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第七話「邂逅の季節 ―― 行商人の来訪と揺れる心葉」


 朝靄が立ち込める深山の裾野に、一頭の馬の蹄の音が響き渡った。その音は、静謐な森の空気を震わせ、眠りの中にあった生き物たちを目覚めさせていく。馬上には一人の女性が腰を据え、確かな手綱さばきで獣道を進んでいた。その後ろにもう一頭の馬が大きな荷物を背に乗せ、同じように歩んでいる。


 マーラ・ウィンターブルームは、銀灰色の髪を実用的な編み込みスタイルにまとめ、深い青色の瞳で前方を見据えていた。彼女の背には大きな荷物が積まれ、その中には顔料やキャンバス、絵筆など、この山奥に住む一人の少女のための品々が詰められていた。


 マーラの胸中には、いつもの訪問とは違う高揚感が漂っていた。それは、前回の訪問時に感じ取った、エリザ・ヴァルディエールの微かな変化への期待であった。長年、この孤高の少女を見守ってきたマーラには、エリザの内に芽生えた何かを感じ取る鋭敏な嗅覚があった。


「さて、今回はどんな驚きが待っているのかしら」


 マーラは小さく呟き、愛馬の背を優しく撫でた。


 やがて、うっそうとした木々の間から、一軒の古びた石造りの家が姿を現した。エリザの隠れ家である。マーラは馬から降り、荷物を背負いながら家に近づいていった。


 しかし、彼女の足は突如として止まった。目の前の光景に、マーラは思わず目を疑った。


 エリザの隠れ家の前で、一人の少年が薪を割っていたのだ。


「まあまあ! 一体これは……」


 マーラの声に、少年は顔を上げた。

 その瞬間、彼の頬がほんのり赤く染まり、慌てた様子で薪割りの斧を置いた。


「あ、あの……こんにちは?」


 少年の声は、緊張と戸惑いに満ちていた。


「はい、こんにちは。ところであなたは? ここはエリザしか住んでないはずだけど?」


 マーラは優しく微笑みながら尋ねた。その瞬間、隠れ家の扉が開き、エリザが姿を現した。


「マーラ、来たのか」


 エリザの声は、いつもと変わらぬ低く凛とした響きを持っていた。しかし、マーラの鋭い観察眼は、彼女の立ち姿に微かな変化を感じ取っていた。


「エリザ、久しぶり。それにしても……」


 マーラは、エリザと少年を交互に見つめた。


「ああ、こいつはルークだ。最近ここにいる」


 エリザの言葉は簡潔で、感情を感じさせないものだった。しかし、マーラにはその裏に隠された意味を読み取ることができた。


「まあ! エリザ、あなたったら……」


 マーラの目が輝いた。


「ふーん……熱々でいいわねぇ~初々しいわねぇ~おばさん妬けちゃうなぁ~」


 マーラの言葉に、ルークの顔がさらに赤くなった。

 一方、エリザは首を傾げ、困惑の表情を浮かべた。


「熱々? なんのことだ?」


 エリザの無頓着な反応に、マーラは思わず笑みを深めた。彼女の心の中で、エリザへの愛情と、彼女の成長を見守る喜びが混ざり合っていた。


「何でもないわよ。さあ、荷物を運び込みましょう」


 マーラは軽やかに話題を変え、エリザとルークに向かって歩み寄った。彼女の心の中では、これからの展開への期待が膨らんでいた。エリザの人生に、新たな季節が訪れようとしていることを、マーラは確信したのだ。


 隠れ家の中に入ると、マーラはエリザのアトリエへと足を運んだ。壁には、エリザの手による絵画が所狭しと飾られている。その一枚一枚が、自然の精髄を捉えたかのような力強さと、同時に儚さを湛えていた。


「エリザ、今回も素晴らしい作品ばかりね」


 マーラは感嘆の声を上げた。


「そうか」


 しかし、エリザの反応は相変わらず素っ気ないものだった。


 エリザは無関心を装いながらも、マーラの言葉に僅かにだけは反応する。その仕草に、マーラは微かな変化を感じ取った。


「さて、前回の絵の代金だけど……」


 マーラが財布を取り出そうとすると、エリザは手を振って制した。


「そんな紙くずはいらない。顔料だけ置いていってくれれば良い」


 エリザの言葉に、マーラは内心で苦笑した。


「はいはい、わかったわ」


 マーラは一旦財布をしまいながら、心の中で密かな決意を新たにした。エリザが受け取りを拒否するお金は、すべて彼女のために貯金されているのだ。それは、いつかエリザが必要とする日が来ることを信じてのことだった。


「その辺のが今月描いたやつだ。適当に持っていけ」


 エリザがぶっきらぼうに言う。マーラは、その言葉の裏に隠された信頼を感じ取っていた。


 マーラは、静謐な空気に包まれたアトリエの中を、ゆっくりと歩み進めた。彼女の深い青色の瞳は、壁に掛けられた一枚一枚の絵画を丹念に見つめ、その度に微かな息をのむ音が聞こえた。エリザの作品群は、一見すると驚くほど素朴で単純なものに見えた。


 最初の絵は、大きな円と、そこから放射状に伸びる直線だけで構成されていた。しかし、マーラがその前に立ち止まると、まるで太陽が彼女の内なる世界に昇るかのような感覚に襲われた。その単純な線の中に、生命の根源的なエネルギーが脈打っているのを感じ取ったのだ。


 次の絵に目を移すと、そこには波打つような曲線が、キャンバス全体を覆っていた。一見、子供の落書きのようにも見えるその絵は、しかし、マーラの心に深い共鳴を呼び起こした。それは大地の鼓動であり、風の唄であり、水の流れであった。自然の律動そのものが、そこに描き出されていたのだ。


 三枚目の絵は、動物の姿を抽象化したものだった。シンプルな線で描かれた鹿は、まるで森の精霊のように神秘的な雰囲気を醸し出していた。その瞳は点一つで表現されているに過ぎなかったが、マーラはその中に深い知恵と悠久の時の流れを見た気がした。


 マーラは、思わず手を伸ばしかけた。しかし、その手を途中で止めた。これらの絵に触れることは、まるで神聖な儀式を冒涜するかのように感じられたのだ。


「まるで……」


 マーラは小さく呟いた。


「まるで三万年前の洞窟壁画のようだわ」


 その言葉が、アトリエの静寂を僅かに揺らした。エリザの絵は、確かに現代の技法や様式とはかけ離れていた。しかし、それゆえに、人類が芸術を生み出した太古の時代の精神に直接つながっているかのようだった。


 色彩は大胆で原初的だった。赤は血の色であり、緑は生命の色であり、黒と紫は神秘の色だった。それらが混ざり合い、ときに衝突し、そして調和する様は、まさに生命の営みそのものを表現しているようだった。


 マーラは、最後の絵の前で立ち止まった。そこには、人の形をした図形が描かれていた。しかし、それは特定の個人を表現したものではなく、むしろ人類全体、あるいは生命そのものの象徴のように見えた。その姿は大地に根を張り、同時に天に向かって伸びていた。


 マーラは、深い感動に包まれながら、ゆっくりとエリザの方を振り返った。彼女の目には、驚きと畏敬の色が宿っていた。


「エリザ、あなたの絵には……」


 マーラは言葉を選びながら、慎重に話し始めた。


「自然と一体化した魂の叫びが聞こえるわ。それは、私たちが失ってしまった何かを思い出させてくれる」


 エリザは、いつもの無表情を保ったまま、「ふーん、そう」と答えるだけだった。しかし、マーラの鋭い観察眼は、エリザの瞳の奥に僅かに灯った好奇心の火を見逃さなかった。


 アトリエに再び静寂が訪れた。しかし、その静寂は生命力に満ちていた。壁に掛けられた絵画たちが、まるで呼吸をしているかのように、部屋全体に生命のエネルギーを満たしていた。マーラは、自分がこの瞬間、芸術の神秘的な力を目の当たりにしていることを、心の底から実感していた。


 昼食の時間が近づき、マーラはエリザとルークと共に食事の準備を始めた。三人で作業をしながら、マーラは二人の様子を観察していた。


「ねえ、二人とも」


 マーラは、にこやかに尋ねた。


「お互いのどこが好きなの?」


 その質問に、ルークは顔を真っ赤にして俯いてしまった。一方、エリザは何の躊躇いもなく答えた。


「俺はルークの全部が好きだ」


 エリザの率直な言葉に、ルークの顔はさらに赤くなった。マーラは、この純粋な感情の交換を見て、心が温かくなるのを感じた。


 食事を終えた後、マーラはエリザを誘って近くの湖へと足を向けた。木々の間から漏れる陽光が、二人の行く手を優しく照らしている。湖に到着すると、その静謐な水面が鏡のように周囲の自然を映し出していた。


 マーラは、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。その仕草には、年月を重ねた女性特有の優雅さがあった。彼女の肌は、柔らかな陽光を受けて淡い光沢を放っている。銀灰色の髪を解くと、それは滝のように背中を流れ落ちた。


 一方、エリザは躊躇なく衣服を脱ぎ捨てた。その動作には無駄がなく、まるで自然の一部であるかのような所作だった。エリザの若く引き締まった身体は、彼女の日々の生活が刻み込んだ美しい筋肉の起伏と、優美な女性らしい曲線を同時に見せている。


 二人の裸体は、まるで彫刻のように美しかった。マーラの曲線的な体つきと、エリザの引き締まった肉体のコントラストは、まるで自然が生み出した芸術作品のようだった。


 静かに水中に足を踏み入れると、波紋が広がっていく。マーラは優雅に泳ぎ出し、エリザはしなやかな動きで後に続いた。水滴が二人の肌を伝う様子は、まるで光の粒が踊っているかのようだった。


 二人は湖の中央で向かい合い、ゆっくりと浮かびながら会話を始めた。マーラの成熟した女性の身体と、エリザの若々しい肢体が、水面に浮かぶ睡蓮のように美しく調和している。


「エリザ、あの子、絶対はなしちゃダメよ」


 マーラの声は、水面を優しく撫でるように静かだった。


「? 当たり前だ。俺はずっとルークと一緒にいる」


 エリザの答えは、彼女らしい率直さで返ってきた。その言葉に、マーラは安堵の表情を浮かべた。


「そう、それでいいわ」


 二人の間に静寂が訪れた。その沈黙は、湖面に映る空の青さのように深く、清らかだった。陽光は二人の肌を優しく包み、水滴は宝石のように輝いている。


 やがて、マーラとエリザは岸辺に向かって泳ぎ始めた。その姿は、まるで水の精霊が戯れているかのようだった。湖面を切り裂く二人の動きは、力強くも優美で、自然との完璧な調和を感じさせるものだった。


 岸辺に上がった二人は、陽光を浴びて輝いていた。水滴が肌を伝い落ちる様は、まるで生命の根源を表現しているかのようだった。マーラの成熟した女性らしい曲線と、エリザの若々しく引き締まった肢体は、それぞれが異なる美しさを湛えながら、不思議な調和を生み出していた。


 二人は静かに服を身につけ始めた。その仕草にも、自然と一体化したような美しさがあった。湖での水浴びを終えた二人の表情には、清々しさと、言葉にならない絆が宿っていた。


 マーラとエリザは、再び森の中へと歩み始めた。二人の後ろ姿は、まるで自然の女神が現世に姿を現したかのような神々しさを湛えていた。木漏れ日が二人を包み込み、新たな日々への期待を静かに告げているかのようだった。


 マーラの心の奥底には、エリザへの愛情と、彼女の幸せを願う気持ちが溢れていた。


 翌朝、マーラは出発の準備をしていた。


「また来月来るわ」


 マーラが馬に乗り込もうとしたとき、ルークが思わず漏らした。


「なんかマーラさんってかっこいいね」


 その言葉を聞いたエリザの表情が、一瞬にして曇った。

 エリザ自身は気づいていなかったが、それは明らかに嫉妬の感情だった。


「ルーク! お前……」


 エリザの声には、今までにない剣呑な鋭さがあった。


「え? なに? なんで? エリザ、なんか怒ってる?」


 ルークは困惑した様子で尋ねた。


「怒ってない!」


 エリザの声は、明らかに怒気を孕んでいた。マーラは、この()()()()()()()を見て、思わず微笑んだ。


「まあまあ、二人とも」


 マーラは、優しく二人の間に入った。


「これも愛情表現の一つよ。大切にね、おふたりさん」


 マーラの言葉に、エリザとルークは顔を見合わせた。その瞬間、二人の間に流れる空気が、微妙に変化したのを感じ取ることができた。


 マーラは馬に乗り、二人に手を振った。彼女の心の中には、エリザの成長を見守る喜びと、これからの二人の未来への期待が満ちていた。


 深い森の中を進みながら、マーラは空を見上げた。青い空に、白い雲が静かに流れている。


「あのエリザがね……歳をとると面白いものが見れるわね……」


 彼女の胸の内には、エリザとルークの関係が、あの雲のように自然に、そして美しく成長していくことへの願いが込められていた。


 マーラ・ウィンターブルームは、再び訪れる日を心に刻みながら、森の奥深くへと消えていった。彼女の背中には、エリザの絵が大切に包まれていた。それは、やがて都会の誰かの心を揺さぶり、魂を癒す力を持つことになるのだろう。


(トマスさんが知ったらどんな顔をするかしら?)


 マーラはそう心の中で呟くと、くすりと悪戯っ子のような顔で微笑んだ。


 エリザとルークは、マーラの姿が見えなくなるまで見送っていた。二人の間には、まだ言葉にできない感情が漂っている。それは、これから二人が一緒に歩んでいく道の始まりを予感させるものだった。


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