第一話:「孤独な守護者 ―― 鳥葬の儀と継承の誓い」
冷たい風が吹き抜ける山頂に、一人の少女が立っていた。
エリザ・ヴァルディエール。
わずか十歳にして、最後の肉親を失った彼女の瞳には、悲しみの色はなく、ただ凛とした決意の光だけが宿っていた。彼女の背には、生涯を一族の使命だけに捧げた祖父トマスの亡骸が背負われていた。
「……ここだ」
エリザは低く呟いた。その声には、年齢不相応な落ち着きがあった。
彼女は慎重に祖父の体を地面に横たえた。トマスの顔には、安らかな表情が浮かんでいた。エリザは一瞬、その表情に目を留めたが、すぐに儀式の準備に取り掛かった。
「一族の伝統を……守らねば」
エリザの手は、確かに震えてはいなかった。しかし、その小さな掌には、祖父トマスへの深い愛情と別れの悲しみが、しっかりと刻み込まれていた。彼女の緑の瞳には、涙こそ浮いていないものの、その奥底に秘めた想いが静かに揺らめいていた。
「……おじいちゃん」
儀式を始めるにあたり、エリザは小さく呟いた。その声には、幼い少女の柔らかさと、一族の血を引く者としての凛とした覚悟が同居していた。
エリザはゆっくりと、祖父から幾度となく教わった所作を再現していく。まず、香を焚く。山の奥深くで採取した神聖な香草の香りが、冷たい山頂の空気に溶け込んでいく。その香りは、エリザの記憶の中で、祖父の温もりと重なった。
「天なる神々よ……」
祈りの言葉が、エリザの唇からこぼれ落ちる。一語一語に、祖父への感謝と愛情が込められていた。トマスが幼いエリザに寄り添い、この祈りの言葉を教えてくれた日々が、彼女の脳裏に蘇る。
「おじいちゃんの魂を……安らかな旅路に導きたまえ……」
祈りを唱えながら、エリザの心は静かに揺れていた。祖父の優しい笑顔、厳しくも愛情に満ちた教え、そして最期の日々の苦しそうな表情……。それらの記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
最後に、エリザはトマスの体を覆う布に手をかけた。その瞬間、彼女の指先がわずかに躊躇った。これが最後の別れになると、心のどこかで理解していたからだ。しかし、エリザは深く息を吸い、決意を固めた。
「……さようなら、おじいちゃん」
そっと、布を取り去る。トマスの安らかな寝顔が、夕陽に照らされて浮かび上がった。エリザは、最後にもう一度、愛おしそうに祖父の顔を見つめた。その瞳に、ついに一筋の涙が浮かんだ。しかし、エリザはすぐにそれを拭い去った。
「俺は……強くなるよ。そしておじいちゃんが教えてくれたように、一族の使命を必ず果たす」
エリザは静かに立ち上がった。背後では、すでにハゲワシたちが集まり始めていた。しかし、彼女は振り返らなかった。ただ、心の中で祖父への最後の言葉を紡いだ。
「……これからもずっと大好きだよ、おじいちゃん」
山頂に吹き抜ける風が、エリザの髪を優しく撫でた。まるで、祖父の温かな手のように。
心の中でそう呟きながら、エリザは深く息を吐いた。悲しみは確かにあった。しかし、それよりも強い使命感が彼女の心を支配していた。涙を流す暇はない。これからは自分一人で生きていかなければならない。そして何より、一族が守り続けてきたものを守り抜かなければならないのだ。
エリザは最後に一度、トマスの方を振り返った。すでにハゲワシたちがその体に群がり始めていた。生命の循環――それもまた、自然の摂理なのだと、エリザは心に刻み込んだ。
エリザは山を下り始めた。彼女の足取りは確かで、迷いはなかった。これから始まる孤独な日々への覚悟が、すでにその小さな体の中に宿っていた。
エリザの脳裏には祖父の言葉が蘇った。
「エリザよ、お前には大切な使命がある。我が一族が代々守ってきたものを、お前もまた守り続けねばならぬ」
「おじいちゃん、それは一体何なの?」
「それは……まだお前に教えることはできぬ。だが、時が来れば、お前にもわかるだろう。それまでしっかり守り続けるのだ」
エリザは首を振り、その記憶を振り払った。今は考えるべきではない。ただ、祖父の言葉に従い、守り続けることだけを考えればいい。
山麓に差し掛かる頃には、日が傾き始めていた。エリザは一度立ち止まり、振り返って山頂を見上げた。そこにはもう、ハゲワシの姿も祖父の姿も見えない。ただ、夕日に染まる山の稜線だけが、静かに彼女を見守っているようだった。
「俺は……一人じゃない」
エリザは呟いた。確かに人としては彼女は一人になってしまった。しかし、この山々、木々、そして動物たち――自然そのものが、彼女の家族なのだと、エリザは感じていた。そして何よりトマスと共に生きた10年の経験がこの胸に刻み込まれている。
夕暮れの中、エリザは再び歩き出した。これから始まる新しい人生への一歩を、力強く踏み出したのだった。
◆
深山幽谷の奥深く、人の気配すら届かぬ地に、エリザ・ヴァルディエールは生きていた。幼くして両親を失い、十歳にして祖父までも天に召された彼女は、以来八年の歳月を一人静かに過ごしてきた。
その姿は、まるで山野に咲く一輪の美しい野草のようであった。
否、それは単なる比喩に留まらぬ、エリザその人の本質を言い表すに相応しい表現であった。
彼女の存在は、深山幽谷の秘められた美そのものを体現していた。暗褐色の髪は、風に揺れる柔らかな草のごとく、自然の律動に呼応して揺らめいていた。その髪は、人の手による飾り気はなく、ただ野性の美しさだけを纏っていた。
エリザの肌は、日々の狩猟と農耕によって健やかに日に焼け、山の清涼な空気に洗われて透明感を帯びていた。その肌の質感は、朝露に濡れた花弁のようであり、触れれば儚く散ってしまいそうな繊細さと、風雪に耐える強靭さを同時に秘めていた。
彼女の眼差しは、澄み切った山の渓流のごとく清冽であった。その緑の瞳には、木々の葉擦れや小鳥のさえずりまでも映し出されるかのような、鋭敏な観察力が宿っていた。しかし同時に、その瞳の奥底には、幾世代にも渡って受け継がれてきた一族の神秘が、深い森の如く静かに佇んでいた。
エリザの立ち姿は凛として美しかった。長身で筋肉質な体躯は、まるで岩肌を這い上がる蔓草のように、しなやかさと力強さを兼ね備えていた。その姿勢からは、常に自然と対話を重ね、己の身を鍛え上げてきた日々の痕跡が窺えた。そして彼女自身は気づいていなかったが、女性らしい優美な膨らみも、年相応に成長していた。
彼女の動きには無駄がなく、それでいて優美さを失わなかった。狩りの際の素早い身のこなしは、獲物を追う山猫の俊敏さを思わせ、畑仕事に励む姿は、大地に根ざした樹木のように力強く、それでいて柔和であった。
エリザの纏う衣服は質素ながら、機能美に溢れていた。自ら仕留めた獣の皮で作られた衣装は、彼女の肢体に完璧に馴染み、まるで第二の皮膚のようであった。その姿は、人工の装飾を一切排した、自然そのものの造形美を体現していた。
しかし、エリザの最も美しい点は、その内なる精神性にあった。彼女の心には、一族の使命を守り抜こうとする強い意志と、自然への深い敬意が宿っていた。その精神は、彼女の佇まいや仕草の端々に滲み出て、神々しいまでの気高さを醸し出していた。
かくして、エリザ・ヴァルディエールは、人里離れた山奥で、孤高の美を纏いながら生きていた。それは、人の目に触れることのない、しかし確かに存在する、山野の至宝のごとき存在であった。彼女は、まさに大自然が生み出した最高傑作とも言うべき、生きた芸術品であったのだ。
朝まだき、東の空がほのかに明るみを帯び始めた頃、エリザは目を覚ました。彼女の一日は、常にこの時刻から始まる。身支度を整えると、まず向かうのは守塚だ。代々受け継がれてきた使命の象徴とも言えるその場所を、エリザは毎朝欠かさず点検する。
「異常なし……」
エリザは低く呟いた。その声は、どこか中性的で、男女の区別がつきにくいものだった。
守塚の点検を終えると、エリザは畑へと足を向けた。傾斜地を巧みに利用した小さな畑には、じゃがいもや豆類、そして薬効のあるハーブが育っている。エリザは丁寧に草を抜き、水やりをした。やがて朝陽が昇り始めると、彼女は自ら作った簡素な朝食を摂った。
「いただきます」
エリザは静かに頭を下げた。食事を終えると、彼女は狩猟の準備を始めた。自作の弓と矢、そして腰に差したナイフを確認する。その動作には無駄がなく、長年の経験が滲み出ていた。
山中を歩くエリザの姿は、まるで自然の一部のようだった。緑の瞳は鋭く周囲を観察し、筋肉質の体は獲物を追う準備が整っていた。やがて、エリザは鹿の足跡を発見した。
「……ここか」
エリザは無言で弓を構えた。呼吸を整え、風向きを確認する。そして、一瞬の躊躇いもなく矢を放った。矢は風を切って飛び、見事に鹿の急所を貫いた。
「命をもらう。感謝」
エリザは獲物に向かって静かに頭を下げた。彼女の心には、生き物の命を奪うことへの畏れと感謝の念が常にあった。
獲物の解体――それはエリザにとって、単なる作業ではなく、一つの儀式であり、芸術であった。彼女の手には、長年の経験が宿り、その動きには無駄がなく、まるで舞を踊るかのような優雅さすら感じられた。
まず、エリザは獲物を丁重に地面に横たえ、短く祈りを捧げた。
そのあと、彼女の手に握られたナイフが、鹿の体に触れた。その瞬間から、エリザの意識は研ぎ澄まされ、全神経が指先に集中する。
ナイフは、まるで生き物であるかのように、エリザの意思に従って滑るように動く。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、肉を骨から丁寧に切り離していく。その一連の動作には、無駄な力みがなく、すべてが滑らかで美しかった。
血のにじむ肉塊から、次第に整然と並べられた食材へと変貌を遂げていく。エリザの緑の瞳は、真剣そのもので、時折閃光を放つかのように輝いた。「……よし」
エリザは小さく呟いた。解体が終わると、彼女は素早く肉を分類し始めた。新鮮なうちに食すべき部位、干し肉に適した部位、塩漬けにすべき部位――。それらを見分ける彼女の目は、まるで年季の入った職人のようだった。
干し肉づくりは、特にエリザの腕の見せ所だった。肉を薄く均一に切り、塩をまぶし、風通しの良い場所に吊るす。その作業の一つ一つに、冬を乗り越えるための祈りが込められているかのようだった。
塩漬けの肉は、彼女が丹精込めて作った木樽に層状に詰められていく。塩と肉が交互に重なり、やがて樽の中に冬の糧が築かれていった。
作業を終えたエリザは、満足げに自分の仕事を見渡した。整然と並べられた肉、風に揺れる干し肉、塩の中に眠る保存肉。それらは全て、彼女の技と知恵の結晶だった。
「これで……今年も冬を越せる」
エリザの口元に、小さな微笑みが浮かんだ。それは、自然との調和を体現する者にしか見せることのできない、静かな誇りの表情だった。
夕暮れ時、エリザは最後に一度、干し肉を見上げた。風に揺れる肉片が、夕日に照らされて輝いていた。それは彼女にとって、生きることの証であり、また、明日への希望の象徴でもあった。
昼食後、エリザは隠れ家で短い午睡を取った。起きると、彼女は体の鍛錬を始めた。代々伝わる独自の武術を、彼女は黙々と練習する。その動きは力強く、しなやかで、まるで舞を踊るかのようだった。
「はっ! ……ふっ! せいっ!」
エリザの掛け声が、静寂な山中に響き渡る。彼女の技は確かに強かったが、人間と戦ったことのない彼女には、自分の力が並外れていることへの自覚はなかった。
鍛錬の後は瞑想の時間。エリザは目を閉じ、自然の息吹に耳を傾けた。風のそよぎ、鳥のさえずり、遠くに聞こえる川のせせらぎ……。彼女の心は、この瞬間に最も安らいでいた。
夕暮れ時、エリザは隠れ家のアトリエで絵筆を取った。彼女の描く絵は、誰にも見せることはない。それは純粋に、彼女の内なる世界の表現だった。キャンバスには、山の風景や動物たち、そして時には彼女の夢に現れる不思議な光景が描かれていく。
「……これでいいか」
エリザは完成した絵を見つめながら、小さくつぶやいた。その眼差しには、どこか物憂げな表情が浮かんでいた。
夜になると、エリザは簡素な夕餉を摂り、就寝の準備を整えた。彼女の一日は、常にこのように過ぎていく。変化のない日々。しかし、エリザの心の奥底では、何かが少しずつ芽生えつつあった。
ある日の朝、いつもと同じように守塚の点検に向かったエリザは、思いもよらぬ光景に目を見張った。守塚の前に、一人の少年が倒れていたのだ。
「……!」
エリザは思わず息を呑んだ。これまで人間と接したことのない彼女にとって、この状況は全く想定外のものだった。しかし、彼女の中に芽生えた好奇心は、恐怖心を上回っていた。
エリザはゆっくりと少年に近づいた。彼女の緑の瞳には、驚きと戸惑い、そして僅かばかりの期待の色が宿っていた。この瞬間、エリザの平穏な日々に、大きな変化の波が押し寄せようとしていた……。