幕間「感謝の涙 ―― 母の愛と魔女の恵み」
村の外れに佇む小さな家。その中で、ルーク・アーディンは震える手に「魔女の生き血」の入った小瓶を握りしめていた。彼の青い瞳には、不安と希望が交錯している。ベッドに横たわる母マリアの蒼白な顔を見つめながら、ルークは深く息を吸った。
「お母さん、これを飲んで」
ルークの声は、微かに震えていた。マリアは弱々しく目を開け、息子を見つめる。その瞳には、深い愛情と共に、諦めの色が宿っていた。
「ルーク……もういいのよ」
マリアの声は、かすれていた。しかし、ルークは首を横に振る。
「違うんだ、お母さん。これは……魔女からもらった秘薬なんだ」
ルークの言葉に、マリアの目が僅かに見開かれた。彼女は、息子の必死の様子を見て、静かに頷いた。
ルークは恐る恐る、母の唇に小瓶を当てた。赤い液体が、ゆっくりとマリアの口の中に流れ込んでいく。
その瞬間、奇跡が起こった。
マリアの頬に、みるみるうちに血色が戻り始めたのだ。彼女の目が輝きを取り戻し、呼吸が深く、力強くなっていく。
「お、お母さん!?」
ルークの声が上ずる。妹のアンナと父のヨセフが駆け寄ってくる。
「マリア!?」
「お母さん!」
三人の声が重なり合う中、マリアはゆっくりと体を起こした。
「信じられないわ……私……元気になったみたい」
マリアの声には、驚きと喜びが溢れていた。ルークは思わず母に抱きつき、涙を流した。
「よかった……よかった、お母さん!」
家族全員で抱き合う中、ルークの胸に、エリザへの深い感謝の念が湧き上がった。
それから数日が過ぎ、マリアの回復は驚くべき速さで進んだ。彼女は自分で立ち上がり、家事をこなすまでになった。往年の家族の幸せが完全に甦ったのだ。
ある日の夕暮れ時、マリアは窓辺に立ち、夕陽を眺めながらしみじみと語った。
「本当にこれもエリザさんのおかげね」
その言葉に、ルークの胸が高鳴る。彼の脳裏に、エリザの凛とした姿が浮かんだ。
◆
月光が窓から差し込む静かな夜。ルーク・アーディンは、自室のベッドで落ち着かない様子で寝返りを打っていた。彼の青い瞳は、天井を見つめたまま、何かを懸命に探るかのように揺れ動いている。
ルークの心は、穏やかではなかった。むしろ、激しい波が押し寄せるかのように、様々な感情が渦巻いていた。その中心にあるのは、一人の少女の姿。エリザ・ヴァルディエール。
(どうして……どうしてエリザのことばかり考えてしまうんだ)
ルークは、自問自答を繰り返す。彼の脳裏に、エリザの姿が鮮明に浮かび上がる。
深い森の中、月明かりに照らされたエリザの姿。彼女の緑の瞳は、まるで森そのものの魂を宿しているかのように、神秘的に輝いていた。凛とした立ち姿は、孤高の美しさを湛え、周囲の空気さえも引き締めているようだった。
そして、時折見せる柔らかな表情。それは、厳しい外見とは裏腹の、エリザの内に秘めた優しさを垣間見せるものだった。ルークは、その表情を思い出すたびに、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
(エリザは今、何をしているんだろう。元気にしているだろうか。僕のことを……少しでも思い出してくれているだろうか)
そんな思いが、ルークの心を占めていく。彼は、自分の中に芽生えたこの感情の正体を、まだ明確に理解できずにいた。それは、単なる感謝や尊敬とは違う。もっと深く、もっと強い何か。
ルークは、ふと目を閉じた。すると、まるで魔法にかけられたかのように、エリザの姿が鮮明に浮かび上がる。それは、最近頻繁に見る夢の一幕だった。
夢の中のエリザは、現実よりもさらに美しく、神秘的だった。彼女は、ルークに向かって微笑みかける。その笑顔は、現実ではまだ見たことのない、柔らかで温かなものだった。
「ルーク……」
夢の中でエリザが呼ぶ声が、ルークの心を震わせる。彼は思わず手を伸ばすが、エリザの姿は霧のように消えていく。
ルークは、ハッと目を開けた。彼の額には、薄い汗が浮かんでいる。心臓の鼓動は早く、息は乱れていた。
(僕は……エリザのことが……)
その瞬間、ルークの心に、ある感情が明確な形を取り始めた。それは、彼がこれまで経験したことのない、強く、深い感情だった。
「好きなんだ」
ルークは、小さく呟いた。その言葉は、彼の心の中で、大きな響きを持っていた。
窓から差し込む月光が、ルークの横顔を優しく照らす。彼の青い瞳には、戸惑いと共に、新たな決意の色が宿り始めていた。エリザへの想い。それは、ルークの人生を大きく変える、新たな冒険の始まりだった。
深い森の向こうに、エリザの姿を思い浮かべながら、ルークは静かに目を閉じた。明日への期待と不安が入り混じる中、彼はようやく眠りについたのだった。
◆
夕陽が窓から差し込む小さな部屋。その温かな光に包まれるように、マリアはルークの姿を見つめていた。彼女の瞳には、息子への深い愛情と、彼の成長を見守る静かな喜びが宿っていた。
ルークの心の中で揺れ動く感情を、マリアは敏感に感じ取っていた。それは、母親だけが持つ特別な感覚だった。息子の目の奥に宿る迷い、そして時折浮かべる物思いに沈んだ表情。それらすべてが、ルークの心の内を雄弁に物語っていた。
マリアは、静かに息を吸い、決意を固めた。彼女は、ゆっくりとルークに近づき、優しく肩に手を置いた。
「ルーク、エリザさんのところへ行っておいで。私のための恩返しだと思って、エリザさんに一生尽くしてあげて」
その言葉は、まるで長い間温めてきた真珠のように、柔らかく、そして輝いていた。
ルークは、驚きに目を見開いた。彼の青い瞳には、戸惑いと共に、微かな希望の光が宿る。
「お母さん……でも……」
言葉につまるルーク。その姿は、幼い頃、初めて一人で歩こうとして躊躇していた時と重なって見えた。マリアは、息子の頬に優しく手を添えた。
「いいのよ、ルーク。母親にはわかるの。あなたの心の奥にある、大切な気持ちが」
マリアの声は、まるで子守唄のように柔らかく、ルークの心に染み入るようだった。彼女の瞳には、深い慈愛の色が宿り、その中には息子への無限の愛情が満ちていた。
マリアは、ゆっくりとルークを抱きしめた。その腕の中には、息子を守り育てた年月の重みと、これから彼を見送る決意が込められていた。
「行きなさい。あなたの幸せが、私たち家族の幸せなのよ」
その言葉と共に、マリアの頬を一筋の涙が伝う。それは悲しみの涙ではなく、息子の旅立ちを祝福する、慈愛に満ちた涙だった。
ルークは、母の腕の中で静かに泣き始めた。その涙は、複雑な感情の結晶だった。マリアへの感謝、別れの寂しさ、そしてエリザへの想い。さらには、新たな人生への期待と不安。それらすべてが、涙となって溢れ出る。
マリアは、優しくルークの背中を撫でた。その手の温もりは、ルークの幼い日々から今日までの思い出を、静かに呼び起こす。
窓から差し込む夕陽が、母子を優しく包み込む。その光は、二人の姿を美しく縁取り、まるで絵画のような光景を作り出していた。
ルークの心の中で、エリザへの想いが、確かな形を取り始めていた。それは、幼い蕾がゆっくりと開いていくように、静かに、しかし確実に育っていく感情だった。
マリアは、息子の髪を優しく撫でながら、心の中でつぶやいた。
(行ってらっしゃい、ルーク。あなたの幸せな顔を、いつか見せてね)
その祈りは、夕陽と共に空へと昇っていった。マリアは空を見上げた。
(エリザさん、お願い。私の大切な息子を……幸せにしてあげてください)
それは、息子の新たな人生の幕開けを祝福する、母の永遠の愛の証だった。