第十話「言葉の花束 ―― 森の魔女と娘の絆」
深き森の奥、陽光が木々の間を縫うように差し込む朝。エリザ・ヵァルディエールの隠れ家に、新たな日々の息吹が満ちていた。ルナが家族に加わってから数週間が経ち、彼女の野性的な激しさは徐々に和らぎ、穏やかな空気が漂い始めていた。
朝靄の立ち込める窓辺で、ルーク・アーディンはルナを膝の上に乗せ、絵本を開いていた。彼の青い瞳には、優しさと期待が宿っている。
「さあ、ルナ。この動物の名前は何かな?」
ルークの問いかけに、ルナは首を傾げ、真剣な表情で絵本を見つめた。
「う……さぎ?」
たどたどしくも、確かな言葉がルナの唇から零れる。
「そうだよ、ルナ! すごいね!」
ルークの褒め言葉に、ルナの瞳が輝きを増す。彼女の中で、言葉という新しい世界が少しずつ広がりつつあった。
一方、部屋の隅では、エリザが黙々と絵筆を走らせていた。彼女の緑の瞳は、時折ルナとルークの様子を捉えては、柔らかな光を湛える。エリザの筆先から生み出される景色は、これまでにない温かみを帯びていた。
そんなある日のこと。朝食の準備をしていたエリザの耳に、思いがけない言葉が飛び込んできた。
「パパ! ママ!」
ルナの声だった。エリザとルークは、驚きのあまり動きを止めた。
「え……?」
エリザの声が、震えるように洩れる。
「パパ、ママ!」
ルナは、にっこりと笑いながら、ルークとエリザを指さした。二人は顔を見合わせ、言葉を失った。
エリザの胸の内で、温かな感情が渦巻く。これまで経験したことのない、不思議な高揚感。それは喜びだった。彼女の緑の瞳に、微かな潤いが宿る。
「そうか……パパとママか……」
エリザの声は、普段の凛とした響きとは違う、柔らかな調子を帯びていた。
その日から、ルナの姿が二人の目に、俄然可愛く映るようになった。エリザは相変わらずぶっきらぼうな態度を取っているものの、その瞳には確かな愛情が宿っていた。
ある日、ルナはエリザの描く絵を見て、素直な感想を述べ始めた。
「きれい! すごい! いっぱい!」
ルナの無邪気な褒め言葉に、エリザは内心嬉しさで胸が震えた。しかし、彼女はいつもの調子で返す。
「そうか。気に入ってくれたか」
その言葉とは裏腹に、エリザの唇の端には、微かな笑みが浮かんでいた。
しかし、ルナの好奇心は留まることを知らない。彼女は、エリザが昔描いた一枚の絵を見つけ、首を傾げた。
「だれ?」
ルナの問いに、エリザの表情が一瞬曇る。
「それは……俺のおじいちゃんだ。トマスと言う」
「おじいちゃん?」
「そうだ。おじいちゃんは優しくて、偉大で……俺のすべてだった……」
エリザの声には、懐かしさと共に、深い悲しみが滲んでいた。
「すべて?」
ルナの顔に、不安の色が浮かぶ。エリザは、その表情を見逃さなかった。
「心配するな。おじいちゃんはもういない。天国へ還った。今はお前とルークが俺のすべてだ」
エリザの言葉に、ルナの顔が明るくなる。
「うん、すべて!」
ルナはにっこりと笑った。その笑顔に、エリザの心が温かくなるのを感じた。
そんな折、一ヶ月ぶりにマーラ・ウィンターブルームが訪れた。彼女の銀灰色の髪が、朝日に輝いている。
「まあまあまあ、いつの間にか子作りまでしちゃって」
「「ちがーう!」」
マーラの笑えない冗談に、エリザとルークは同時に反応した。
その様子に、マーラは楽しそうに笑う。そんな中、ルナがとてとてとマーラのもとに走り寄り、しげしげとその顔を眺めた。
やがてマーラを指さして、ルナがこう言った。
「おじいちゃん?」
「「「ちがーう!」」」
今度は、エリザとルークとマーラが同時にルナに突っ込んだ。その光景に、隠れ家は笑い声に包まれた。
深き森の奥、エリザの隠れ家に昼の陽光が差し込む。窓から漏れる光は、素朴な木製のテーブルを優しく照らし、その上に並べられた料理たちを金色に輝かせていた。エリザ、ルーク、マーラ、そしてルナの四人が、その食卓を囲んでいる。
エリザが黙々と皿に盛り付けていく料理は、森の恵みそのものだった。鹿肉のロースト、山菜のサラダ、キノコのスープ。それらの香りが、部屋中に漂っている。
「さあ、みんな食べてくれ」
エリザの声には、いつもの凛とした響きの中に、微かな温かさが混じっていた。
ルナは目を輝かせ、両手で器用にフォークとナイフを握る。その仕草は、数週間前の野生のそれとは全く異なっていた。
「いただきます!」
ルナの声が弾む。彼女は、エリザが切り分けてくれた鹿肉を、頬を膨らませながら頬張った。
「んー! おいしい!」
ルナの素直な感想に、エリザの唇の端が微かに上がる。その表情を見逃さなかったマーラが、にやりと笑う。
「まあ、エリザ。あなたったら、嬉しそうね」
「べ、別に……」
エリザは顔を逸らすが、その頬は僅かに赤みを帯びていた。
ルークは、そんなエリザの様子を見て、優しく微笑む。
「本当に美味しいよ、エリザ。君の料理は最高だ」
ルークの言葉に、エリザの耳まで赤くなる。彼女は慌てて、スープを啜り始めた。
マーラは、そんな三人の様子を見守りながら、ゆっくりとサラダを口に運ぶ。彼女の瞳には、深い慈愛の色が宿っていた。
「ねえねえ、まーら!」
ルナの声に、マーラは優しく微笑む。
「何かしら、ルナちゃん?」
「まーら、どうやって、おにく、きった?」
ルナは、純粋な笑顔で鹿肉を指さした。
「ああ、そうね。それはこうやって……」
マーラは、ルナの隣に座り直すと、優しく手を取って教え始めた。
エリザは、その光景を見つめながら、胸の中に温かなものが広がっていくのを感じた。
静かに流れる時間の中で、四人の会話が続く。ルナの無邪気な質問、ルークの優しい返答、マーラの温かな笑い声、そしてエリザのぶっきらぼうながらも愛情のこもった言葉。それらが織りなす音色は、まるで美しいハーモニーのようだった。
窓の外では、小鳥たちがさえずり、優しい風が木々を揺らす。その自然の音色が、部屋の中の和やかな雰囲気と溶け合っていく。
エリザは、ふと気づいた。彼女の作った料理を、家族が美味しそうに頬張る。その光景が、彼女の心を温かく包み込む。これが幸せなのだと、エリザは心の底から感じていた。
食事が進むにつれ、四人の間には自然と笑顔が溢れ、会話は尽きることを知らなかった。エリザは、自分がこんなにも多く話したことがあっただろうかと、不思議に思うほどだった。
食事の後、エリザとマーラとルナは近くの湖に水浴びに出かけた。澄み切った湖面に、三人の姿が映る。全裸で楽しそうに泳ぐルナの姿を見て、マーラが感慨深げに呟いた。
「あれが、本当に【森の牙】だったのか、エリザ? 私には信じられないな」
「俺もおんなじだ。ルークは……本当に不思議な奴だ」
エリザの言葉には、驚きと共に、深い感謝の念が込められていた。
マーラは、また顔料と絵筆を置いて帰っていった。その背中を見送るエリザの瞳に、これまでにない温かな光が宿っていた。
その夜、エリザはルナが勝手にアトリエに入っているのを発見した。
「こら、ルナ! ここは勝手に入っちゃ……」
怒ろうとするエリザの前に、ルナがキャンバスを突き出す。
「えへへ」
そこに描かれていたのは……、
「パパ! ママ!」
エリザとルークの姿だった。不器用ながらも、ルナは自分の両親を描いたのだ。
エリザとルークは顔を見合わせる。そして、二人で一緒にルナを抱きしめた。エリザの緑の瞳から、静かに涙が零れ落ちる。それは、喜びと愛おしさの結晶だった。
月光が窓から差し込み、三人の姿を優しく包み込んでいる。エリザの胸の内で、長い間凍りついていた何かが、完全に溶け始めているのを感じた。
(家族って……いいな……)
エリザの心の中で、その言葉が静かに響く。それは、彼女にとって新しい始まりの言葉だった。深い森の中で、新たな絆が、月明かりのように静かに、しかし確かに輝き始めていた。