第八話「森の牙との邂逅―― 野生と文明の境界線を越えて」
深き森の奥、陽光さえ届かぬ密林の中を、二つの人影が静かに進んでいた。エリザ・ヴァルディエールとルーク・アーディン、二人の息遣いだけが、この静寂を僅かに乱していた。
エリザの緑の瞳が、獲物を求めて森の隅々まで光を走らせる。しかし、今日に限って獲物の気配は皆無であった。ルークもまた、エリザに倣って周囲を警戒していたが、その青い瞳には僅かな不安の色が宿っていた。
「エリザ、今日はなんだか全然獲物が見つからないね」
ルークの声に、エリザは一瞬だけ目を向けた。
「そうだな。森が何かを警戒しているようだ」
エリザの言葉に、ルークは首を傾げた。森が警戒する? その意味を問いただそうとした瞬間、エリザの手が彼の動きを制した。
「しっ……」
エリザの指が、森の奥を指し示す。ルークの目が、その方向に向けられた。
そこには、一頭の狼が横たわっていた。その腹部には、深々と矢が刺さっており、生命の灯が消えかかっているのが見て取れた。
「狼か……めずらしいな。誰が狩ったんだ……」
エリザの呟きに、ルークは戸惑いの表情を浮かべる。
「エリザ、どうするの?」
「ほっておく」
「え?」
「狼は食えない。まずいし、毒を持っている。このままほっておけば勝手に土に還る」
エリザの冷徹な判断に、ルークは言葉を失う。その瞬間、エリザの体が強張った。
「ルーク、伏せろ!」
「!?」
ルークが反射的に身を伏せた瞬間、何かが彼の頭上を高速で通過した。明らかにルークを狙った動きだった。
エリザの鋭い目が、獣のような低いうなり声がした方向を捉える。そこには、ぼろぼろの服を纏った人間の少女がいた。わずか4、5歳ほどの幼い体躯。しかし、その目は獣のように鋭く光っていた。
「人間の女の子!?」
驚愕の声を上げるルークに、エリザは冷静に告げた。
「違う、ルーク。そいつは人間じゃない。【森の牙】だ」
「【森の牙】……?」
ルークの戸惑いの声に、エリザは淡々と説明を続ける。
「なんらかの理由で森に捨てられた子供のことだ。大抵は数日以内に獣の餌になって果てるが、中には森の精霊に愛され、獣に育てられる子供もいる。そういったモノをここでは【森の牙】と呼ぶ。【森の牙】は人間の心を持てない。【森の牙】は人間ではない」
エリザの言葉に、ルークの心が痛む。人間に見捨てられ、獣に育てられた子供。その存在自体が、人間社会の闇を象徴しているかのようだった。
「そんな……」
ルークの言葉が途切れた瞬間、エリザの声が響く。
「ルーク、来るぞ」
「!」
警告の声とともに、【森の牙】の少女が再びルークに襲いかかってきた。人間とは思えない俊敏な動きだ。ルークは辛うじてその攻撃を躱す。しかし、少女の動きは止まらない。木から木へと軽々と飛び移りながら、ルークを執拗に狙い続ける。
その光景を冷静に観察していたエリザが、突如として動いた。
「ふんっ!」
「ぎゃんっ!?」
エリザの重い拳が、少女の鳩尾に深々と突き刺さる。少女は地面に叩きつけられ、激しく嘔吐を始めた。
「ぐっ……げふっ……ぐっ……」
嘔吐しながらも、少女の目からは敵意の炎が消えない。エリザは、その様子を冷徹な目で見つめていた。
「エリザ、どうするの?」
ルークの問いかけに、エリザは躊躇なく答えた。
「殺す」
「え?」
エリザの冷酷な宣言に、ルークは仰天する。
「殺すって……人間の子だよ!?」
「違う、【森の牙】だ」
「でも……」
「おそらくそこの狼に育てられたのだろう。しかしその狼はもうすぐ死ぬ。そうなればそこの【森の牙】も生きてはいられない。ここで楽にしてやったほうが良い」
エリザの言葉には、一片の迷いもなかった。それは、長年この森で生き抜いてきた者の冷徹な判断だった。しかし、ルークの心は激しく揺れ動いていた。
エリザが少女に近づいた瞬間、ルークは咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「待って、エリザ!」
エリザは冷たい目でルークを見つめた。
「なんだ、ルーク。邪魔をするな」
「殺さないで! この子にだって生きる権利があるはずだ!」
ルークの必死の訴えに、エリザは一瞬だけ躊躇した。彼女の心の奥底で、何かが揺れ動いた。しかし、すぐに冷徹な表情を取り戻す。
「ルーク、お前は判っていない。【森の牙】は危険すぎる。【森の牙】は人間の世界にも、森の世界にも属さない存在だ。生かしておくわけにはいかない」
エリザがそう言い終わらないうちに、【森の牙】の少女が再び襲いかかってきた。今度の標的はエリザだ。
「エリザ、気をつけて!」
ルークの警告の声が響く中、エリザは軽々と少女の攻撃を躱した。そしてエリザがナイフに手をかけた瞬間、ルークが二人の間に割って入った。
「待ってくれ!」
ルークの叫び声に、エリザもその場で動きを止めた。そして次の瞬間、驚くべき光景が彼女の目の前で繰り広げられた。
ルークは、ゆっくりと手を伸ばし、【森の牙】の少女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。もう誰も君を傷つけないから」
ルークは優しい言葉とともに、彼は【森の牙】の少女に近づき、抱きしめようとした。しかし、その瞬間、少女の目が獣のように光った。
「シャャアアアア!」
凄まじい叫び声とともに、少女はルークに襲いかかった。鋭い爪がルークの頬をかすめ、赤い筋が浮かび上がる。
「ルーク!」
エリザが叫ぶ。その声には、今までにない焦りの色が混じっていた。
しかし、ルークは動じなかった。
「大丈夫だよ、エリザ。この子は怖がっているだけなんだ」
ルークの声は穏やかだったが、少女の攻撃は止まらない。今度は鋭い歯でルークの腕に噛みついた。
「痛っ!」
ルークは顔をしかめたが、それでも少女を突き放すことはしなかった。
「もう大丈夫だよ。君は一人じゃない」
ルークの言葉に、少女の動きが一瞬止まる。しかし、すぐにまた激しい抵抗が始まった。少女は爪と歯を武器に、ルークの体中を攻撃し続ける。
血が滲み、服が引き裂かれる。エリザは、目の前の光景に戸惑いを隠せない。彼女の心の中で、長年培ってきた森の掟と、ルークの示す新たな可能性が激しくぶつかり合っていた。
「ルーク、やめろ! そいつは人間じゃないんだ!」
エリザの叫びも、ルークの決意を揺るがすことはできなかった。
「違うよ、エリザ。この子の中にある人間の心が、僕には見えるんだ」
その瞬間、少女の動きが止まった。ルークの青い瞳と、少女の野生の眼が合う。
「そう、その目だよ。君の中にはまだ人の心が残っている……」
ルークの声は、まるで少女の心の奥底まで届くかのようだった。少女の体から、少しずつ力が抜けていく。
「もう怖がらなくていいんだよ。僕たちが一緒だから……」
ルークは、ゆっくりと腕を広げた。少女は、まだ警戒しながらも、ゆっくりとその腕の中に体を預けた。
「そうだよ。もう大丈夫だ」
ルークは、優しく少女を抱きしめた。少女の体は、まだ微かに震えている。しかし、その震えは次第に収まっていった。
そして、驚くべきことが起こった。少女が、おずおずとルークの胸に顔をうずめたのだ。その姿は、まるで長い放浪の末に、ようやく安息の地を見つけた迷子のようだった。
ルークは、静かに少女の背中を撫でた。少女の呼吸が、徐々に落ち着いていく。
エリザは、目の前の光景を信じられない様子で見つめていた。【森の牙】が人間に懐くなど、彼女の常識では考えられないことだった。
(【森の牙】を懐かせるなんて……ルーク、お前はいったい何者なんだ……?)
エリザの心の中で、疑問が渦巻いていた。これまで見たこともない光景に、彼女の世界観が大きく揺らいでいる。彼女の中で何かが変わり始めているのを感じていた。
ルークと少女を見つめるエリザの目に、僅かな温もりが宿り始めていた。それは、彼女自身も気づいていない、新たな感情の芽生えだった。
しばらくの沈黙の後、ルークが静かに口を開いた。
「ねえ、エリザ」
「なんだ」
エリザの返事は、まだ困惑を隠せない様子だった。
「この子、可哀そうだからうちで育ててあげようよ」
「!?」
エリザの顔に、再び驚愕の表情が浮かんだ。
「バカなことを言うな! そいつは【森の牙】だぞ!」
エリザの声には、怒りと共に、わずかな動揺が混じっていた。
「でも元は人間だったんでしょ? だったら僕らの手でまた人間に戻してあげればいいじゃない?」
ルークの言葉に、エリザは絶句した。彼女の中で、長年培ってきた価値観と、目の前で起きている現実が激しくぶつかり合っていた。
その時、予想外の出来事が起こる。【森の牙】の少女が、突然ルークの顔を舐め始めたのだ。
「あはは、やめろよ、くすぐったい! くすぐったいって!」
ルークの笑い声が、森に響き渡る。その光景を見て、エリザはなんだか力が抜けてしまった。
「わかった。ルークの好きにすればいい」
エリザの声には、諦めと共に、わずかエリザの声には、諦めと共に、わずかな好奇心も混じっていた。長年、森の掟に従って生きてきた彼女の心に、かすかな変化の兆しが見え始めていた。
「ありがとう、エリザ。じゃあ、早速この子に名前をつけないとね。【森の牙】じゃ全然可愛くないもんね」
ルークは、真剣な表情で考え込んだ。その姿を見つめるエリザの目には、複雑な感情が宿っていた。彼女の中で、長年培ってきた森の掟と、ルークがもたらした新たな可能性が、静かに、しかし確実にせめぎ合っていた。
やがて、ルークの顔が輝きを増す。閃いたような表情で、彼は少女に向き直り、月を指さした。
「そうだ! 君の名前は『ルナ』にしよう。あの月の光のように、優しく、神秘的で、そして美しい名前だ」
少女は言葉の意味は理解できないようだったが、その響きが気に入ったのか、にっこりと笑顔を見せた。その笑顔は、まるで月光のように柔らかく、エリザの心さえも照らすかのようだった。
エリザは、この予想外の展開に戸惑いながらも、ルークと少女……ルナの姿を見つめていた。彼女の心の中で、何かが少しずつ変化し始めているのを感じていた。
(ルーク、本当にお前は一体何者なんだ……?)
エリザの胸の内で、不安と期待が入り混じっていた。彼女の人生に、また新たな変化の風が吹き始めたのだった。
月明かりに照らされた森の中、三人の姿が浮かび上がる。ルークは優しくルナを抱きかかえ、エリザはその後ろを無言で歩いていた。彼女の緑の瞳には、まだ迷いの色が残っていたが、同時に何か新しいものを見出した者特有の輝きも宿っていた。
「エリザ、ルナの寝る場所はどうしよう?」
ルークの問いかけに、エリザは一瞬たじろぐ。
「……別に俺の部屋でいい」
その言葉に、ルークは驚きの表情を浮かべた。
「エリザ……」
「勘違いするな。ただ、そいつ……ルナはまだ警戒すべき存在ということだ」
エリザの言葉は冷たかったが、その瞳には僅かな温もりが宿っていた。ルークはそれを見逃さなかった。
その時、痛ましい狼の呻き声が静寂を破った。かすか音ではあったが、その声に含まれた生命の終焉を告げる響きは、森全体に深い悲しみを呼び起こすかのようであった。
ルナの育ての親である母狼が、最期の時を迎えようとしていたのだ。その傷ついた体からは、もはや血の気が失せ、ただ微かな温もりだけがわずかに残されていた。
ルナは、まるで風のように母狼の元へ駆け寄った。その小さな足音には、これまでの獣としての俊敏さではなく、人の子としての切なる想いが込められていた。
「うぅ……うぅ……」
ルナの喉から漏れる声は、獣の唸りでも人の声でもない、魂の深部から絞り出されるような音であった。
母狼は、最後の力を振り絞るように首を持ち上げ、ルナを見つめた。その瞳には、獣とは思えぬ慈愛の光が宿っていた。それは、まるで本当に実の子を見守る母の眼差しのようであった。
ルナの頬を伝う涙を、母狼は優しく舐め取った。その仕草には、これまでの日々の愛情のすべてが込められているかのようだった。
エリザの胸に、言いようのない感情が込み上げる。彼女もまた、幼くして両親を失い、最後の肉親である祖父との別れを経験していた。その記憶が、この瞬間、鮮やかに蘇ったのだ。
「ルナ……」
ルークの囁きが、森の空気を震わせる。
その時、母狼の瞳が、ゆっくりと、しかし確かな安らぎを湛えながら閉じられた。生命の灯火が消えゆく瞬間、不思議な静けさが森全体を包み込んだ。
ルナは、しばらくの間、ただ茫然と母狼の亡骸を見つめていた。その瞳は、深い悲しみの淵に沈んでいるかのようだった。
そして――。
「オオ……オオオォォ……」
ルナは低く唸り始めた。
「ウオオォォォー! アウゥゥゥ――! アアアアアアアーッ!」
ルナの喉から絞り出されるような声……遠吠えが響き渡った。それは人間の言葉では表現できない深い悲しみを帯びており、森の生き物たちの心さえも揺さぶるかのような響きを持っていた。それは正しく、彼女の慟哭だった。
エリザの緑の瞳が、僅かに潤む。自分でも気づかないうちに、彼女の心は大きく揺れ動いていた。あの日の、祖父との別れの時のように。
ルークは、静かにルナに近づき、その小さな肩に手を置いた。彼の青い瞳には、深い悲しみと共に、これから共に生きていく決意が宿っていた。
「もう一人じゃないよ、ルナ。これからは僕たちが、ルナの家族だから」
その言葉に、エリザは複雑な表情を浮かべた。彼女の心の中で、「家族」という言葉の意味が、少しずつ、しかし確実に形を変えていくのを感じていた。
森は静かに、この別れの時を見守っていた。木々のざわめきは、まるで鎮魂の歌のように、優しく三人を包み込んでいた。
◆
隠れ家に戻った三人。
エリザは慎重にルナに近づく。彼女の緑の瞳には、普段の冷たさは見られず、代わりに微かな温もりが宿っている。エリザはゆっくりと手を伸ばし、ルナのぼろぼろの服に触れる。
「脱がすぞ」
エリザの声は、いつもより柔らかい。ルナは一瞬身を固くするが、激しい抵抗はしない。エリザは丁寧に、しかし躊躇なくルナの服を脱がせていく。すでにぼろぼろになっていた布地が破れる音が時折聞こえ、その度にルナの体が微かに震える。
服が完全に脱がされ、ルナの小さな体が露わになる。その肌には傷や汚れが点々と見られ、エリザの眉間に皺が寄る。ルナは本能的に体を丸め、自分を守ろうとする。
この時、ルナの目がルークを探した。彼女の眼差しには不安と戸惑いが満ちている。ルークはその視線に気づき、優しく微笑みかける。
「大丈夫だよ、ルナ。エリザは君を傷つけたりしないから」
ルークの言葉に、ルナの体から少し緊張が解ける。エリザは黙ったまま、暖かいお湯で濡らした布をルナの体に当て始める。
最初に布が触れた感触に、ルナは身を震わせる。しかし、エリザの動きが優しく丁寧なことに気づくと、次第に力を抜いていく。エリザは黙々と作業を続ける。汚れを落とすたびに、ルナの本来の肌の色が現れていく。
時折、ルナは不安そうにルークを見る。その度にルークは静かに頷き、安心させる。ルナはその仕草に応えるように、より深くエリザに身を委ねていく。
エリザの手つきには、普段の彼女からは想像もつかない優しさがあった。傷がある部分は特に慎重に扱い、ルナが痛がる様子がないか常に気を配っている。
作業が進むにつれ、部屋の空気が変わっていく。最初の緊張感は薄れ、代わりに温かな雰囲気が漂い始める。ルナの表情も、少しずつ和らいでいく。
最後に、エリザはルナの髪を丁寧に梳かす。もつれた髪がほぐれていくにつれ、ルナの表情がさらに柔らかくなる。
「終わったぞ」
エリザの声に、ルナは初めて彼女の目を真っ直ぐに見る。そこには、かすかな信頼の色が宿っていた。
この一連の行為を通じて、エリザとルナの間に、言葉では表現できない絆が芽生え始めていた。そして、その様子を見守るルークの目には、深い愛情と安堵の色が浮かんでいた。
そしてエリザは自分が小さい頃に着ていた服を取り出すとルナに丁寧に着せていく。それは思いのほかルナに似合っており、二人が並ぶと姉妹……いや、母と娘のようにすら見えた。
エリザは静かに立ち上がると、部屋の隅にある簡素な棚から食器を取り出し始めた。彼女の動きには無駄がなく、長年の一人暮らしで培われた効率的な所作が見て取れる。木の皿に、干し肉や野菜、そして焼いたパンを盛り付けていく。
ルークは、エリザの準備する様子を見守りながら、ルナの傍らにいた。彼の青い瞳には、好奇心と心配が混ざり合っていた。
「エリザ、ルナは人間の食事を食べられるのかな?」
ルークが尋ねる。
「心配いらない。【森の牙】……いや、ルナは食べられるものと食べられないものを、本能で判断する」
エリザが食事を持ってくると、ルナの鼻がピクリと動く。その瞬間、彼女の目が大きく開き、まるで獣のように食べ物に飛びついた。
ルナは両手を使って食べ物を掴み、口に運ぶ。その動作は荒々しく、まるで次の瞬間に目の前から食べ物が消えてしまうことを畏れているかのようだった。干し肉を歯で引きちぎり、野菜を手で潰しながら次々と口に押し込んでいく。
ルークは驚きの表情を浮かべ、「ルナ、ゆっくり食べないと……」と声をかけようとしましたが、エリザが手で制する。
「そっとしておけ。今は本能のままに食べさせるのが良い」
エリザは静かに言う。彼女の緑の瞳には、複雑な感情が宿っていた。同情? 理解? それとも過去の自分の姿を重ね合わせているのか……。
ルナの頬は食べ物で膨らみ、時折喉を鳴らしながら飲み込んでいく。その姿は、4、5歳の少女というよりは、飢えた子犬のようだった。
皿の上の食べ物が減るにつれ、ルナの動きは少しずつ遅くなっていく。最後のパン切れを口に運ぶ頃には、彼女の目がトロンとし始めていた。
「信じられないな……」
ルークが小声で呟きました。
「あんなに小さな体で、こんな量を食べるなんて……」
エリザも無言で頷く。
彼女の表情には、驚きよりも理解の色が濃くにじんでいた。
食事を終えたルナは、突然の疲労に襲われたかのように、その場でうつらうつらと舟をこぎ始める。彼女の呼吸は徐々に深く、規則的になっていく……。
エリザはゆっくりと近づき、慎重にルナを抱き上げる。ルナの体は驚くほど軽かった。
「ルーク、毛布を」
エリザが静かに言う。
ルークは素早く毛布を手渡し、エリザはルナを優しく包み込む。
そしてエリザは部屋の隅に置かれた簡素なベッドに、エリザはルナを静かに寝かせました。月明かりが窓から差し込み、眠るルナの顔を柔らかく照らしている。その表情は、初めて安らかな眠りについた子供のようだった。
エリザとルークは、しばらくの間、眠るルナを見守っていた。部屋に静寂が広がり、ただルナの寝息だけが聞こえている。
「ルーク、お前は本当に不思議な奴だ」
エリザの言葉に、ルークは静かに微笑んだ。
「どうして?」
「どうしてって【森の牙】を、あんなにも簡単に……」
エリザの言葉が途切れる。彼女自身、その理由を明確に説明することができなかった。
「エリザ、僕はただ、彼女の中にある人間の心を信じただけだよ」
ルークの言葉は、まるで月光のように柔らかく、しかし力強かった。
「人間の心か……」
エリザは呟いた。彼女の目に、遠い記憶の光が宿る。
「そうだな。私もかつては……」
その言葉は、闇に溶けるように消えていった。エリザにも何か秘められた記憶があるようだ。しかし、そのつぶやきはルークの耳には確かに届いていた。
二人は、しばらくの間沈黙を守った。その静寂は、言葉以上に多くのことを語っているようだった。
やがて、エリザが静かに立ち上がった。
「ルーク、明日からは大変になるぞ」
「うん、わかってる」
ルークの言葉に、エリザは小さく頷いた。彼女の表情には、まだ迷いは残っていたが、同時に新たな決意のようなものも垣間見えた。
月が西に傾き始める頃、エリザとルークはそれぞれの寝床に就いた。しかし、エリザの目は閉じられることはなかった。彼女の脳裏には、今日の出来事が鮮明に焼き付いていた。
(ルーク、お前が示してくれたものは、本当に正しいのか……?)
エリザの心の中で、疑問と期待が交錯していた。しかし、彼女の目には、かすかな希望の光が宿っていた。それは、長い間忘れていた、人間としての温もりを取り戻す兆しだったのかもしれない。
森の静寂の中、新たな家族の物語が、静かに、しかし確実に紡ぎ始められていた。