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第三話:「無垢なる魔女 ―― 疑念と戸惑いの狭間で」

 朝靄の立ち込める山中、エリザの隠れ家から一人の少年が姿を現した。ルーク・アーディンは、深呼吸をして清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。彼の青い瞳には、以前の疲労の色は見られず、健康を取り戻した喜びが宿っていた。


「よく眠れたか?」


 エリザの低い声に、ルークは振り返った。


「はい、おかげで」


 ルークは笑顔で答えたが、その表情の裏には複雑な思いが渦巻いていた。目の前の少女が本当に噂の魔女なのか、それとも別の魔女がいるのか――その疑問が、彼の心を離れることはなかった。


「ではそろそろ旅に出るのか?」


 エリザの言葉に、ルークは一瞬たじろいだ。

 しかし、すぐに決意を固めたように顔を上げた。


「いえ、もう少し……ここで恩返しをさせてください。あなたの手伝いをしたいんです」


 エリザは眉をひそめた。そもそも一人で生きていたエリザに他者の助けなど必要ない。

 しかし、ルークの真摯な眼差しに、何か言い知れぬ感情が胸の内に湧き上がる。


「……勝手にしろ」


 そう言って背を向けたエリザだったが、その表情には僅かな戸惑いが浮かんでいた。


 その日から、ルークはエリザの生活に寄り添うようになった。狩猟に同行し、畑仕事を手伝い、共に食事を作る。


 エリザの狩りの腕前は、ルークの想像を遥かに超えていた。獲物を追う姿は優雅で力強く、まるで自然と一体化したかのようだった。その姿は、ルークの脳裏に刻み込まれた「怪しい獰猛な魔女」のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。


 そんな日々の中で、ルークの中の疑念は深まっていった。


(こいつは本当に魔女なのか? 狩りがあまりにも上手すぎるし、畑仕事もとても丁寧だ……それにこの身のこなし……まるで特級騎士のようだ……)


 一方、エリザの心にも変化が訪れていた。ルークと過ごす時間が増えるにつれ、彼女の内に新しい感情が芽生え始めていた。それは温かく、時に胸を締め付けるような不思議な感覚だった。


 しかし、その感情を理解できないエリザは、戸惑いのあまりついぶっきらぼうな態度をとってしまうことが多かった。


「ルーク、そこの草を抜け」

「はい」

「ルーク、堆肥を持ってこい」

「はい」

「ルーク、この苗の植え方はなんだ、全然なってないぞ」

「はい、すみません」


 ルークは素直にエリザの指示に従った。その素直さに、エリザはつい何か言いたくなる。しかし、なにをどう表現すればいいのかわからず、結局エリザは黙ってしまう。


 やがて、二人の関係に大きな転機が訪れた。畑仕事を終えた後、汗だくになったエリザは、何の躊躇いもなく上着を脱ぎ、上半身をあらわにしたのだ。


「なっ……!?」


 ルークは思わず息を呑んだ。目の前に突然出現した豊かな乳房を前に、彼の顔は瞬く間に真っ赤になった。慌てて目をそらすルーク。しかし、エリザにはその反応がまったく理解できなかった。


「どうした、ルーク? 気分でも悪いのか?」


「な、なんでもない!」


 ルークは必死に平静を装ったが、内心では激しく動揺していた。


(こ、こいつやっぱり魔女なんじゃないか……? だって人間の常識が無さすぎる!)


 その後も、エリザは平然と全裸で水浴びをしたり、ルークの目の前で普通に着替えたりした。そのたびに、ルークの心は大きく揺さぶられた。


 しかし、そんなエリザの無邪気な行動に、ルークは次第に魅了されていった。彼女の純粋さ、自然との一体感、そして何よりも強い意志。それらは、ルークの中に新たな感情を呼び覚ましていった。


 深き森の奥、陽光が木々の間を縫うように差し込む真昼時。ルーク・アーディンは、エリザ・ヴァルディエールの姿を見つめていた。彼女は今、小川のほとりで魚を捕る技を披露していた。


 エリザの動きには無駄がなかった。彼女は水面に映る自身の影さえも見せぬよう、慎重に腰を落として川辺に近づいていく。その姿は、まるで川の一部となったかのようだった。


「ルーク、よく見ていろ」


 エリザの囁くような声が、ルークの耳に届く。


 次の瞬間、エリザの手が水中に素早く伸びた。水しぶきが舞い、銀色の魚影が一瞬光る。そして、エリザの手には立派な川魚が握られていた。


「すごい……」


 ルークは思わず息を呑んだ。エリザの技は、まさに神業としか言いようがなかった。


「どうやってそんなことができるんだ?」


 ルークの問いに、エリザは首を傾げた。


「別に難しいことじゃない。川の流れと一つになればいい」


 その言葉に、ルークは戸惑いを覚えた。しかし同時に、エリザの純粋さに心を打たれる。彼女にとって、自然と一体化することは呼吸をするのと同じくらい自然なことなのだ。


 エリザは捕った魚を手際よく捌き始めた。その動作にも、無駄がない。ルークは、彼女の手さばきに見入っていた。


「ルーク、お前もやってみろ」


 エリザの言葉に、ルークは躊躇した。


「僕には無理だよ。エリザみたいにはできない」


「そんなことはない。やってみればわかる」


 エリザの真摯な眼差しに、ルークは心を動かされた。彼は恐る恐る川に近づき、エリザの教えに従って腰を落とした。


「そうだ。呼吸を整えろ。川の流れを感じろ」


 エリザの声に導かれ、ルークは意識を集中させた。すると不思議なことに、周囲の音が遠のいていく。川のせせらぎだけが、彼の耳に響いてきた。


 そして、ルークの手が水中に伸びた。予想外に冷たい水の感触。しかし、彼の意識は魚の動きだけに集中していた。


 一瞬の躊躇い。そして――。


「やった!」


 ルークの手には、小さいながらも魚が握られていた。彼の顔に、喜びの表情が広がる。


「やったよ、エリザ! 僕にもできた!」


 エリザの唇に、珍しく微笑みが浮かんだ。


「よくやった、ルーク」


 その言葉に、ルークの胸が高鳴った。エリザに褒められるのが、これほどまでに嬉しいものだとは思わなかった。


 この瞬間、ルークの中で何かが変わった。エリザの無邪気さ、自然との一体感、そして何よりも強い意志。それらすべてが、彼の心に深く刻まれていった。


 ルークは、自分の中に新たな感情が芽生えていることに気づいた。それは、単なる感謝や尊敬ではない。もっと深く、もっと強い何か。


 夕陽が森を赤く染め始める頃、二人は獲物を手に隠れ家へと戻っていった。ルークの心の中では、エリザへの想いが、静かに、しかし確実に育っていた。それは、彼が守るべき母への想いとは異なる、新しい感情だった。


 森の静寂の中、二人の足音だけが響いていた。その音は、まるで二人の心の鼓動のように、同じリズムを刻んでいるようだった。


 夜、一人で外に出たルークは、月明かりの下で静かに呟いた。


「お母さん……僕は、いったいどうすればいいんだろう……」


 ルークの胸の内で、母への思いと、エリザへの新たな感情が激しくぶつかり合っていた。そして、その葛藤は、彼らの運命を大きく動かす力となっていくのだった。


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