第6話 幻想の森で交わる約束
朝の光が古い資料館の窓から差し込み、埃の舞う空気を金色に染めていく。夕凪蓮夜は、興味深げな表情で古い日記を手に取っていた。
「ん?これは…?」
蓮夜は黒髪を軽く掻き上げながら、日記のページをめくる。彼の黒い瞳が輝きを増す。
「1865年、イギリス、オックスフォードシャーの森で『七色の光る蛾』を見たという記録…」
蓮夜は日記に書かれた内容を声に出して読んだ。
「奇妙な蛾は満月の夜に現れ、羽を広げると七色の光を放つ。それを追いかけたところ、森の奥で不思議な少女たちの集いを目撃した。少女たちは人間とは思えぬ美しさで、花の輪の中で踊っていた…」
日記の筆者は当時の植物学者で、蝶や蛾の収集が趣味だったらしい。しかし、この記述の後、彼は突然オックスフォードシャーを離れ、二度と戻らなかったという。
「七色の蛾と不思議な少女たち…」
蓮夜は立ち上がり、窓から差し込む光に顔を向けた。好奇心の炎が彼の胸の内で燃え盛る。
「行ってみよう。1865年、イギリス、オックスフォードシャー、満月の夜…」
彼は目を閉じ、深く呼吸する。全身が青白い光に包まれ始め、周囲の景色がぼやけていく。
「目的地、1865年7月、イギリス、オックスフォードシャーの森…」
光の渦が彼を包み込み、時間と空間を超えた旅が始まった。
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涼やかな夜風と草の香り。蓮夜が目を開けると、満月に照らされた静かな森が広がっていた。
「到着したようだ…」
彼は周囲を見回した。背の高い木々が月明かりに照らされて銀色に輝き、風に揺れる葉の音が静かな音楽のように響いている。
蓮夜は服装を現地風に調整した。シンプルな白いシャツに茶色のベスト、ブリーチズと呼ばれる膝丈のズボン、そして頑丈な革靴。19世紀のイギリスの田舎の青年という雰囲気だ。
「さて、七色の蛾はどこにいるかな…」
蓮夜はポケットから小さなランタンを取り出し、灯りをつけた。ほのかな光が周囲を照らす。彼は森の中へと歩み始めた。
月明かりが葉の間から漏れ、森の床に美しい光の模様を作り出していた。夜の森は静寂に包まれ、時折フクロウの鳴き声や小動物の気配が感じられるだけだ。
しばらく歩いていると、蓮夜の前方で小さな光が揺らめいた。
「あれは…」
彼は息を呑んだ。光る蛾だ。しかし、それは普通の蛾と違い、羽を広げるたびに七色の光が放たれている。まるで小さな虹が飛んでいるようだった。
「見つけた…」
蓮夜はそっと近づこうとしたが、蛾は彼の気配を感じたのか、急に飛び立ち、森の奥へと飛んでいった。
「待って!」
蓮夜は蛾を追いかけ、木々の間を縫うように走った。蛾は彼を導くかのように、時々立ち止まっては光を放ち、蓮夜が近づくとまた飛び立つ。
やがて、森の奥にある小さな空き地に到着した。蓮夜は木の陰に隠れ、目の前の光景を見つめた。
「信じられない…」
空き地の中央には、大きな輪を作るように咲いた白い花々があり、その中で数人の少女たちが踊っていた。少女たちは皆、月明かりのように銀色に輝く長い髪と、薄い緑や青、紫の衣装を身にまとっていた。その肌は陶器のように白く、まるで人間とは思えないほど美しい。
蓮夜は思わず息を飲んだ。日記に書かれていたのは本当だったのだ。
少女たちは手をつなぎ、歌を歌いながら踊っている。その歌声は風のように優しく、しかし人間の言葉ではなかった。
「フェアリー…妖精だ」
蓮夜はつぶやいた。伝説でしか聞いたことのない妖精が、目の前で踊っているのだ。
そのとき、七色の蛾が再び現れ、蓮夜の周りを飛び回った。その光が彼の存在を暴露してしまう。
踊りが突然止まった。少女たちは一斉に蓮夜の方を向き、警戒の表情を浮かべた。
「人間!」
一人の少女が鋭く叫んだ。他の少女たちは驚き、恐れて後ずさりした。しかし、中央にいた一人の少女だけは動かなかった。
彼女は他の少女たちとは少し違っていた。髪は月明かりのような銀色ではなく、夜空のような漆黒で、目は星のように輝く青だった。彼女だけが蓮夜を恐れる様子はなく、むしろ好奇心に満ちた瞳で彼を見つめていた。
「待って、みんな。彼は害を与えようとしているわけではないわ」
彼女の声は、澄んだ小川のせせらぎのように美しかった。
蓮夜は木の陰から出て、両手を上げて無害であることを示した。
「こんばんは。邪魔するつもりはありませんでした。あの蛾に導かれてここに来たんです」
黒髪の少女は蓮夜に近づき、不思議そうな表情で彼を観察した。
「七色の蛾があなたを連れてきたの?不思議ね。普通、私たちの使いは人間を迷わせるだけ。でも、あなたは違うみたい」
彼女はふと微笑み、自分の名を名乗った。
「私はリリアナ。この森の妖精たちのリーダーよ」
「夕凪蓮夜です。遠い東の国から来ました」
蓮夜も丁寧に挨拶をした。リリアナは興味深そうに彼を見つめ続けた。
「東の国…遠いところから来たのね。でも、あなたの目には見慣れない光がある。普通の人間とは違う」
リリアナの言葉に、蓮夜は少し驚いた。彼女は彼の本質を見抜いている。
「あなたたちが妖精なら、フェアリーサークルで踊っていたんですね」
蓮夜は花の輪を指さした。リリアナは優雅に頷いた。
「そう。今夜は満月。私たちの力が最も強まる夜よ。月の光を浴びて踊ることで、森に命を吹き込む儀式をしていたの」
他の妖精たちは、まだ警戒の表情を崩さず、リリアナの背後に集まっていた。
「彼は危険だわ、リリアナ」金髪の妖精が囁いた。
「人間は信用できないわ」別の妖精も同意した。
リリアナは彼女たちを振り返り、穏やかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫。彼は特別な人間よ。それに…」
彼女はふと言葉を切り、空を見上げた。満月が雲に隠れ始めていた。
「時間が迫っているわ。月が雲に隠れる前に儀式を終えなければ」
リリアナは再び蓮夜に向き直った。
「あなたが本当に害をなさないなら、見ているだけにして。決して輪の中には入らないで」
蓮夜は頷き、後ろに下がった。
「わかりました。ただ見ているだけにします」
妖精たちは再び花の輪の中に戻り、踊りを再開した。しかし、今度はリリアナが中央に立ち、両手を月に向けて上げた。
彼女の指先から淡い青い光が放たれ、その光は空気中で煌めき、森全体に広がっていく。他の妖精たちも手を上げ、緑や紫、赤や黄色の光を放った。光は交わり、美しい虹色の渦を作り出した。
蓮夜は息を呑んで見つめていた。これほど美しい光景を見たことがなかった。
しかし、その時、突然の物音が森の静寂を破った。
「そこだ!あの光を見ろ!」
男性の声だ。蓮夜は振り返り、数人の男たちがランタンを持って近づいてくるのを見た。彼らは猟銃を携え、興奮した様子で指さしている。
「妖精だ!捕まえろ!」
男たちは空き地に向かって走り出した。妖精たちは驚き、悲鳴を上げた。儀式が中断され、光の渦が揺らめいた。
「逃げて!」リリアナが叫んだ。
妖精たちは散り散りになり、森の中へと逃げていった。しかし、リリアナだけは動かなかった。彼女は必死に両手を上げ続け、光の渦を維持しようとしていた。
「リリアナ!危険だ!」蓮夜は彼女に向かって叫んだ。
「儀式を完成させないと…森が死んでしまう…」
リリアナの声は弱々しく、彼女の体から放たれる光も弱まりつつあった。
蓮夜は迷わず彼女の元へ駆け寄った。
「捕まえるぞ!」男たちの声が迫る。
「来て!」
蓮夜はリリアナの手を取り、彼女を引っ張って森の中へ逃げ込んだ。彼らの後ろでは、男たちが怒声を上げながら追いかけてくる。
「早く!こっちだ!」
蓮夜はリリアナの手を握りしめたまま、森の奥へと走った。月明かりが木々の間から差し込み、かろうじて道を照らしている。男たちのランタンの光が遠ざかっていくのを確認して、蓮夜はようやく足を止めた。
「大丈夫?」
彼はリリアナに問いかけた。彼女は弱々しく頷いたが、顔色が悪かった。
「儀式が…中断された。月の力を十分に受け取れなかった…」
彼女は震える声で答えた。
「どうなるの?」
「森が…衰えていく。妖精の力なしでは、この森は生き続けられない」
リリアナの瞳に悲しみが浮かんだ。彼女は空を見上げた。満月は今や厚い雲に完全に覆われ、その光は森に届かなくなっていた。
「次の満月まで待てないの?」
リリアナは首を振った。
「今夜が特別な満月だったの。百年に一度の…」
蓮夜は考え込んだ。妖精たちが森を守るために踊っていたのだとしたら、その儀式が途切れたことで森に何が起こるのだろう。
「何か方法はないの?」
リリアナはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。
「一つだけ…方法がある。でも、犠牲が必要…」
「犠牲?」
「人間の…純粋な命の力。それが森を救う可能性がある」
蓮夜は緊張した面持ちで聞いた。
「つまり、人間の命を奪うということ?」
リリアナは慌てて首を振った。
「違う!そんなことはしない。でも…魂の一部を森に与えることで、森は再生できる。ただ…それをすれば、その人間は二度とここから出られなくなる。森と共に生き、森と共に死ぬことになる」
蓮夜は深く考え込んだ。自分は時間と次元を旅する能力を持っている。普通の人間ではない。もし自分が「魂の一部」を与えたとして、本当にここに縛られてしまうのだろうか?
「僕がやろう」
リリアナは驚いた表情で蓮夜を見つめた。
「何を言ってるの?あなたは人間よ。そんなことをしたら、二度と家族や友達のもとに帰れなくなる」
蓮夜は微笑んだ。
「僕は…少し特別な人間なんだ。そして、この森を救いたい」
リリアナは困惑したまま、蓮夜の顔をじっと見つめた。
「本当に…いいの?」
「ああ。方法を教えて」
リリアナはしばらく迷っていたが、やがて深く息を吸い、決意した様子で頷いた。
「では…私についてきて」
彼女は蓮夜を導き、森の中を歩き始めた。やがて、彼らは大きな古木の前に立った。木の幹には、小さな扉のような窪みがあった。
「これは森の心臓。すべての命が流れる中心よ」
リリアナは窪みに手を当て、静かに何かを囁いた。すると、窪みが光り始め、小さな扉が現れた。
「中に入って」
蓮夜は頷き、その小さな扉をくぐった。中は想像以上に広く、木の内部は空洞になっており、中央には淡く光る水晶があった。
「これが…森の心?」
「そう。これに触れて、心の中で森を救いたいという願いを強く思って」
蓮夜は水晶に近づき、両手を伸ばした。水晶に触れた瞬間、強い電流のようなものが彼の体を走った。
「うっ!」
彼は痛みに顔を歪めたが、手を離さなかった。心の中で、森を救いたいという思いを強く抱き続けた。
するとゆっくりと、彼の体から淡い青白い光が流れ出し、水晶へと吸い込まれていった。それは彼の魂の一部が抜け出ているような不思議な感覚だった。
蓮夜の意識がぼんやりとしてきた。水晶は次第に明るく輝き、その光は木の内部を満たし、やがて外へと溢れ出した。
森全体が光に包まれるのを感じた時、蓮夜は意識を失った。
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「起きて…蓮夜、起きて…」
優しい声が蓮夜の意識を呼び戻した。目を開けると、リリアナが心配そうな表情で彼を見下ろしていた。
「リリアナ…」
蓮夜はゆっくりと体を起こした。彼らはまだ大きな木の内部にいたが、水晶はもう光っていなかった。
「成功したの?」
リリアナは微笑んで頷いた。
「見て」
彼女は蓮夜を外に導いた。外に出ると、驚くべき光景が広がっていた。森全体が生き生きと輝いていた。木々は以前より緑豊かに茂り、花々は色鮮やかに咲き誇っていた。空には満月が雲間から顔を出し、優しく森を照らしていた。
「信じられない…」
蓮夜は息を呑んだ。森は完全に再生していた。
「あなたの魂の一部が森と結びついたの。森はあなたの命の力で再生した」
リリアナは感謝の表情で蓮夜を見つめた。
「これからどうなるの?僕はここに縛られる?」
蓮夜は自分の体に注目した。特に違和感はなかった。彼はまだ自分の能力を使えるのだろうか。
リリアナはしばらく黙っていたが、やがて不思議そうな表情で首を傾げた。
「おかしいわ…あなたはここに縛られるはずなのに…何か違う力がそれを妨げているみたい」
蓮夜は微かに笑った。やはり彼の次元移動の能力は、一般的な魔法の束縛を超えるものだったのだろう。
「僕は少し特別なんだ。でも、森は大丈夫なの?」
リリアナは森を見回し、頷いた。
「ええ。あなたの魂の一部は確かに森と繋がった。不思議ね…あなたが自由なままでいられるなんて」
彼女は突然、明るい笑顔を見せた。
「でも、これで森は救われた。他の妖精たちも無事よ。みんな戻ってくるわ」
本当に、森の至る所から妖精たちが現れ始めた。彼らはリリアナを見つけ、喜びの声を上げながら近づいてきた。
「リリアナ!無事だったのね!」
「森が…復活したわ!どうやって?」
妖精たちは驚きと喜びに満ちた表情で森の変化を見ていた。リリアナは微笑みながら蓮夜を指さした。
「彼のおかげよ。彼が森を救ってくれたの」
妖精たちは驚いた表情で蓮夜を見つめた。最初は疑いの目を向けていた彼女たちも、今は感謝の表情を浮かべている。
「人間なのに…なぜ?」
「彼は特別な人間よ」リリアナはそう答えた。
妖精たちは蓮夜の周りに集まり、花や小さな光の球を彼に差し出した。それは妖精たちの感謝の印だった。
蓮夜は微笑みながらそれらを受け取った。彼は自分の使命を果たしたと感じていた。
「そろそろ行かなければならないんだ」
彼はリリアナに告げた。彼女は少し寂しそうな表情を浮かべたが、理解を示すように頷いた。
「また来てくれる?」
「約束するよ」
蓮夜は彼女の手を取り、優しく握った。
「僕の魂の一部はここにあるんだから、必ずまた会いに来る」
リリアナは微笑み、彼の頬に軽くキスをした。
「それまで待ってるわ」
蓮夜は彼女から離れ、森の中の静かな場所へと歩いていった。振り返ると、リリアナと妖精たちが手を振っていた。彼も手を振り返した。
「さようなら、妖精の森」
彼は目を閉じ、深く呼吸した。全身が青白い光に包まれ始める。彼の体はゆっくりと透明になっていき、やがて完全に消えた。
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現代の資料館に戻った蓮夜は、専用のノートを取り出し、今回の冒険について記録を始めた。
「1865年、イギリス、オックスフォードシャーの森を訪れた。そこで妖精たちの存在を確認。彼女たちは森に命を吹き込む儀式を行っていたが、人間に妨害されたため、森の命を救うために介入した。魂の一部を森に与えることで森は再生したが、予想に反して自分は自由なままだった。妖精のリーダー、リリアナとは再会を約束した」
蓮夜はペンを置き、窓の外の夜空を見上げた。彼の胸には、以前なかった新しい感覚が宿っていた。どこか遠く、時間と空間を超えた森との繋がりだ。
「妖精と結ばれた魂か…」
彼は微笑み、自分の心の中に宿った新しい絆を感じながら、次なる冒険に思いを馳せた。