中
念願の志田家はよくある住宅地のよくある一軒家だった。元は真っ白だった外見はくすんでいて茶色の壁に見える。外の駐車スペースには自転車が三台縦に並べて停めてあって座高の高いものは克樹のものだろう。土地がまとめ売りされていた名残なのか、両隣に並ぶ家も志田家と外見がほとんど変わらない。
「どう? 山中くんの家に比べたら大したことないでしょ」
「それ、なんて言えばいいわけ?」「別に普通」「口癖だと思ってる?」「思ってる」
奈々は入り口の前の小さな階段を上ってドアを引いた。ドアを開けながらただいまーと声を張ると奥の方からおかえりーと声が返って来る。奈々がドアの中に消えて、しばらくするとまたドアを開けて入りなよと大きく開いた。碧はお邪魔しますとその内側にするりと入り込む。サボンの香りが漂う玄関は知らない家の匂いだ。靴が三足綺麗に並んでいて、碧は見慣れた靴の隣に自分の靴を並べて上がった。奈々が出した紺色のスリッパにそろりと足を滑りこませ、収納ボックスの上に並べられた写真を見る。そこには今とさして変わらない克樹がサッカーボールを小脇に抱えて満点の笑顔でピースしていた。隣には、ショートボブの奈々が綺麗なドレスに身を包んでピアノの前で背筋を伸ばして座っていた。
「ピアノ弾けるんだ」
「今はもう弾けない。ピアノあるからあとで弾いてあげる。すっごい下手だから。その写真のあたしも、直前まで嫌で嫌で、背中のジッパー上までしまってない。お母さんが諦めて、体温調節のために持ってきたやつ着てるし」
ふーんと相槌を打って、そのほかの写真をじっくり見つめていると奈々は早く来なよと碧の腕を引っ張って二階へと上がらせた。
階段を上がって目の前の部屋が奈々の部屋だ。碧は初めて入る女子の部屋よりも、この隣に克樹がひっそりと部屋で待機していることの方が緊張していた。碧が扉の方を見つめていると奈々はにんまりと笑って、克樹の部屋の扉をノックした。ノックに答えて、というか若干フライング気味に克樹が半分だけ顔を出した。シャイニングの名シーンのようで、不機嫌さの「なに?」という演技もその顔の赤さから全く合っていない。
「こちら、あたしの彼氏の山中碧くん。あたしの誕生日を祝いに来てくれた。あとであんたの部屋のゲーム貸してもらうから。部屋綺麗にしといて」
「あっそ。勝手にすれば」
優等生じゃない克樹は新鮮だ。学校では絶対に出さない低い声もめったに出さないのかかすれ気味で頬の赤さも相まって風邪の治りかけのようだ。碧がよろしくねと微笑んで見せると、その演技もすぐに崩れさって、ドアを勢いよく閉めた。冷たい廊下には反響音が響き渡り、そして静寂に戻る。碧の心はもうそれだけで有頂天で、今にも廊下でタップダンスを踊り出したいくらいだった。右手が奈々の部屋ではなく、克樹の部屋の方に伸びて、奈々にそれを制されると碧は我に返って、大人しく奈々の部屋へと入っていった。
「なんというか、普通だね」
奈々の部屋には一組のベッドと窓際の勉強机。背の低い棚があって、そこには雑誌と本が乱雑に並べられ、そして、部屋の中央には折り畳みの机が置かれているだけの簡素な部屋だった。女の子の部屋に無駄な幻想は抱いていないが、あまりにも普通なので言葉が付いて出てしまう。奈々がベッドに腰を降ろして、荷物はそこ、あんたはそこに座るとあれこれ指示を出し、それに大人しく従って碧は部屋の中央に三角座りをした。
「さて、まあ適当に話でもして隣に行こうか。あたしの部屋つまらないしね」
そんなことない。と言いかけたが本当にその通りだったし、この間柄に変な遠慮な必要がないので碧は少し黙って、棚に何の本が入っているのかを聞いた。
「好きだねえ本。欲しかったら持ってっていいよ」
奈々がベッドの上で胡坐をかきながら、けらけら笑った。そろそろと本棚の前に張っていき、背表紙を見て碧は目を剥いた。
そこに並べられていたのはどれも有名大学の参考書ばかりだ。碧が頑張って入れるかどうかの大学の入試問題が雑誌のカラフルさを打ち消している。どこを見ても赤い。
「志田さん、受けるの?」
「馬鹿言わないでよ。受けるだけ無駄でしょ。あの出席日数じゃあねえ」
そこに悔しさの欠片は見つからない。
「もしかして、このために学校サボってた? 志田くんみたいに真面目に学校来てたら行けたってこと?」
「まあそうだろうね。あたしこの学校の入試満点だったらしいし」
「え!? でも挨拶は志田くんが」
「だって、あたしが嫌だって言ったから一点だけ逃した克樹に話が言っただけ。結構有名なんだけど。山中くん友好関係狭いから知らなかったか。ま、どうでもいいことだよ、あたしはこれより一個下の大学で奨学金貰ってゆっくり勉強したいし。山中くんは?」
「まだ考えてない。もしかしたら海外の方も行くかも。親が海外で働いてるから。それかその辺で入れそうなところに入って留学って形で親のところ行くかも。全部かもしれないってだけ。何にも考えてないよ」
「……克樹は勿論推薦で大学に行くんだけど、そこまで親の支援があるなら一緒の所には厳しいか、人生が決まるし」
「ねえやっぱりあたしの部屋つまらないから克樹の部屋行こう。そろそろ掃除終わってるでしょ。」
奈々は抱えこんでいた丸いクッションをベッドの上に放りなげ、克樹の部屋に繋がっている壁を叩いた。返事はないが、ノックが壁を通して帰ってくる。
「さ、行くか。荷物忘れないでよ」
奈々は碧がリュックを抱えたのを確認した、今度はノックもなしに克樹の部屋を開けた。
ベッドを占領していた奈々とは違って、克樹は碧と同じように地べたに胡坐をかいて座っていた。
「ベッドでいい?」
「あ、うん。山中くんはベッドに座って。荷物もその辺に置いておいてくれたらいいから」
そのへんというのは一番困る。前情報によれば綺麗に片づけられた部屋には置くところが沢山あるからだ。碧は適当に扉の横にリュックを置いた。
「あたし、飲み物取って来るわ」と奈々は座りもせずに、立ち去り、二人は部屋に取り残される。静まり返った部屋にはどたどたと階段を降りる音がよく響いた。
「ごめんな。あまり綺麗な部屋じゃないけど」
床に置かれたクッションで顔を覆う。あまりというには不自然なくらいに整頓された部屋は埃一つ落ちていない。それが碧を招くためにというのだから、その不器用さに恥ずかしいくなり、そんなことないよ。と謙遜と本音が混じった言葉が口から出る。それに、ありがとうと返し、また二人の間には甘ったるい空気が流れ始め、奈々には帰ってきてほしくないのにあの彼女の大きな声で、なにしてんのと言われたいと思ってしまう。
「あ、あの」
「ん? なに?」
克樹が首の後ろを撫でた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「プレゼント、今渡す?」
「そうして」
ベッドから立ち上がり、扉の前に置いたリュックを開け、中のポケットの奥底の沈んでいる小さな袋を克樹に差し出した。碧は正座をして座る克樹に横に体育座りをして、彼の隣に寄り添う。横顔のなだらかな曲線は自分のぱっとしない鼻の低さとは違う。克樹は両手を水を掬うように出し、その上にぽとりと置いた。両手で一度やんわり包み込む。再び手を開いて、袋がまだ手の中にあること不思議だというように、その存在を手のひら全部で感じ取っている。
「開けていい?」
「もちろん」
透明なシールで止められただけの袋を破らないようにゆっくりと真剣に開く。どうせ捨ててしまうクリスマスプレゼントの包み紙を一枚の紙に戻るようにする子供みたいに、克樹の手つきは柔らかでじれったさすら感じる。
中から、台紙に止められた二つのピアスとピアッサーが克樹の手のひらに残った。袋を大事そうにテーブルの上に置いて、ピアスとピアッサーを交互に見つめて、きょとんとした顔で碧を見た。
「意外と自己主張強いよな」
克樹の目は緑色の安っぽい石だけのピアスに向けられている。
嬉しそうに光りに透かす。エメラルドグリーンが四方に飛び散る。嬉しくない? と聞くと、彼はゆるりと首を左右に振る。ぼそりと嬉しいと言い、頬を染める。頬の産毛が揺れた。
「学校ではあんなに大人しいのに。自分と同じ名前の石のピアス送るなんて。ベタすぎて恥ずかしくて……死にそう」
「馬鹿。偶々だよ。志田さんとした占いのラッキーカラーが緑だっただけ。友達なんだから」
「馬鹿。見せつけたい癖に。優等生の俺の初めてが碧なんてとんだ惚気だ」
「初めてって大切にしたいから」
「嫌なセリフ。初めてを棚に上げる男は嫌われるぜ?」
「今、開けていい?」
ピアッサーを手に取り、彼の耳に添える。小さな空間を余らせるほど薄い克樹の耳たぶに針とぴとりと当てた。肩がわずかに上がり、無意識に閉じられた瞼とまつ毛が震えている。初めてキスされる生娘のようだ。このままピアスを開けないでキスしたらなんて言うんだろう。血色のいい唇を人差し指でそっとなぞる。克樹は驚いたように目を開く。視界いっぱいに克樹の揺れる瞳が広がる。
「怖い?」
一度当てたピアッサーを下ろすと、それだけで克樹の上がった肩は元の正しい位置に戻った。
「怖くない。嬉しいだけ」
「カウントダウンはした方がいい?」
「してほしくない。俺は受け入れる準備いつでもできてるから」
もう一度克樹の耳たぶに針を当てる。克樹は目を閉じ、いずれくる小さな衝撃と痛みを待ち続ける。
指に力を掛ける。
てらてら光る唇にそっと自分のものを押し当てる。覚悟を決めた固い瞼が開かれ、その瞬間にバチンと穴が開く。眉間に皺が寄り、自分の愛犬に噛みつかれた。噛みついたことを分かっていない目の前の男は痛みで急速に熱を持つ耳に手を当てている。その腕を掴んで、自分の傷を舐めとる。
ごく少量の鉄の味が人工的な油の味と混ざりあった。また溢れてくるのを指で乱暴に拭う。
「耳どう?」
「ちょっときついかも。緩めて」
キャッチャーを摘んで、様子を見ながら少しだけ空白を作る。熱を持った耳が徐々に腫れあがってきて、ドクドクと脈動を感じた。刺激に鈍感になった耳は冷たい指先にピクリとも反応しない。
終わったあとの静けさは、夏の終わりに似ている。
飲み物を取りに行くには長すぎる時間が六畳ばかりの密室にも同じだけの流れ、人生の初めてを奪いさっても尚終わらない。二人は肩を寄せあいながら、正面を向いて奈々の帰りを待つ。「遅いね」「なにしてるんだろうな」そんな言葉は永遠に来て欲しくないことの前振りでしかない。
「誕生日おめでとう」
「何回言うんだよ。でもありがとう」
丸い、形のいい後頭部を上から下へ、上から下へ寝ぐせを抑えつけるみたいに撫でる。克樹は碧の狭い肩に全体重を預け、くたっと脱力していく。なんとかなっていたがやがて、全体重を支え切れなくなった。幸せの重みを右肩いっぱいに感じながら肩を抱き寄せた。ふにゃふにゃになった克樹の体は一切の抵抗を辞め、なすがままに感覚を明け渡し、享受した。
奈々が戻ってきたのはそれからちょっとしてからだった。
三度のノックの後に片手にお盆と三つのグラスを乗せた奈々は足で扉を閉めながら「母さんの質問攻めにあってさあ」とうんざりしたように言った。そして、克樹の火照った頬を見て、によによと笑い、大きく頷いて見せた。克樹はそんな勘違い絶対に怒るだろうとみると、怒るどころか姉のとんだ勘違いに更に頬を染めている。
雑にお盆を置くと。グラスの淵から波だってオレンジジュースが零れた。
「いい時間を過ごせたようで」
「おかげ様でね」
「母さんはなんて?」
克樹の目が不安げに揺れる。
反対に奈々の目はどんよりとして濁り、その質問がいかにくだらなく、面白みとプライバシーを侵害するものだったかを訥々と語った。
「どこで出会ったのか、どこが好きなのかはまだいい方で山中くんの親がいい人で、いい人と付き合ったねとかもうその時点であたしの顔は痙攣しすぎて攣りそうだったんだけど、一番最悪なのは山中くんの成績と志望大学聞かれたことだよ。そんなの知るか馬鹿」
奈々は足を投げ出し、机をグーで殴った。
隣の克樹は少し青ざめているように見えた。背中を撫でると、それをやんわり拒否して、へらりと笑った。
「そもそもあたしと山中くん付き合ってないしね。なに言われても気にしないからいいんだけど。こんなに最低だとは思わなかった。……克樹あんたピアス開けたの?」
そこで初めて奈々はたった今開けられた新しいピアスに気が付いたようだった。うん、と少し腫れた耳に手を添える。奈々は先ほどの勘違いをそこで改めて、理解した。そして、冷たい声で「今すぐ外しな」と言った。
「嫌だ」
「そんなのすぐ母さんにバレる。バレたら絶対面倒なことになるって」
「もうバレてもいいじゃん。俺だってガキじゃないんだから。母さんだってもうそこまで気にしないでしょ。俺、堂々と碧と付き合ってるってこの先奈々以外に言えないのやだよ。碧のこと自慢したいよ。こんなコソコソお膳立てしなきゃいけないなんて俺は嫌だ」
克樹は同意を求めて碧に視線を向けた。碧はそれに答えてよいものなのか奈々に視線を向けるがそれを無視した。奈々は碧の決断を見守る姿勢で、自分がどちらの側に付くかを待っていた。
「僕は、克樹がしたいようにしたらいいと思う。それで克樹のお母さんから酷いことを言われても受け止める」
「受け止めるとか理解してほしいとかそういう次元の話じゃないのは忠告しておく。克樹は分かってると思うけど。今後この家の敷居を跨ぐどころか、平和な学校生活が失われる覚悟があるならもうあたしは言うことないよ」
「いい。もう大して学校生活も残っていないし」と碧。
「俺、母さんに紹介する。それでダメなら、ダメとか考えたくないけど、でも誕生日くらいは許される気がするから」
机の上に置かれた手が小さく震える。二人の決意に、というよりかは、双子の弟の許しに姉の心は折れた。許されなければいけないことではないはずなのに、普通でないことに許しを求めなくてはいけないことは、奈々には分かるようで分からない。同じようにして奈々の手も震え、それを隠すように手を開いては閉じ、神経の誤作動であるかのように振舞った。
奈々の口が薄く開かれる。リップ音が鳴った。一度目は空気だけが吐き出され、もう一度胸を大きく膨らませて、呼吸を止め、鋭く長く吐いてから意を決したように強い眼差しを正面に座っている二人に向けた。
「いっておいで」
それが、行っておいでなのか、言っておいでなのか。三者三葉に受け取ると克樹はすっくと立ちあがり、碧の手を引いた。
まだ震えの残る手は、そのくせ温かくてこれ以上冷えてしまわないように握りしめる。廊下の先だけを見つめる広い背中はどこか丸まっているように感じた。冷たいよという克樹が包むように握りしめてくれて、ずっと失いたくない。上手くいくようにと願う。この太い背骨が折れて、二度と立てなくならないように。大丈夫、誕生日なんだからと、この仏教国で根拠のない安心を得る。
自分の母が恐ろしいと感じたことはなかった。時たま感じる冷ややかな視線を無視すればそれ以外は至って普通の家庭だと思う。ただ、この家に巣食う得体の知れない双子の弟の存在を覗けば。
俺は、いつだって我慢してきた。
なにが? 本当のことを言うのを。
碧が家に来たから舞い上がって、突然母さんに全てを話したくなったとかじゃなくて、我慢が出来なかった。じくじくと燃えるように熱くなる耳たぶ。それと碧の想いと俺の家族が釣り合ってない。自慢一つ出来ないこの家で、こうして奈々は自分たちがこの関係を解消するまで無駄な芝居を続けなくてはいけない。その後は? 俺が男を好きなのは今更どうにもできないことなのに、この傷はなかったことには出来ないのに?
あいつは認めるしかないのに。
そうして踏み出した心は、碧の冷たい手で平静を保つ。一歩一歩階段を降りていくたびに花占いのように、言う、言わないと浮かんでは消える。最後の階段を降りた時、言うが頭の全部を埋め尽くしていた。
「母さん」
母は、背を向けたままリズムよく包丁を叩いている。奈々の彼氏である碧がわざわざ誕生日に祝いに来てくれるのだからと仕事を早上がりしてまで料理に勤しむ親は今時どこを見てもいない。小学生の時ならばそれを嬉しいと素直にありがとうと言うことが出来ても高校生になってまでそんなことをして欲しくない。正直恥ずかしさの方が上回っていて、でも今日だけは奈々も克樹もそんなことを言わない。
ありがとう。と表面上取り繕って、あれこれ碧の好みを伝えて、母はその全部を背負ってこの自分だけの持ち場についている。
「母さん」
もう一度言うと、なあに? と手を止めず、火を調節する。鍋に刺さったままのお玉をグルグルかき混ぜて、小皿に少し移し、味を見て火を止める。
「俺、母さんに言いたいことあるんだ」
そこでようやく、母はこちらを向いた。隣にいる碧を見て、目尻に皺が寄る。細い目がさらに鋭く三日月のように碧の上から下までを射抜いた。
「山中くんまでどうしたの? 飲み物なら奈々が持っていったはずだけど」
「山中くんと、いや碧と付き合ってるのは俺なんだ」
その瞬間、母の目は吊り上がった。般若のように歯をむき出しにして、はあ? と低く唸った。それきり、二人は誰も目を逸らさずににらみ合った。先にその勝負を仕掛けたのはやはり母だ。
母は一歩、二歩近づいて何も言わずに克樹の頬を打った。碧は母の手を掴みかけて、その手は空を切る。
「その耳どうしたの? あんたピアスなんて付けてなかったじゃない」
あんたという乱暴な言葉は奈々と似ているようで全く似ていない。明らかにこちらを傷つけるために特化された言葉は克樹の心を静かに乱していく。
下唇を噛み、それでも堪え切れなかった分だけ涙が滲む。まだ決壊していないのは、隣に碧がいるからだ。一人じゃないというのはそれだけ克樹の丸裸な箇所をギリギリのところで守っていた。
「なんとかいいなさい。あなたもよ!! 克樹をこんなにしたのはあなたなの?」
矛先が碧に向けられる。だらりと掴み損ねた腕が克樹の丸まった背を撫でた。
「違います。誰もなんにもしてないです。僕らはただお互いに好きだと言って、正当な手順を踏んでお付き合いしているだけです。なにがあなたをそう怒らせるのか僕には分かりません」
この場で一番弱そうなのに、自分の言いたいことを言える彼は一番強い。声も震えていないし、指先には熱が籠っている。上昇した体温が彼を目の前にいる女を敵とみなして戦闘態勢へと変えた。
母はその言葉に少したじろいだ。虚をつかれたようだ。主張のなさそうな男を見くびっていて、見事に指し返されたのだから無理もない。
克樹はもつれる舌を必死に動かした。
「男が好きなんだ。ずっと……。誰がしたとかじゃない。俺は、俺は……」
ヒクりと喉が痙攣する。
「なんでそれだけでこんなに誰かがダメみたいになるのかなあ……」
「普通じゃないよ。あんたをそんな風に育てた覚えはない。奈々とあんたは双子なのにどうしてあんただけが同じ性別の人間を好きになるわけ? おかしいでしょ。同じ遺伝子を二人で分けているはずなのに。奈々は普通なのに」
「じゃあなに? 奈々が女の子を隙なら母さんは満足して認めてくれた? 無理でしょ。母さんは絶対にそんな人じゃない。奈々がサッカーをしたいって言った時、俺がピアノを弾いてみたいって言った時、母さんは俺にサッカーボールを与えて、奈々にはドレスを買ったんだ。誰の言うことも聞かないのはずっと分かってることなんだよ!」
はあ、はあと肩で息をする。吐いても吐いても空気が薄い。母の輪郭が曖昧に歪む。
ずっと言いたくて言えなかったこと、言うつもりのなかったこと。どこかでこういう風になることを分かっていた自分もいる。どうせ、穏便にならないのなら碧が横にいてくれる時に向き合っておきたかった。なにがあっても碧は傍にいて、今も背中を強く摩ってくれている。
「出ていきなさい」
最初、なにを言われたのか頭が追い付いてこなかった。
そして、次第にその言葉の輪郭がブーメランのように戻ってきた。その鋭さの痛みに呻く前に母はもう一度、叫んだ。ビリビリと鼓膜を穿つ。
「出ていけ!」
どれだけ頬を涙が伝っても逸らさないように耐えていたのに、たった四文字の重さに敗北を期して背を向けた。もう無理だ。どれだけ無防備を晒しても、爪を立てられる。
奈々が異変を察して駆け下りて来た。すれ違うようにしてリビングを出ていく克樹と取り残される碧を一瞥して母に怒鳴る。
「なに言ったんだよ! あんた克樹に何言ったんだ! おい! こっち見ろよ!」
奈々はその合間に「こっちはいいから」と言いながら、母の肩を掴んで揺さぶった。
ドアが乱暴に閉められ、克樹の体はアッと今に見えなくなった。吐きつぶした靴にかかとの皮がずり剥けるのも気にせず突っ込む。
「克樹!」
克樹は玄関ポーチで膝を抱えて座り込んで鼻を啜っていた。膝に頭を入れて、その空間だけは誰にも傷つけられないように必死に守っている。その横に同じように座った。
「ごめん」
「ごめんってなにが?」
「分からない。だけど、俺のせいじゃん。はは、誕生日ボーナス付かなかったなあ……」
「僕、荷物取って来るよ」
「うん。今日はもう帰ったほうがいいかも」
「克樹も家来るよね。今日は冷えるから僕の家行こう。荷物取って来るか少しだけ待っててほしい」
克樹は無言で頷いた。
中に戻ってみると、まだ争うように声が聞こえてくる。音を立てないようにそおっと階段の登り、克樹の部屋に置き去りにしていたリュックと、彼の送った碧のピアスを袋に戻してリュックに入れた。机の上に置かれた克樹にスマホだけを持って、また同じように階段を降りて、出た。
「はい。スマホしか取ってこれなかったんだけど」
「ありがとう」
「立てる?」
「うん」
碧はリュックを両肩にしっかり掛けた。先頭を歩く。碧の後ろを一歩遅れて克樹がのろのろと付いてきた。広い道に出てからは二人は横ならばで手を繋いで歩いた。
「家、この辺だったっけ?」
「うーんまあ。三十分くらいで着くよ」
「ついてどうすればいいのかな?」
「ずっと居ればいいよ。学校だった僕の家から通えばいいし。寝る場所もあるし。誰も克樹のこと傷つけないから。だから泣かないで」
「泣いてないよ」
「ならいいんだ」
10月の夜は少し肌寒い。碧はカーディガンを羽織っているから寒さはそれほどではないが、克樹は家の中に居たからシャツ一枚だ。腹の方にリュックを回してきて中を探る。無いよりはマシだろうと汗の染みた体育ジャージを渡す。克樹は微笑んでそれを上から被った。少し窮屈そうに見えたが、構わず、克樹は袖を鼻に持っていて深呼吸した。
「碧の匂いがする」
「汗臭いんだから辞めてよ。恥ずかしい」
「俺もなんか変態みたいで恥ずかしい。でもおかげで落ち着いたかも」
街灯のない道を二人で歩く。一人なら絶対に通らない近道も今日だけは出番がある。家の方に近付くにつれて、家の大きさが比例していく。この辺りは高級住宅地で、どこもかしこも偉い立場を持っている人の場所だった。
その一画に『山中』と標識がある家に碧は門の鍵を開けて入っていく。克樹がその大きさに驚いて進めないでいると、碧から「おいで」と甘い囁きが返って来る。その甘さに寄って門を潜り抜けた。
扉の鍵を三つ開けて、「どうぞ」とエスコートする。「お邪魔します」と桁違いの広さの玄関に驚きながら足を踏み入れた。大理石の床を汚さないのうに最大限気を使って、靴を揃えて一歩目を置く。
「ただいまー」
碧が挨拶をしながら扉と三つの鍵を閉める。
「誰かいるの?」
「いないよ。でも癖で誰もいないのに言っちゃう。上がって上がって、部屋二階だから荷物置きに行こ」
荷物という荷物は持ち合わせていない。碧は自分のテリトリーに入ったからか気を抜いている。いつもよりフニャフニャしているような感じだ。広めの階段をゆっくりと登って、後ろからついていく。時折碧は後ろを見て克樹が付いてきているか確認していた。
「広いな。俺の部屋の倍くらいありそう」
10畳の部屋は確かに克樹の部屋と比べると一回りほど広い。克樹は疲れているのか、ふらふらと二人掛けのソファに腰掛けて、ズルズルと脱力していく。溶けたバターのようだ。足を前方に投げ出して、天井を見つめた。
「寂しくなんない? こんな広い部屋にずっと一人でいると。俺なら、寂しくて毎日人呼んで寝泊まりしてもらうかも。誰かがご飯を作る音も帰ってきてただいまって言う声も聞こえないなんて。俺、何が言いたいんだろ。それ全部母さんのことじゃん。たった今出ていけって言われたばっかなのに……」
「……僕さあ、母さんに男が好きだってこと言ったことないんだよね。多分何も聞かないだけで知ってるのかもしれないけど。ずっと、二人は家にいないし。たまに来る家政婦片野さんも僕が学校に行ってる間に済ませてくれるから妖精みたいだし。海外は愛に寛容だから。でも、やっぱり遠くにいる母さんに二度と帰ってこないからって言われたら寂しくなるかも」
克樹が占領しているソファーの隣に腰を降ろす。二人がけのソファーは左側だけが固く、強い反発力を持っていた。
「俺、奈々にも男が好きだってちゃんと言ったことないんだ。双子ってなんでも分かるって言うけど本当にその通りで、奈々は俺のことちゃんと分かってくれてた。でも、俺は? 俺、正直なところ奈々があそこで庇ってくれるなんて思ってなかった。どこかで、自分と同じように奈々は俺のこと応援して理解してるけど俺の為に母さんに怒ることはないって。多分それは自分がそうだったらそうしないから……」
「双子が分かり合うなんてそんなの双子じゃないやつの想像でしかないんだよ。僕が姉弟がいる人の気持ちを分からないのと、克樹が一人っ子のことを分からないのと同じでないものは想像するしかないんだから。でも、それは克樹が志田さんのために怒らないかもしれないってことにはならないよ。だって、克樹は志田さんがサッカーしたかったことずっと覚えていたんだから」
「そうかなあ」
「そうだよ」
聞き慣れた通知音が鳴る。二人は顔を見合させてきょとんとして、どっちのスマホだろうと言った。碧は立ち上がり、リュックに入れっぱなしにしていたスマホを取り、克樹は尻ポケットに入れていたスマホを腰を少し上げて取った。
同時に確認して、克樹が「奈々からだ」と言った。その後に、碧のスマホにもさっき聞いた通知音とは違う軽い音が鳴り、暗い画面にポップアップが表示される。
「志田さんはなんて?」
「どこにいるの? だって。碧の家に居るって言っていい?」
「電話した方が早いんじゃないかなあ」
そういった傍から奈々から電話がかかってくる。克樹は一瞬戸惑った風にこちらを見て、画面をタップした。スピーカーにしなくても分かるくらい大きな声がノイズ混じりに響いた。音割れした音声に思わず、克樹はスマホを遠ざける。
「克樹大丈夫!? 山中くんと居る? どこにいるの?」
一方的に捲し立てる。
克樹が急いでスマホをスピーカーにして碧の声も拾えるようにした。克樹が口を開くより先に碧が「うちに来てもらってる」と答えると安堵の息が漏れた。
「そう、なら今日は泊めてもらった方がいいかも。ていうかしばらく帰ってこないほうがいいよ」
その言葉に克樹の目が揺らいだ。
「分かった。志田さんも来る? 部屋余ってるから、もしあれだったら」
「いや、大丈夫。あたしのことは気にしないで。今一番危ないのは克樹と山中くんであたしはむしろ安全。明日学校で話そう。じゃあおやすみ」
結局克樹は一言も話すことなく通話が切られる。奈々の声が無くなって急に訪れた静寂は、先ほどまでとはまるで意味が違う。今まで気にしたことのなかった静けさが、奈々の安全と明日への不安を増幅させる。
手の中で碧のスマホが震えた。奈々が電話を掛けてきたためにそのことに気を取られていた。見ると、鳴り続けているらしく、通知はもう表示の限界を超えている。
一番上の最新の通知をタップした。ズラリと並ぶ、言葉は一人ごとのようだが、そのどれもが碧を心配する旨だ。時折混ざる日本語じゃない言葉に通知の発信源である母の動揺が見て取れる。
「誰から?」
克樹がスマホを指差す。
「母さんから。見る?」
「そういうのって見ていいの?」
「克樹のことも書かれてるから。克樹のお母さん、僕の母さんになんか言ったみたい」
「サイテーだな」
吐き捨てるように言ったあと、蚊の鳴くような声で謝る。一日に何度聞いたか分からない謝罪の一つも今や、ありがたみや虚しさといったものはとうの昔に失われ、ただ、返事の代わりとなっているだけだ。
再び、克樹の隣に座り、彼にも見えるようにホーム画面を見せると、彼は碧の無防備さにくつくつと笑った。
面白みのない、必要最低限だけの一枚に収まるだけの画面のどこに面白いところがあるのか分からず怪訝に思っていると彼は口元を抑えながら目を細め、スワイプの出来ない画面を滑らせて言った。
「束縛の激しい彼氏みたいだ。俺、人のホーム画面なんて初めてみたかも。もしかしてラインとかパスワード設定しない派? 危ないから設定してよ。誰が見てるか分からないんだから」
「いいじゃん、どうせラインにも志田姉弟と親と片野さんしかいないんだから」
克樹は「マジでそんな人今時いるんだ」と言った。どういう意味だろうと一瞬そう思った。きょとんとして克樹を見つめた。克樹はそれに耐えきれず、悪い意味じゃないと言った。だけど、碧はそれが嫌味だったのかすら分かっていない。
ラインをタップする。最後に母とした何日に日本へ帰ってくるという業務連絡のような会話から一転して、こちらの健康を心配するものから、志田くんの母から連絡があり、何があったのかと説明を求めるものと間を置かずに送られている。母はまだラインを開いたままにしていたらしい。碧が返信を返す前に既読が付いて、今すぐ電話をするように送られてくる。
「してもいい?」
「した方がいいでしょ」
通話ボタンを押すと、母はワンコールで出た。
「碧、どうしたの? 志田さんの所の息子さんと碧が付き合ってるって、志田さんのお母さんから連絡が来たんだけど。志田さんって誰なの?」
母の声は生身で聞くよりも、高く、でもそれは興奮しているせいでもあった。母は連絡は来たが何も聞いていないみたいだった。
「母さん久しぶり。えっと、順序が逆になったんだけど紹介してもいいかな」
「志田くん。もしかしてそこにいるの? やだ、もしかして私の声聞こえてる?」
「まだだけど。スピーカーにするよ」
耳からスマホを話して、スピーカーにする。母の声が聞こえていない克樹は一瞬、身を固くした。克樹には碧がどういった流れで自分を紹介するのか分からず、話の流れからそれはきっといいことではない。
「は、ハロー」
向こう側から聞こえる母の声は上ずっている。発音の良い英語に克樹が助けを求めるように見つめてくる。すかさず碧は横やりを入れた。
「母さん、克樹は日本人だよ」
「そうね、そうだった。ごめん。えっと志田くん……? そこにいますか? 碧の母です」
すぐ隣で繰り広げられた家族劇から一転。凛とした芯の通った声が呼びかける。
「はい。います」
克樹は背筋を伸ばし、膝に手を置いて、スマホに語りかけた。
「お母さまからご連絡を貰って、碧とお付き合いをされているそうで」
「はい。すみません」
克樹がペコペコと頭を下げる。偉い人に怒られているみたいに身を委縮させ、母の次の言葉を待っている。
「謝らないでいいのよ。それで、私はあなたのお母さまからあなたと碧に対する酷い侮辱を少しばかり頂いたのだけど。それは全て真実ではないと思っていいかしら。この場を借りて、その話を突き詰めるつもりはなくて、今日の所は私は碧が男の子を好きだった話とあなたのことを聞かせて貰えればと思っているのだけど」
その言葉に慌てたのは碧だった。大事な話合いの最中だから、母に呼ばれるまでは黙って行く末も見守ろうという体制だった碧は、母の言葉に素っ頓狂な気の抜けた声を聞かせてしまった。
対する克樹も思わず返答に面食らっているようだ。母はもう一度「どうかしら」と尋ねた。
「えっと、えっと。碧」
とうとう克樹は何も言えず、しどろもどろになった。碧に助けを求めるが、その碧でさえこの展開は予想していない。彼が予想していたのは、母は恐らく自分の性的思考については関与しないだろうというところまでだ。それが大きく、裏切られ、碧でさえ動転している。
「碧。あなた男の子が好きなの?」
直球過ぎる言葉に碧は「うん」とか細く答えた。
「ずっとそうだったの? お母さんがあなたに彼女はいないのって聞いた時もずっと?」
「うん。ずっと俺は男が好きだったよ」
「ごめんね」
「それで、二人はどっちも男の子が好きで付き合ってるのよね。誰も冗談とかじゃなくて」
「そうだよ。僕たちは誰かに言われたからじゃなくてちゃんと自分たちに意志で付き合ってる」
「ならいいのよ。私はそれならいいの。志田くんのお母さんの言葉は信じたいと思えない言葉ばかりだったから。志田くんも聞こえてるわよね。どうぞ、碧をお願いします。それで、あなたのことだけど私は遠くの国にいるから教えてもらえると安心だわ」
「志田克樹です。碧くんとは同じクラスにようやくなれて。俺ずっと彼が好きだったんですけど、勇気が出なかったんです。双子の姉がいて、母さんがあれだから碧と付き合ってる風を装ってくれてて、ダメだったんですけど……」
克樹の言葉は後ろに行くほどか細くなっていく。母は強く相槌を打ちながら克樹が語る話を聞いている。母は絶対に人の話を遮らない。向こう側で母は今の克樹と同じように背筋を伸ばしながらスマホを見つめて、一秒ごとに増える通話時間を眺めながら頷いているだろう。
「俺、今日誕生日だったんです」
「あら、誕生日だったの。おめでとう。いい誕生日とは言えないような雰囲気だけど、でも私のところではまだ日付は変わっていないから後で改めてお祝いさせていただくわね。きっといい日になるわ」
「ありがとうございます。それで碧も祝いに来てくれて、姉の彼氏としてですけど。でも、それが嫌で母に伝えたら出ていけって言われて」
そこで一度言葉を区切る。沈黙の後、母はそれを破った。
「辛かったわね。お姉さんは今でもあなたの味方? 安全?」
「はい。出ていけって言われた後、庇ってくれました。さっき連絡が来てこっちは大丈夫って。明日学校で話し合います」
「学校は酷く閉鎖的だけど、親から逃れるならこれ以上にない場所だわ。碧は明日連絡をちょうだい。それでお姉さんが危ない目に遭ってそうなら家に呼びなさい。あまり長く泊まっているとやっかいだから精神的につらいだろうけど、たまに家に帰って」
「うん。分かった」
「志田くんも。私は貴方たちが好きならなにも言えないわ。だって、好きならしょうがないし、それだけ碧がいい男に育ったってことなんですから。お父さんは凄くダンディーだから、きっと似たのね。嬉しいわ。これからも碧のことよろしく頼むわ。それじゃあ良い誕生日を!」
画面は母の一人ごとに切り替わる。言葉でももう一度克樹の誕生日をお祝いし、それから明日ケーキを買ってきてはどうかという提案が送られてくる。
碧はそれに分かったと熊のスタンプを返した。
後半母の一人語りだった。母は克樹を前にしても自分を崩さなかった。このラインみたいに一人の子供として、息子のように扱った。
克樹はまた泣いていた。静かに肩を震わせて、涙を流していた。暖房を入れた部屋で時間をかけて渇いた袖は再び濃い色に染まっている。右頬を伝う涙を指先でそっと掬い、舐めると塩の味がした。
泣きすぎて、体の塩分濃度は濃くなっている。
「水取って来るよ」
「一緒に行っても? 俺、この寂しい部屋に一人は嫌だ」
乱暴に袖で最後の涙を拭う。擦れた頬は赤く腫れている。碧はスマホをテーブルに置いて、立ち上がり、そっと手を差し出す。克樹はその上に手のひらを重ね、碧は引っ張り上げる。大きく伸びをして丸まった背骨をボキボキ鳴らしながら、深呼吸した。
肺が大きく膨らむ。肺いっぱいに碧の部屋の空気を吸い込んだ。慣れた鼻は新鮮味が損なわれていて、今ではこの部屋の芳香剤がなんなんか当てることは出来ない。
部屋の扉を閉める時に見た自分の部屋は確かに広く、寂しいように感じられ、その気持ちに封をする。誰も入れたことのない部屋は一人だと広く、二人だと狭いような気がした。
「碧のお母さんすごくいい人だったな」
水を飲んで復活した克樹の舌は饒舌だった。母にこの家にいることを認知してもらったのが精神的に安心したのか今ではソファーを独占して寝そべっていた。ソファーに座ることの出来なかった碧はその下で足を伸ばして座っていた。普段座ることのないフローリングは尾てい骨に響く。しばらくすると本格的に骨が軋んできて、ベッドの上に避難すると克樹も同じようにベッドの上に登って来た。
二人は並んで壁に背を付けてベッドに座っている。
「碧の主成分って感じがした。言葉の使い方とか、一方的に捲し立てるところとか」
「それ褒めてる?」
「他の人から見たら、碧も碧のお母さんも言うこと聞かないように見えるけどさ、それってさ、逆に言ったら俺には欲しい言葉だけがちゃんと聞こえる。俺、ずっと話聞きながら碧のお母さんにまで拒絶されたらどうしようって怖かったんだけど、これだけ迷惑かけた知らない男の話聞いてさ、誕生日祝われるなんて思ってなくて。明日になればただの平日なのにさ」
「いいじゃん。明日ケーキ買って帰ろうよ。僕、ホールケーキを切り分けて食べるの憧れてるんだよね」
「奈々は今頃どうしてるかなあ……ちゃんとご飯食べてるかなあ」
克樹の腹が唸り声をあげる。ご飯を食べ損ねたまま荷物を抱えて出てきて、ひとしきり泣いて、安心したせいか、そのために消費されたカロリーを取り戻せと体が求めた。克樹は自分の腹を押さえて顔を赤らめた。
「碧はお腹鳴らないね」
「鳴ってるよ」
彼の手を取って、自分の腹に当てるとちょうどよく腹が振動する。細長い指が臍の辺りをかすめた。薄い筋肉のついていない腹は彼の手の中にぴったりと収まる。
最近、気温が下がってきていて体温調節のために着ているカーディガンが腹の音を抑え込んでいた。毛玉が絡み合っていて、彼が撫でるとポロポロ取れた。
「冷蔵庫に作り置きがあるから温めて食べよ」
「いいの? 俺めっちゃ食うけど」
「知ってる。僕克樹が食べてるところ見ると安心するんだ。悲しいことがあった時に沢山食べれるって生存本能ではきっと正しいことだから」
「碧は奈々より食が細いからなあ。あばらも浮いてるし」
手は徐々に上がっていって、肋骨のすき間を行ったり来たりさせた。こそばゆくなって身をよじって抵抗すると、克樹は面白がって脇の下に手を突っ込んだ。脇を挟むと、反対から手が伸びてきてあばらを擽る。
そのままもつれ合って、ベッドに倒れ込んだ。腕の中に納まる克樹の丸い頭頂部を撫で、指のすき間に柔らかな髪を通した。薄い色素と、首筋の日焼けがアンバランスで際立ち、なにもかもが自分とは正反対の克樹を好きになったことが奇跡のように思える。
くすぐったそうに腕の中でもがく克樹を抱きしめた。自分の激しい心臓の音を押し付けるみたいに聞かせた。一分間に百二十回、どんな運動よりも脈を速くさせることをこの男に知っていてもらいたかった。誰にも聞かせることの出来ない音は、ただ克樹が安らかに存在するために鼓動する。
この腕の中で、彼の耳をうるさいくらいの音で満たし、他の全てはノイズになるくらいに。この気持ちがあのリビングに広がる声よりも大きくなるように。
翌日、いつの間にか眠っていたらしい。奈々から送られてくる怒涛の通知で碧が起床すると時間は昼をとっくに回っていた。奈々は始業前から授業の休憩時間ずっとスタンプを送り続けていた。慌ててそれに既読を付けると彼女から怒りの返信が来た。
『ごめん。今起きた。克樹はまだ寝てる』
『今日、放課後にでもいいから絶対来なよ!』
『分かった。今から準備して学校行く』
数分の間が空いて、返事が来る。
『母さんが、山中くんと克樹が付き合ってるの言いふらしてさ、まずいことにはなってないんだけど、一応来るとき気を付けて』
『分かった』
簡素な返事に既読が付いたきり、奈々からの返事は来ない。改めて時間を確認すると昼休憩の時間は過ぎていた。奈々はまたどこかでサボっているみたいだ。
急いでベッドの端で体を丸めて眠る克樹を起こしにかかった。揺さぶってみてもうめき声を漏らすだけで、彼が起きる様子はない。両肩を掴んで頭をがくがくするほど揺さぶってみた。
人を無理やり起こすなんて就学旅行以来かもしれない。寝起きがいいから、その時だって同室の子の薄い布団をひっぺ返し、頬を叩いた。それでも起きなかったからその時はそいつと一番仲がいい子が腹にダイブを決め込んだのだ。
でも、克樹にはそんなことはしない。
呼吸のために空いた小指分のすき間に指を這わせる。呼吸は穏やかに続いている。この穏やかな時間を止めたくない。このままずっと起きなければいいのに。現実なんて見ないで、このダブルベットの上で静かに呼吸しているだけで、それだけでいい。
でも、時計は十二時をとっくに過ぎている。
細い茶色の髪の毛をかき分けて、耳を露出させる。開いたばかりの穴は少し腫れて熱を持っていた。金色のチープな石が埋め込まれたファーストピアスが
「克樹、起きて」
いつもよりも低く囁く。彼の脳みそが今まで聞いたこともないような声で。
克樹はゆっくりと瞼を開ける。とろんとした重そうな瞼が現実と夢の世界を行き来していた。
「おはよう」
薄目を開け、かすれた声でへにゃりと笑う。上半身をゆっくりと起こしながら、辺りをキョロキョロと見回す姿は借りてきた猫のようだ。
「来たな、寝坊助共」
図書室の隣の誰もいない空き教室で奈々は机の上に足を組んで座っていた。くっつけられた机の上には本が乱雑に積み重なっていて、彼女がいかに退屈していたのかが伺える。
「あたしの話は睡眠時間何時間分だと思う?」
「そんな怒んなよ。俺本当なら碧のベッドでもう少し寝れたんだぜ? なあ?」
「僕に降らないで。大体克樹だってご飯食べながら青ざめてたくせに」
「それは言わないっていったはずだろ!?」
「なあ、もういい?」
机を二人分くっつけて、早く座るように椅子を蹴る。奈々を中心にして、二人は左右に分かれて座り三人は額をくっつけて腰を落とした。
奈々が人差し指を立て、克樹を指差す。
「まずは、あの後だけど。母さんは怒ってた。校内の話のネタとしてあんたたち二人が付き合っていることを知り合いにばらし、その知り合いが更に拡散。あたしは山中くんと付き合っているふりをしていたことと問い詰められた。それについては適当に誤魔化しておいた」
克樹に向けられていた指は奈々の前をゆっくりと通過して、碧の前で止まる。
「山中くんのお母さんにも同じ話をした。あなたの息子さんがうちの息子をたぶらかしたって。あんたのお母さん凄いよ。一通り話聞いた後でへえ、そうですかって言って電話切ったんだから」
「それ、母さんからどうしたって連絡来たよ。全然信じてなかった。というか、母さんは僕が男好きって聞いても好きならいいんじゃないって」
「へえ?」
奈々の口角が片方だけ上がる。克樹の肩を肘で突く。克樹は咳払いをして、話の流れを戻したが、奈々の好奇な目は克樹の赤くなった耳に注がれていた。
昨日の今日で様々な進展があり、双子の愛情の深さと信頼が変わらないことに碧は安堵した。奈々の深刻そうな声色はあの時、克樹の心を揺さぶった。しかし、それもなかったことのように会話はスムーズだ。
「言っとくけど、母さんを説得しようなんて無理だから。あと、山中くんがうちの敷居を跨ぐのも。克樹はきっと帰ってきたら白い目で見られるだろうし、あと……」
「あと?」
「あたしの進路は認めないって」
その言葉に立ち上がったのは克樹だ。その反動で椅子が後ろに吹っ飛ぶ。
「おかしいだろ! なんで俺の進路がダメになるんじゃなくて奈々の進路が認められないんだ?」
「それは克樹よりあたしの方が成績いいからでしょ」
「でも母さん言ったんだ。今までのは全部茶番で本当は山中くんと付き合ってるの貴方なんでしょ?って 二人の悪口散々言った後にだよ? あり得る?
「ベターハーフってあるじゃん」
「うん」
「男女が結婚して一番いい相手。それがさあ、もし、奈々と山中くんだったらそういうのになれたのかな。俺が男だから碧とはそういうのに選択肢すら上がらなくて、奈々と双子だから、これから何度もお姉さんとならいい恋人だった夫婦だったって言われ続けるのかなあ」
「なにが言いたいの?」
「もしかしたらの話だよ」
克樹の虚ろな目はもしかしたらのもっと先を見つめていて、そこが地獄で、今までの全てをぶち壊すだけの暴力を含んでいた。
克樹の我慢と、奈々が守り続けた彼の精神はたった一回で無駄になっていく。長い時間をかけてせき止めていた思いは、誰にも共感されることなく、ただの癇癪として消費され、その全ては僕たちが抵抗力のない子供だからで片づけられようとしている。
自分がいかに恵まれた世界で温く生きてきたのか。
誰にも干渉されず、あっさりと受け入れられ、もしかしたらの世界を考える暇もないくらいに遠い家族との愛と信頼を無条件で感じている。
「僕は男が好きだし、奈々のことをそういう風には見れないし、この先誰が何と言おうと関係ないよ。それに僕と志田さんがベターハーフなら? 男を好きな克樹の良い相手ってなに? 僕のこと好きって最初に言ったのは克樹なのに。どうせ僕らはお互いに好きなのは」
「碧のそういうところ羨ましいよ。誰よりも自由で、意見に左右されず、一人で生きていけるやつ。きっと、君は俺のこと好きにならなくても自分が一番いい相手だって思わせることが出来るんだ」
「勝手に卑屈にならないでよ。今好きなのは克樹だし、まだ完全に退路がふさがったわけじゃないでしょ。嘘でもいいじゃん。志田さんが大学に進学できるまででも芝居を打てば……」
「それまでの嘘がばれたら? 俺は嘘を吐くのが嫌なんじゃなくて、もう一度嘘がばれて今度こそ俺たちのせいで奈々が行きたくもない大学に行かされるのが嫌なだけだ! 奈々は俺のためにいろんなことを我慢してきて……なあ、もう俺たち別れた方がいいんじゃないの? 俺は奈々の人生と碧だったら奈々の方を取りたい。奈々は俺の姉ちゃんだから」
それが正しいと信じ込んだ人間にどうしたら、間違っていると分からせられるんだろう。
銀を金に変えても、水をワインに買えても、克樹が奈々の姉であることは変わらないし、別れた方が事態が好転することも変わらない。
だけど、克樹とそんな他人の意見のために流されるように別れることだけは絶対に嫌だ。
今だって、言っていることはただの被害者の押し付けでしかない。この姉弟はお互いを犠牲にしないとお互いは幸せになれないと思っていて、それが一番平和的解決だと信じている。
「今日はもう寝よう。今の克樹は冷静じゃないし、まだ僕たちには味方がいないってわけじゃない。どうにか出来る道はあるよ。明日もう一度ゆっくり考えよう?」
碧のパジャマに身を包んだ克樹ベッドにもたれ掛かりながら俯いてる。碧が先にベッドに行くと、そのあとを付いてきて碧が開けたすき間に潜り込む。
「別れようって言ったのに隣で寝るんだ」
「ベッドは一つしかないからしょうがなく
「おやすみ克樹」「おやすみ碧」
「こんなに苦しいなら男なんか好きになりたくなかった! 俺は碧とただの友達でいたかった。なのに、俺が好きなのは碧なんだ」
「分かってる。全部分かってる」
「なあ、なんで俺だけ普通に女のこと好きになれないんだ? 分かってるっていうなら奈々だって女が好きなはずじゃん。だって、俺たち双子なんだから! なんでお前だけ男が好きなわけ? 分かんないよ。双子だからって分かったような振りすんなよ!」