第四話:「深夜の邂逅 ―― 魔女の生き血と運命の糸」
深き森の中、月光が木々の間を縫うように差し込む夜。ルーク・アーディンは、不安げな面持ちで辺りを見回していた。彼の青い瞳には、焦燥の色が宿っている。
(エリザはどこに行ってしまったんだ……?)
ルークの胸中には、複雑な感情が渦巻いていた。彼は夜中に突然姿を消したエリザを探していたのだ。目を覚ました時、エリザの姿が見当たらなかったことにルークは当惑した。それからすぐ彼は森の中に捜索に出たが、彼女の姿は一向に見当たらない。
森の奥へと足を進めるにつれ、ルークの心臓の鼓動が高鳴っていく。木々のざわめきと、夜の生き物たちの鳴き声が、彼の耳に不気味に響く。そして、その時だった。
(……! またあんな格好で……!)
ルークの目に、木々の向こうで上半身裸の状態で立っているエリザの姿が飛び込んできた。月光に照らされたエリザの肌は、まるで大理石の彫像のように白く輝いていた。ルークは思わず顔を赤らめ、目をそらそうとした。
しかし、次の瞬間、ルークの視線はエリザの動きに釘付けになった。月光に照らされたエリザの姿は、まるで異界の精霊のようだった。彼女の手には、様々な色の顔料が握られており、その指先から神秘的な儀式が始まろうとしていた。
エリザは、まず深い緑色の顔料を額に塗り付けた。その動きは滑らかで、まるで生まれながらにしてこの儀式を知っているかのようだった。緑の線は、彼女の眉間から髪の生え際まで伸び、そこで二つに分かれて頬へと流れていく。
次に、彼女は赤い顔料を取り、首筋から鎖骨にかけて、炎のような模様を描いていった。その赤は、彼女の白い肌に鮮やかなコントラストを生み出し、生命の力強さを表現しているかのようだった。
青い顔料は、彼女の両腕に螺旋を描くように塗られていった。まるで、渦巻く川の流れや、吹き荒れる風を表現しているかのようだった。
最後に、エリザは金色の顔料を取り出した。その輝きは月光と共鳴し、神々しい光を放っていた。彼女は慎重に、胸の中央に太陽を思わせる円を描き、そこから放射状に線を引いていった。
これらの模様は、単なる装飾ではなかった。それぞれが意味を持ち、自然の力や精霊たちへの敬意を表現しているようだった。エリザの動きには無駄がなく、一つ一つの線や点が、長い年月をかけて磨き上げられた伝統の重みを感じさせた。
ルークは、息を呑んでその光景を見つめていた。彼の目には恐怖の色があったが、同時に畏怖の念も宿っていた。エリザの姿は、彼が想像していた「恐ろしい魔女」とは全く異なり、むしろ自然と一体化した神聖な存在のように映っていたのだ。
儀式の準備を終えたエリザは、月に向かって両手を広げた。その姿は、まるで月光を全身で受け止めようとしているかのようだった。そして、彼女の唇が静かに引き結ばれた……。
エリザはゆっくりと深く息を吸った。そしてその口から、ルークが聞いたこともないような不思議な声が発せられ始めた。それは、まるで大地そのものが唸るような低い音と、天空を舞う鳥のさえずりのような高い音が、同時に出ているのだった。
エリザの歌声は、森全体に広がっていく。まるで、森そのものが呼吸を始めたかのように、木々がざわめき、鳥や動物たちが集まってきた。その光景は、畏怖と神秘に満ちていた。
(やっぱり……やっぱりエリザは魔女だったんだ……!)
ルークの背筋に、冷たい戦慄が走る。彼の中で、エリザへの畏怖と恐怖が急速に膨らんでいった。
ルークは、その場から逃げ出すように走り出した。彼の足音が、夜の静寂を破る。しかし、彼の耳には、いまだエリザの神秘的な歌声が残響しているかのようだった。
一方、エリザは儀式に没頭していてルークに気づくことはなかった。彼女にとって、この月に一度の豊穣への感謝の儀式は、一族が代々大切にしてきた重要で神聖な行為だった。自然と山の恵みへの感謝を捧げ、次の月までの豊かな実りを祈願する。それは、エリザの生活の中で最も神聖な時間だった。
エリザの緑の瞳は、月光に照らされて神秘的な輝きを放っていた。彼女の全身から発せられる生命力は、周囲の自然と共鳴し、森全体を震わせているかのようだった。
しかし、エリザには知るよしもない。彼女の純粋なこの儀式が、ルークの心に深い傷跡を残したことを。そして、その誤解が、二人の運命を大きく変えていくことになるのを。
月光の下、エリザの歌声は森に響き続け、ルークは闇の中へと逃げ去っていった。
森は、二人の運命を見守るように、静かにざわめいていた……。
◆
深き森の奥、人の世から隔てられし山中に佇む古びた石造りの屋敷。その中で、エリザ・ヴァルディエールは静かに眠りについていた。月光が窓辺から差し込み、彼女の安らかな寝顔を柔らかく照らしている。しかし、この平穏な夜に、運命の歯車が大きく動き出そうとしていた。
ルーク・アーディンは、震える手にナイフを握りしめ、エリザのベッドに忍び寄っていた。彼の青い瞳には、決意と迷いが交錯している。心臓の鼓動が耳に響き、冷や汗が背中を伝う。
(お母さん……。僕は正しいことを……しているよね……?)
ルークの脳裏に、不治の病に苦しむ母の姿が浮かぶ。かつては明るく朗らかだった母の笑顔が、日に日に蒼白く痩せ細っていく様子。それを見守る父と妹の悲しげな表情。そして、旅の占い師から聞いた言葉が、まるで呪いのように彼の心を締め付ける。
「森の奥深くに棲む魔女を殺し、その血を飲ませればお前の母の病気は治る」
その一言を信じ、ルークは魔女を探す旅に出た。しかし、今、目の前で眠るエリザの姿は、彼が想像していた「怪しい獰猛な魔女」とはあまりにもかけ離れていた。
それにこの数日間、エリザと過ごした時間が、ルークの心に温かな光を灯していた。彼女の純粋さ、自然との一体感、そして何よりも強い意志。それらは、ルークの中に新たな感情を呼び覚ましていた。
(お前が……お前が魔女なのが悪いんだ……!)
ルークの心は激しく揺れ動いていた。母を救いたい一心で、魔女を探し求めてきた。そして今、その魔女が目の前にいる。しかし、彼の手は震え、ナイフを振り下ろすことができない。
月明かりに照らされたエリザの寝顔は、まるで森の精のように美しく、儚かった。その姿に、ルークの心は更に乱れる。
(僕は……僕は……)
ルークは歯を食いしばり、目を閉じた。
そして、意を決して、ナイフを振り下ろした。
その瞬間、驚異的な速さでエリザはベッドから跳ね起きた。右手でルークの腕をつかんで背後に回し、同時に左手で彼の首を締め、完全に拘束する。その動きは、まるで一匹の獣のように俊敏で力強かった。そのあまりの膂力にルークは持っていたナイフを床に取り落した。渇いた金属音が夜気に残響する。
「無駄だ。お前では俺を殺せない」
エリザの冷たい声が、静寂を切り裂いた。その声には、人間離れした冷徹さがあった。圧迫される気管と頸動脈が、ルークに恐怖を感じさせる。彼の青い瞳が見開かれ、全身が震えていた。
「やはりお前は……我が一族の守塚を侵しに来たならず者だったのだな……」
エリザの声には、悲しみの色が滲んでいた。その言葉に、ルークは更に混乱する。
(一族? 守塚? いったいなんのことだ……)
ルークは力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「待って……聞いてくれ。僕は……お母さんを……救うために……」
その言葉を聞いたエリザは、わずかに力を緩めた。彼女の緑の瞳に、困惑の色が浮かぶ。
「母さん……? 病気……?」
エリザの声には、戸惑いが滲んでいた。彼女は、人間の家族関係や病気について、ほとんど知識がなかった。しかし、ルークの言葉に込められた切実さは、彼女の心に響いた。
エリザは静かにルークを解放した。ルークは床に崩れ落ち、激しく咳き込む。エリザは無言で彼を見下ろしていた。
「説明しろ」
エリザの声は、冷静さを取り戻していた。ルークは震える声で、すべてを話し始めた。母の病気のこと、占い師から聞いた話、そして魔女を探す旅に出たこと。
エリザは黙って聞いていたが、その緑の瞳には複雑な感情が渦巻いていた。普通の人間の世界のことを知らない彼女には、ルークの話の多くが理解できなかった。しかし、誰かを救いたいという思いだけは、彼女の心に確かに響いた。
やがてエリザは、無言で立ち上がると、部屋の奥へと歩み寄った。そして、古びた箪笥から小さな瓶を取り出して戻ってきた。
「俺の一族に伝わる秘薬だ……魔女の生き血と言われている」
ルークは息を呑んで目を見開いた。エリザの手にある小瓶に、真紅の液体が入っているのが見えた。
「お前の母に呑ませるといい。きっと、効く」
エリザの声には、不思議な確信が込められていた。ルークは涙ながらにエリザに礼を言った。
「ありがとう……。本当に、ありがとう……」
ルークの声は震えていた。感謝の気持ちと、自分の愚かさへの後悔が、彼の心を満たしていた。
エリザは静かにルークを見つめていた。彼女の心の中で、何かが大きく動いていた。これまで一人きりで生きてきた彼女に、初めて「他者」という存在の重みを感じさせた瞬間だった。
「行け。母のもとへ戻るんだ」
エリザの言葉に、ルークは頷いた。しかし、彼の心には新たな迷いが生まれていた。母を救いたい気持ちと、エリザのもとに留まりたい気持ちが、激しく葛藤していた。
月明かりの中、二人は無言で向き合っていた。この夜を境に、彼らの運命が大きく動き出そうとしていた。エリザが守り続けてきた「何か」の正体、そして二人の出会いが意味するもの。すべてが、まだ闇の中に隠されたままだった。
しかし、確かなことが一つあった。この夜、エリザとルークの心に、新たな絆が生まれたことを、二人とも心の奥底では確かに感じていたのだ……。