第2話 暴風雨の夜に囁く海底遺跡の謎
輝く星々が明滅する時空の狭間を抜け、夕凪蓮夜は次の目的地へと降り立った。
「よし、ここが19世紀のイギリスか…」
蓮夜は周囲を見回した。灰色の雲が垂れ込める港町の岸壁に立ち、塩の香りを含んだ風が彼の黒髪を揺らしていた。遠くには荒れ狂う海が見え、波が岩にぶつかって白い飛沫を上げている。
彼は胸ポケットから古びた新聞の切り抜きを取り出した。そこには「謎の海底遺跡、再び姿を消す」という見出しがあった。
「1889年9月25日…ヘイスティングス沖で発見された古代遺跡が、嵐の後に忽然と姿を消した。地元漁師によれば、遺跡からは奇妙な光が放たれ、不思議な声が聞こえたという…」
蓮夜は微笑んだ。これこそ彼の好奇心をくすぐるミステリーだった。
「遺跡が消えるなんて…物理的にありえないはずなんだけどな」
彼はコートの襟を立て、港町の方へ歩き始めた。19世紀のイギリスに溶け込むため、彼は紺色のテーラードジャケットに白いシャツ、茶色のズボンという当時の紳士の装いをしていた。スマートウォッチは懐中時計に見せかけている。
港町ヘイスティングスは活気に満ちていた。漁師たちが網を手入れし、商人たちが魚を売り買いしている。蓮夜は地元の人々に紛れるよう努めながら、情報を集めようと「青いイルカ亭」という看板のかかった酒場に入った。
中は薄暗く、魚と酒の匂いが混ざっていた。カウンターに座った蓮夜は、太った赤ら顔の店主にエールを注文した。
「お客さん、この辺りの人じゃないね?」
店主は蓮夜の服装を眺めながら尋ねた。
「ロンドンから来たんだ。海底遺跡の話を聞いてね」
店主の顔が曇った。
「あぁ、あの忌まわしい遺跡か…話したくもないよ」
「何か知っていることがあるなら、教えてもらえないだろうか?」
蓮夜は小さく銀貨を一枚、カウンターに滑らせた。
店主は周囲を見回し、小声で話し始めた。
「あの遺跡が姿を現したのは、先月の大嵐の後さ。潮が引いたとき、沖合の浅瀬に突如として現れた。誰も見たことのない建物だった。石は緑がかった黒色で、どんな道具で刻まれたのか想像もつかない模様が彫られていた」
「それで、君も見に行ったのかい?」
「いや、俺は行かなかった。だが、マーフィーという漁師がボートで近づいたんだ。彼は…変わってしまった」
「変わった?」
店主は更に声を落とした。
「マーフィーは何かを見た。何かを聞いた。遺跡から戻ってきた彼の目は…恐怖に満ちていた。そして彼は『彼らは戻ってくる』と繰り返し呟いていた」
蓮夜の目が輝いた。
「そのマーフィーという人に会うことはできるかな?」
「できるさ。今でも港の小屋で暮らしている。だが、あまり人と話したがらない。特に遺跡のことについては」
「ありがとう」
蓮夜は笑顔で立ち上がり、もう一枚銀貨を置いた。
「それと、もう一つ。この辺りで、歴史や考古学に詳しい人はいるかい?」
「それなら、灯台守のブランウェル博士だな。変わり者だが、古代文明に詳しい」
蓮夜は頷き、酒場を後にした。
雨が降り始めていた。蓮夜は帽子を深く被り、まずはマーフィーの小屋を探すことにした。港の端にある粗末な木造の小屋に、彼はノックした。
「マーフィーさん、話を聞かせてもらえませんか?」
長い沈黙の後、ドアがわずかに開いた。そこには青白い顔の老漁師が立っていた。目は窪み、手は震えていた。
「何の用だ?」
「海底遺跡について知りたいんです」
老人の顔が強張った。
「出ていけ!もう誰にも話すことはない!」
「待ってください」
蓮夜は慌てて言った。
「あなたが見たものを信じます。他の人は理解できなくても、僕には分かるんです」
マーフィーは蓮夜をじっと見つめた。何かを見抜こうとするかのように。
「…入れ」
小屋の中は散らかっていたが、壁一面に驚くべき絵が描かれていた。緑黒色の尖塔、奇妙な角度の建物、そして人間とも魚ともつかない生き物たち。
「これが、あなたが見たものですか?」
蓮夜は息を呑んで絵を見つめた。
「ああ」
マーフィーは震える手でウイスキーを注いだ。
「遺跡に近づいたとき、頭の中に声が響いた。『我らの時が来た』とね。そして…」
彼は言葉を詰まらせ、一気にウイスキーを飲み干した。
「そして、未来を見せられた。人間ではない存在が海から這い上がり、この世界を支配する光景を」
蓮夜は興味深そうに老人の話を聞いていた。
「誰もあなたを信じないのですね」
「当然だ。私自身、正気を疑ったよ。だが…」
マーフィーは窓の外の荒れる海を見つめた。
「今夜も嵐がやってくる。そして遺跡は再び姿を現す。彼らは戻ってくる…」
「遺跡はどこで見つかったのですか?正確な場所を」
マーフィーは躊躇いながらも、小さな地図を取り出し、印をつけた。
「気をつけろ。近づきすぎると、彼らに見つかる」
蓮夜は地図を受け取り、立ち上がった。
「ありがとう。もう一つ聞きたいことがあります。ブランウェル博士とは、どんな人ですか?」
「あの変わり者か…」
マーフィーは苦笑した。
「灯台で一人暮らしてるよ。古代文明を研究しているが、最近は特にあの海底遺跡に執着してる。彼もまた、真実の一部を知っているのかもしれないな」
蓮夜は頷き、小屋を後にした。
灯台は町から少し離れた崖の上にあった。雨は激しさを増し、風が蓮夜のコートを激しく揺らす。灯台の扉をノックすると、鋭い目をした痩せた老人が出てきた。白髪は乱れ、服は墨で汚れていた。
「ブランウェル博士ですか?」
「そうだが、君は誰だ?」
博士は眼鏡越しに蓮夜を観察した。
「海底遺跡について調べています。話を聞かせていただけませんか?」
博士の目が輝いた。
「入りたまえ!あの遺跡について聞いてくるものは久しぶりだ」
灯台の内部は本と古文書で溢れていた。壁には様々な地図や図表が貼られ、テーブルの上には奇妙な石版のようなものがあった。博士はその石版を指さした。
「これが遺跡から拾ってきたものだ。漁師たちが網で引き上げたんだ」
蓮夜は石版を手に取った。確かに奇妙な文字が刻まれている。
「解読できましたか?」
「部分的には」
博士は興奮した様子で書類を引っ張り出した。
「この文字は、既知のどの文明のものとも違う。だが、いくつかのシンボルは古代メソポタミアや、もっと古いものと類似している」
博士は熱心に説明し始めた。
「この文明は我々の歴史よりも遥かに古い。彼らは海と空、そして星々を行き来していたようだ。そしてこの遺跡は…一種の門のようなものだ」
「門?」
蓮夜は眉を上げた。
「そう、次元の門だ!」
博士は興奮して叫んだ。
「特定の天体配置の時に開く。そして今夜…」
博士は天体図を指さした。
「今夜、星々は1万年ぶりに特別な配置になる。門は開く」
蓮夜は石版をさらに詳しく調べた。確かに彼の目にも、これは単なる古代文明の遺物ではないように思えた。
「博士は、この遺跡に行くつもりですか?」
「もちろんだとも!」
博士は目を輝かせた。
「私はこの瞬間のために何十年も研究してきた。しかし…」
彼の顔が曇った。
「マーフィーが見たという『彼ら』が心配だ。石版には警告も書かれている。『深きものども』が戻ってくると」
蓮夜は思案した。これは単なる海底遺跡の謎以上のものかもしれない。
「僕も一緒に行きましょう」
蓮夜は決意を固めた。
「今夜、その門が開くのを見届けたい」
博士は驚いたように蓮夜を見つめた。
「若者、君は勇敢だ。だが、危険かもしれないぞ」
「危険は承知しています」
蓮夜は微笑んだ。
「それに、僕は…特殊な能力を持っています」
博士は蓮夜の言葉に興味を示したが、それ以上詮索はしなかった。
「では、日没後に小さなボートで向かおう。準備をしておくといい」
蓮夜は博士の灯台を後にし、宿を取って準備を整えた。
日が沈み、嵐は激しさを増していた。約束の時間に、蓮夜は灯台の下の小さな桟橋で博士と合流した。博士は防水布に包まれた機材と、ランタンを持っていた。
「この嵐の中、大丈夫なのか?」
「この程度の嵐は問題ない。それに、門が開くのはこの天候だからこそなんだ」
二人はボートに乗り込み、荒れる海へと漕ぎ出した。波は高く、雨は激しく降り注いでいた。博士は熟練した手つきでボートを操り、マーフィーが示した位置へと向かっていった。
「もうすぐだ!」博士は叫んだ。
その時、海面が突然輝き始めた。深い緑色の光が水中から放たれ、波を透かして見ると、水面下に巨大な建造物の輪郭が見えた。
「見ろ!遺跡だ!」博士は興奮して叫んだ。
建物は奇妙な角度と曲線で構成され、地球上のどんな建築様式とも異なっていた。緑の光は強さを増し、遺跡全体が浮上し始めたように見えた。
「なんということだ…」蓮夜は息を呑んだ。
突然、海が渦を巻き始め、ボートが激しく揺れた。博士は必死で舵を取ろうとしたが、渦の力は強く、二人は中心へと引き寄せられていった。
「つかまれ!」蓮夜は叫んだが、その声は嵐の音にかき消された。
渦は二人を飲み込み、ボートは転覆した。蓮夜は冷たい海水に沈みながら、遺跡から放たれる緑の光に向かって泳いだ。意識が遠のく中、彼は何かに掴まった。それは遺跡の石の一部だった。
目を開けたとき、蓮夜は不思議な場所にいた。緑がかった黒い石の広間で、天井は高く、壁には奇妙な彫刻が施されていた。彼はびしょ濡れながらも、無事だった。
「博士!」蓮夜は叫んだが、返事はなかった。
広間は静かで、床には水たまりがあるだけだった。しかし、遠くから何かの音が聞こえてくる。蓮夜は注意深く音の方向へ進んだ。
廊下を抜けると、さらに大きな部屋に出た。そこでは博士が何かを見上げて立っていた。
「博士、無事だったんですね」
しかし博士は振り向かなかった。彼の視線の先には、巨大な石の円盤があり、その周りには奇妙なシンボルが刻まれていた。円盤は緑色に輝き、ゆっくりと回転していた。
「博士?」
蓮夜が近づくと、博士はようやく振り向いた。その目は緑色に輝いていた。
「彼らが呼んでいる」
博士の声は奇妙に響いた。
「深きものどもの時が来た。門は開かれる」
蓮夜は警戒しながら、円盤を調べた。これは間違いなく、何らかの装置だった。時空を操る彼の目にも、これは驚異的な技術に思えた。
「博士、正気に戻ってください。ここは危険です」
しかし博士は耳を貸さず、円盤の前で詠唱のような言葉を唱え始めた。円盤の回転が速くなり、部屋全体が震え始めた。
蓮夜は状況を把握しようと努めた。これは単なる遺跡ではなく、博士の言うように「門」だった。しかし、それが開く先は…
「深きものども…」
蓮夜は思い出した。マーフィーの描いた絵、人間とも魚ともつかない存在たち。それらが別の次元から来訪しようとしているのか?
「止めなければ」
彼は博士に近づこうとしたが、突然、水の壁のようなものが彼の前に現れた。そして水の中から、人間の形をした姿が現れた。しかし、それは人間ではなかった。青緑色の皮膚、大きな黒い目、首の両側にはエラのような器官があった。
「人間よ、干渉するな」
声は蓮夜の頭の中に直接響いた。
「我らの帰還を妨げることはできぬ」
「君たちは何者だ?」
蓮夜は恐れを抑えて尋ねた。
「我らは古の者、この惑星の最初の支配者」
水の存在は答えた。
「人間が現れる遥か前から、我らはここにいた。そして今、帰還の時が来た」
「人間を害するつもりか?」
「我らの世界は死にゆく。生き残るため、かつての故郷へ戻らねばならぬ」
蓮夜は迷った。彼らは単に生き残ろうとしているのか、それとも征服者として現れるのか。
一方、博士は完全に操られたように円盤の前で呪文を続けていた。円盤の回転は更に速くなり、部屋の中央に光の渦が形成され始めた。
「門が開く。我々の同胞が来る」水の存在はそう言った。
蓮夜は決断した。この状況の結末を見極める必要があった。彼は自分の能力を活かし、時間を少し先へと飛ばすことにした。これなら、門が開いた後に何が起こるのかを確認できる。
彼は集中し、自分だけを数時間後の同じ場所へと移動させた。
青白い光が蓮夜を包み、次の瞬間、彼は同じ広間にいたが、状況は一変していた。床には水が溜まり、天井は崩れかけていた。円盤は粉々に割れ、博士の姿はなかった。
「何が起きたんだ…?」
蓮夜はさらに先へと進み、遺跡の外へと出た。そこで彼が見たものは、想像を絶する光景だった。
海は荒れ狂い、空には奇妙な色の雲が渦巻いていた。遠くの町は炎に包まれ、海岸には奇妙な生き物たちの姿があった。彼らは進軍するように、陸地へと向かっていた。
「これが門が開いた結果か…」蓮夜は呟いた。
彼は時間を元に戻す必要があると判断した。再び集中し、元の時間へと戻った。
博士はまだ円盤の前で呪文を唱え、水の存在は蓮夜の前に立っていた。門はまだ完全には開いていない。
「君たちの帰還は、この世界の終わりを意味する。僕はそれを見てきた」
蓮夜は水の存在に告げた。
「それは避けられぬ運命。我らに選択肢はない」
水の存在は答えた。
「他の次元、他の惑星…共存できる場所を探す手伝いができる」
蓮夜の返答に、水の存在は長い間黙っていた。
「あなたは時間の旅人か。あなたの提案に興味がある」
水の存在は静かにそう答えた。
「この門を閉じてくれれば、僕は君たちを別の場所へ案内する。死にゆく世界ではなく、新しい始まりを」
蓮夜の提案に、水の存在は仲間と意思疎通するように、静かになった。
「受け入れよう」
しばらくの沈黙の後、水の存在は答えた。
「だが、約束を守らねば、我らはまた戻ってくる」
「約束する」蓮夜は頷いた。
水の存在は博士の方へ移動し、彼の額に触れた。博士は震え、目の緑色の光が消えた。彼はよろめき、蓮夜が支えた。
「何が…起きたんだ?」
「後で説明します。今は急いでここを離れましょう」
混乱した様子で尋ねる博士に、蓮夜はそう言った。
水の存在は円盤に近づき、それを操作し始めた。回転が遅くなり、形成されつつあった光の渦が閉じ始めた。
「三日後、満月の夜にここへ来るように」
水の存在は蓮夜に告げた。
「我らの選ばれし者たちがあなたを待つ」
蓮夜は頷き、博士を助け、遺跡から脱出した。外では嵐が収まり始め、夜明けの光が海面を照らしていた。遺跡は再び海中へと沈み始めていた。
町に戻った二人は、灯台で休息を取った。蓮夜は博士に、起きたことの一部を説明した。
「彼らは征服者ではなく、難民だったんです。そして、僕は彼らを別の場所へ案内することを約束しました」
「信じられない…私が何十年も探し求めていた真実が、これだったとは」
博士は呆然とした様子でそう呟いた。
「彼らの文明について研究を続けるかはあなた次第です。しかし、門を開く方法だけは、秘密にしてください」
博士は疲れた表情で頷いた。
「若者、君は一体何者なんだ?」
蓮夜は微笑むだけだった。
三日後、満月の夜。蓮夜は再び海へと漕ぎ出した。博士は同行を希望したが、蓮夜は一人で行くことを選んだ。
海底遺跡は再び姿を現し、緑の光を放っていた。しかし今回は穏やかで、脅威は感じられなかった。
水の存在は約束通り、選ばれた数十体の仲間と共に蓮夜を待っていた。
「我らは準備ができた。あなたの導きに従う」
蓮夜は頷き、自分の能力を使って、彼らに適した次元を探した。やがて、水の多い惑星、人類が存在せず、彼らが生存できる場所を見つけた。
「ここなら、君たちは平和に暮らせる」
「あなたの親切に感謝する。我らの一部はこの惑星に残るが、もう二度と人間を脅かすことはない」
そういうと、水の存在は蓮夜に頭を下げた。
蓮夜は彼らを新しい次元へと導き、安全に移動させた。任務を果たした後、彼は再びヘイスティングスの港町に戻った。
博士は灯台で、熱心に研究を続けていた。マーフィーも少し落ち着いたようで、再び漁に出始めていた。町は平和を取り戻していた。
蓮夜は専用のノートを取り出し、今回の冒険を記録した。
「1889年9月、ヘイスティングス沖の海底遺跡。別次元からの『深きもの』たちとの遭遇。彼らは征服ではなく生存を求めていた。適切な次元へと彼らを導き、平和的解決に至る。歴史には記録されない真実を目撃した。」
ノートを閉じ、蓮夜は立ち上がった。彼の周りに青白い光の輪が現れ始める。
「さて、次はどんな謎が待っているだろうか…」
彼はそう呟きながら、時空の狭間へと消えていった。その背後では、月明かりに照らされた海が静かに波打ち、幾百万年の秘密を胸に秘めたまま、悠久の時を刻み続けていた。