第二話:「異邦の来訪者 ―― 魔女と少年、運命の邂逅」
朝靄の立ち込める山中、守塚の前に一人の少年が倒れていた。エリザは慎重に近づき、その姿を観察した。少年の顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。どうやら、この険しい山道を越えてくる途中で、体力を使い果たしてしまったようだった。
エリザは眉をひそめた。人間との接触は、彼女にとって未知の領域だった。しかし、目の前の少年の姿に、何か言い知れぬ感情が胸の内に湧き上がる。
「……お母さん……」
少年のかすかな譫言が、静寂を破った。
エリザは一瞬、困惑の表情を浮かべた。
「お母さん」という言葉の意味はもちろん知っていたが、それが持つ重みや情感については、理解が及ばなかった。
しばしの逡巡の後、エリザは決断を下した。少年を見捨てるわけにはいかない。そう思った瞬間、彼女自身がその決断に驚いた。これまで、自分以外の人間のことを考えたことなど一度もなかったはずだ。
エリザは慎重に少年を背負い上げた。その体は、想像以上に軽かった。おそらく、長い旅の間ろくに食事も取れていなかったのだろう。エリザの胸に、不思議な感情が湧き上がる。それが「同情」「憐憫」だということに、彼女はまだ気づいていなかった。
隠れ家に戻ったエリザは、少年をベッドに寝かせた。暖炉に火を入れ、部屋を温める。そして、少年の様子を見守りながら、静かに待った。
やがて、少年の瞼がゆっくりと開いた。青い瞳が、困惑と警戒の色を湛えている。
「気がついたか」
エリザの低い凛とした声に、少年は驚いたように体を起こそうとした。
「動くな。まだ体力が戻っていない」
エリザは簡潔に状況を説明した。守塚の前で倒れていた少年を見つけ、ここまで運んできたこと。それだけのことだった。
「あ、ありがとうございます」
少年の声は、か細く震えていた。エリザはその言葉の意味を理解しつつも、どう反応すべきか分からず、ただ頷くだけだった。
「スープがある。飲むといい」
エリザは温かいスープの入った椀を少年に差し出した。少年は恐る恐る受け取り、一口啜った。その瞬間、少年の表情が輝いた。
「美味しい……!」
空腹だったのだろう、少年は夢中でスープを飲み干した。その姿を見つめるエリザの胸に、不思議な温もりが広がる。それが何なのか、彼女には分からなかった。
「こんなところで倒れるなんて、お前、いったい何をしに来たんだ?」
エリザの問いに、少年は一瞬たじろいだ。
「あ、いえ……ちょっとした、旅をしているだけです」
その言葉が嘘であることは、エリザにも容易に感じ取れた。しかし、それ以上は追及しなかった。
「とりあえず元気になるまでは、ゆっくりしてろ」
そう言って、エリザは部屋を出た。扉が閉まる音を聞いた少年……ルーク・アーディンは、深くため息をついた。
そしてルークは慎重に、鞄の隠しポケットに手を伸ばした。そこには、彼が持参したナイフが無事にしまわれていた。その感触に、安堵の表情を浮かべる。
(あいつが……本当に森の魔女なのか?)
ルークの胸に、疑問が去来する。噂に聞いていた「森の奥に棲む怪しい獰猛な魔女」と、目の前で自分を助けてくれた少女の姿が、あまりにもかけ離れていたからだ。
部屋の外では、エリザもまた、複雑な思いに駆られていた。初めて他者と接し、初めて誰かの世話をした。その経験が、彼女の内に何かを呼び覚ましつつあった。
二人の出会いは、互いの人生を大きく変えていく。そして、それは同時に、彼らが知らずに背負っている秘密と宿命の扉を開く鍵となるのだった。