第5話 死者の都に眠る薔薇の指輪
古びた歴史書のページをめくる音だけが静かな図書館に響いていた。夕凪蓮夜は深夜の東京国立図書館の隅で、緑色のデスクランプの光を頼りに本を読み込んでいた。窓の外から差し込む月明かりが彼の黒髪を淡く照らし、その細身の姿を浮かび上がらせる。
「失われた遺物か…良いね。興味深い」
蓮夜は一冊の考古学雑誌を凝視し、無意識に唇の端を上げた。そこには「インカの失われた都市で発見された不可解な遺物」という見出しがあった。
「1926年、マチュピチュから120キロ離れた場所で発見された新たな遺跡『黄金の谷』から、現代の技術とも思える精密な工芸品が出土。特に謎の薔薇の指輪は、周囲の空間が歪むという奇妙な現象を引き起こしていたとの記録が残る。しかし発掘から3日後、謎の雷雨により遺跡は土砂崩れに埋もれ、再発見されることはなかった…」
蓮夜は微笑んだ。感覚が研ぎ澄まされていく、あの特別な興奮が胸を満たしていた。新たな謎、未知の存在への好奇心が彼の血を熱くする。
「薔薇の指輪か…空間を歪めるなんて、普通の遺物じゃないな」
彼は立ち上がり、本を静かに閉じた。長い指で髪をかき上げると、夜の図書館を無音で後にし、屋上へと向かった。満月が東京の夜空を輝かせ、高層ビルのシルエットを銀色に染めていた。
蓮夜は月を見上げ、深く息を吸い込んだ。彼の体が淡く光り始め、周囲の空間が歪んでいく。月の光が螺旋状に彼の周りを回り、一瞬の閃光が走った。
「1926年7月のペルー、黄金の谷。行ってみよう」
光が強まり、蓮夜の姿は空間に溶け込むように消えていった。図書館の屋上には、もう誰もいなかった。
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蒸し暑いジャングルの空気が蓮夜の肺を満たした。彼は汗を拭いながら、急な斜面を登っていた。茂みを掻き分け、足場の悪い岩肌を注意深く踏みしめる。身に着けていたのは1920年代の探検家風の服装—ベージュのシャツに同色のズボン、頭には広つばの帽子、そして肩からはカメラと小さな革のバッグをかけていた。
「ここが黄金の谷か…」
蓮夜の前に開けた光景は、まさに息を呑むものだった。緑豊かな谷間に、数十の石造建築が広がっていた。遺跡の中心には、金色に輝く神殿のような建物があり、太陽の光を反射して眩しいほどだった。鳥のさえずりと風の音だけが、この忘れられた都市に命を吹き込んでいる。
谷の入り口には小さなテント村があり、数人の探検家やペルー人労働者たちが忙しく動き回っていた。蓮夜はカメラを構えるふりをしながら、彼らに近づいた。カメラのレンズを通して観察するのは、彼の身分を隠す完璧な方法だった。
「こんにちは、ロンドン大学から来ました。ライトと申します」
蓮夜は流暢な英語で、テント村の中心にいた白髪の男性に声をかけた。彼の声は落ち着いており、1920年代の英国訛りを完璧に再現していた。
「ほう、また新しい見学者かね」
白髪の男性はうんざりしたような表情を浮かべたが、手を差し出した。その手は日焼けし、長年の発掘作業でごわついていた。
「カーマイケル教授だ。このキャンプの責任者だよ」
「失礼ながら、薔薇の指輪について調査に来ました」
蓮夜の言葉に、カーマイケル教授の表情が曇った。彼の目に警戒の色が浮かぶ。
「君はどうやってそれを知った?我々はまだ公式発表していないはずだが」
蓮夜は穏やかに微笑んだ。その笑顔には、相手の心を開かせる不思議な魅力があった。
「噂というものは早いものです。詳しい話を聞かせていただけませんか?学術的な関心からです」
教授は周囲を見回し、小声で言った。その表情には不安と興奮が入り混じっていた。
「テントで話そう。このことはあまり大声で話したくないんだ」
カーマイケルのテント内は、メモや地図、様々な遺物の写真で溢れていた。古びた木製の机の上には、半分読みかけの書物が山積みされ、壁には土着の装飾品が掛けられていた。教授はウイスキーを二つのグラスに注ぎ、一つを蓮夜に渡した。琥珀色の液体が、ランプの光に照らされて輝いている。
「三日前のことだ」
教授は話し始めた。彼の声は低く、まるで誰かに聞かれることを恐れているかのようだった。
「我々は神殿の地下室を発掘していた。そこで見つけたのが、あの指輪だ」
教授は鍵のかかった小さな木箱を取り出し、開けた。その動作には厳粛さがあった。中には、信じられないほど精巧に作られた銀の指輪があった。その上部には薔薇が彫刻され、まるで生きているかのように繊細で、花びらの中心には小さな赤い宝石が埋め込まれていた。宝石は内側から光を放っているかのように煌めいていた。
「これが噂の…」
蓮夜が手を伸ばそうとすると、教授は素早く箱を閉じた。その動きには焦りがあった。
「触れない方がいい。この指輪には何か…異常なものがある」
「どういうことですか?」
教授は深いため息をついた。彼の目には言葉にできない恐怖が浮かんでいた。
「最初に触れたのは私の助手のホセだった。彼が指輪を手に取った瞬間、周囲の空気が…波打ったんだ。まるで熱で揺らめくように。そして彼の姿が一瞬、透けたように見えた」
「それで彼は…?」
蓮夜の声には、純粋な好奇心が込められていた。彼の胸の内では、冒険への期待が高まっていた。
「彼は今も生きている。だが…変わってしまった」
教授は窓の外を指差した。テント村の端で、一人の若い男が虚空を見つめて座っていた。彼の目は焦点が合っておらず、表情は虚ろだった。
「彼は時々、誰もいない場所で誰かと話し、見えないものを見ている。そして恐ろしいことに、彼の言葉が時に…予言のようになる」
「予言?」
蓮夜の興味は一層深まった。彼の黒い瞳が好奇心に輝いている。
「昨日、彼は『明日、赤い鳥が死をもたらす』と言った。そして今朝、この遺跡で初めて赤い羽の鳥が現れ、それを見た労働者の一人が心臓発作で倒れたんだ」
蓮夜は興味を持って聞いていた。これは彼が求めていた謎だった。時間と次元の歪み、それが生み出す異常現象。
「この指輪、どこから来たものだと思われますか?」
教授は首を振った。深いしわが刻まれた額には不安の色が浮かんでいた。
「それが最大の謎だ。製法はインカのものではない。はるかに精巧で…現代の最高級の宝飾品にも劣らないほどだ。地下室の壁には、この指輪に関する絵が描かれていた。『死者の女王の指輪』と呼ばれているようだ」
「その壁画を見せていただけますか?」
蓮夜の声には抑えきれない興奮があった。彼はこのような謎に惹かれる。時間の境界を越えて、真実を追い求める旅。それが彼の存在理由だった。
「もちろん。明日の朝、一緒に行こう」
その夜、蓮夜はキャンプに用意された小さなテントで横になっていた。キャンバス地を通して月明かりが差し込み、内部を銀色に照らしていた。彼は考え事をしながら天井を見つめていた。薔薇の指輪、死者の女王、予言…すべてが一つの謎へと繋がっていた。
「時空の歪み…この場所には確かに異常がある」蓮夜は呟いた。
夜半過ぎ、蓮夜は物音で目を覚ました。テントの外で誰かが動いている。静かに起き上がり、外を覗くと、ホセの姿があった。彼は月明かりの中、まるで夢遊病者のように、遺跡の方へとよろめくように歩いていた。
「おかしいな…」
蓮夜は音を立てないように彼の後を追った。月の光が谷を銀色に染め、影を長く引き伸ばしていた。ホセは神殿へと向かい、内部へと消えていった。蓮夜も慎重に続く。彼の足音は、経験を積んだ冒険者のように静かだった。
神殿内部は松明の光で薄暗く照らされていた。古代の壁に描かれた模様が、炎の光に踊るように見えた。ホセは階段を下り、地下室へと向かった。蓮夜は距離を保ちながら追跡した。彼の心臓は期待と緊張で早鐘を打っていた。
地下室は広く、壁には色鮮やかな壁画が描かれていた。その多くはインカ風のデザインだったが、一部には奇妙な要素があった。緑色の空、二つの月、そして人間とも思えない細長い姿の存在たち。松明の光が壁に揺れる影を作り、まるで絵の中の存在が動いているかのように見えた。
ホセは部屋の中央に立ち、虚空に向かって何かを話し始めた。それは蓮夜の知らない言語だった。古代のものでもなく、現代のものでもない、不思議な響きを持つ言葉。
突然、部屋の空気が揺らめき始めた。蓮夜の鼓動が早まる。何かが起きようとしていた。彼は経験から、次元の境界が薄くなる時の感覚を知っていた。
ホセの周りに光の輪が形成され、彼の姿が透け始めた。そして彼の背後に、最初はぼんやりとした輪郭だけだったが、徐々に形になっていくものがあった。蝋燭の炎のように揺らめきながら、その姿は具現化していった。
それは長身の女性だった。肌は青白く、髪は漆黒で背中まで伸びていた。その姿はまるで実体がないかのように揺らめいていたが、その目だけは鮮明に輝いていた。金色の瞳。それは人間のものではなく、猛獣のような鋭さと冷酷さを持っていた。
女性はホセの肩に手を置いた。彼は震え、膝から崩れ落ちた。その表情には恐怖と陶酔が入り混じっていた。
「お前は…時間に干渉しているな」
女性の声が蓮夜の頭の中に直接響いた。その声は冷たく、どこか古代の響きを持っていた。まるで千年の歴史を持つ氷河のような声だった。
蓮夜は一歩前に出た。恐れは感じなかった。むしろ、未知なる存在との遭遇に、興奮すら覚えていた。
「君は誰だ?」
「私は死者の女王、ネヤラ」
彼女は答えた。その声は蓮夜の心に直接響く。
「別の次元から来た。そして私はこの世界を我が者にしようとしている」
「この世界を…?」
蓮夜の瞳が興味に輝いた。別次元の存在、世界征服の野望。それは彼が何度も目にしてきた光景だったが、いつも新しい発見があった。
「そう。薔薇の指輪は私の力の一部。その力で次元の扉を開き、私の軍団をこの世界に招き入れる」
「それでホセを操っていたのか」
ネヤラは冷たく笑った。その笑みには人間性の欠片もなかった。
「彼は私の最初の僕。だが、強い意志の持ち主が必要だ。お前のような…」
突然、彼女の姿がホセから離れ、蓮夜に向かって浮かび上がった。蓮夜は後退りしようとしたが、足が動かなくなっていた。まるで空間そのものが彼を捉えているかのようだった。
ネヤラの半透明の手が蓮夜の頬に触れた。その接触は氷のように冷たかった。まるで生命力そのものが吸い取られていくような感覚。
「お前なら私の力を最大限に引き出せる。お前は既に次元を渡れる。私の指輪があれば…」
蓮夜の思考が霞み始めた。ネヤラの金色の瞳が彼の意識を吸い込んでいくようだった。彼の心に暗い霧が広がり、自分の意志が薄れていく感覚に襲われる。
その時、彼の胸ポケットから青い光が漏れ始めた。蓮夜はその光に意識を集中させた。彼が旅の途中で見つけた古代のお守り、時空の歪みを正す水晶だった。
「時空を渡る者には、こういう存在への対抗手段がある」
蓮夜は水晶を掲げた。それは青白い光を放ち、ネヤラの姿を押し戻していった。彼の意志が戻り、足も動くようになった。
「貴様…!」
ネヤラの叫びとともに、彼女の姿は薄れ、最終的に消えた。床に倒れていたホセが呻いて目を覚ました。
「どこ…ここは?」
彼の目は清明で、混乱しているようだった。以前の虚ろな表情は消え、本来の若い考古学者の顔に戻っていた。
「大丈夫か?」
蓮夜は彼を起こすのを手伝った。
「あなたは…誰?」
「友達だ。君は何か…記憶にないことはある?」
ホセは頭を振った。彼の表情には純粋な困惑があった。
「最後に覚えているのは、指輪を見つけたことだけです…その後のことは…」
蓮夜は状況を簡単に説明した。ホセの表情は恐怖と驚きで固まった。
「私は…何をしたんだ?」
「君のせいじゃない。操られていたんだ」
蓮夜の声には優しさがあった。ホセは震える手で顔を覆った。
部屋の隅から物音がした。二人が振り向くと、カーマイケル教授が立っていた。彼の手にはランプが握られ、その光が老人の顔を下から照らし、不気味な影を作っていた。
「何があったんだ?叫び声が聞こえて…」
教授はホセを見て驚いた。ランプを持つ手が震えている。
「ホセ!君、目が…元に戻ったのか!」
蓮夜は状況を説明したが、教授は半信半疑の様子だった。彼の顔には疑念と畏怖が混じり合っていた。
「次元からの訪問者?死者の女王?信じがたい話だが…」
「信じるかどうかは自由です」
蓮夜は言った。彼の声は穏やかだが、確信に満ちていた。
「だが、あの指輪は危険だ。破壊するか、誰も触れられない場所に隠す必要がある」
「しかし、これは歴史的発見だ!研究価値は計り知れない」
教授の目が熱に浮かされたように輝いた。発見への情熱が、危険への警戒よりも強かった。
「それよりも世界の安全が大事だと思いませんか?」
蓮夜の言葉は重く、部屋に響いた。三人は沈黙の中で見つめ合った。松明の炎だけが、時間の流れを教えてくれる。
長い沈黙の後、教授は重いため息をついた。
「分かった。だが、破壊する前に、もう少し調べさせてほしい。指輪がどこから来たのか、この壁画の意味は何なのか…」
蓮夜は考えた。確かに、この謎を解くことも重要だった。彼自身、真実への探究心に駆られていた。
「一日だけです。そして僕も調査に参加させてください」
教授は同意し、三人は地下室の壁画を詳しく調べ始めた。松明の光が壁に揺れる影を作る中、彼らは古代の秘密を解読していった。夜が明ける頃までに、彼らはいくつかの事実を突き止めていた。
壁画によれば、指輪は「死者の次元」から来たものだった。千年以上前、別次元の存在たちがこの地に現れ、当時の人々を恐怖に陥れた。彼らのリーダーが「死者の女王」と呼ばれるネヤラだった。その時代の絵には、空から降りてくる奇妙な生き物と、恐れおののく人々の姿が描かれていた。
古代の祭司たちは特別な儀式を行い、ネヤラを元の次元に閉じ込めることに成功したが、彼女の力が込められた指輪だけは残った。指輪は神殿に封印され、二度と触れられることのないよう守られていたのだ。壁画の最後には、指輪から離れる人々と、それを守る兵士たちの姿が描かれていた。
「そして我々がそれを掘り出してしまった…」
教授は暗い表情で言った。彼の声には後悔が染みついていた。
「壁画には、指輪の破壊方法について何か書かれていませんか?」
蓮夜は尋ねた。彼の目は壁の隅々まで探っていた。
ホセが別の壁を指さした。そこには炎の中の指輪の絵があった。
「ここに何か書いてある…『薔薇は炎の中でのみ、その真の姿を失う』」
「火山の炎ということか?」
教授は考え込んだ。彼の額にはしわが深く刻まれていた。
「最も近い活火山は…」
「待ってください」
ホセが別の絵を見つけた。彼の声には興奮があった。
「ここに描かれているのは、『太陽の神殿』です。年に一度、夏至の日に太陽の光が特定の場所に集まり、神聖な炎を生み出すと言われています」
「今日は…」
「夏至の前日です」
ホセは言った。彼の目には決意の色が浮かんでいた。
三人は決断した。指輪を太陽の神殿に運び、そこで破壊する。教授は木箱に入れた指輪を持ち、三人は遺跡を出発した。夜明けの光が谷を照らし始め、鳥たちのさえずりが静寂を破っていた。
しかし、キャンプに戻ると、不穏な空気が漂っていた。労働者たちが空を指さして叫んでいた。恐怖に満ちた声が谷に響く。見上げると、それまで晴れていた空が、突如として暗雲に覆われていた。緑がかった雲が渦を巻き、雷が鋭く光っていた。
「彼女が来る…」
ホセは震える声で言った。彼の顔は恐怖で青ざめていた。
確かに、雲の中から人の形をした影が現れ始めていた。巨大な姿が、まるで雲の中から生まれ出るかのように形成されていく。
「急ごう!」
蓮夜の声には急迫感があったが、瞳には冒険者特有の輝きがあった。
教授が指輪の入った箱を握りしめ、三人は太陽の神殿を目指して走り出した。それは遺跡の最も高い場所にあり、まるで太陽に近づこうとするかのように建てられていた。階段を駆け上がる三人の足音が、石畳に響き渡る。
道中、雷が彼らの周りに落ち、地面が揺れ始めた。空からは緑色の霧のようなものが降り始め、それに触れた植物が枯れていくのが見えた。地面から蒸気が立ち上り、まるで世界そのものが病んでいくかのようだった。
「これが『死者の次元』の力か…」
蓮夜は呟いた。彼の声には恐怖よりも、知的好奇心が勝っていた。
太陽の神殿に到着すると、彼らは即座に行動した。神殿の中心には、大きな水晶のような石が置かれていた。壁の絵によれば、夏至の日に太陽の光がこの石に当たり、強力な熱を生み出すという。石の周りには、古代の文字が刻まれた円環があった。
「でも今日は夏至の前日だ…」
教授は困惑した様子で言った。彼の顔には絶望の色が浮かんでいた。
蓮夜は微笑んだ。彼の目には自信が輝いていた。
「それなら、夏至を今日に持ってくればいい」
彼は腕を広げた。体から青白い光が放たれ始める。蓮夜は目を閉じ、集中した。彼の周りの空間が揺らぎ始め、神殿内の時間だけを一日だけ前倒しにした。彼には、この程度の時間操作なら可能だった。
突然、外の空が変わった。暗雲の隙間から、太陽の光が一筋、まさに彼らがいる神殿の上に降り注いだ。その光は水晶に当たり、虹色の光を放ちながら、中央に集束し始めた。水晶が熱を持ち、赤く輝き始める。
「驚くべきことだ…」
教授は息を呑んだ。彼の目は畏怖で見開かれていた。
「急いで、指輪を水晶の上に!」
教授が箱から指輪を取り出そうとした瞬間、神殿全体が揺れ、入り口が爆発した。石の破片が飛び散り、緑の霧が室内に流れ込む。その中からネヤラの姿が現れた。
今回は、彼女の姿はより実体的だった。半透明ではなく、確かな存在感を持っていた。その金色の瞳には怒りが燃えていた。
「私の指輪を返しなさい」
彼女の声は冷酷だった。その声が神殿中に響き、壁が震える。
「させるものか!」
教授は叫び、指輪を水晶に投げつけた。彼の目には恐怖と決意が混ざり合っていた。
指輪が水晶に当たった瞬間、まばゆい光が部屋を満たした。太陽の光が水晶を通して増幅され、指輪を包み込む。ネヤラの叫び声が響き、彼女の体が揺らめき始めた。
「そんな…!私の力が…!」
指輪は水晶の熱で赤く輝き、溶け始めた。銀が溶けて流れ、赤い宝石が砕け散る。ネヤラの姿も同様に崩れ始め、周囲の緑の霧が薄れていった。彼女の体が光の粒子へと分解されていく。
最後の悲鳴とともに、ネヤラの姿は消え去り、指輪は完全に溶けて消えた。神殿の外では、暗雲が散り始め、青空が覗いていた。太陽の光が再び谷全体を照らし始める。
「終わったようだな…」
蓮夜は安堵のため息をついた。
三人は神殿を出て、キャンプに戻った。労働者たちは混乱していたが、幸いにも犠牲者はいなかった。
その夜、カーマイケル教授は焚き火の前で、蓮夜とホセに語りかけた。
「今日の出来事は、公式記録には残さない。誰も信じないだろうし、それに…」
「それに世界中の冒険家や悪人が、同じような力を探し求めることになりますからね」
蓮夜は微笑んだ。
「君は、本当はロンドン大学からの研究者じゃないだろう?」
教授は鋭い目で蓮夜を見た。
蓮夜は肩をすくめただけだった。
翌朝、大雨が降り始めた。教授の予測通り、遺跡の一部は土砂崩れで埋まりつつあった。蓮夜は彼らと別れを告げた。
遺跡を見下ろす丘の上、蓮夜は自分の専用ノートを取り出した。
「1926年7月、ペルー黄金の谷にて。異次元の存在『死者の女王ネヤラ』の侵攻計画を阻止。指輪を介して次元間を移動する技術の存在を確認。この世界には、まだ我々の知らない多くの次元の扉が眠っているのかもしれない」
ノートを閉じ、蓮夜は立ち上がった。彼の周りに青白い光の輪が形成され始める。
「さて、次はどこへ行こうか…」
彼はそう呟きながら、時空の狭間へと消えていった。その場所に残ったのは、これから数十年の間埋もれ続ける遺跡と、ほんの短い間だけ世界の危機を救った冒険の記憶だけだった。