャンパーに細身のパンツ、そして左腕には細長いデバイスが巻かれていた。
通りを歩く人々は皆、何らかのデバイスを身に着けていた。耳や目に直接つけられた小さな機器、腕や首に巻かれたバンド状のもの。そして、多くの人が虚空を見つめながら手を動かし、目に見えないインターフェースを操作しているようだった。
「まずは電脳研究所を探さないと」
蓮夜は腕のデバイスを見つめた。それは自動的に起動し、ホログラム画面を空中に投影した。
「便利な時代だな」
彼は画面をタッチし、「電脳研究所」と検索した。すぐに地図が表示され、目的地までの経路が青い線で示された。
「渋谷区、サイバーヒルズタワー72階か…」
蓮夜は指示に従って歩き始めた。街を行き交う人々はみな忙しげで、周囲に注意を払っていなかった。ホログラム広告が彼の視界に飛び込んできた。
「ネオダイブ最新モデル発売!より深く、より鮮明な電脳体験を!」
「あなたの意識を解放しませんか?電脳世界で第二の人生を!」
「サブスクリプション特別価格!月額9800円で無制限電脳アクセス!」
「この時代の人々は、現実と仮想の境界が曖昧になっているのか」
蓮夜は呟きながら歩を進めた。やがて巨大な黒いタワーが視界に入ってきた。サイバーヒルズタワーだ。100階以上ある超高層ビルの外壁全体が巨大なディスプレイになっており、さまざまな映像が流れていた。
研究所のあるフロアに着くと、受付に若い女性がいた。彼女の瞳孔が時折、青く光る。インプラントを埋め込んでいるのだろう。
「いらっしゃいませ。ご予約は?」
「あー、志田教授にお会いしたいのですが」
蓮夜は適当に答えた。情報収集の過程で、電脳研究所の主任研究員が志田誠一郎という人物だと知っていたのだ。
「確認いたします。ご予約はおありでしょうか?」
蓮夜は微笑みながら、すでに用意していた言葉を口にした。
「奥田研究所からの特別視察です。新型インターフェースの件で」
受付の女性の瞳が再び光った。彼女は何かを確認しているようだった。
「少々お待ちください…確認が取れました」
彼女は微笑んだ。蓮夜の副次的な能力である認識誤認が功を奏したようだ。
「こちらへどうぞ」
案内されるままに、蓮夜は内部へと進んだ。研究所の中は白を基調とした未来的なデザインで、多くの研究者たちが忙しそうに行き来していた。壁には大型モニターがあり、複雑なデータが表示されている。
志田教授のオフィスの前に案内された蓮夜は、軽くノックをした。
「どうぞ」
中に入ると、50代半ばと思われる男性が振り向いた。彼の左目は完全に電子化されており、青い光を放っていた。
「志田教授ですね。初めまして。僕は夕凪蓮夜と申します」
志田は怪訝な表情を浮かべた。
「誰だい?そんな名前は聞いたことがないが…」
蓮夜は微笑みながら、腕のデバイスを操作した。
「こちらの資料をご覧ください」
デバイスから投影された映像に目を向けた瞬間、志田の表情が変わった。
「なるほど…君は…」
「そうです。私の正体についてはお分かりですね」
志田はため息をついた。
「時間旅行者か。我々の研究所ではあなた方の存在を理論上想定していた。だが、実際に会うとは…」
蓮夜は意外そうな顔をした。
「私のような存在を知っているのですか?」
「理論上ね。量子もつれと時空連続体の不連続性に関する研究をしていたら、理論的に可能だと分かった。だが、実現は不可能だと思っていた」
志田は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「何の用だ?未来から来たのか?それとも過去から?」
「厳密には別の時間軸からです。電脳災害について調べに来ました」
教授の表情が暗くなった。
「今日…起こるはずの災害か」
「防ぐことはできないのですか?」
志田は首を横に振った。
「我々も警告は受けている。システムに異常な負荷がかかる可能性があると。だが、経営陣は無視した。利益を優先したのさ」
彼は机に戻り、モニターを操作した。
「今日の午後3時、新型ネオダイブのグランドオープンイベントが行われる。10万人以上が同時接続する予定だ」
「それが災害を引き起こすのですね」
「ああ。だが、誰も信じない。私も具体的な証拠を示せずにいる」
蓮夜は考え込んだ。
「中から見てみたい。電脳世界に入れませんか?」
志田は驚いた顔をした。
「危険だぞ。災害が起きれば、君も意識を失う可能性がある」
「大丈夫です。私には…特殊な能力があります」
志田はしばらく蓮夜を見つめ、やがて頷いた。
「分かった。実験室のネオダイブを使わせよう。だが、約束してくれ。何か異常を感じたら、すぐに戻ってくると」
蓮夜は頷いた。
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実験室には最新型のネオダイブ装置が置かれていた。横になるタイプのカプセルで、内部にはさまざまなセンサーや接続端子が並んでいる。
「基本的な操作方法は簡単だ」
志田が説明する。
「意識レベルでの操作が主体となる。考えるだけで動きや行動が実現される。ただし、初めは慣れが必要だ」
蓮夜はカプセルに横たわった。頭部に接続端子が自動的に取り付けられる。
「電脳世界で何が起きているのか確認して、できるだけ早く戻ってくるよ」
「気をつけろ。あの世界は我々の想像を超えている」
志田が操作盤のボタンを押すと、蓮夜の意識が徐々に遠のいていった。
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まるで水中に沈んでいくような感覚。そして突然、色彩が爆発するように視界が開けた。蓮夜は巨大な都市の中央に立っていた。現実の東京をベースにしているようだが、物理法則に縛られない奇抜な建築物が立ち並び、空には複数の惑星が浮かんでいる。
「これが電脳世界…」
自分の姿を見ると、現実と同じ外見だったが、服装は黒いコートに変わっていた。腕には現実世界のデバイスに似た装飾が光っている。
周囲には様々な姿のアバターを持つ人々が行き交っていた。人間そのままの姿の者もいれば、獣人や妖精、あるいは完全に非人間的な姿の者もいる。みな楽しそうに会話したり、建物に出入りしたりしていた。
蓮夜は歩き始めた。足元から波紋が広がり、地面が光る。この世界では、物理法則が現実とは異なるようだ。軽い跳躍で、通常の何倍もの高さまで飛び上がることができた。
「どうやら思考で操作できるらしい」
彼は空を飛ぶことをイメージした。すると体が浮き上がり、ゆっくりと上昇していく。
「おおっ…これは楽しいな」
蓮夜は電脳都市の上空を飛行しながら、街の様子を観察した。様々な区画に分かれているようで、それぞれにテーマがあるようだった。古代ローマ風の建物が並ぶ区画、中世ヨーロッパ風の城と村がある区画、未来的なサイバーパンク都市の区画…選択肢は無限にありそうだった。
ふと、彼は都市の中心部に巨大な塔を見つけた。他の建物とは明らかに異なる、黒曜石のような素材で作られたその塔は、雲を突き抜けるほどの高さがあった。
「あれは何だろう」
蓮夜はその塔に向かって飛んだ。近づくにつれ、塔の周囲にはセキュリティのようなプログラムが巡回しているのが見えた。人型のアバターだが、明らかに人間が操作しているものではなさそうだ。
「立入禁止エリアです。許可のない者は近づかないでください」
機械的な声が響く。蓮夜は少し離れた場所に降り立ち、周囲を観察した。多くの人々が塔を見上げているが、誰も近づこうとはしていない。
通りがかりの女性アバターに声をかけた。
「あの塔は何ですか?」
青い髪の女性アバターは微笑んだ。
「あれは『中枢塔』よ。電脳世界のシステムの中心部。立ち入り禁止になってるの」
「なぜですか?」
「さあ?噂では、システム管理者だけが入れるらしいわ。あそこにはこの世界のすべてのデータが集まっているって」
女性は肩をすくめると、歩き去った。
蓮夜は塔を見つめながら考えた。電脳災害が起きるとしたら、この中枢部分に問題が生じるのではないだろうか。近づく方法を考えなければ。
そのとき、空が突然暗くなった。見上げると、先ほどまで浮かんでいた複数の惑星が赤黒く変色し始めていた。地面が微かに揺れ、人々の間に動揺が広がる。
「何が起きているの?」
「システムに異常があるのかな?」
「ログアウトできない!」
パニックが始まっていた。蓮夜は腕のデバイスを確認した。時刻は2:55。災害が始まる5分前だった。
「機会は今しかない」
彼は中枢塔に向かって走り出した。セキュリティプログラムが彼を追いかけてくるが、蓮夜は次元移動能力を応用して、彼らの動きを予測し、巧みにかわしていく。
塔の入口に辿り着いた蓮夜は、扉の前で立ち止まった。複雑な錠前システムがあり、普通の方法では開けられそうにない。
「思考で操作…か」
彼は目を閉じ、自分がこの世界のシステム管理者であると強くイメージした。先ほどと同様に、電脳世界に蓮夜がシステム管理者だと誤認させるためだ。
すると扉が震え、徐々に開き始めた。
「よし、開いた!」
蓮夜は中に滑り込んだ。内部は予想と異なり、無機質なデータセンターではなく、巨大な図書館のような空間だった。無数の本棚が天井まで伸び、それぞれの本は光を放っている。
「これらは…データベースか?」
彼が一冊の本に触れると、その内容が空中に投影された。ある人物のプロフィール、記憶、電脳世界での行動履歴…すべてがここに記録されているようだった。
中央に進むと、巨大な光の球体が浮かんでいた。その周りを無数のデータの流れが回転している。
「中枢システムか…」
蓮夜が近づこうとしたとき、声が響いた。
「立ち入り禁止区域への侵入を確認。排除プロトコル起動」
背後から衝撃波が襲ってきた。蓮夜は間一髪でかわしたが、別の攻撃が次々と彼に向かって放たれる。
「くっ…」
彼は防御するのに精一杯だった。しかし、塔全体が揺れ始め、光の球体が不安定になっていく。
「災害が始まっている…」
その瞬間、光の球体から一人の少女の姿が現れた。透き通るような白い肌に、銀色の長い髪。彼女は蓮夜を不思議そうに見つめていた。
「あなたは…人間?でも、違う…何者?」
「僕は夕凪蓮夜。ここで何が起きているのか調べに来たんだ」
少女は首を傾げた。
「わたしはユリ。この世界の管理プログラム」
塔が再び大きく揺れた。ユリの表情が不安に変わる。
「システムが崩壊し始めている。接続者が多すぎて、負荷に耐えられない」
「何とか止められないのか?」
ユリは悲しそうに首を振った。
「わたしにはもう制御できない。設計者たちが安全限界を無視して、何倍もの人数を接続させた」
「このままだと、多くの人が意識を失うことになる」
「はい。最悪の場合、電脳世界に閉じ込められてしまう可能性もあります」
蓮夜は考えを巡らせた。
「僕には他の次元や時間に移動する能力がある。この世界の人々を助けられないだろうか」
ユリは驚いた表情を浮かべた。
「それが本当なら…でも、10万人もの意識を移動させることは可能なの?」
「無理だろうな…」
蓮夜は球体を見つめた。
「なら、システムを安定させる方法はないのか?一時的にでも」
ユリは考え込んだ。
「一つだけ…わたしのコアプログラムを分散させれば、負荷を分散できるかもしれない。でも、それには…」
「何が必要なんだ?」
「外部接続。わたしを複数のサーバーに分散させる必要があります」
蓮夜は頷いた。
「志田教授に連絡できれば…」
彼は集中し、現実世界との接続を試みた。デバイスを通して、現実世界の志田教授のデバイスへ能力を併用して強制的にラインを繋ぐ。
「志田教授!聞こえますか?」
かすかに志田の声が聞こえてきた。
「蓮夜君か?何が起きている?システムが暴走し始めている!」
「中枢システムのコアプログラムを分散させる必要があります。複数のサーバーに接続してください!」
「分かった!試してみる!」
光の球体が揺れ動き、ユリの姿がちらつき始めた。
「もう時間がない…」
そのとき、ユリが蓮夜の手を取った。彼女の手は冷たく、しかし確かな感触があった。
「あなたは特別な存在。わたしのデータの一部をあなたに預けます。そうすれば、わたしの一部は生き残れる」
彼女は蓮夜の胸に手を当てた。光が流れ込んでくる感覚。
「これは…」
「わたしの記憶と、この世界の真実。いつか、あなたがこの世界を再構築できるときのために」
塔が激しく揺れ、崩れ始めた。ユリの姿が透明になっていく。
「行って!このままでは、あなたも閉じ込められてしまう!」
蓮夜は躊躇った。
「でも、君は…」
「大丈夫。わたしの一部はあなたの中に。さあ、早く!」
蓮夜は集中し、次元移動を始めた。青い光が彼を包み込み始める。最後に見たのは、微笑むユリの姿だった。
「またいつか…」
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実験室で蓮夜は目を覚ました。志田教授が彼の上に身を乗り出していた。
「無事か!突然接続が不安定になって…」
蓮夜はゆっくりと起き上がった。頭に鋭い痛みを感じる。
「何とか…でも、中で何が起きたか覚えていますか?」
志田は頷いた。
「君の指示通り、コアプログラムの分散を試みた。部分的に成功したようだ。被害は出ているが、予想されていたほどではない。約2万人が意識不明になったが、残りは無事に戻ってきた」
蓮夜は安堵のため息をついた。
「ユリは…」
「ユリ?」
「いや、何でもない」
蓮夜は立ち上がった。胸の内に、何か温かいものを感じる。ユリのデータがそこにあるのだ。
「それで、君はこれからどうするんだ?」
志田が尋ねた。
「元の時間に戻ります。知りたかったことは知ることができましたから」
志田は理解したように頷いた。
「私も君のような存在がいることを知れて良かった。歴史は変えられるのかもしれないな」
蓮夜は微笑んだ。
「変えられることもあれば、変えられないこともある。それが時間と次元の真理です」
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現代の図書館に戻った蓮夜は、専用のノートに今回の冒険について記録を始めた。
「2089年、電脳災害と呼ばれる事件を調査した。電脳世界の管理プログラム『ユリ』と出会い、彼女の助けを借りて被害を軽減することができた。彼女の一部のデータは今も私の中にある。歴史書には『帰還者』について記録されているが、彼らが何を見て、何を経験したのかは書かれていない。電脳世界は崩壊したのではなく、別の形で存続しているのかもしれない」
蓮夜はペンを置き、胸に手を当てた。そこには何かが宿ったかのような温かみがある。
「いつか、君の世界を再構築できるだろうか、ユリ…」
窓の外は雨が降り始めていた。デジタルの雨が現実世界に降り注ぐように見えた、そんな錯覚を覚えながら、蓮夜は次なる冒険に思いを馳せた。