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 「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」

 壇上に立つ志田克樹はマイクにノイズを乗せることなく、凛とした佇まいで口上を述べる。この学校に入学してから彼の立場はずっと変わることのない。学校創設以来の秀才として、成績をキープし続け、皆の前に立ち続けていた。彼が三年間見続けた景色はずっと変わらず後ろに体育館の後ろに飾られているバスケ部の横断幕だ。彼は1200の双眸に怯むことなく、手元の紙をチラリとみて、また遠く横断幕を見る。そして心地の良いテノールで言葉を拡散すると聴衆はうっとりとした表情で彼の言葉に耳を傾ける。

 「様々な希望を胸に入学した人、何となく受けて合格した人、惜しくも私立には落ちてしまった人。色々な人がいると思います。これから三年間不安の人も、新しい生活に胸を躍らせている人も。そうした中でこの学校が最後に楽しかったと思えるように。後悔のないように過ごしていってほしいです」

どこにでもある普通の言葉も志田克樹が話せばそれは聞く価値の高いものに早変わりする。このたった数行を彼の他に読んでいる人を三年は見ていない。

彼にはそういう才能があった。無条件で誰にでも愛される才能が。

志田克樹は言葉を締めくくり、一歩下がってお辞儀をして、左に捌ける。

「志田さん、ありがとうございました」

 副校長の鼻がつまったようなダミ声が、いかに志田克樹がスピーチ映えする声をしていたかを分からせる。同時に、厳かな空気感が一気に霧散していく。

生徒会の立ち位置に戻った彼は、たった今用済みになった紙切れを丁寧に折りたたんでポケットに入れた。隣の黒髪の男が志田の肩を突いて健闘を称えた。志田は口角を上げることでそれに答える。可哀そうなことにその後に立った校長先生のありがたいお話は、誰の心に残っていない。気が付いたらでっぷりと太った校長はもう壇上には立っていなかった。マイクだけが中央で静けさを代弁していた。

「続いて表彰を行います。志田奈々さん前へ」

「はーい」

けだるそうな伸びた返事と共に、ぱったんぱったんと浮いた靴音が体育館に響く。C組の中から黒髪の女が頭に手を組んだままゆっくりと出てきた。ダウナー系のような重ための雰囲気を醸し出す彼女は、壇上の前に掛けられた階段を一歩一歩時間を掛けて上がっていく。そのマイペースぶりに他のところからあくびと失笑は漏れる。

組んだ腕を真横にだらんと下げて、三十度のお辞儀をする。校長も三十度のお辞儀を返して、ひとつ咳払いをし、表彰状を少し上に掲げ、読みあげた。

「表彰、志田奈々殿。貴方は英検準一級テストに置いて素晴らしい成績を収められましたのでこれを表します」

「おめでとうございます」

彼女は両手で表彰状を持ち、一歩引く。そして、またペコリとお辞儀をして、今度は右手に表彰状を持ったまま駆け足で階段を降りて、スタスタと空いた自分の空間へと戻っていった。

彼女もまた志田克樹同様に頭のいい人間だ。噂では、この学校の成績優秀者は志田克樹ではなく、姉の奈々の方ではと囁かれれている。それが本当かどうかは彼らとそれと教師陣だけだろう。

しかも彼ら志田姉弟は双子なのだ。一方は明るく、人当たりの良い爽やか好青年。一方はダウナーでサバサバとした近寄りがたい女。正反対のこの二人はおしどり姉弟と呼ばれるくらいに仲が良く、たまに一緒に登下校をしている姿が目撃されているくらいだ。



浮かれていたと言えばこの不思議な状況にも説明がつくだろうか。

山中碧は床に散乱した教科書を震える手で拾い集めながらそう思った。

「ごめん、すぐ拾うから」

「いいよ。てか俺も拾うの手伝うわ。後ろにいるの気が付かなくてごめんな」

時間は数秒前に巻き戻る。

碧はロッカーから取り出してきた二年生の教科書をごっそりと抱えていた。今日持ってきた三年生の教科書と取り換えるために。ロッカーは教室の外に設置されていて、学年ごとに場所が変わるからずっと置いておくことが出来ないからだ。

 そして、新しく割り振られた自分のロッカーに教科書を仕舞おうと思ったら、先客が居た。志田克樹だ。名前順で割り振られているはずだから、彼のロッカーは碧の近くにはない。どうやら、友だちに教科書を入れ替える様に頼まれたみたいでその友達の教科書が彼の傍に積まれていた。

碧は彼が仕舞い終えるまで後ろでぼんやりと立っていた。

そうしたら、後ろに誰もいないと思って勢いよく振り向いた志田と正面衝突をして、彼が持っていた友達の教科書と碧の教科書は宙を舞い、二人の足元に全部ごちゃまぜになって散らばった。

「ごめんな。本当。気が付かなくて」

志田は友達の教科書をより分けながらずっとそればかりを口にしている。

「いや、いいよ」

自分のそっけない返事が情けなくなる。もっと気の利いたことくらい言えればよかったがあいにく、人を話すことが得意とは言えない碧にはそれ以上の素晴らしい返しが思いつかない。

それもよりも彼の首筋から香る甘い匂いの方が気になって仕方がなかった。ポケットにケーキでも詰めているのかと思うくらいに香っている。香水に疎い自分でも分かる。これはどちらかというと女性用の香水だ。

「どうした?」

手が止まっていたのだろう。志田が不安げにこちらを見ていた。

「あ、いや、その香水……」

志田は耳にさっと手を当てた。おそらく、彼が香水を付けている場所なのだろう。その流れで首の後ろに手を当てて、恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「キツイ、かな……」

袖を嗅ぐ。しかし、自分の匂いは自分では分からないために、首を傾げている。

「甘い香水付けてる男子珍しいなって思っただけ」

碧がそう答えると、志田は安心したように目を細めて笑った。褒められた犬みたいだ。彼の後ろに見えない尻尾が揺れているのが見える。

「奈々に借りたんだ。高いブランドのやつ。いつもは、安いの使ってんだけど。今日だけ。だけどさ、高いのってちょっとでいいのな。奈々には怒られたし、全校集会だしで最悪」


 あれは二年生の春のことだった。二年生の春と言えば高校生活の内で最もやることがない時期とも言える。目新しいことはすでに一年のうちに経験してしまい、イベントごとと言えば、六月に行われる中間考査くらいだ。

 そんな中で教師たちがひねり出した二年生特別イベント、合唱コンクールはとてもうまくいったと言えよう。

 二年生は新しいクラスの親睦も兼ねて、四月から曲の相談、指揮者、ピアノを決める。担任はそこには一切関与せず、当日何も決めてないせいで発表が行われなくてもそれはそれであり。だが、今までそんなことをしたクラスはない。それも最もだ。行事ごとに飢えている心を埋めるために開催される催しものをクラス単位でバックレるやつらはそうそういない。

 コンクールは六月中旬、テスト週間に入る前の半日を使って行われる。準備期間も短いわりに毎年かなりのレベルで仕上げてくるそうだからやはり、飢えているのだ。

 コンクールと言っても、それほど大したものではない。ただ、六クラスが事前に決めたあみだくじで決めた順番に歌を発表して、それを二年生の担任、手の空いている先生、副校長、校長がどのクラスが良かったかに投票するだけ。

 碧は正直言ってあまり乗り気とは言えなかった。理由は簡単で、単純に歌うことが苦手だったからだ。芸術選択では、歌って楽器を弾くだけで単位が貰える音楽は抽選が行われるほど人気だと聞いていたが、そんなものは所詮歌えるやつだけの楽単だ。歌えない碧からしてみれば恥でしかない。

 かといって、絵を描く才能もない。余った習字を第一希望に出したのにそれもまた歌えない奴らと抽選をし合って見事に負け、晴れて美術への道へ。廊下に飾られたピカソみたいな絵は通るたびに失笑を浴びている。

 それでもやらなくてはいけない理由がどうしてもあった。同じように歌うのが嫌いな人達は当日に休めばいいと当たり前の事実に辿り着いた。

風邪を引いて、寝坊して、道に迷った外国人を案内していて……。

 あらゆる理由で当日、半日来なかった生徒は過去のどこかのタイミングで爆発したのだろう。そこでわが校の教師陣たちもまた残業をして会議をする。

どうしたら、休む生徒が減るのか。

そして一つの答えに辿り着く。そうだ。単位に組み込んでしまおう。

正確に言えば単位ではなく、欠勤日数を二つだが。高校は義務教育ではないし、かといって何もないではやはり休みが増える。この学校では総合の単位も貰うには休んだ回数が10回を超えてはいけないということになっていた。そこそこの進学校で十回も休むやつはあまりいない。というよりか、総合の授業が数が少ないので大抵の人は落とすことなんてない科目だ。

 だけど、ギリギリで逃れるやつもいる。その貴重な十回休みの二回に合唱コンクールを休むとペケ二つを追加したわけだ。

こんなしょうもない理由で全体の平均点を失ってしまうのはあまりに惜しい。別に成績にこだわっているわけでもないが、口パクで乗り切ろうと思えば出来るのだ。だけど、それにもかなりの心理的ハードルがある。休めるなら休みたかったが、配られたプリントの休むと欠勤が付くという言葉を見て、碧は心を決めるしかなかった。


 そんな気持ちで迎えた合唱コンクール当日。

この日、体育館に直接集合の二年生は挨拶も程々に、昨日自分たちで用意したパイプ椅子に座っていた。一番最初の悪運D組はすでに全員が集まっている。D組だけが椅子に座らずに体育館の片隅に集まって譜面を読み直していたり、発声練習をしていた。ピアノと指揮者だけは舞台に上がっていて、お互いの呼吸を高め合っている。

ドレミの音階を適当にポロンポロン鳴らして、音程を確かめ、指揮者が腕を大きく振る。

演奏するのかと思いきや、そうではないらしく、ただ二人は入りを確認しただけで舞台から降りて、集まっているD組の中に混ざっていった。


 「それではD組の皆さんよろしくお願いします」

 司会進行の為のマイクの接続がよろしくなかったために手間取って予定は少しばかり押しているらしい。始まって早々にD組は舞台に整列させられ、指揮者が前に立ち、お辞儀をして、振りなおった。指揮者が腕を大きく広げ、持ち上げると全員が足を肩幅に開く。

右手を一、二と上下に揺らした。

ピアノが鍵盤を軽く弾く。その音の余韻を残しながら伸びやかな前奏が始まった。素人目に見ても、それがピアノを習ったことのあるのが分かる。この準備期間一か月弱で練習しただけではたどり着けない。

まだ、誰も咳払い一つしない。

前奏が長めの曲なのだろう。これではまるでピアノコンクールだ。

これほどまでに上手い人がこの学校にいたのかと感心して先ほどは特に気にも留めていなかった奏者を見た。

志田克樹だ。

いつもは髪をワックスで固めて、遊ばせている茶髪が今日はオールバックに固められている。それで碧は気が付かなかったのだ。この学校一の優秀者はピアノも難なくこなせるらしい。

意外な才だ。

碧の中の記憶では志田克樹は吹奏楽ではなくサッカー部に所属していたはずだ。それも部の中でかなり上手いという噂も。ピアノを弾く人は手を怪我しないように運動をしないと聞いたことがある。となれば志田はこれだけ上手いが習っているわけではなさそうだ。趣味にするにはもったいない。

それに確か彼の芸術選択は碧と同じ美術だったはずだ。これは、ただ単に彼が抽選漏れした可能性もあるが。

始まった歌が蛇足に思えるほどの演奏だ。

しなやかに鍵盤をはじく指は強く、のびのびとしている。

いつもはカジュアルに着崩している制服もオールバックに合わせてかブレザーをきっちり着ているせいかその窮屈さを一変も感じない。

たまに取る、指揮者とのアイコンタクトはシュートを決める前の合図のようだ。その時、碧は志田と目が合ったような気がした。それは本当にただの気のせいで彼は指揮者の方を見ただけだと分かっていた。もう一度志田を見た時、彼は鍵盤から指を離して、その手は膝の上に綺麗に揃えられていた

やはり、彼の指はピアノを弾くには傷が目立ちすぎている。矯正して1.5まで上げている目でも志田が指の先に絆創膏を巻いていたが分かった。


結局、その合唱コンクールを勝ったのはどこのクラスだったか。そうだ。志田克樹のクラス、D組は勝たなかった。あれだけ素晴らしい演奏をしたが、やはり合唱コンクールとは一人でするものではない。その点で言えば、彼の姉、奈々のクラスは群を抜いていたといえる。

彼女のクラスであるA組がしたのはミュージカルだった。合唱でミュージカルを歌うのはどうかというお気持ち程度の意見はあった。だけど、このためにA組はフランス語の歌詞を覚えて来たのだと言ったら、それもどこかへ消えた。

志田と同様に奈々もピアノを弾いた。彼女はどちらかと言えば声が大きく、先頭切って歌う方が似合う。というか、あのダウナー系がこれまた、ぴっちり制服を着て、志田が座ったばかりの椅子を下げ、鍵盤を荒々しく叩きつけるとは誰も想像がつかない。いや、荒々しくは想像出来たか。

彼らの家は相当教育熱心らしい。双子揃ってピアノを習わせる家も今は多くはないだろう。

A組が歌ったのは、レ・ミゼラブル「民衆の歌」だった。どうして、志田が弾いた曲は覚えていないのに、彼女の弾いた曲は覚えているのか。それはミュージカルの印象が強すぎたせいだ。

先のフランス語もその一つだ。

日本語版で歌えばいいものをわざわざフランス語を覚えて来た辺り、勝ちよりもウケを狙っている。きっと、あのおちゃらけが好きな派手好きダウナーが皆を先導したのだ。

奈々の演奏は志田と比べて特別素晴らしいものではなかった。鍵盤が外れてしまうんじゃないかと思うほど力強く叩き、おまけに彼女は椅子から立ち上がって一緒になって歌い始めた。

もちろん声は一番デカい。

聞いている側にも熱狂的なファンがいたらしく、一人立ち上がり、歌いだすと、また一人と立ち上がり、そして半数くらいは立って歌っていたり手拍子を入れたりしていた。

なぜ、フランス語を歌えるのか。それは後になって思い出したがこの学校の第二言語が必修だったせいだろう。頭の使い道が間違っている気がする。

そして、これが大いに教師陣にウケた。

奈々の狙いは当たったわけだ。

審査員として集まっていた教師陣九人中五人がA組に四人がD組に、そしてあとの一人がE組へと票を入れた。この時のE組は悲劇でピアノと指揮者両方が風邪、葬式で居なかったためにピンチヒッターとして志田姉弟が指揮者とピアノで健闘したからだ。奈々の方は真面目にする気がないらしく、なぜか、歌う方ではなく、こちらを向いて指揮を取っていた。それもでたらめに腕を振って、一か所に留まらず、左右あっちこっちに動き回っていた。

憐れなドリームチームに健闘の一票を。というわけだ。

「えー、A組の『民衆の歌』とても良かったです。創意工夫していて、これぞ合唱コンクールの醍醐味というものです」

校長はそんな適当な言葉を述べた。どんな時でも奇をてらうやつが勝つ。そんな世界の縮図を見せつけられ、もちろん、碧のせいとまでは言わなくても自分の音痴が勝利へ0.1%ほど遠ざかったことは確かだ。

しかし、そんな恥よりも碧の心には優雅にピアノを弾く志田を少しだけ知りたいという欲求を抱かせ、放課後の打ち上げをするという企画を立て始めたクラスメイト達を俯瞰していた。


志田克樹のことを知るのは簡単なことだ。その辺にいる人に話しかければ誰も彼もが何かしらの彼についての情報を心よく教えてくれるだろう。ある時は金を貸してもらった。ある時は勉強を教えてもらって赤点を逃れた。道に迷っていた彼を案内した。姉の奈々と仲がいい。

志田克樹は聖人みたいにいい奴だ。

金で売られるどころか金を貸しているくらいだ。それでいて便利な男というイメージがないのだからよほど好かれているのだろう。

だが志田克樹について人にやんわり本人に話がいかないように尋ねてみてもそれ以上のめぼしい返答は返ってこなかった。途中から話題は堂々巡りし、似たようなものになっていったのでそれ以上探りを入れるのは止めた。

話題が巡り、季節も巡り、大した関わりもないまま二年生の一年はあっという間に過ぎていった。その間にまた学年首位をキープした志田克樹は呼ばれた人しか参加出来ない入学式に三年生代表として呼ばれたという話を誰かから聞いて、碧はそれに疲れないかなとどこか他人行儀なことを思った。



青い春がやってきたと感じる瞬間は大抵はその場から一歩引いてみた時だ。大事なことは目に見えないというが、本当にその通りで、春がやって来たと感じるのはクラス替えの発表と共に見る桜だったりする。

山中碧にとってはそれが春の訪れだった。

一年生が無事に入学式を迎える少し前、新三年生はクラス発表の確認をするためだけに学校に呼び出された。春休みで狂った体内時計をその時は必死に合わせ、そのためだけにタンスの中からくしゃくしゃのシャツを引きずり出し、ネクタイは忘れ、校門前を潜った。どこかで午後からにしてくれたらいいのにというぼやきが聞こえてきたが全くその通りだと思う。眠い目を擦りながら、漕いだ自転車は大した距離もないのに心臓がバクバクしていた。

発表は北校舎の二階から大きなクラス分けの紙が張り出される。新三年生はグラウンドに集められ、今からデスゲームが行われても不思議ではない。

去年二年生になった時に二階に張り出されると聞いて、その後の文をよく読まずに北校舎二階の廊下に行ったことを思い出す。あの時は、校舎に入ってから誰もいないことに若干の不安を覚えていたが、朝が早かったこともあり、まだ誰も登校していないのだと勝手に納得して待っていたのだ。外からざわめきが起こった時、自分が集合場所を間違えていたのだと分かり急いで階段を駆け下り、でかでかと張り出された、いや、教師が落とさないように必死にベランダで紙を掴んでいた。

「新しいクラスを確認した人は教室に行ってロッカーの確認を行ってくださーい! ロッカーを確認した人から今日は解散でーす!」

グラウンドでメガホン片手に声を張り上げる教師の一声でどんどん人がまばらになっていく。そのまばらになった時に汗びっしょりの碧はさっと自分のクラスを確認して、今駆け下りて来たばかりの階段をまた登った。


……嫌なことを思い出したな。

だが、そんな思いでも今日で最後だ。なにせ、今の自分はあの志田克樹と同じクラスという立ち位置を手に入れたのだから。

三年C組の三十三番。山中碧に新しく宛がわれた席だ。

そして三年C組十二番。志田克樹の席。

校舎の角に咲くまばらな桜の花びら



山中くん、いつまで立ってんの?」

 山中碧がふと我に返った時、式はもう終了していた。ぼんやりしていて終わったことさえ分からず、自分の周りには誰もいなかった。その場で残っているのは他のクラスを待つ人たちばかりで一人で立っている碧は明らかに浮いていた。志田奈々は不思議そうに碧を見て、言葉を付け足した。

 「教室、行かないの?」

 奈々の隣のクラスメイトはなにしてるの? という風に奈々を見ていた。リボンの色から隣の女の子も同じ三年生だということが分かるが、碧も彼女もお互いに面識がなく、片隅にも残っていない。志田奈々だけが、分かったようにお節介を振りまいていた。

 「えっと、教室行ってなにするんだっけ」

「立ちながら寝てた? この後は点呼してプリント配って終わり」

「ありがとう」

 奈々は「どういたしまして」と軽く会釈をする。


 志田奈々の志田克樹の双子の姉だった。二人はお互いを性転換させたみたいによく似ていた。志田くんの身長は170後半くらいで、奈々も同様だった。女子の中では頭一つ高い彼女はさながらモデルのようですらりとした長い足は履きつぶした上履きでも様に見える。

腰まである長い黒髪とはっきりとしたアイメイクのキツそうな印象とは裏腹に情に厚く、大雑把な姉御肌で、志田克樹同様に好かれていた。

 志田克樹と違う点は少しいい噂が流れていないというところだろう。といっても大半は奈々のことを良く捉えていて、噂程度というだけだ。それも、彼女のことが好きだからといって振られた女が流しているだけと思われているようで、碧もその噂の信頼度はかなり高いと見ている。

 なぜなら、彼女の口から暴言を聞いたことが一度もないからだ。どれだけ面と向かって汚い言葉を吐かれても彼女は一切の動揺を見せず、そんな言葉づかいは止めた方がいいと諭す。そこまで行くと聖人だ。そして志田克樹はいつ彼女に声を掛けられても、購買にパシリに使われたとしても嫌な顔一つしないどころか、おまけすら付けるのだった。また奈々にいじめの相談をしたという生徒は、相談を受けて、主犯と直接話し合って、改心させたという逸話がある。相談者はその話を他の生徒にして、芋づる式に奈々の元へと相談の列をなす。それでも奈々は全てに真剣に乗る正義感の強い人として称えられていた。

 教師からは素行は良いとはいえないとしても成績優秀で、どうしてこの学校に来たのからすら分からないといった話をどこかで聞いたことがある。

 志田克樹はそうした姉を持ちながら、自身の評価も落とさなかった。ムードメーカーで生徒会、サッカー部部長。奈々に比べてやや狭いように思える有効範囲も普通に比べては多い方だ。

 偏差値が平均以上の高校では髪色の派手さは重要ではないらしい。碧の通う高校の生徒手帳にも髪色についての記載はなく、制服の改造と学年の違う色を身に着けることを禁止すうことのみ書かれている。ただ、部活動が盛んでもあるこの学校で、金髪やメッシュなど派手な髪色をしている生徒は帰宅部や、同好会といった既定の緩い部活に所属する生徒のごく一部に限られていた。大体の生徒は黒か、地毛か地毛じゃないか微妙なラインの茶髪だ。

 志田克樹もその一人で、サッカー部は大会の時のみ髪色を戻せばいいのか派手は髪色をいている生徒も多い中で、薄い茶髪だった。色素が薄いと言われたら通りそうなくらいに染めていて、本人曰く、遊び半分で夏休みにドンキで買ったやつで染めたら意外と似合っていて美容室に行ってちゃんと染めてもらったそうだ。その高い自己肯定感ははたしてどこから来るのだろうか。碧からしてみればそれが不思議だ。普通は、似合っているかもと思っても、わざわざ美容室で染め直すまでは至らない。ましてや金欠学生からしてみれば美容室なんて敷居が高い。傷んだ毛先を透かしながら、ちょっと先が傷んでるなんてことは証拠として提出しないだろう。かまってちゃんのような仕草も顔が良く人当たりもいい男がすればそれは様になるのだ。

 


 「俺と付き合ってください」

 片手を差し出して九十度の古典的なお辞儀をするやつなんて今時いるのだろうか。今や、告白の最前線を担っているのはラインを筆頭とする各種SNSだろう。そんな中でのこの学校一とも言える優等生志田克樹はわざわざ誰もこない旧校舎に呼び出して(この呼び出しも誰にもバレないように碧と教室で二人きりになるタイミングを見計らっていた)どこまでも優等生である。

 「僕、男だけど……」

 碧がもっともらしい発言に志田くんは勢いよく顔を上げる。眉を下げれるだけ下げて、捨てられた子犬みたいだ。こんな子犬なら誰だって拾いたいものだけど。

 「分かってる。分かってるけど、俺、山中くんのことずっと好きだったんだよ。今まで誰にも言えなかったけど、俺男が好きで、えっとゲイって言葉知ってるかな」

 去年、社会の授業でさらっと流された性的マイノリティのことがふと頭に過ぎり、碧は慎重に頷いた。志田はほっとして胸を撫でおろす。そして、「気持ち悪いよな」と彼にしては自虐的なことを言った。

 陰りの見える笑顔に誰も知らない志田の一面を見たような背徳感が詰まっている。コンプレックスなどないような、月の存在すら知らないような男すら悩ませるマイノリティの存在は根強いものだ。

 底抜けに明るい誰の中に居ても輝いていると思っていた男がここまで自分のことを否定するとは考えても見なかった。それほど志田克樹は笑っている印象が強い。

 「僕の勘違いじゃなければ、志田くんと僕はあまり会話したことないと思うんだけど……」

 控えめな言葉に、志田は首を強く振る。

 「うん。正直言ってあまりないと思う。俺たち同じクラスになったのも初めてだし、山中くんってどちらかといえば一人でいるのが好きじゃん。俺、大体いつも周りに人がいるし、それで話しかけて、からかわれたりしたら嫌かなって」

 あまりにも腰が低すぎてびっくりする。人のことを第一に考えている男だと常々感じていたがここまでとは。だけど、ここまで奥手で低いと見方によっては卑屈に見えてくる。

 確かに、碧は大勢の人に話しかけられたりするのは好きではない。教室の隅で本を読んでいる方が好きだし、放課後に居残りをしてまで友達と話したりするのも進んでしたいとは思わない。だからいって全く嫌だと言われた、微妙なところだ。誘われた嬉しいし、話かけられたらもっと嬉しい。そういう意味では志田から話しかけられるのは迷惑だとも嫌だとも思わない。

 「志田くん、話し面白いし話しかけてもらえると嬉しいよ」

「そう? 嬉しいな。今度から教室でも席の近くに行って話していい?」

「うん。いいよ」

 「……いいの!? マジで? 俺、キモいって言われて二度と話せないの覚悟して言ったのに」

「うん。ねえ、本当に僕のこと好きなの? 誰かに罰ゲームでやらされてるとかじゃなくて」

「そんなこと冗談でもしないよ。相手に失礼じゃん。俺は言ったこと全部本当。山中くんが好きなのも、ゲイなのも」

「信じていいの?」

「うん。二言はない」

 志田のまっすぐすぎる瞳に見つめられるとその輝きでこちらが焼けてしまいそうになる。

 もう一度手を伸ばした。

 碧はたっぷりと間を置いてから口を開いた。旧校舎の塗装の禿げた天井には趣すら感じる。蛍光灯のすき間に張った蜘蛛の居住地は、誰ものその住処を奪うことがないせいで、だらりと垂れ下がり、数多の小さな虫たちが犠牲となっていた。そしてもう一度志田の瞳を見つめる。志田のまっすぐな瞳は揺らぐことなくこちらを見ている。

 「……僕さあ、誰にも言ったことないこと志田くんを信じていっていいかな」

「うん。もちろん」

「僕ね、男が好きなんだ。それに志田くんのこと一目惚れだった」

 志田の両目が大きく開かれる。

 「だったってなに?」

「だって、今僕告白されたんだよ? 過去形になるでしょ」

 碧が差し出された右手を握り返す。彼の手のひらはじんわりと湿っていた。志田はまだ言葉の意味が頭まで到達していない。よもや告白に成功するとは夢にもおもっていなかったみたいだ。

 左手で右手を包み込み、そこでようやく彼の明晰な頭を告白成功という答えに辿りついた。

 「俺たち今から恋人ってこと?」

「そうだよ」

「いいの? 俺のことからかってるとかじゃないよな? 期待していいんだよな?」

「騙す気にない人を騙すほど卑怯なやつに見えるんだ」

 「はあー……」

 志田は手を碧と手を繋いだまましゃがみ込んだ。引っ張られるように碧もしゃがみ込む。志田は嬉しさのあまりに泣いていた。顔に指す前髪の影は上手く隠せているようで、同じ目線に立っている碧からは丸見えだった。

 「でも、他の人に付き合ってること言って欲しくないな」

 そういうと、志田は「うん。浮かれて誰かに自慢するとかしない」と返した。

 「他には? これはして欲しくないとか、あ、でも奈々には言ってもいいかな。あいつ勧がいいから、隠し事出来なくて」

 「いいよ」

 



 次の日、志田奈々は旧校舎に碧を呼び出した。それも志田と全く同じ方法で。双子といってもここまで似るものなのか? 疑問に感じながらも碧は奈々の誘いに乗った。

 場所までは流石に被りはしなくて内心ほっとしている。奈々が呼び出したのは三階の階段から一番遠い教室だ。旧校舎には階段が一つしかなく、誰かが遊び半分で来ることを考えてなのか、ここまで用心深くしなくてもと思いながら軋む階段を昇った。

 立て付けの悪い扉を開けると、奈々は窓際の席でスマホを弄っていた。

 碧が何かを言う前に彼女はこちらに気付いて、奈々の隣の席を指差した。ここに座れということらしい。大人しく指定された席に座ると、奈々はスマホの画面を下にして置いた。

 二人は向かい合った。碧が置かれたスマホの方を見ているのに気が付いて「変なことは考えてない」と言った。彼女の変なことは昨日志田が危惧していた遊び半分のことだろう。どうやらこの双子には碧が警戒心の強い人に見えるようだ。

 「昨日克樹から聞いたんだけど、二人が付き合ってるって」

「そうだよ」

 軽く頷くと、奈々は続けた。

「克樹はこのこと誰にも言わないって?」

「僕が言わないでって頼んだ。変な目を向けられるの嫌だから」

「そうか。あたしは知っててよかったわけ?」

「志田くんが信頼してるならいいでしょ。家族だし、拗れるほうが嫌かなって」

「ふーん。以外と考えてるんだ」

 奈々は腕を組んで背をのけぞらせた。後ろ脚と奈々の足だけで支えれる椅子が、ミシッと音を立てる。

「今日呼んだのは山中くんに提案したくて来てもらったんだ。率直に言う。あたしと付き合ってくれ」

「どういうこと?」

「疑問に思うだろう? 説明するから聞いてほしい。まず、二人が付き合うことにあたしは祝福してる。次に山中くんには関係なくて申し訳ないんだけど、家の事情が少々複雑であたしと付き合ってることにしてほいんだよね。もちろん、二人は好きな時にデートなり、なんなりすればいいしあたしにそれを報告しなくてもいい。ただ体裁的な問題であたしと山中くんが付き合っているように見せかけたい」

「その事情は聞かないほうがいいやつかな」

「別に聞いても問題ないとは思うけど、あたしというより克樹のことだから本人に任せたい。もう一度言うけど、あたしは二人が付き合うことに関してはなにもいうことはない。むしろこう考えて欲しい。あたしと付き合う振りをしてくれたら、二人に何か不都合なことがあった時にあたしが変わりに何かを被る」

 奈々は椅子から立ち上がり、真正面から碧を見据えた。高身長の奈々は碧とほとんど同じ視線だった。

 彼女の言う通りにするのか否か。

 碧からしてみれば特に不都合なことはないだろう。しかし、好きな人の姉と付き合う振りをするというのもおかしな話だ。しかもそれが志田くんのためになるなんて。だけど、これは俗にいう浮気というものになるのだろうか。話の流れからして奈々が志田くんに了承を取ってこの話をしに来ているとも思えない。

 しばらく考えていると奈々は碧の心を覗いたように言った。

「今日のことは言ってない。言うのもなんか変だし。全部あたしの独断だから、それで克樹に責められたらあたしが土下座でもなんでもする。山中くんはあたしとそういう振りだけしてくれたらいいの」

 彼女が一歩にじり寄る。あと半歩近づけばキスが出来そうな距離だ。奈々の薄い唇からも漏れる吐息が碧の顔に掛かる。リップグロスのぬらぬらとした唇が生々しい。いかにも女性、整った顔立ちがこれだけ間直にあるというのに碧はむしろ不快に感じていた。

 「分かった。それでいいからとにかく顔を退けてくれない? 僕、女の人ってそんなに好きじゃないんだよね」

「贅沢なやつ。あたしにこれだけ近づかれてドキドキしないどころか嫌な顔するなんて。でもありがとう」

「これで話は終わり? 具体的にどうするとか、そういうのは無し?」

「特に考えてなかったなあ。山中くんがすんなり話を呑んでくれて、それからまあ、ああ!そうだ! ラインの交換だけお願いするわ。なにかあればまたラインするってことで」

 机に伏せられたスマホの手に取る。画面を何度かスワイプして、QRコードを表示させて碧に差し出した。急いでラインの画面を出すが、最後にラインを交換したのはいつだったか。どうやって読み取り画面まで持っていくのか分からず、もだもだしていると奈々は碧のスマホを横から覗きこんだ。

 「何してんの?」

「いや、どうやってカメラだすんだっけ」

「貸してみ?」

 碧の手からスマホをするりと抜き取り、長い指で画面を撫でた。右手に碧のスマホ、左手に自分のスマホの二刀流。碧のカメラでQRコードを読み取り、友だち追加された確認まで済ませて、スマホを返す。

 奈々とのチャット欄には確認のためのスタンプが一つ送られている。サメがにっこり微笑んでいるだけのスタンプは日常のどの場面で使うのか皆目見当もつかない。



 三年生が始まってから一週間が経った。三年目ともなると積極的に友達グループを作ろうという気配、争いもなく淡々と過ぎ去る日々だ。教室内は、仲間内で会話をする人たちと、一人自分の席で世界に浸っている人と、他クラスに出張に行っている人の三すくみで構成されている。碧はその中で自分の席で世界に浸るタイプの人間だった。そもそもの友達が少なく、同じクラスメイトでも挨拶をされたら返すくらいのいるかいないか分からないという存在だった。かといって、嫌われているわけでもなく、ただ一人が好きなやつという認識である。

 その生活はここ一週間でガラリと変わった。

 なぜなら、朝自分の席で本を読む碧にあの優等生志田克樹が挨拶をしてくるからだ。

 今まで挨拶をしなかった人に挨拶をするというのは、その人がいじめられている可能性が高い。しかし志田克樹にそんなことはあり得ないのでクラスメイトは突然教室の隅で本を読む影の薄い男に挨拶をした理由を推測し始める。

 様々な噂が飛び交い、その全てに志田くんはのらりくらりとかわす。どれも厭味ったらしい言い方なんかじゃない。爽やかな笑みと、頬を掻きながら否定する様はまるで恥ずかしいことを指摘されたように見える。

 碧はその様子をすき間から覗いては冷や冷やしていた。その顔は関係性を暴露しているようなものじゃないのか? だが、彼の友人は彼と同じく誰かを疑うことを知らない人のようで話題は昨日見たサッカー番組になめらかに移っていった。

 

 休憩時間になると志田くんは席にそろそろと近づいてきた。

 「元気してる?」

 碧は次の授業のための準備をしながら「元気だよ」と答える。

 志田くんは満足そうに頷いてそれなら良かったと言って、また自分のグループに戻っていく。とてつもなく会話が下手だ。そして碧も会話が下手くそだ。下手と下手。奥手と奥手のコンビネーションは見事にマッチングしている。

 スマホにはタイミングよく奈々から「元気してる?」と聞いたことのあるような会話が再放送された。拙いフリック入力で「元気だよ」と返す。既読はすぐにつく。数分画面を見つめ続けた結果、奈々の返信はそれで途切れた。

 いつも、



 「山中くんさあ、ベターハーフって聞いたことある?」

 「知ってるけど……それってわざわざ呼び出してまで言うことかな?」

 碧が呼び出されたのは、あの旧校舎だった。六限が終わると同時に入った奈々からも連絡は、有無を言わせないもので、来なければ志田くんにこの関係をばらすと書かれていた。最初にこちらの関係にはなにも言わないと言ってたのはなんだったのか。と思いながらも奈々なら本当にバラシかねないのでしょうがなく、この後に行く予定だった本屋の予定を潰してでも行くことになった。

 そして、呼び出された旧校舎の教室で奈々は黒板に絵を描いて待っていた。そして碧が教室に入り扉を閉めると同時そう言った。

 「克樹と付き合い始めて何か月だったっけ」

「三か月かな」

「てことはあたしと付き合い始めても三か月ということになるね」

「そうだね」

 黒板消しで、今まで描いていた絵を全て消す。わずかに残った線の上から、傘を書いて奈々と碧の名前を書く。

 その横に「祝 三か月!」と丸文字を添える。

 「今日、あたしが告白されてるの見たよね」

「そうだね」

 あれは、昼休憩の時だった。いつもの場所、誰もいないこの旧校舎で昼ごはんを取って、静かに本でも読もうかと思っていた。別に志田くんを避けているわけではないけど、志田くんが友達と教室で机をくっつけ合ってお弁当を食べているのを見ていると、なんだかそこに自分から混じれないことに申し訳なさを感じて、それから志田くんがクラスで食べている時は旧校舎に行くことにしていた。旧校舎はそこに行くまでにかなりの手間がかかるためにあまり好まれた場所ではなかった。この学校は屋上の開放と、広場が二つある。自由な校風が売りらしい高校は、生徒が校庭でレジャーシートを広げてピクニックをしようとも咎められることはない。最初こそ、四月は面白がった一年生が旧校舎で集まるが、その目新しさも三か月経てば薄れてしまう。

そんな中で碧は三年連続出入りしているコアなファンの内の一人だ。

旧校舎に行くには広場を通らなくてはいけない。教室がある南校舎から広場を通って、北校舎に入り、日当たりの悪い廊下を突き当りまで進んだ先にある、南京錠の少し外れた扉を通る必要があった。

その日当たりの悪い廊下に奈々が居たのだ。いや正確には、奈々と誰か知らない男が。

 最初絡まれているのかと思った。彼女はいい意味で有名だから、また誰かの反感を買って呼び出されているのかと思った。だからといって、明らかに引っ込み思案の自分が突然ヒーローのように都合よく現れて問題を解決するとは可能性としても考えられもしない。そんなことは柄ではないがかといって完全にその場を見なかったことにして来た道を戻ることも出来ない。

 なにより、そんなことをして万が一志田くんにバレた時はこの関係は終わる。

 そして、今の碧は彼の知らないところで取引が行われて付き合っていることになっている。彼女を見捨てるのはあまりにダサすぎる。

低血糖の頭はどうしたら穏便にこの場を去れるのかを重視して回っている。結果、少しだけ様子を見て、ダメそうなら教師を呼びに戻ろうと思った。それがどう頑張っても最善だ。と言い聞かせることにしたのだ。本音を言うと、関わりたくない。

そして大縄飛びのタイミングを計るみたいに曲がり角から様子を見ているうちに予想していたことは起こっていないことが分かった。

男は直角九十度を優に通り越して、前屈みたいにお辞儀をした。

「付き合ってください」の発声の良さからこの男は運動部なのだろう。あまりにも声が大きいせいで誰もいない湿った廊下では、やまびこみたいに何十にも重なった。

こんなことになるなら早く引き返しておくべきだった。奈々には好意はないが、利害関係はある。もし、碧がここから一歩でも動いて、覗き見していたことがばれたら印象が悪い。最悪、奈々との関係も終わってしまう。二人の力関係は対等に見えてそうではないからだ。

 そんな運動部渾身の告白に奈々はスマホを弄っていた。二人の間には境界線があって、その淡白さがこの湿度の高い廊下の体感温度を下げている。少しの動揺も好意も見せない奈々は隙が無く、呼び出されたことに面倒くさそうだと体全身で表している。貴重な休み時間を無意味な告白に使われたことにいら立っていた。

 「悪いけど、あたし付き合ってる人いるんだ」

 短くも一番効果的な言葉だろう。そう言われてしまえば、何も誰も言えないのではないか? あの男誠実そうに見えるし、こんなところに呼び出しているのだから誰かに知られたい、興味を集めたいがために派手で美人な奈々に告白しているわけじゃなさそうだ。

 男は、折り曲げた体を起こして、「そうですか」と言った。

 奈々はその時初めてスマホから目を離して男の顔を見て、うんと言った。男はそれで納得したみたいだ。黙って振り返り、振られたとは思えない綺麗なフォームで来た道を戻っていった。

清々しい後ろ姿だ。

 それどころかたった今振られた男は碧と目が合ったにも拘わらず、にこっと爽やかに微笑んで見せた。

 どうか、この男が奈々以外の良い人を見つけることを勝手に願った。そうでなければ、慰めとして多くの人にご飯を奢ってもらえることを。

そして、碧は結局包んだ弁当を持ったまま来た道を戻った。押した時間の中で一人、中庭のベンチに座り、冷えた弁当を半分だけ空いた腹に収めた。


 「気付いてたんだ」

 半分残った弁当と志田くん購買で買って食べなかったからといってくれたミニドーナツを中途半端な胃にちまちま放り込んでいく。五個で百円の格安ドーナツは表面の粉砂糖はパサついた生地に全部染み込んでいてベタベタする。志田くんはなにかと理由を付けて、物をくれる。今日は余ったドーナツを理由に席の横に立って、彼の選択科目である古典の小テストがやばいという話をしていた。

 奈々もそれと同じように、物こそないが呼び出してドーナツを摘む横で腕を組んで立っていた。

「まあね。それであたしが付き合ってる人がいるって言ってどう思った?」

「どうって、別に。だって本当に付き合ってるわけじゃないし。僕、志田さんのこと好きなわけじゃないからショックだとかそういうことは全く思わないよ」

「なら、なんであの時声掛けなかったの? 出てきてくれたらよかったのに」

「知っている人が告白振ってるの見て出ていけるほど強くない」

「でも、克樹が女の子に告白されてたら逃げちゃ駄目だよ。あんたはなんかそういう時に逃げそうだから」

 嫌な先入観だ。

 「志田さんは心配性だし、僕は別に志田くんと付き合ってることがみんなにバレても気にしないよ。ただ、志田くんの為にならないっていうから従ってるだけ。そうでしょ?」

「そうだね。あんたは損得で動くから」

「嫌な言い方しないでよ、志田さんだってその方が都合がいいからそうしてるだけなのに」

 「あたしら、二人とも悪いやつだね。三角関係ってやつ」

「でも、それなら志田くんは幸せなんでしょ? 彼が傷つかないならそれでいいよ。たとえ、僕たちのどっちかが酷い目にあったとしても。それは自業自得だ」

「そうだ。いいこと言うね。呼び出して説教した甲斐があった」

 奈々は立っているのが辛くなり、机を引き寄せて、その上に座った。椅子の方が彼女の近くにあった。それでも座ることを目的とした椅子に座らない奈々はこの場に最も相応しい。



山名碧は綺麗に整頓された面白みのない自分の部屋に入ると直ぐにネクタイを緩め、皺ひとつないシーツの上に大の字にダイブした。年季の入ったスプリングがギシギシと絶望の声を出しても、気にすることなく足をバタバタさせ、憂鬱な明日のことを考え枕に顔を埋めながら「あーーー」と意味のない呻き声を上げた。

──告白された。

それは今年になってもう二回目のことだった。それ自体は大変喜ばしいことだと思う。誰だって女の子から告白されたら嬉しいものだろう。しかし、暴れているのは好きでもない女の子から告白されたという簡単なことではなかった。

碧はゲイだった。

そのことに特に悩んでもいないし、マイナスなことは一切感じていないけど女の子とは付き合えないことは出来ない。このことを両親には伝えていない。両親はなによりも正しいことを信じているからだ。よって、一人息子の自分がゲイだなんて知った日には家じゅうに監視カメラを付け始まるだろう。

両親は今は家に居ない。だからこそ自分さえ黙っていれば済む話だ。このバレるという不安すら感じたことがない。

同性が好きだからと言っても悲しいとは思ったことはない。

ただ、困るのは告白された時だけだ。自分のことをモテる容姿をしていると感じたことはない。整っている顔をしているだとも。眼鏡は度が強く、分厚いし、くせっ毛の髪はイケてるとは言えない。今の流行はマッシュだ。それもストレートの。顔だって二重でぱっちりしているだけで、それ以外の特別抜きんでた特徴はない。モブ顔だと思う。

それでもなぜか三年生になってまだ二週間だと言うのに二回も告白をされるなんて考えてもみなかった。

碧は呼びされた場所に行って、丁寧な断りを入れた。あまり話すことが得意ではない自分からしてみればどもることなくごめんなさいを言えただけでも表彰ものだろう。しかし、今回の女の子は一味違った。二年生のマドンナ的存在で学園祭のコンテストは堂々の一位。実際読モをしているらしい子だった。そんな彼女に告白して玉砕する男は沢山いて、土下座しても付き合いたい男が山ほどいる。そんな子の告白を碧はごめんなさいの一言で片づけたのだ。女の子はなんでと理由を尋ねたが口下手すぎてごめんなさいしか言えない。ただ頭を下げ続けていると女の子は泣いてしまった。

碧はそんな子を置いて走って逃げかえって、今に至る。

「あー、僕明日からどうなるんだろ」

泣きたいのは同じだった。なにせ学園のマドンナを泣かせた上に逃げ帰ったのだ。酷い扱いを受けることは確定している。

眼鏡をサイドテーブルに置く。ゆっくりと瞼を降ろし、碧は制服も着替えずに眠った。



憂鬱な朝一日目。両親は先週から仕事でいない。なにをしているのか詳しくは碧も知らなかったが海外を飛び回っていて、家政婦の人が週に数回来てくれる。朝だけは自分で作ることになっていて、今日は昨日のこともあって食欲が湧かず鉄分の飲むヨーグルトを飲みながら家を出た。

「行ってきます」

返事はない。だけど昔から行ってきますとただいまは欠かしたことはない。祈りと同じように毎日どんな時でも自然と口から発せられるものだ。扉を閉めると自動的に鍵がしまった。こういうセキュリティ面で心配することがないのは一人で暮らしているときにありがたいと感じる。なにせ忘れっぽくて、それだけは昔からどんなに気を付けていても治らなかったから。肩から少しずれてしまったリュックを背負いなおし、いつも通りのスピードで歩き出した。



「山中くんおはよー」

「お、おはよう」

靴箱から学校生活は始まっていると言ってもいいだろう。校門をくぐった瞬間からというやつらもいるが碧はそうは思わなかった。校門からというやつらは大体友達が沢山いて、挨拶するべき人が多いやつらばかりだからだ。

しかし、靴箱に行けば友達と言えるかは分からない同級生たちが、仲間を見つけたとばかりによってきて挨拶をする。時には、教室に入る前の秘密のやりとりだって行われている。

顔を覚えるのはあまり得意ではない。高校は広いし、三年目と言ってもまだまだ知らない人は沢山いる。クラス替えをしたばかりでこの女子のことはよく分からない。まさか、昨日の今日で朝から女の子に話しかけられるとは考えても見なかった。

ぎこちない挨拶に気を悪くしてしまったのだろうか。少し、女子の繊細さに対してトラウマが形成され始めていた。しかし、女子は自分の上履きに履き替えるとさっさと階段を上がっていった。

「碧―昨日は凄かったんだって? 紗香が言いふらしてたぞ」

「あはは」

「よっ! 女泣かせ」

「そんなんじゃないよ」

上履きに履き替えるだけでもこれだ。すでに同学年、それとあの振った女子、紗香と呼ばれる子の学年でも尾ひれがついて拡散されていることだろう。そう考えると登校は楽だった。ここに来るまでは誰にも話しかけられなかったのだから。

碧は重くなった足を引きずるようにして階段を上った。



3年D組は自分の新しいクラスだ。数日前の自分は新しいクラスで、ただ目立たず海藻のようにゆらゆらと平々凡々にこれからの残り少ない学校生活を送り、問題も起こさず緩やかに誰の記憶にも残らない卒業生として生きていくことを切なる願いとしていた。自分が平穏ならばそれでいい。どうせ、大学に進学さえしてしまえば誰も女泣かせの山中碧のことなど忘れているだろう。

せめてもの救いは山中という苗字だろうか。名前順に並べられた席は扉のすぐ横、一番後ろの席で解放されているクラスの扉を忍び足でぬるっと入り音も立てずに座ることさえ出来れば気付かれることはない。そして、話しかけないで下さいというアピールの本さえ広げてしまえば大抵の人は物静かな人間の読書を邪魔してまで恋愛話を切り出そうなんてことは考えない。なぜだか、読書のことを崇高なものだと思っている人が一定数いるからだ。これがスマホで動画を見ているのなら無遠慮な同級生は話しかけてきたはずだ。しかし、いかにもな、難しそうな本ならそっとしておいてもらえる。碧はそのためにほとんど使われていない父の書斎へと入って興味のない哲学書を拝借してきた。

本のすき間から登校してきたクラスの人達がこちらを見て、こそこそ言っているのが分かった。だからといって睨み返したり、必要以上に見つめたりもしない。まるで今読んでいる箇所が本の一番上で、そこに視線がいっているだけという感じを演出していなければいけないのだ。

「昨日、休んでてさ山中くんなんかあったの?」

「それがさ、あの紗香ってういうなんだっけ学祭のミスコン一位の子に告白されて断って泣かせたんだって」

「へーそうなんだ」

「春休みの宿題って提出いつだっけ」

「明後日だよ」

「嘘!? なあ、今後飯奢るから見せてくんね?」

「デザートもつけろよな」

「分かった。分かった交渉成立だ」

時間が経てば経つほど声は大きく、クラスメイトの会話には当たり障りのないものが増えていく。

とりあえず大ごとにはなっていないようで安心した。だがまだ完全に気を抜くのは早い。この調子で必要以上に会話をせずに乗り切ることさえ出来れば今日が終わるころには年下のマドンナを振ったことなんてどうでもいい話題の一つになっているはずだ。

碧はほっと胸を撫でおろし、一つも理解出来ない哲学書を閉じて一限の準備をすることにした。リュックから数学の教科書とノート、提出する問題集を出して、机の端に積み重ねる。ペンケースを取り出そうと、リュックの口をガバット広げて中を覗いたが、暗いリュックの中は新しい教科書しか見えない。どうやら、底の方で他の教科書の下敷きになっているらしい。今日は、ロッカーに教科書を早めに置いておこうと入るだけ入れてきたので、手を入れるすき間もない。

面倒くさいなと思いながらも一度、教科書の全部出すことになった。すでに出してある数学の教科書の上に、どんどん教科書を積み重ねていく。大きさの違う教科書を関係なく積んでいったのでグラグラと揺れる。まるで安定感のないピサの斜塔だ。脳内に人の重みで傾いて崩れるピサの斜塔が思い起こされた。

横の余ったスペースに萎んだリュックを置いてペンケースを取り出そうとした。

その時、無理に積み上げた教科書たちがバタバタと音を立てて床に落下した。

「あ……」

ミスった。

これだけ大きな音を立てて教科書を落としたのだから普段の自分なら赤面ものだろう。えへへと曖昧な笑みを浮かべながら教科書を一冊一冊拾っているはずだ。普段ならば。

しかし、今日だけは事情が少し悪かった。今日だけは、勘弁してくれよと思った。数分前のピサの斜塔を思い浮かべていたくだらない自分のことを呪った。

「山名―なにやってんだよー」

「え、えへへ。ごめんごめん」

恥ずかしい。たったこれだけでまた教室内は碧が紗香を振った話がやや誇張して浮上する。

教科書を拾いながら、どうしてこんなことになったんだろう。昨日の何が、どこのどの発言は良くなかったのか。誠実に伝えたはずだったのに。あれでダメならなんて言えばよかったの。そんな良くない考えばかりが浮かんでは消えていく。

涙で視界がぼやける。

ああ、僕泣いてるんだ。

イジメられているわけでも、特別辛いことがあったわけでもないのに。泣いてるんだ。なんて女々しいんだろう。

「朝から盛大にやったね」

その時、横から大きく骨ばった腕が伸びてきて、誰かが現代文の教科書を拾い上げた。

碧はハッとして顔を上げた。顔に掛かった髪の毛を耳に掛ける風に装って涙を拭い、親切で世間知らずの顔を見た。

──志田克樹。

成績優秀で、毎年入学式の生徒代表スピーチをしている秀才。おまけにスポーツも万能で、サッカー部の部長もしている。やや明るい茶髪をいつも「これ、地毛なんで」と乗り切り、校則ギリギリでおしゃれを楽しんでいる。自分からは最も遠く話しかけられても遠慮する正真正銘陽キャ勝ち組。おまけに双子の姉がいて、弟属性。碧とは比にならないくらいにモテる。

そんな志田克樹が今、自分の去年から使って、少し黒ずんでいる現代文の表紙を眺めているのだ。

「あ、あの拾ってくれてありがとう……」

でも、早く教科書を返して欲しいとは言えない。

「教科書、去年からずっと使ってるのに綺麗だね。俺のはさ、もうなんか表紙駄目だわ」

「そう」

「こういう物持ちの良さそうな人がモテるのって良いよな。朝から災難だね。俺もこういう人なら大切にされたいって思っちゃう」

志田はこちらが返事もしていないのにずっとこの時を待っていたとばかりに話しかけてくる。

災難だと思うなら、一刻も早くその教科書をこちらに渡してくれよ。内心悪態を付きながらも与えられた親切を無下には出来ない。今、声を荒げてもめ事、彼の瞳を曇らせることがあれば、紗香の比でないくらいに面倒なことになるのは火を見るよりも明らかだった。

「そう……君みたいなモテる人が大切にされたいって思うことあるんだ。普通は大切にする方だと思うけど」

嫌味のつもりでそう返すと、彼はニヤッと笑った。片方の口角を少し上げただけなのに、対照的な顔はちっとも嫌な感じはしない。むしろ、普段は澄ましていて、こんな笑い方をするやつではないために、珍しい顔はなにか特別な感じがする。

この顔に騙されてきた女の子は山ほどいるんだろうな。彼がプレイボーイという話は聞いたことはないが、付き合う人がそこそこいるのに誰も彼も長くは続いていないという噂だった。だが、志田の良いところは、それだけの人がいるのに彼の悪評を一度も耳にしたことがないことだ。

「へー言うじゃん、碧君。そういうガツガツ言える子俺は好感高い」

「今、僕の好感を上げても何の点数稼ぎにしかないらないよ」

 碧の自虐に志田はまるで自分が言われたかのように顔をクシャリとさせた。碧はそれを見て、なんだか泣きそうな顔に見えて少しの罪悪感が湧いたが、志田はそう思った数秒後には元の爽やかな笑顔に戻っていて、教科書を手渡した。

 お礼を言う間もなく、志田は立ち上がった。

「克樹―なにしてんのよ。転んだ?」

志田の声をそのまま高くしたような声が廊下から聞こえる。碧は立ち上がるタイミングを完全に逃してしまい、ワックスがけのされたまだつやの残る床に跪いたまま、声の方を見た。

そこには、志田の双子の姉である志田奈々が腰に手を立てて、彼とそっくりな顔でニヒルな笑顔を浮かべて仁王立ちしていた。まるで、部下の失態を笑う女王様だ。

事実、志田は姉の言うことにあまり強く反発しないみたいで、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。おそらくそれは志田奈々の耳にも届いているだろう。その証拠に、彼女は眉を少しだけ上げた。

腰までのストレートの黒髪が余計に彼女を女王様然とさせている。碧はこの女王様のことが志田克樹よりも苦手だった。成績優秀でスポーツ万能、人の悪口を言っているところを見たことがない志田と違い、姉の奈々はストレートに言えば不良の括りに入るだろう。

寝坊、遅刻、気に入らない先生には容赦なく口答えする。成績は悪くはないようだが、遅刻、寝坊の常習で去年は留年スレスレだったと聞く。正直、家で彼らが仲良く談笑しているところは想像がつかない。

人当たりはいいのだが、なにか不都合なことがあればズバズバ言うのであまり関わりたくない人種だった。

 機会の逃しながらも姉弟で喧嘩がヒートアップする前に退散したい。なにせ、今彼らは自分を間に挟んで会話をしているのだ。これでは、その内どっちのことが正しいと思う? と言われかねない。そうなれば、自分は迷うことなく姉の奈々が正しいと言ってしまうし、それではクラスメイトである志田の反感を買ってしまう。故にどうにかしてこの場を立ち去りたい。

「げっ……奈々なんでいんだよ。いつもは寝坊してくるのに」

「なにそれ、わたしだって卒業が掛かってたら寝坊せずに登校くらいするわよ」

「はーいっそ留年すりゃよかったのに」

「そりゃあ残念だったね。わたしは賢いからちゃんと休んだ授業を把握してるの。真面目すぎるアンタがいつか過労で倒れるのが楽しみだわ」

「三年になって早々ご苦労様」

志田は深くため息を吐くと、それで満足したのか会話を切り上げて、自分の席へと戻ろうとした。この絶好のタイミングを逃すものかと。碧もその空間から離脱しようと腰を浮かせ、立ち上がろうとしたときだった。

「それで、あんたはそんな入り口で何してたわけ?」

完全に奈々から背中を向けていた志田がびくりと背中を揺らして反応した。

「山中くんのことイジメようとしてたの?」

碧はまさかここで自分の名前が挙がるとは思っていなかった。というか、奈々が自分の名前を憶えていること自体が驚きで、思わず「えっ!?」と声を出してしまう。

口を塞ぐがもう遅い。

しかし、奈々は完全に自分の方を向いて、眉を上げて笑っていた。

いまだに立ち上がれないままにいる自分にしゃがみ込んで、肩に手を置いて抱き寄せられれた。突然のことで、碧は態勢を崩して尻もちをついた。

 尾てい骨が固い床に当たったが、それよりも気になったのは奈々の艶のある髪の毛から香るレモンの匂いだった。香水か、スタイリング剤かなんなのかは分からないけれど、女の子は皆甘い匂いがすると思っていた碧からしてみればそれは衝撃的なことだった。

 だけどふと、そう思っているのは女の子だからとかじゃないかもしれない。先ほど顔が触れる位置にいた志田が甘ったるい香水をつけていたから、双子である奈々の新しい情報に頭が追い付いていないのかも知れなかった。

 しばらく放心状態で、多分口のだらしなくポカンとさせていただろう。再び現実に戻って来たときには目の前に心配そうにしている奈々の顔があった。

「大丈夫か? 克樹になにか嫌なこと言われたらあたしに言いつけに来いよ。あと、それ以外でも」

顔のまえで左右に手を振り、こちらの反応を窺っている。

「なんだよ! 俺は山中の教科書拾っただけだって。なんにもしてねーよ」

「本当に? 山中のこと聞いて弱み握ったとかじゃなくて?」

「そうだよ! 山中からもなにかこいつに言ってくれ」

今や教室と廊下は二人のヒートアップした喧嘩を見守る姿勢だ。続々と登校してくるクラスメイトが、奈々が片方の扉を占拠しているせいか入ることが出来ず、そして双子の喧嘩を面白がって見ている。

 皆が碧の発言を待っていた。

碧が恐れたものが来てしまったのだ。志田に意見を求められること。しかし救いはどちらかを肯定することじゃないことだろう。碧はたった一言「志田くんに教科書を拾ってもらっていた」というだけでいいのだ。たったそれだけで、この会話はあっけなく終了する。

 だけど、山中碧が。余計な一言を言って紗香を泣かせた碧がその余計な一言をこの緊張した場面で口を滑らさずに済むはずがなかった。

「あ、志田くんには教科書拾ってもらって、それで綺麗だねって話を……」

あーーー。馬鹿野郎。どうしてお前はいつもそう言わなくてもいい思い出を振り返るんだ。

 教室、廊下がその言葉を聞いてどっと沸く。

 ざわつく観衆。言葉を失う奈々。赤面する志田克樹。そして……真っ青を通り越して白い山中碧。

 「はあ!? あんた、え!?」

「違う! 馬鹿! 教科書が綺麗だねって言ったんだよ!」

志田の反論に皆はゴシップを失い萎んでいった。ふーん、なんだそっか。つまんねー。とまた元の会話に戻っていく。

一方奈々の方はその衝撃発言から戻ってこれないようで、碧の肩を力強く握りしめたままだ。

「もういいだろ。お前自分の教室に戻れよ」

志田は碧から奈々を引きはがした。志田が碧の腕を引く。志田の熱い体温が薄いシャツ越しに伝わってきて、彼が握った部分だけが熱を持っている。握られた時の強さも、きちんと鍛えられている握力が伝わってきて、不思議と安心感が湧く。さっきまで奈々に肩を掴まれていたが、志田の強さはそれとは比にならないくらいだ。双子でも根本的に骨格から違うことがはっきりと分かる。

 碧は、たったそれだけの一瞬のことだったのに、さっきの余計な一言よりも恥ずかしくなった。

 顔が熱い。

耳と首が火照っている。違う。これは恥ずかしいんじゃない。

 (僕、志田に触れられて嬉しいんだ)

 分かっていた。これは人が恋をした瞬間だ。



 ところで、その後の碧は散々だった。

 まず、数学の時間に当てられて声が裏返った。それもそのはずだ。その直前まで碧は自分の前方に先ほど騒動などなにもなかったという風に毅然とした態度で授業を受けている志田のことを見つめていたのだから。

 先生もその心ここにあらずという碧を見て、当てたのだ。もちろん、問題を解いているはずもなくおまけに緊張感もない。志田を含むクラスメイトから失笑を頂き、解答は他の人に移った。

 碧はパタパタと顔を仰いで、生ぬるい風を送るが熱は冷めず、恥ずかしさは消え去って行かない。ノートには先ほど自分が答えられなかった問題の答えがミミズの走り書きで写されていて、それが二なのか三なのか自分でもよく分からなかった。この問題を後で帰ってやり直すときにまた同じようにあのクラスメイトの失笑と、そして志田の鍛えられ、背筋の伸びた広背筋のことを思い出すのだろう。この記憶の条件付けは永遠に自分の頭の片隅から追いやられ、消え去ってはくれないのだ。

 次に、廊下で紗香を見かけた。碧はその時、トイレから帰るところだった。尿意を我慢していたわけではなく、その次が体育で十分休憩が着替えで潰れるから、なんとなく今行っておこうと思って、トイレに立った。それが今日一番の選択ミスに繋がるとも知らずに。

 男子トイレの列はそれほど長くはない。女子に比べたら、本当に用を足してさっさと退散する場所だからだ。隣に立った同級生と二三言葉を交わして、トイレを出ると、紗香は外にいた。正しくは、女子トイレの前で談笑していた。

 洗って、ハンカチで拭ったはずの手がまた湿っていくのを感じた。ポケットにしまったばかりのハンカチをもう一度取り出して、さも今手を洗ったばかりですという風に装って、そして長い廊下に目を向けた。

 やや、大股で女子トイレ、紗香の前を通り過ぎようとして失敗する。

「山中くん。昨日はあれは嘘だよね」

嘘なもんか。

 碧はそう言いたいのをグッと堪えて、首を小さく横に振った。

 紗香が少し、ほんの少しだけ細く、整えられた眉を下げた瞬間、自分の心臓は早く拍動し、体が硬直した。ポケットにハンカチをしまうのも忘れて、次に来るべき発言をジッと何を言われても耐えようと決意した。

 しかし、紗香が放った言葉は予想外のものだった。

「どうして、私じゃダメなの? 山中くんのことずっと好きだったのに、山中君は今年で卒業なんだから最後の一年くらい私と付き合ってくれてもいいじゃない」

「もしかして、僕のこと待ち伏せしてたの? だって三年生のトイレに二年生のあなたがいるなんて」

「なにそれ、私がストーカーだって言いたいの? 付き合ってもない男をストーカーなんてするわけないじゃない」

「いや、ごめん。そんなつもりじゃ」

「じゃあ、なに? 私と付き合ってくれるの? はっきりしてよ」

 紗香の綺麗に惹かれたアイラインが吊り上がる。胸元で緩く結ばれた赤いリボンを揺らして、碧に詰め寄って来る。紗香の隣に居た同じ赤いリボンの子が彼女の腕を掴んで「止めなよ」と言っているが聞こえているとは思えない。その証拠に紗香は碧の細く頼りない腕を掴んで離そうとしなかった。

 「ちょっと、なにしてんの!?」

 聞き覚えのある声が女子トイレの中から響いてきた。志田奈々がびしゃびしゃの手を振りながら、出てきた。奈々は状況をすぐに理解した、というか恐らく彼女の喚き声は響いていたのだろうが紗香を一括した。

 奈々と紗香に面識があるのかどうかはよく分からないが碧は助かったと思い、女子たちの成り行きを黙って見届けることにした。

 「紗香、あんた振られたんだから諦めて次の男探しな! かわいいのにもったいない」

「先輩……だって、私こんなに山中くんのこと好きなのに」

「それは、あんたの惚れっぽい性格を山中くんが知らないからでしょ。もう諦めて外で男作んな」

 シッシと虫を追い払うようにすると、奈々の乾ききっていない手から飛沫がわずかに飛んだ。

紗香はそれでも引こうとはしなかったが、一分前の予鈴と、友達からの「もう行こうよ」という声でやっと立ち去った。

 その場には、紗香が歩いて行ったほうを睨む奈々と、呆然と立ちつくす憐れな男が並んでいた。

「ありがとう」

深々とお辞儀をすると、奈々は「どういたしまして」と返し教室とは反対方向に歩き出した。

 「どこ行くんですか?」

「次の委員決めの時までサボる。山中くんも来る? 程よくサボれる良い場所知ってるよ」

「ううん」

首を振ると、奈々はくっくと声を抑えて笑った。彼女の細く、凹凸のない首が上下した。そのしなやかな首から発せられる声は低く、そして志田そっくりだった。

「克樹みたいに真面目でつまんない奴」

奈々は振り返ることなくそう呟いて、階段を降りていった。


 怒涛の午前中を終えて、ようやく昼休みになったころにはかなり疲弊していたと思う。昨日の夜に詰めておいた弁当を自分の席に広げて、一人で手を合わせて、頂きますと言った時には自分でも疲れているなと感じた。あのトイレ騒動のあと、チャイムと同時に教室に滑り込んで、皆にまたなんかやってるよという視線を向けられながら、また愛想笑いをして、その場をやり過ごした。その次が体育だったことが幸いしたのか、着替えているときには少なくとも質問攻めに遭うことはなかった。

 昼休みの今、それまで耐えていたというか話すタイミングがなかった人たちはうずうずとしていて話しかけるタイミングを窺っている。だが、それももう朝のように多くはなかった。話の賞味期限が切れていたのだろう。もう山中碧の恋愛話は新鮮味に欠けるものとなっていた。

 正直それはあのトイレのことがなければもっと早く訪れていたものだ。それについてはしょうがない。甘めの玉子焼きを突きながらそう思った。

 『えー、皆さん新学期が始まりましたね。新入生の皆さんはどうですか? 期待に胸を膨らませて入った人もいると思います。期待通りの学校ですか? 二年生の皆さん、クラス替えは上手くいきました? 気になるあの人と同じクラスになれなかった? ええ、苦情は目安箱にお願いします。三年生に皆さん、受験戦争頑張りましょう!』

 放送部が昼の放送をしている。古ぼけたスピーカーからは雑音も多く聞こえるが、声が聞き取りやすく、よく通る声だ。イヤホンをしている生徒は多くいるが、碧はこの放送を聞くのを二年生の頃から楽しみにしていた。単に、動画と言うコンテンツにあまり興味がないせいだろう。それと、特別誰かと話して食べるということも。放送は不定期でしか流れないが、小話を少しやった後は、リクエストのあった曲を流すのがお決まりだ。

『顧問に言われたんです。今年の新入部員が入らなかったら、同好会になって部費が出ないぞって。でも、学校で放送しているだけの部活に部費なんていらないと思いませんか? あ、でもそれなら同好会でもいいのか……』

 誰も笑ってくれないのに、放送室で一人で話し続けるのは苦痛ではないんだろうか。でも、あまりそういうのは気にしていないんだろうな。誰が聴いているとかも。事実、碧は先ほどから話を聞いているが話の大半を前から順に忘れていたし、理解して笑おうとも思わない。

 『今日は、春休み前に着ていたリクエストを放送します。もしかしたら、リクエストした人卒業しちゃったかも……それでは、ちょ、ちょっと』

 そこで音声が雑音だらけになる。だれかが侵入してきたみたいで、放送部の動揺具合から部員と言うわけではなさそうだ。

 ガサゴソとマイクを弄る音がする。

 『これでいい? あ、声乗ってる。マイクテストいらない? そっか』

 やり取りが全てこちら側に聞こえているが、驚いたことはそこではない。放送部に乱入した人が分かった。顔の見えない場所で話せば誰でも一緒だと思っていたが、意外にも誰が話しているというは分かるらしい。

 なぜか放送室に乱入した志田克樹は紙をぺらりと捲り、マイクを数回叩いて、マイクチェック、マイクチェックと言うと、それから少し間を開けて話始めた。

『この放送をお聞きの皆さんこんにちは。僕は志田克樹と言います。今年も在校生代表として始業式でスピーチをさせていただきました。まだ僕のことを知らない人もいるかもしれませんが時間がありませんので僕の話は今回は割愛させてください。ところで、この放送を聞いている人がどの程度いるのか分からないんですが、え? ああごめんそんなつもりじゃないよ。えっと、とにかく今日皆さんにお伝えしたいのは、僕が長年悩んできたあることについて話そうかと思ってきました。姉がね、あ、僕には双子の姉がここにいるんですが姉が言うんですよ。一人で悩むくらいならいっそ全員に話してしまうのはどうかって。その強引さが僕は好きなんですけど、それで今ここにいるわけです。前置きが長いですよね。では、さっそくですが僕の悩みを告白します。実は……実は僕はどうやら男が好きなんです』

 長い前置きを経て公開された志田の告白に、掴んでいたトマトを落とした。

トマトは、空になったご飯のスペースに転がって、ふりかけを纏った。周りがざわつきそこで、初めて碧は自分以外にもこの放送を聞いている人がいたことを知った。

 「え? まじ?」

「志田ってこの前まで彼女いたじゃん」

「でもあいつすぐ別れるって有名だったよね」

「彼女たち知ってたんかな」

「私、志田のこといいなって思ってたのに」

話を聞いていたクラスメイト達はそのように会話のネタをころりと変え、聞いていなかった人たちはクラスメイトのざわつきで察し、話しに加わる。今や、誰もが志田の次の発言を耳をそばだて待っていた。

 そのことを分かってか、志田もしばらくは無言になった。彼が退出していないのは、紙の音がまだ聞こえるからだ。放送部の囁くような「え? まじ?」がマイクに乗る。

 奈々はこの放送をどこかで聞いているのだろうか。弟の一世一代の大告白を。いや、彼女はきっとこの放送を聞いてはいないだろう。委員決めの時には戻って来ると言っていたが、委員決めである総合の時間は六限だ。

 『えー。様子が確認できないけど皆さん一度静かにお願いできますか?』

 そこで教室内はシーンとなる。校長先生も驚きの速度で静かになった教室には咀嚼音さえ聞こえない。

 『ありがとうございます。それでは経緯を説明したいんですが、これが困ったことに特にないんですよね。僕は男が好きと言っても女の子も好きな時期もあったから。でも、今は男が好きらしいんです。僕と付き合ってくれた子たちは僕が少しの間付き合ってカミングアウトしたことを知っています。彼女たちは誠実で僕との口約束を守ってくれました。それは本当にありがとう』

 「あんた知ってたの?」

「うん。でも克樹があんまり苦しそうに言うから誰にも言わなかった。黙っててくれとは言われてないけど」

どうやらこの教室にも彼と付き合ったことがある女の子がいるようで、仲良く弁当を広げ、紙パックのイチゴミルクを飲んでいた友達が、口をあんぐりさせながら聞いていた。

誰にも言うなと言われていないのにバレなかったのは付き合っていた彼女の誠実さもあるだろうがひとえに志田克樹の人望と言わざるを得ない。悪い噂を一つも聞かない男の名は伊達ではない。

『でも、もういいんです。これからは僕は僕の気持ちを大切にしたい。受け入れられない人がいることを知らなきゃいけないし、尊重しろなんて言わないけど、僕はもう言ったから、こういうのって言ったもん勝ちみたいなところあるし。以上長々とありがとう。これから一年またよろしく』

音声がぶつりと途切れ、放送部が失礼しました。では、今日の放送は終了です。と淡々と告げる。だが、誰もそんなものは聞いちゃいない。もうクラス内のどよめきは溢れんばかりで、この教室にやがて帰ってくるだろう、志田のことで色めきたっていた。

碧は弁当を包む手がしっとりと汗ばんでいることに気付いた。彼がどんなつもりで今そんな告白をしたのか分からない。すくなくとも喜ぶべきではある。これで、自分が紗香を泣かせたことは紗香以外は忘れるだろう。

正直、志田には意味など無いのかもしれない。ただ、彼の言う通り先に言った方が良くて、奈々の助言通りにしただけなのかも。でも、そんなことは思ってはいなかった。

馬鹿にされた。

ただこの一言だけが頭の中に怒りとして湧き上がってくるのを感じ取っていた。

自分が苦労して、納得した答えに自分よりも先に周りを巻き込んで解決した志田に嫉妬した。それは、とめどなく溢れ、彼の中で渦巻いた。


「皆放送聞いてくれた?」

志田が後ろの扉、つまり碧の席の方からそう言いながら入って来た。一瞬志田はこちらを見て、ウインクしたように見えたがそれはただ単純に瞬きをしただけなのだろう。碧はそう思うことにした。

そういうことにしないと今にも彼の胸倉を掴んで揺さぶり、怒鳴りこんでしまいそうだった。

どうやら、ここに来るまでにも質問攻めにあったようで、志田は飛んでくる質問を軽く受け流しなら「飯食いながらでもいいかな」と堂々と教室の真ん中の席に歩いて行った。まるでアヒルの親子のようにその後ろをクラスメイト、主に男子が「俺のことどう思う?」と聞きながら付いていく。

志田はうーんと少し悩んで顔も見ないまま「ごめん、タイプじゃないかも」と答える。そして、その繰り返し。志田の返答は、タイプじゃない。ちょっとタイプのどちらかだ。

彼は、休み時間ギリギリまで菓子パンを咀嚼しながら答え続けた。



自分がゲイだって気づいた時、苦しかっただろうか。初めて女の子と付き合って、でもなんか違うとなった時、自分は悩んだことはあっただろうか。いや、おそらく覚えている限りではなかった。

どれも碧には訪れなかったものだ。ほとんど不在の両親、一人っ子、特定の友達はいない。中学生までの評価は協調性に欠けるだった。三者面談では久しぶりにあった母の前で碧君はお友達と話しているところを見たことがなくて心配です。と言われた。確かに、そうかもしれない。それで、いじめられているのか心配する担任も悪いわけではない。だけど、碧は自分が誰かと積極的に関わろうとしない理由を理解しているつもりだった。

昔、隣のクラスの女の子に告白をされて、泣いてしまったのだ。自分が女の子を好きじゃないと理解した瞬間でもあった。だけど、告白された子はそれをうれし泣きだと思って、言いふらしてしまった。それが碧は嫌だった。好きでもない子と付き合っているのか、手は繋いだか、キスはと聞いてくる他の子が嫌だった。だから、なるべく勘違いされないように会話を必要最低限にして、三者面談の後の母の小言も耐えてベッドで泣いた。

その時に碧が好きだったのは、海外の自分の名前と同じ目を持つ俳優だった。彼は、色が白くて、つまようじが軽々乗っかりそうなくらいまつ毛が長くて、そして碧がそこに映えていた。自分の魂が彼の器にぴったりはまっているような気がして、嬉しかった。

部屋にあるパソコンでその俳優が主人公の相棒役として出ていてそれが碧のお気に入り映画を観た。

『誰しも秘密を抱えている。でも、君は僕にすっかり話してしまう必要はないし後ろめたく感じる必要もない。墓まで持っていけ。もし、君が先に死んだら僕はその墓を暴きに行く。その時に話してくれたらいいよ』

このセリフが碧は一番好きだった。

危険な任務を今から遂行しようという主人公が相棒にも隠し続けている秘密を死ぬ前に言ってしまうか迷う場面で言った言葉だ。

だから、誰にも言わない。実際問題死ぬような任務をするわけじゃない。だから碧は自分に教えてくれと言われない限りは誰にも言う必要はないと考えていた。


だけど、それも違うかもしれないと碧は思い始めていた。志田がどこまで悩んだのか分かりもしないが、今の自分は早い段階で世間に受け入れられて、泣かせた女の子はいなくて、自分が心の深いところで本当に欲しいと思っていたものを全部持っていた。

今、碧の手にある志田の甘い匂いはハエトリグサがハエをおびき寄せるために使われた罠なんじゃないかと思い始めている。

 (ああ、あいつのことちょっと気になるかもって思った僕が馬鹿みたいだ)

 分かっていた。勝手に勘違いして、勝手に傷ついてる。あの時、僕に告白した女の子のように自分が嫌だと思った存在に自分がなってることにとっくのとうに気が付いてる。



六限目は委員決めだ。あの後、五限になってやって来た現代文の先生は授業が始まる前に志田の顔を見て、目を潤ませ「大変だったなあ」と言った。それを聞いて、まるで自分が言われたかのように感じて、腹が立った。その後の授業は何も頭に入っていない。ノートにも黒板の板書をしただけで、いつもなら端の方にメモ書きをしたりしているのにそれもなかった。

委員はなにになりたいのかすでに決まっている。というか三年目にもなるとどの委員が楽で大変なのか周りもしっかりと分かっている。大学進学を目指している人は大変な委員、学級委員になろうとするし、盛り上げるのが好きな人は文化祭か体育祭委員になるだろう。

碧は今年も通年の図書委員になると決めていた。

本が好きなのもあるが、なにより通年の委員会は委員会会議が免除される。前後期は引き継ぎの時と、あとは不定期で話し合いをするらしい。その点図書委員は放課後一時間の居残りがあるが誰も来ない図書室で本を読みながらカウンターで座っているだけで良い。話すことが得意ではない人間からすればこれほどありがたいことはない。おまけに放課後という縛りのせいか部活動をしている生徒は出来ず、競争率も低い。碧は二年連続で図書委員だった。

「では、まず最初に前期学級委員の立候補をお願いします。それと学級委員になった人は

早速だけどこの後の進行を頼みます。では挙手を」

そこで三人の手が上がる。ピンと伸ばされた手が二つ、胸の位置で控えめに伸ばされた手が一つ。これは、碧の隣の席からだ。

「えー、三人手が上がっていますね。ありがたいことです。学級委員は基本的に人気がないところが多いので積極性があるのは。でも、このクラスだけ前後期に分けるわけにはいかないので話し合って二人に決めてもらっていいですか?」

「はい、俺去年もやったし楽しかったから今年もしたい」

自信ありげに手を上げた一人である田無はそう言うと、もう一人同じく自分が絶対にやるんだという自信がある波瀬から反対の声が上がる。

「そういうのズルくない? 学級委員は二人で今、三人手が上がってんじゃん。公平にじゃんけんしようよ」

そう言って、波瀬は後ろの席、碧の隣の響に目を向けた。目の奥から、お前譲れよという冷たいものが向けられている。碧は、絶対に安全な位置からそれを眺めながら、かわいそうにと響に憐れみを抱いた。

恐らく、田無と波瀬は事前に相談していたのだろう。学級委員は図書委員と同じで委員会会議がない。不定期で司会をしてみんなの前に立つことさえ苦手でなければ、比較的楽な部類に入る。

響は人前に立つタイプではない。それは、控えめに上げられた手が物語っている。波瀬に凄まれても気の利いた言葉一つ言えず、上げた腕を下ろせずにいる。彼にどういった考えがあって、今回立候補したのかは分からない。だが、憶測でいうなら内申点稼ぎだろう。彼は志田と並んで点数争いをしていた。

「時間もないので、話し合いよりもじゃんけんで手っ取り早く決めてもらえますか? 委員会を決める時間はこの一時間しか取れないので」

担任のその一言にじゃんけんを提案した波瀬は舌打ちをして、前を向くと拳を突き出した。

田無もしょうがねえなと頭を掻きながら拳を突き出し、遅れて響も腕を伸ばした。

「じゃーんけーん、ほい」

田無の声かけて、三人はそれぞれの手を出した。グーが二人チョキが一人。勝負は一発で決まった。勝ったのは田無と響だ。

波瀬は軽く舌打ちをすると、わざわざ後ろを向いて、響に侮蔑の目を向けた。一方で田無の方はカラッとしており、響に笑顔を向けて、ガッツポーズした。響は上がり気味だった肩を少し緩め、短く息を吐いた。

「では、残りは二人にお任せします。時間厳守というわけではありませんが、放課後に予定がある人もいるだろうし、なるべく時間内に」

担任は教壇を降りると、扉の前に椅子を引っ張ってきて座った。胸ポケットから老眼鏡を取り出すと、膝の上で本を開いて読み始める。この時間は毎年先生によって変わるが今年はなるべく面倒なことは生徒に任せて自分は最低限しか関与しないようだ。

担任が本を取り出したのを見て、碧も机の中にしまっていた哲学の本を読んでくだらない時間を有意義に使うことにした。

田無はともかくとして、響が学級委員に決まってから教室内の雰囲気が悪くなり始めていた。全体的に舐めている。すでに碧以外にも他のことをし始めて人がちらほらいる。後ろの席ではある自分からは机の下でスマホを弄っている人が三人もいた。波瀬もその一人だ。

「では、進行をこの田無が、書記が響が努めます。えー、なにからいく?」

田無は頭を掻いた。

「学級委員ちゃんとしろよ」「経験者だろ」「まずは文化祭委員でしょ」とそれぞれから声が飛ぶ。そのどれもを田無は楽しそうに頷きながら聞き、響はチョークを持ったまま固まる。

「では、要望があった体育祭委員から行きましょう」

「誰も、そんなこと言ってねーよ」「ふざけんな! ちゃんとやれ」

ブーイングしている方も楽しそうだ。時間内に帰りたい碧からすればいい迷惑だ。この後も同じように揉めるのならなおさらである。

「体育祭委員立候補を」

田無は勢いよく手を上げ、それに呼応するようにして数人の手が上がる。

「じゃ、じゃんけんして決めてくれ。ちなみに男女一人ずつだから女子一人の相田は決定な」

相田は羨ましいそうな声を立候補男子から浴び、響は筆圧の弱いひょろひょろとした字で小さく相田の名前を書いた。


委員決めは思っていたよりも順調に進む。体育祭委員も文化祭委員も田無がダレることなく明るく指揮を執っているおかけが負けた奴からの横やりが入ることもない。波瀬はその後、体育係のポジションにしぶしぶ落ち着き、少々やじというよりかは波瀬の名前を響が書くときに大きすぎる舌打ちをしたがこれも田無が上手く収めた。

授業内と言わず、時間が余りそうな雰囲気を見せ田無がそうなった場合に余った時間は自由時間になるのかという確認をしてそうだという了承を得る。教室内は一気に団結して早く終わらせようという意識で満たされる。

その時、廊下からパタパタという足音が聞こえた。ゆっくりとした足取りは歩調を変えることなく一定のリズムを保って、こちらに近づいてくる。

碧にはその足音の予測が経っていた。奈々だ。扉のすき間から漂うレモンは彼女が近づくにつれて強く香り、今日の出来事をフラッシュバックさせた。

すりガラス越しに奈々の黒い髪が揺れ、モザイクアートのようなそれが通過して、ガラガラと教室の引き戸を開ける音、彼女のクラスの担任が窘める声がつまらない哲学書のすき間を縫って碧の頭に染み込んでいく。

「次、図書委員―」

脳内に埋め尽くしていた奈々の、黒い髪は田無の声と共に突然浮き上がり、碧に勢いよく手を上げさせた。

「山中以外にやりたい人いるー? いないね。決定」

田無はまるで、競りの値段が決定したのかのように机をバンと叩いた。

黒板を見ると、ずいぶんと名前が埋まっていて、志田の名前も書いてある。志田は放送委員になっている。志田の背中は相変わらず堂々としていて、彼のその映える髪と態度は放送委員なんかもったいないほどだ。

自由な態度が気に食わない。出来ることなら、志田を電波になんか乗せないで壇上に立たせて、彼が生徒の前で質問を受け流しているのをこの目で見たい。彼の善がどこまで耐えられるのか、奈々はそれでも志田のことを正しいと言い続けるのか確かめたい。

志田への好意は自分の中で試し行動に変わっていることに気が付いている。

碧が勝手に寄せた好意を自分のことを意識すらしていない相手に向けて勝手に妄想することの虚しさは計り知れない。志田が自分のことを好きになればそれも変わるのだろうか。

哲学書には太字で愛は戦争を止めると書かれ、そのページをビリビリに破りたい衝動に駆られる。

隣の席の女子は志田に話しかけられて、彼がもうそういう駆け引きなんかをしないと分かり切っているのに頬を染めている。

志田が何かに気が付いたかのように後ろを振り返る。彼の目が開かれるだけいっぱいに開かれ、長いまつ毛がふるりと震える。自分の水晶体と彼の水晶体が交差し合ったのも一瞬のことだ。志田が見ていたものは自分ではなく、線上にいた別の人で彼は自分の席を立ちあがり、その人の机の前で談笑を始めた。

志田から目が離せないまま、惰性でその様子を眺め続ける。人々が席を移動する風圧で手元のページがどんどん過去へ未来へと巻き戻っていく。


今日という一日を終えるチャイムが鳴り響く。すでに緩んだ教室は他のクラスから聞こえるヒートアップした声とは違い穏やかで凪いでいる。余った時間で帰る準備をしていた人達はチャイムと同時に教室を出ていき、キリの良いところまで会話をしようとカバンを持って立ち話の延長をする人たちもいる。志田はその一人ではなかった。

「あ、俺今日部活だから」

そういって、盛り上がっていた話の腰を折り、リュックと部活用のカバンを二つ持って爽やかに退出した。会話をしていたクラスメイトは志田が教室を出ると話の続きに戻って、また楽しそうに談笑を始めた。

碧は遅れてリュックの中に教科書を適当に突っ込むと帰る準備をした。といっても志田のように部活動をしているわけではないので真っ直ぐ家に帰るつもりだ。それで、帰った後はいつものように部屋に引きこもって今日の分の課題でもして本を読む。

 誰かが中途半端に開けて扉に指を掛け、右にスライドする。

 廊下には先に終わったクラスが待っている人達でそこそこ溢れかえっている。大体は窓の外から中庭を眺めていたり、スマホを弄っているかのどちらかだ。誰もが大きな音を立ててはいけないという暗黙の了解を守って存在している。奈々も窓にもたれ掛かりながら、誰かを待っていた。

 アイラインが濃く映える顔をしている。やや下を向いた姿勢はサイドの髪が垂れ下がり、無言だとよりいっそう近づきがたい風格をしている。

 また、絡まれたら厄介だ。

 今日は朝から彼女になにかと出会ってしまう。奈々の方はどう思っているのかよく知らないが、志田の雰囲気をそのまま持っている彼女とはあまり長く一緒にはいたくない。そして背中を丸め、なるべく視線を下げて誰とも会わないように奈々の前を通り過ぎようとした。なんだか彼女にいじめられているみたいだ。

 「あ、ちょっと待って」

 奈々は碧の細く、骨の浮いた手首を強く掴んで引っ張った。教科書の詰まっている重いリュックを背負っていたせいで後ろに尻もちをついてしまう。

 どしんという音が廊下に響き、冷たい床の感触と遅れてやってきた痛みが襲う。廊下はなんだという視線を向け、それが大したことではないと分かるとまた元の自分たちが見ていたものに戻った。戻れないのは碧たった一人だけである。

 「なにすんだよ」

 尻を抑えながら立ち上がり、今度は彼女の視線をまっすぐ見つめる。奈々は目を逸らして、そんなつもりじゃなかったと手を差し出そうとするが、碧はその手を拒否した。

「志田なら部活に行ったよ」

碧が先回りしてそう答えると、奈々は弱弱しく首を振った。揺れた髪の毛の先から朝より弱くなったレモンが香る。

「あたしは山中くんに用があって待ってた」

「僕に?」

 何か彼女にしてしまっただろうかと今日のことを軽く振り返ってみた。しかし、碧が何かをしたというのは記憶の中ではない。だとすると紗香のことで引き続きなにか言われるのだろか。

 良くない考えばかりが先行して脳内を駆けめぐり、フリーズする。

 「ちょっとこの後時間あるかな」

「ここじゃダメなの?」

奈々は周りを窺うようにして見回してから、ダメと言った。碧はため息を吐いて、あまり遠くでなければと答えると奈々の顔色は明るくなって、まわりに花が咲いた。

 碧の腕を再び掴むと先導して歩き出す。彼女の手は生暖かくて、鳥肌がたった。しばらくは耐えていたが、それも出来なくなり、恥ずかしさから手を振りほどいたように見えるくらいで軽く抵抗すると奈々も何も言わず、手を離した。


どこにつれていかれるのだろうか。

 碧は何も知らされないまま奈々の後ろを付いて歩いた。校内かと思っていたが奈々は相変わらず無言のまま下駄箱で靴を履き替え、校門を出た。

 右を曲がり、左を曲がり、また右に曲がった。

 最初こそは家と同じ方向に向かっていたが、今では全く知らない場所にいた。そこで不安を覚える。自分は無事に帰れるのだろうか。

 無言なのがなおさらキツイ。奈々はあれから一言も話さない。真っ直ぐ前だけを見ている。かといって、自分からは何を話すべきなのか分からない。

 「あ、あのさ、ど、どこまで行くの?」

 意を決した言葉は裏っかえり、ドモリがちになる。

 「どこまでだろう、とにかく誰にも見つからなそうなところ」

「決めてないの?」

「決めてない。大事な話がしたいから」

「そう」

 強い決意を持った会話を終了し、また二人に間に静寂が訪れた。信号機の音が、クラクションの音が、誰かの会話が二人の間を繋いでいる。

 「この辺でいい」

 立ち止まった奈々は何十年も誰も来ていないようなさびれた公園の前で振り返った。遊具は一つ、二人掛けのベンチも朽ちて一人しか座れない。そんなところだった。確かにここならだれも来ないかもしれない。すくなくとも同じ学校の人達は来ないだろう。

 碧が曖昧に頷くと、奈々はパンダの遊具に腰掛け、背伸びをした。関節がぽきぽきと軽い音を立てる。碧はリュックを地面に下ろして、その場に三角座りをした。

 「どこから話せばいいのかな」

「どこからでもいいよ」

「……山中くん、克樹の今日の放送聞いてた?」

「うん。聞いたよ。衝撃の告白だったね」

 嘘だ。そんなことは思ってもいない。淡々とそう答え、奈々の次の言葉を待つ。間に一陣の風が吹き、地面の軽い砂が舞い上がる。春の風はこの公園のものではない桜の花びらを運んできて、二人の間を通り過ぎていく。

「どう思った?」

「どうもなにも別にって感じ。そうなんだって思ったよ……ねえ、それだけ? 他になにかいうことないの?」

 進まない会話は碧を苛立たせた。リュックを掴んで立ち上がる振りをすると奈々が肩を押さえつけて首を振る。カラコンの特殊な瞳孔が碧の手の入れてない黒い瞳孔の奥底を睨みつける。

 「短気なんだね。じゃあ、簡潔に言うけどあたしと付き合ってほしい」

 「意味わかんない。僕、志田さんのことよく知らないし、それに志田の放送のこととなんの関係があるの? もしかして弟を口実にしてるだけ?」

 奈々の手を払いのけ、立ち上がると、奈々は今度は待ってと言わなかった。何も言わない。否定も、肯定も。

 「図星なの?」

 挑発的な言動に、奈々は動揺すら見せない。払いのけられた手は重力にしたがってだらりと垂れ下がり、乱れた髪は奈々の口に少しだけ入り、それでも彼女は真っ直ぐと碧を、そこに消失点があるかのように見ている。

 「僕はあなたとは付き合わないよ」

 「いや、付き合うよ。だって、山中くん克樹のこと好きだよね。なら、あたしとも付き合えるよ。だって、あたしたち双子だもん」

 「好きじゃない。僕が男を好きなわけないだろ! 志田じゃあるまいし」

 そこで初めて奈々は形のいい整えられた眉尻を下げ、一瞬泣きそうな顔をした。そこで初めて彼女は告白を振られたかのような表情を見せた。それは、彼女が最初に振られた時に見せなかった顔だ。

 「嘘だ。あたしは知ってるよ。山中くんは克樹のこと好きだって」

 奈々はふぅと煽情的な息を一つ吐いた。

綺麗に磨かれたローファーの先で地面をえぐり、髪の毛を指の先に絡めてくるくると巻きつけ、長いまつ毛の先から見える瞳孔は、碧の告解を今か今かと待っていた。

彼女のまつ毛の先が風で震えているのが分かった。神経が研ぎ澄まされ、指先から血の気が引いていく。

「あたしは建前でいい。でも山中君があたしと付き合う振りをしてくれるなら、あたしは克樹の好きなもの、好きなこと、なんでも教える」

「なんでそんなに必死なの。認めるよ。僕は志田くんのことが好きだ。でもあんたがそこまでしてする必要あるの」

「克樹のこと好きになってくれた男がいるなんて嬉しいじゃん。ちょっとでも脈がありそうなら弟のために背中くらいいくらでも押したいよ……克樹のこと好きになる女はいても克樹が本当に付き合いたい人は男で、そんな克樹のこと好きになる男なんて応援したいよ」

固く握られた手のひらに爪が食い込んでいる。食い込んだ部分が白くなっている。奈々のか細いうめき声が風のすき間から聞こえていた。途端に奈々の体が小さく見えた。昼間に見た、誰にでも分け隔てなく意見を言い、堂々とサボりをして自分本位なこの体が誰よりも不自由に感じられた。

志田があの告白をしたのは、きっと志田が奈々にこれ以上重荷を背負わせたくなかったのかもしれない。

「志田さんと付き合うよ」

 右手を彼女の前に差し出す。彼女はそれを戸惑いがちに見て、堅く閉じられた口と右手を交互に見て、口をパクパクさせた。口からは空気が声にならずに漏れていた。

 碧は肩からずり落ちたリュックを背負いなおし、右手を更に奈々の前に近づけた。

「でも、僕が志田君のこと好きでも告白するかは分からないし、それと誰にも言わないって約束して。僕は志田くんのことを聞くだけ。それだけでいい」

「もったいない男。克樹と付き合いたい人は沢山いるのに」

そういって奈々は碧の手を取った。

 その日から山中碧と志田奈々は共謀することになった。



 志田克樹が違和感を覚えたのは小学生の時に初めて告白されてからだった。足がクラスで一番早いからという理由で同じクラスの女の子に好きですと頬を染めながら言われた。克樹はそれを同じく頬を染めながら了承した。

 そのことは半日も経たずに学年で広まって、友達の間でキスしろと囃し立てられた。嫌ではなかった。ちょっとそのノリが面倒だなとは思ったけど、それ以上のことは特に何も感じなかった。姉の奈々はお揃いの短パンを履いて、ジャングルの頂上から克樹と付き合っている女の子の名前を大声で叫んだ。

「克樹と花ちゃん付き合ってるんだってー!」

声変わり前の高い声は小さな学校の校庭いっぱいに広がって、何人かはこちらを奈々の方をチラチラ見ていた。それが恥ずかしくて、嫌になって、その後すぐに花ちゃんとは別れた。

 花ちゃんは、その後奈々のことをずっと嫌っていて、たまに奈々の物を隠したりしていたらしい。それを知ったのは、母が放課後に先生に呼び出されたからだ。奈々はその頃から喧嘩っ早かった。運動も出来て男子に混じって遊ぶのが好きだった。物を隠された奈々は花ちゃんの髪を引っ張ったらしい。それで花ちゃんが泣いてしまって、揉めた。

 なぜだか分からないが、その時に母は「克樹も一緒に来なさい」と言って校長室に機嫌の悪い奈々と一緒に入った。

 「奈々ちゃんがね、花ちゃんの髪の毛を引っ張ったっていうんだけど」

担任はそう説明した。新任の担任は早々にもめ事を起こした双子の片割れに手を焼いていた。畳んだハンカチでしきりに額を拭っていた。薄い化粧は剥がれ落ちて、所々皮膚のデコボコした部分が見えている。克樹は先生がかわいそうだと思った。奈々はきっとこんなところに呼び出されても反省なんかしない。好奇心が強く、この間校長室にどうやったら忍び込めるか話していたのを思い出した。だけど、克樹自身はそうではない。今日は友達とサッカーをする約束をしていたのに、奈々のせいで出来なくなった。早く終わればもしかしたらまだ間に合うかもしれない。

「花ちゃんがさ、克樹のこと悪く言ったんだよ。克樹は男子の俊君が好きだからわたしを好きじゃなくなったんだって。馬鹿みたい」

奈々は校長室のふかふかのソファに偉そうに踏ん反りかえってそう言った。

途端、無重力状態になる。自分の頭の先からつま先までが一気に冷たくなって、目の前が真っ暗になった。再び意識を隣の奈々に向けた時には、奈々は克樹の方を見つめながら克樹がなにか言うのを静かに待っていた。

 まるで、トイレを我慢するみたいに足をモジモジさせて、視線をさ迷わせる。

 奈々から、歴代校長へ。母から、担任へ。誰もが克樹の言葉を待っていた。

 俊君のことが好きだった。なぜかと言われたら分からない。でも、かっこいいから好きだった。それだけ。俊くんもサッカーが好きで、鉄棒で逆上がりが連続で何回も回れて、一緒に遊んでくれるから好きだ。それは、恋愛的な意味での好きで、不思議じゃないはずだ。だって、花ちゃんは自分のことをかっこいいから好きだと言ってくれたし、僕だって俊君がかっこいいから好きだった。

 でも、奈々がそういった時の母の顔はまるで、幽霊を見た時のように瞳孔を開いて、瞬き一つしない。

 その時、克樹には味方が奈々しかいないのだと幼心に理解した。

 奈々はいつだって自分の味方だった。誰かと喧嘩した時も呼んでもないのにどこからかやってきて殴り返していたし、ドッチボールで一緒のチームになれば敵なしだ。泣きたい気分には一緒にわんわん泣いて、笑う時は似た声でいつまでも笑った。

 だから、奈々には花ちゃんが言う俊くんのことが好きだという言葉が彼女が冗談でいったことに気が付いて、花ちゃんと喧嘩したのだ。

 そして奈々は今、大人に挑戦状を叩きつけている。

 もし、目の前の信頼できる大人が男である自分が俊君のこと好きなんておかしいと言えば、奈々の心は永遠に牙をむき続けるだろう。そして、母はその一人だった。

 母は口にこそ言わなかったが、ありえないという顔をした。それは、奈々にとって、そして自分にとって母が信頼出来ない人というサインだ。

 


 「付き合ってください」

 放課後、図書室。克樹はカウンターで座りながら難しそうな本を読んでいた山中碧に勇気を出して言った。

 手汗でじんわりと湿った手を差し出すか迷って、差し出さないことにした。あの放送の日から奈々に借りている一本数万する高級香水は甘ったるく、汗と混じって不快な匂いを発していないか、香水を振りかけたシャツの襟を手繰り寄せて嗅いだ。でも、分からなくて友達にさりげなく「汗臭くない?」と聞いて「え、めっちゃ甘い匂いする」と言われて安心してここまで来た。

 山中碧は一目ぼれだ。入学式、入試の成績が一番良かったから代表スピーチをしてくれと頼まれて二つ返事で前に立ち、まだ誰も知らない顔をずらりと眺めた。奈々は並んでいる新入生の中で一番目立っていた。すでに着崩された制服は在校生の中に混じっても違和感がない。山中碧はその基準で言えば目立たない、緊張と不安を纏うありきたりな新入生。だけど、自然と自分の目は山中碧を見ていた。黒の安いフレーム眼鏡、時折するあくび、そしてダボついた制服。

 なるべく前を見て話して欲しいと言われたので克樹は遠くにいる山中碧を見てスピーチをした。

 一緒のクラスになればいいなと願いながら、一年の時も二年の時も同じクラスにはなれなかった。だけど、時折廊下ですれ違って、香水の付けていない柔軟剤の匂いが鼻孔をくすぐり幸福なものに満たされていくのを感じた。

 山中碧はいい意味で垢抜けなかった。同級生がどんどん様変わりしていくのに山中碧はずっと山中碧で居続けた。一度だけ彼がコンタクトを付けてきた日があった。普段はフレームに隠れて見えない顔が見え、恥ずかしくなった。矯正されて小さく見えていた瞳は二重で大きく、まつ毛も綺麗に上を向き、慣れていないのか目薬を頻繁に指していて目が潤んでいるのがたまらなくかわいい。

 そして今年、遠くで眺めるだけの高嶺の花と同じクラスになった。ずっと話す機会が欲しかった。さり気なく挨拶をして、返されてそこから好きなものを聞いたり、教室を一緒に移動したり。広がり続ける妄想に現実が打ち勝つ時がようやくきた。

 「山中くんのことずっと気になっていて、一年の時から、一目ぼれで。俺、この前言ったんだけど、男が好きで山中くんがもし今付き合っている人がいないなら一日だけでもいいから付き合ってほしい」

 口の中が渇く。なのに舌は止まらない。山中くんの顔を見るのが怖くて、視線はずっと彼のカウンターに置かれた手と閉じられた本に向けられている。

 自分と違う、日に焼けていない手。筋肉が付いていなくて、細くて、骨と皮で、長くて、自分の手を丸ごと包んでもあまりそう。

 難しい本。いつもどんな本を読んでいるのか知りたかった。今日、それが分かった。だけど、この部屋を出るときにはきっと忘れてしまう。

 「志田くん」

 ずっと、その声で呼ばれたかった。何度も何度も夢に見た。

 「志田くん、大事なこと言うんだから顔を上げてよ。僕は君の顔を見てちゃんと言いたい」

 普通だったら、このセリフは素晴らしい恋の始まりになるだろう。でも、男が男に告白したときはまだ始まるかどうかは微妙なところだ。

 この時間を少しでも引き延ばしたくて、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて視線を彼の手から、胸元、首、顎とずらしていく。こちらを窺うような不安そうな瞳がどこか迷子の犬のようで、かわいい。

 レンズの向こう側の山中くんの瞳孔に写った自分が見える。

 「僕、付き合っている人がいる」

「うん」

遅かった。もっと早くに告白しておけばよかった。

「誰か聞かないの?」

「きっと、その子は知られたくないだろうから」

「僕、志田くんのそういう真面目なところ好きだな。志田くんはさモテるし、色んな子と付き合ってきたじゃん。でも、誰一人として志田克樹の悪口は言わなかった」

「そんなことない。俺も多分陰で酷いこと言われてる。でも皆優しいから黙っててくれるだけ」

「優しさを維持するのって尊敬してないと出来ないことだよ」

山中くんの一言一言は積み重なった後悔をさらに濃くしていく。この図書館に誰もいなくてよかったと思う。歪んだ視界は、もう山中くんの表情を正しく読み取ることが出来ない。

 一つ、逆さまの山中くんが机の上に落ちた。

 「なんで泣くの?」

「泣くよ。俺本気で山中くんのこと好きでそれで振られたから」

「志田くんはもし、僕が志田くんのこと気持ち悪いって思ってもしょうがないなって言って付き合うよって言っても付き合うの?」

「付き合う。まだ本当に好きになってくれる可能性が残っているから」

本当はそんなやつとは付き合いたくない。でも、ここで嫌だと言ったらもしかしたら山中くんに本当に嫌われてしまうかも、そう考えると彼の思考を否定するようなことは一言も言いたくない。

 薄い唇が開かれ、その奥から赤い舌が見える。視線が右へ左へと揺れた。

 「志田くんのこと好きなんだ」

 一瞬、自分の耳を疑った。ほぼ同時に耳の奥を通り抜けていった言葉はか細く、そして頼りないものだった。それがどれだけ自分にとって幸せなものであったか。脳の奥深くに浸透していく言葉を反芻するたびに克樹の体温を一度ずつ上昇させた。

 「好き?」

 自分の舌でもその言葉を繰り返す。

「うん」

「友達だから?」

「ううん、志田くんだから」

 証明するように手が触れ合う。お互いの熱で溶けていきそうなくらいに熱く、湿っている。脈を測らなくても分かる二人の鼓動は、タップダンスを踊っている。全身を流れる血液が今この瞬間を忘れまいと頭に血を送っている。

 吐いた息が温かい。

 指のすき間に山中くんの指が絡んでぎゅっと握られると身動きが取れなくなる。

「浮気ってこと」

「誰と付き合ってるのか知りたい?」

 ごくりと生唾を飲み込む。山中くんの試すような視線が早く、知りたいと言うのを待っている。

「教えて」

甘えるような声を出すにはまだ早いような気がした。自分の声が媚びを売るのを遠くから聞いていた。山中くんは目を細めて笑った。目じりによった皺が何歳も彼を幼く見せる。



 弟が男を好きだと分かった時、自分は弟の理解者ではなく守りたいと思った。


 花ちゃんの件で沢山の大人に怒られた時、あたしの中にあったのは反省ではなく失望だった。なぜ、母がその時にまったく関係のない克樹を一緒に連れて来たのか。そこに深い意味はないと思う。ただ、一緒に連れて帰った方が楽だったからという理由だけだろう。

 あたしはそこで、本当のことを言った。全部本当だった。克樹が俊くんを好きなのも、花ちゃんの克樹を傷つけるような言葉も全部本当のことだ。

 克樹はそれを知らなかった。きっと、克樹は俊くんをなぜ好きなのか考えていなくて、普通だと思っていた。あたしもそうだ。克樹が好きなんだから普通だと思っていた。だけど、いざ大人の前で言ってみると、大人は克樹の見る目をがらりと変えた。

 「本当なの?」

 そういう母の目が克樹に拒否されることを望んでいたのはただの小学生から見ても明らかだった。あたしは、酷く軽蔑した。元々、母のことを特別好きだとは感じていなかったが、克樹のことは気に入っていたから優しい言い方をするだろうと思っていた。

 その日、克樹はヘラヘラと笑って「そんなわけない」と言った。

あたしの口の中で苦い唾液が分泌された。その唾を校長室の高い皮張りの椅子に吐いてやりたかった。だけど、そうすると弁償しろだとか言われそうだったから耐えて飲み込んだ。それは克樹も同じだった。克樹が本当のことを言う機会は永遠に失われたのだから。


 「早速で悪いけど別れてほしい」

 克樹がずっと好きだという男、山中碧は放課後の図書室に呼び出したかというと挨拶もせずにそう告げた。

 そして、カウンターに積まれた本を一冊手に取ってパラパラとめくるとバーコードを通した。

山中碧は絶望的に空気が読めない男だ。正直この男のどこに惚れる要素があるのかが分からない。身なりは整えられているが、言葉数が少ないために何を考えているのか読み取るのが難しい。

 今も奈々はこの数日で彼にどういう心境の変化が合ってそうなったのかをゼロから推測しなければならない。

 「説明してはくれないわけ?」

 結局考えるのを止めた。そういうこまごまとした駆け引きは好きではない。克樹は他人を優先する。だから、奈々は自分本位で生きることにしている。双子はどこかで差異を見つけないとどちらかに食われてしまう。だから無意識に克樹の反対になろうという意識が働いている。

山中碧はマウスをクリックする手を止めた。カウンターに座っている自分に目を向けてやはり何を言わず、もう一度クリックすると面倒くさそうに目を合わせた。

 「志田くんと付き合うことになったから」

 「はあ!? なんで! この間まであんなに奥手だったのに」

「志田くんから告白されたから」

「克樹が?」

「そう志田くんが」

山中はカウンターに積んでいた本を抱えると、カウンターの中から出てきた。背表紙に貼ってあるシールを見て、手際よく端から順に本を棚に直していく。日本の小説が置いてある棚の前で立ち止まり、数冊を手に取る。手に取った本をくるくるといじくりまわして本棚に戻し、一冊だけを持って戻って来た。

「カウンターに座らないで。僕が注意しなかったって怒られたら嫌だから」

じろりと睨む。

奈々はカウンターに乗せていた片足をそろりと床に付けた。古い木の床材はギシギシ音と嫌な音を立てた。校内は去年綺麗に改装されていたが、この図書館は古いままだ。それは予算の問題もあるだろうが、一番は誰も使っていないというところが大きい。

一番近くにあった、椅子を引き寄せて座る。ささくれだった木がスカートを貫通してちくちくする。座高と丁度カウンターの高さと同じで頭だけが見えるので、向こうからみたらまるで断頭台に首を乗せる憐れな女のように見える。

「言っとくけど、何も言わないから。志田君があなたになにも言わないうちは僕も何も話さないよ」

先ほど取ってきた本を読みながら答える。

前髪がベールのように目を隠している。まっすぐに伸びた黒く太めの髪は触ったら堅そうだ。

パラパラとページを捲る音が二人の呼吸音に交じって聞こる。外からはうっすらと運動部の声が聞こえてきて、誰かを励まし続けている。

ゆっくりと流れる時間の中で、克樹が泣いた日のことを思い出した。

 

 俊君との別れは突然だった。

 俊君はある日、克樹が俊君と一緒に入っていたサッカークラブでレギュラーから外されたから克樹のことをいじめ始めた。それがショックだったのだろう。克樹はそのサッカークラブを止めた。




「ねえ」

「なに?」

「克樹のどこが好きなの?」

 不意を突かれた山中くんはページを捲りかけていた手をピタリと止めた。

「言ったら今日は帰ってくれる?」

「満足すれば」

「首」

「山中くんいい趣味してるね」

「首の筋が綺麗だから。真っ直ぐ前を見た時にさ、ピンと張るじゃん」


 学校に忘れ物をする日は一年に数回あるかないかだ。教科書類はロッカーに全部置いてあるし、忘れてもどうにかなるからわざわざ取りに戻ったりはしない。だけど、その日は偶々次の日に親のハンコを貰って提出しなければいけないプリントの机の中にファイルごと忘れて帰ってきてしまった。

 めんどうくさいなと思いながらも、来た道を自転車で引き返した。

 セミが明日死ぬために必死に鳴いている。肌に張り付くシャツは体育の後に塗りたくった制汗剤の匂いと噴き出す汗と混じって変な匂いがした。冷たいシャワーを浴びたあとのすがすがしい気持ちを想像しながらペダルを漕ぐ。


 2年生の廊下はサウナのような熱気を持っていた。静まり返った廊下にすり足ぎみの足音が響く。靴箱のすぐ横にある階段はF組に一番近く、A組である克樹は長い廊下を端まで歩かなければいけなかった。設計する時に両方に階段を付けて欲しかった。風の噂では元々この学校はD組から先は教室ではなかったそうなので階段がなくても問題がなかったらしい。廊下に面した教室の窓からちらほら居残りをして駄弁っている生徒が見える。そのなかの一人が「克樹―」と呼ぶ。席でスマホを弄りながら手を振っている。克樹は窓の枠に腰を掛けた。

「田内なにしてんの?」

「バイトだから時間潰してんの。克樹は?」

「俺は忘れ物取りに来ただけ」

「そっかー。大変だな」


 この夏は人を沢山殺すくらい熱い。学校側も死人が出ては困るので誰かいるならば積極的に冷房を付けようと、冷房促進運動がされていた。それでも設定温度は26度。外にいるよりはマシだが凄く涼しいというわけではない。B組には誰かがいた。だけど、窓が全部開け放たれていて、窓際に一人の男が座って本を読んでいた。

 この気温で冷房を付けないなんで馬鹿じゃないのか。克樹はそう思ったが知らない男だったから通り過ぎようとした。このまま通り過ぎて、プリントを取ってさっさと帰ってシャワーを浴びる。それだけが頭の中をぐるぐると回っている。

 A組には誰もいなかった扉を開けるとむわんとした熱気が体を包む。天然のサウナは克樹の汗腺の穴と穴から汗を吹き出させた。

 自分の席から透明なクリアファイルを抜き取り、廊下に出ると、幾分か涼しいような気もした。それも一瞬のことで教室の扉を閉めるころには暑さに順応した体が暑いと訴え始めた。

 B組の前を通る時、まだ男は本を読んでいた。男は片手で本を読んでいて、左手は手で顔に風を送ったり、シャツの襟を引っ張っている。

 「冷房付けないの?」

克樹が男の前まで行ってそういった時、彼は肩をびくりと揺らして怪訝そうな顔でこちら見た。黒のフレームの奥から、突然話しかけてきた男に対する疑問が浮かんでいる。

 「暑いじゃん、死ぬよ」

クリアファイルで仰ぐと涼しくなるどころか更に周りを循環する空気が重い。

よく見ると、男の頬は火照っていて、白い肌がリンゴのように赤くなっていた。

ぺたりと頬に手の甲を当てると男の頬がすり寄ってきて、猫みたいだった。大して冷たくもない手は火照った男にとっては気持ちが良かったのか無意識の行動に向こうも驚いている。

 滑らかな肌を惜しいと思いながら離す。

 「僕しかいないからもったいないでしょ」

「別に電気代払ってるわけじゃないんだから好きつければいいのに。嵩んだ電気代より救急車呼ばれるほうが迷惑なんじゃない?」

でも、渋る方に痺れを切らして、克樹は冷房のボタンを押した。

冷房の低い稼働音を聞くと、男はいそいそと全開にしていた窓を閉め始めた。

「僕たち知り合いだったっけ」

「いいや。初対面」

「志田くんだっけ」

「知ってんの?」

「そりゃあまあ、なんか色々してるから」

「嬉しいな。名前教えてよ」

「なんかチャラいね。志田くんってもっと真面目で誠実そうなイメージあったんだけど」

「真面目そうなやつが髪の毛染めると思う?」

「それ地毛だってこの前生徒指導の人に言ってなかった?」

「地毛だよ。ねえ縁だと思ってさ、名前教えてよ」

克樹が押すと彼は渋々といった感じで答えた。

「山中碧、帰らないの? 忘れ物取りにきただけなんでしょ」

「よく知ってんね。もしかして聞こえてた?」

ちろりといたずらっ子みたいに舌を出して、おどけて見せる。山中碧は全く笑わなかった。彼の表情筋は凍っているみたいにピクリとも動かない。自分の周りにいる人間は克樹がこうやって見せると、なにかの反応を返してくるのでいつもと違う反応にたじろぐ。




 「これ志田君よね?」

 母は一枚の写真を机の上に置いた。それは、克樹が勝手に撮って現像した写真だった。写真の中では満面の笑みを浮かべてピースをしている克樹と右側が引き攣った不格好な笑みを浮かべている自分が写っている。

母が椅子に座ったので、碧も母の正面の椅子にそろそろと腰を降ろした。母のスマホしか入らないような小さなカバンから二人の楽しそうな写真があと三枚出てきたときには碧は焦りよりも怒りが勝っていた。母が机に置いた写真は自分と克樹と奈々の三人しか知らないはずだった。その誰かから流失したのは明らかだった。

「どうしてこの写真がここにあるの?」

「志田くんのお母さんから頂いたの。この間出掛けた時に撮った写真まだ見てないんですかって、ねえ志田くんと付き合ってるの?」

「どうしてそんな話になるわけ? ただの友達だよ」

ねばついた唾液が分泌され、





「キスしてほしい」

 逢瀬のホットスポットである図書館に来た克樹は、顔を逸らして言う。奈々と同じようにカウンターに腰掛けて、顔を近づけて、返事もしていないのにキスをしようとした。克樹からは甘い匂いがしてまた奈々の香水をつけてきたんだと分かって、それがなんだかフェロモンのように思えた。

 ふいとそっぽを向け、彼のムードのないキスを拒否するとそれ以上はしてこない。

カウンターから降りて、一番近くの本棚から一冊適当に手に取ってカウンターに置いた。

「キスが嫌なんじゃないよ。僕からしたい。それ借りるの?」

囁くように言うと、頬を染めて頷き、本を押し出す。

シリーズものの最新作は克樹が好きだと言っていた好みからは完全に外れている。バーコードを通して、貸出手続きをした。それをわざと彼に手渡さず、手招きした。克樹は赤らめたままの頬を無防備にも碧に近づける。碧は克樹の丸い後頭部をそっと支えると、柔らかい唇にキスをした。ふにっとした感触とオイルが碧のかさついた唇に付く。鼻から洩れる息がこそばゆい。惜しむように唇を離すと克樹のとろんとした茶色の瞳と目が合う。梳かれたくせっ毛の髪をくしゃりと撫で、耳の後ろに指を這わす。克樹の体はふるりと震え、その先にある本能的を大人しく待っている。

「満足した?」

頬に軽いキスをもう一度サービスする。克樹の頬は火傷をしてしまいそうなくらい熱い。放心状態の克樹はぼんやりとした瞳で僕の指の先を見つめたままどこか違う場所に行って帰ってこない。彼から望んだものなのに感想も言ってくれないなんてひどいもんだ。

「……手慣れてる」

「克樹が初めてだよ」

「誰だってそういうんだよ」

そういって、克樹の指のすき間に自分の指を絡めてぎゅっと握りしめる。腕から伝わってくる克樹の鼓動が死んでしまいそうなくらい早い。ドッドッドッドというキス一つで送られる血液の濁流は愛おしい。

「優等生が学校でキスなんてしていいの? 噂されちゃうかもね」

「碧こそ、奈々と付き合ってることになってるんだから叩かれるかも」

「そんなのどうでもいいよ。どうせすぐ卒業するんだから」

名残惜しいが、絡めていた指をほどいて、本を手渡す。

「読むの?」

「読まないよ。俺このシリーズ一冊も読んでないから」

「じゃあなんでこの本借りたの?」

「本渡す時に伸ばした手にキス出来るかと思って」

「そんなにしたかったの?」

「しちゃいけないところでするキスは誰だってしたいだろ?」

「さあ、よく分からないよ」

 僕はカウンターの中から出て、同じタイトルの並んだ本をごっそりと抜き取って克樹の前に置いた。克樹はそれが自分が今読むつもりのないシリーズの最新作と同じタイトルだと気付いて、少し怪訝そうな顔をし、頭を傾ける。

「全部で十巻ある。一冊ずつ返してくれたなら君は十回キスが出来るね」

克樹の返事も聞かずに碧はその本を一冊ずつ克樹の名前が書かれたバーコードに通していく。パソコン上には上限いっぱいの同じタイトルと次に返却期限が表示されている。

 通し終えた本は克樹の前に積み重ねられ、碧はその上に顎を乗せて上目づかいに彼の顔を見つめた。彼の喉が鳴って、上下するのが分かった。碧の胸は期待に満ち溢れていた。

「次の返却期限は十日後です。忘れずに帰して下さい」

図書館委員としての定型文を述べる。

「一日一回のキスなんて随分健康にいいな。延長は?」

「ない」

「まとめて返したら?」

「僕の仕事が増えて、帰る時間も遅くなって、それで君とのキスの時間が長くなるかも」



 「碧さあ、あたしのこと周りに言った?」

奈々は、腰にカーディガンを巻いて、本棚の間をうろうろしている。目当ての本があるかのように本を手にとっては直し、また手に取ってを繰り替えてしているが実のところ彼女には探している本はないのだろう。中身もタイトルも見ないでただ手持無沙汰のためそうしていた。

 今日は、克樹が部活で来ない日だ。彼は引退してからも後輩のためにたまに顔を出してるらしい。そういうところが彼が皆に好かれている理由だろう。勉強もしなくてはいけないと言っていたが結構な頻度で顔を出して助っ人で試合をしている。

 僕が奈々と会う日は克樹が来ない日と決まっていた。奈々には僕の委員会のシフトも、克樹が来る日も全部筒抜けだから彼女は面と向かって話したい時はその時間を狙って来てくれる。ありがたいことと感謝すべきなのか、全部把握するのは止めてくれと言うべきなのかは分からない。今のところはまだ感謝の気持ちが勝っているような気がする。

「僕が言うわけないでしょ。なるべくなら穏便に生きてたいから。あと、名前で呼ぶのは止めて」

返却された本をラックに入れて、番号を確認しながら直していく。そのほとんどが自分が借りた本と克樹が返した本で構成されている。その際に間違って直されているものを抜き取って、正しい棚へと戻してやる。

「だよねえ。あたし最近なんか周りから山中くんと付き合ってんのってめっちゃ聞かれんだけど、どこから洩れてるんだろ」

「憶測でしょ。志田さんが最初の頃絡んできてたからそれでそうじゃないって探ってるだけだよ。ちょっとそこどいて」

ずらりと並んだSFコーナーは驚くほど充実している。この学校は過去にSFマニアの司書がいたに違いない。ぎちぎちに詰まっている本を両手で押しやって一冊分のすき間を作りどうにかして本を押し込む。あまりこういう無理やりなことは本が傷むからしたくはないが、司書から前に最近ラックに本が溜まっていてとやんわり注意されたので仕方ない。

 奈々はその様子を黙って見守っている。彼女は僕がこうして働いていても手伝いもしない。指の先でくるくると髪の毛を巻きつけて遊んでいる。ズレたカーディガンをまき直し、またふらふらと開いている棚に向かった。

 「ちなみにそれ誰から聞かれるの?」

 「それがさあ」

奈々が口を開いたところでカウンターの方から「すみません」と声が聞こえた。僕はその場にラックを置いてカウンターの方へと小走りで向かった。

 ボブカットの眼鏡の女の子がカウンターの前で申し訳なさそうに会釈をすると、碧もそれに釣られて会釈を返し、眼鏡女子はスマホを見せた。

「この本を探しているんですけど」

碧は少々お待ち下さいと言って、急いで自分の特等席であるカウンターに入ってパソコンにタイトルを打ち込んだ。

 検索結果はゼロ。彼女にもう一度スマホを見せてもらいタイトルが間違っていないことを確認してから「ないみたいです」というと、眼鏡女子は落胆した様子もなく「そうですか。ありがとうございます」と言ってまたペコリと頭を下げた。丸い頭頂部が艶のある髪に綺麗な天使のリングを形作っている。奈々のがしがしの傷んだ髪とは大違いだ。

 眼鏡女子は頭を上げ、ずり落ちた眼鏡をくいッと直すと、ゆったりとした動作で図書室から出ていった。

「聞かれてたかな」

奥の棚からひょっこりと顔を出して言った。誰にでも話しかける奈々が気配消しているのは珍しい。背が高くて、髪の毛も化粧も派手だからどこに居ても目立つ奈々が見つからないように隠れているなんてよっぽど僕との浮ついた話を噂されているのが嫌なんだろうか。僕だって嫌だけど。

「さあ? でもいつ入って来たんだろ。全然気が付かなかった」

このオンボロ図書室の扉は空けると酷い音がする。もしかすると、ラックのガラガラという音と奈々のでかい声が被っていた可能性はあるが。

「本無かったんだ」

奈々はカウンターの中にするりと入って、検索結果ゼロのパソコンを指した。奈々が勝手にカウンターの中に入っていることには特に触れないでおく。どうせ、彼女は聞かないし見つからないなら怒られることもない。奈々と出会って変化したことを上げることなら些細なことは気にしないようになったことだろう。悪く言うと図太くなった。

「らしいね。でも珍しい本でもないしどうしても借りたかったわけでもなさそうだった。借りたかったら向こうの図書館にもでも行けばある本だよ」

「知ってる本だったんだ? 向こうの図書館に行けばあるよって言ってあげればよかったのに」

奈々が口の先を尖らせて目を細める。僕は肩を竦めた。

「聞かれなかったから。余計なことは言わないって決めたんだ」

「ふーん、成長したのか退化したのかよく分からないな。対人関係あたしと克樹で終わらせるの可哀そう」

「ほっといてくれよ。僕は学んだんだから」

「避けてるだけでしょ。けど、向こうの図書館ってそんなのあるんだ」

奈々はグロスでベタベタの唇にマニキュアの塗った指をあて、考える風にして窓ガラスに目をやった。その時、廊下の方から足音がしたので奈々を急いでカウンターの中から引きずりだして出る様に急かすと、指を当てたまま窓ガラスの方に引き寄せられてそのまま近くの机の上に座った。

「あるよ。ていうかそこから見えてるよ」

 外の足音はこちらに向かったものではなかったようで、階段を降りる音に変わった。

碧が窓の外を指差すと、奈々はわざとらしく驚いて机の上から飛び降りた。

「どこ!? え!?」

キョロキョロと窓の外を見るが奈々は図書館を見つけられないのかずっと頭を扇風機のように振っていた。

「体育館が見えるでしょ? その向こうの建物。もしかして行ったことないの? うちの学校の図書館が人気ないのあそこにでかい図書館あるからだよ。南門から歩いて五分。カフェスペースもあるし、自習室もここより空調もいい。湿気と埃臭いここより何倍もマシ」

「もしかして山中くん常連だったりする?」

「週に二回通っているのを常連だとするなら」

「ふーん」


 「さっきの続きなんだけど」

 日が沈みかけたころ、奈々は今日は一緒に帰るつもりなのか図書室で大人しく本を開いて待っていた。本といっても絵本だけど。碧は今日は最終下校の六時までのシフトであと一時間もここにいなくてはいけない。概ね作業は終了していて、あとは時間になるまでに適当に時間を潰して入ればよかった。その暇になった頭で先ほどのことを反芻していると一つ気になることを思い出したのだ。

「なあに? このあと図書館に一杯ひっかけに行く?」

奈々はつまらなそうに肩肘を付いて絵本を見たまま、適当なことを言った。碧はそれを無視して続ける。

「さっきの眼鏡女子、どこかで見たことがあるんだけど知ってる?」

「あたしは見てないよ。奥にいたし」

奈々が絵本を持って扉の傍にある低い棚にそっと立てかける。そしてその隣にある絵本を手に取って戻って来た。何を選んできたのか奈々の長い髪の毛のすき間から覗いてみるとミッケだった。どうやら奈々はミッケを一人でするらしい。ページを開いて、口笛を吹きながらミッケをしているとは思えないスピードでページを捲り、本を閉じ「なにこれ、字ないじゃん」と一人で騒いでいる。

「ボブカットで眼鏡の女子なんだけど、あと多分志田さんよりも背が低い」

「あたしより背が低い女いくらでもいるよ。なに? そんなに気になるの? 克樹から乗り換えようって?」

奈々は椅子ごとこちらに向き直ると、長い足を組んだ。

「気になるっていうかどこかで見たことがあるような気がして……」

「そりゃああるでしょ。同じ学校の生徒なんだから」

「いや、最近見た気がするんだよ」

「最近……ねえ」

足を組みかえて腕を組み、頭をだらりと下げた。かすかな唸り声に図書室が満たされた。真面目に考えようとはしているらしい。碧の方でも記憶を探ってみる。

「あ、赤いリボンしてた」

「赤かあ。赤ってことは二年生だよなあ。二年生……あ! あ~分かった。紗香の取り巻きじゃない? あんたがトイレの前で絡まれてた時に一緒にいた紗香の友達にしては大人しそうな女子」

 そういわれて一気に先ほどの女子との記憶が鮮明に蘇った。言われてみれば紗香の隣に居た子かもしれない。

碧と奈々の思考がぴったりと繋がる。碧が頷くと奈々もゆっくりと瞬きをして頷いた。

「なんかきな臭いよね」

「あの子、図書室には結構来てるわけ?」

「いや、さっきも言ったけど近くに大きい市立図書館あるからここにはほとんど誰も来ない。来るのは、図書委員と志田さんと克樹くらい。逆に通ってたら顔見知りってくらい」

「もし、紗香があんたのこと諦めてないとしたら。あたしがここでたまに山中くんと話しているの知ってて、それでよくない噂流しているのかも。どうする? あたしは変な噂流れても気にしないけど、でも、あの眼鏡がこれから頻繁に偵察に来るならいずれ克樹と山中くんのことバレるかも」

「僕はバレても気にしないけど、克樹がそれで嫌な思いするかもしれないのは気に食わないな。ほら、優等生って大変だって聞くし」

「お熱いね。ちょっと理由が粘着っぽいけど。分かった。あたしはしばらくここに来るのを止める。克樹にも帰ってそれっぽく言っとくよ。で、あんたはあの眼鏡が来たら様子を探ってみる。それでいい?」

「うん。助かる」

六時のチャイムが鳴る。図書室では控えめにしているため、くぐもったチャイムが放送で聞こえてくる。碧は足元に置いていたリュックと鍵を持ち、忘れものがないか、再度確認した。奈々は先に廊下に出て、待っていた。今日も彼女は手ぶらで、両手は頭の後ろで組まれている。

「じゃ、僕はこれ返して帰るから。志田さんも気を付けて」

「ああ。山中くんも気を付けてな」

二人は暗い廊下を反対方向歩き出した。





 「おはよう」

 僕たちの関係は告白した後でもなにも変わらなかった。変わったこと言えば僕が志田くんを二人で居るときに克樹と呼ぶようになったことだ。志田くんは克樹と呼ばれたことに気が付かなかった風を装って、「なあに?」と言った。それが恥ずかしさが含まれていることを知っていながらもう一度名前を呼んでやると、はにかんだ。

 だけど、特別感が損なわれるからという理由で普段は志田くんと呼んでいる。どうやら、僕がうっかりして皆の前で克樹と馴れ馴れしい素振りを見せてわけを聞かれるのを嫌がったからだ。それは志田くんが嫌なんじゃなくて、それがきっかけであれこれ言われて、僕が嫌になるのを危惧しているのかもと思ったのでそれを呑んで、変わらず志田くんと呼んでいる。

 「おはよう」

 志田くんはいつも8時20分くらいに教室に来る。ホームルームが始まるのが40分からだからちょっと遅め。そして、前の扉を一度素通りしてわざわざ後ろの扉から入る。碧の肩を叩き、碧が「おはよう」という前に必ず「おはよう」という。なるべくさりげなく見えるように近くにいたクラスメイトにも同じようにおはようと言ってカモフラージュをするが、実のところクラスメイトは気が付いていた。三年生という時の流れ、決まった友好関係の中で、今更接点のない二人が突然挨拶をする中になっていたのだから当然だ。

 「皆に言ってもいいのに」

日直で鍵を閉めるために一人で教室に佇んでいる志田くんにそっと耳打ちする。志田くんは耳に当たる息にぶるりと体を震わせて、「なんだよ。びっくりした」と耳を押さえた。

 「きっと誰も気にしないよ」

「皆はきっと気にしないでいてくれる。でも、俺がそれで山中くんがちょっと避けられたりしたら見てられないかも」

手元の鍵をいじくりまわす。三年D組のタグが付いた鍵がガチャガチャと音を立て、それが酷く耳障りに感じた。どうにも視線がかみ合わない。二人して教科書を見たり、鍵を見たりと通じ合う気が全くない。

「志田くんが見てくれるなら僕はそれでいいよ。目が悪いから、耐えられなくなったら眼鏡を外せば誰の顔も見えないし」

「俺をこと見てくれない山中くんは嫌だな」

「言ってくれる?」

「言って欲しいの?」

「言いふらして欲しいかも」

「また放送しちゃう? 放送委員の特権で」

「全校放送で惚気るつもり?」

「それもいいかなって」

「でもやっぱりみんなには黙ってるよ。まあ時が来たらそれもいいかも。例えば委員会の最後の放送の時とか、あとは、卒業式の代表スピーチとかで」

「それは迷惑だから辞めてほしいな」



 

 「別にさ、志田さんと付き合ってることにしなくても良くない? 友達として志田家に遊びに行っちゃダメなわけ?」

 放課後の図書室で数分前に呼び出された奈々は足を放り出して椅子を後ろの足だけで支えながら天を仰いでいる。

 顔をわざとらしく抑え、デカいため息を吐くと、山中碧はじろりとこちらを見て不服そうな表情をした。

「あんたさあ、呼び出しておいてそんなこと? ラインで聞けよ。答えはノー。絶対ダメ。もう帰っていい?」

すると、碧が「これで」とカウンターに何かをそっと置いた。奈々がおもむろにそちらを見やるとカウンターには一万円札が乗っている。

「情緒がないなあ。世の中のカップルは金でやり取りしないの。ボンボンが。あたしが今日イライラしてるのは、あんたが情報量を差し出さないことじゃない。あんたが緊急と偽って呼び出したから。滅多にラインしないから急いで来てみればこれだ」

「それはごめん。だって、来週克樹の誕生日だから。準備とかしたいし、志田さんライン返さないじゃん。返事は早めに欲しい。で、なんでダメなわけ? 友達として誕生日祝いに行けばそれでいいと思ったんだけど。克樹にも止めてって言われちゃって」

「でしょうね。山中くん。もしかしてうちの事情なにも知らない? うちの母親、克樹に厳しいの本人から聞いてない? あいつサイテーよ。克樹が男を連れてくるとね、友達だろうが恋人だろうが不潔だって言うんだわ。傷つきたくないなら来ない方がいい」

「僕は別に傷つかないけど」

「まあ、でもあたしの彼氏なら来れるよ。来週来たらいいじゃん。克樹の誕生日ってことはあたしの誕生日でもあるし。克樹の部屋でゲームしたいって言えば部屋に入れるよ。あたしは窓から出てったげる。存分にいちゃつきな」



 オレンジジュースをストローで吸い込むと氷がカランと半回転。細長いコップの大半を占めている氷は100%を一分ごとに薄めていく。碧はブラックコーヒーにミルクを入れ、人回し、一口啜るとその一口だけで三分の一が無くなる。

昼間のフードコートは、しばらく歩き回ってようやく開いた席もその後ろからやって来た家族連れに二つ返事で席を譲ってしまったため、親切を握りしめてちょっといいカフェに入ったのだが、そのちょっとが克樹からしてみればちょっとではなかったらしく品の良さそうな定員に申し訳なさそうにしてオレンジジュースだけを頼んでいた。出すから好きなの頼みなよという碧にメニュー表をぱたりと閉じて、立てかけてそれを制した。

 確かにコーヒー一杯千円を超えるのは高級かもしれない。自分の家が一人っ子だからか親は久しぶりに会う時にこういう店に呼び出すから考えても見なかった。脳内で奈々の「ボンボンが」と言ったことが思い出されたが、奈々に渡す予定の一万円をここで克樹がめい一杯甘いものを頬張るのを見るために使うのが最適かもしれないと入ったがどうやらしっかりと割り勘するつもりらしく予定が狂った。

やっぱりお会計の時に無理やり払わせてもらおう。

碧は届いたオレンジジュースを一口飲んで濃さに目を見開き、コップを差し出す克樹を見てそう決心した。碧は克樹が押さえているストローに顔を近づけて一口飲む。果肉をプチプチと歯で潰すと苦みがはじける。コップの淵にはオレンジが刺さっており、それを食べる方がいいのか、飾りなのか分からず、刺したままにしている。「食べないの?」とさりげない誘導をすると「後で食べるの」とまたオレンジジュースをちゅうと吸って、美味しいなあとぼそり呟く。

「やっぱり甘いもの食べようよ」

メニューを開いて、長い名前のケーキを指す。これはどう? あれは? に克樹は最初渋っていたが、それも無駄だと分かってその中でも一番安いショートケーキを指差した。店員を呼びショートケーキとフルーツタルトを注文する。紙に略称で書きこみ、下の紙を剥がすと、控えを机の上に置いて去っていく。

「来週志田くんの家に行こうと思うんだけど、何が欲しい?」

「えー、そんな急に言われても欲しいもんなんかないよ。しいて言うならここを奢ってほしいかな」

「それは、もちろんなんだけど。それ以外で」

「もしかしてだけど、今日わざわざ電車乗り継いでデカいショッピングモールまで来たのってお忍びデートとかじゃなくてこれ聞くためだったりする?」

「うん」

「そんなのラインで聞いてくれたらいいのに」

「志田さんにも同じこと言われた。でも、ラインだとなんかはぐらかされそうで直接聞いたほうがいいかもしれないと思ったから」

 横から「お待たせしました」とお盆を器用に片手の平で持った店員。「こちらショートケーキです」「あ、僕です」というやり取りのあと、つやつやの大粒イチゴが乗ったショートケーキが僕の前に静かに置かれる。残ったフルーツタルトを呆然とする克樹の前に置きごゆっくりと一礼して盆を引っ提げて戻っていく。克樹がなにかを言う前にイチゴに手を付けて交換不可能にするとひな鳥が親鳥の真似をして給餌を学ぶかの如く、自分のタルトに乗ったイチゴを控えめな口で啄んだ。舌先の赤さがイチゴ色に染まると、唇に付いた酸味を舐めとるためのただの行為すらも補正が掛かる。

 「美味しい、ね」

 口に手を当てて、行儀よく次のフルーツへと手を伸ばす。タルトなんだから生地も一緒に食べればいいのにという指摘はおそらく、タルトにはもったいない。

「僕は克樹になにか贈りたいんだけど、こんなケーキ一つじゃなくて」

「俺の誕生日に用意されるケーキより立派だよ。これがデートじゃなくて下見だっていうんだから本当に碧は嫌な男。俺勘違いしそう。誕生日にはサプライズも待ってないし。はぐらかされるって分かってるなら、無理やり押し付けちゃえばよかったんだよ。甘いよね碧は」

ぐうの音も出ない指摘に、ぐうと鳴きそうになる。鳴きだしそうになる喉に甘ったるいスポンジを詰め込んで蓋をしてしまえば発声のための気道は次の呼吸を出迎えるために飲み込むことに専念することになる。

 嫌な男と呼ばれたことに軽くショックを覚える。

 あと、勘違い男にも。

 テーブルに肘をつき手に顎を乗せて、上目遣いに残念がる克樹に弁明をして、違うんだと言いたくなる。誠実な言葉を掛けて、やっぱりデートだったんだけどとも。

「嘘だよ。そんなに真に受けないでよ。碧が学校の人に見られないように選んでくれたのも、あえて言わなかったのも分かってるから。初めてだから記念は絶対失敗したくないもんな」

「皆まで言わないでよ。なんだか配慮した僕が間抜けなやつに見えるだろ」

「その配慮が実際間抜けだったんだからしょうがない。俺なにが欲しいんだろう。ピアスとか?」

「ピアス開けてたっけ。付けてるところ見たことないけど」

 薄い両の耳たぶにはまっさらな土地が広がっている。

「一応、開いてる。でももうだいぶ塞がってるかも。奈々がさあ、自分の開ける時に開けさせてくれっていうから。部活してるから絶対つけないって言ったんだけどな」

両手を合わせて、頼みこむ奈々の姿がありありと想像できる。それに、はあまあと曖昧に流されて、無駄になるのにと言いながら大人しく了承する克樹も。

 克樹は右の耳たぶをそっと撫でた。薄い皮膚に爪を立て、穴の凹凸の感触を確かめる。そこに印をつける様にして跡を残すとまるで宝の地図みたいに穴の開いた場所が可視化され、薄い膜に覆われた小さな傷跡もずっとそこにあったかのように思える。

「右に空いてるの?」

「いんや、左」

左耳には、爪の跡がないから本当に開いてるのか分からない。今の思わせぶりの手つきはなんだったんだと言いたくなる。

「ピアスっていったら開けてつけるまでが一個の儀式じゃん。もちろん碧が開けてくれるよね」

にんまりといたずらっ子の笑みを携える優等生は今だけその皮を捨て去り、健全な不良少年へと変化する。いや、健全とは言えないのかもしれない。

「開けたことないよ」

碧のささやかな抵抗は左耳の存在によって一蹴されてる。すでに奈々の手によって開けられた穴がこの場において二人はピアス初心者であり、誰も開けたことがないことを物語っている。意味のない不毛なやり取り。

「怖いの? 穴あけパンチ押すのと変わらないから大丈夫だって。俺耳たぶ薄いし」

「そんな心配してないよ。ただ……」

もし、何か事情があって克樹と別れることになったら、自分は克樹に傷だけを残して去ってしまうことが嫌だった。たった針一つ分でも。消えないものを相手に残すのはあまり好きではない。

 克樹は察してか、尻切れトンボのままだんまりとした碧にへらりと笑う。

「心配しすぎだって。俺たちがどうにかなることは確かにあるかもしれないよ。俺が開いた穴見て嫌になることもあるかもしれない。でも、開けた瞬間はきっと幸福だし、俺も同じように出来たら、傷くらいなんてことなくなる」

温かい、すべすべした手が右の耳に触れた。側面に這わせた指が短い耳たぶに到達するには時間は要さない。穴を開けるには不向きのスペースに人差し指が当てられ、こそばゆさから身を痙攣させた。

 「誕生日失敗したくないんでしょ? 良かったね相談しておいて。俺、楽しみにしてる」

グラスを持ち上げると結露が滴り落ちる。水っぽくなったオレンジジュースの残りをストローで一気飲みする。フルーツタルトはまだ残っているのに、二人のテーブルから飲み物だけが無くなった。克樹は店員を呼び出しボタンで呼ぶと、カプチーノとカフェラテを一つずつ頼んだ。

 うさぎの形に切られたリンゴを碧の唇にくっつけ、彼が小さく口を開けた隙にねじ込む。タルトからはまた貴重な果物だけが消え、剥げていくのを咀嚼しながら見守る。

 満を持してタルトの本体は克樹の口に中に入れられ、バターが濃くて美味しいという感想を頂いた時には傍に二人分の飲み物を持った店員が立っていた。この純粋な感想が彼女を伝って厨房に伝えられることだろう。



 朝、起きたらラインの通知が一件届いていた。送り主は奈々からで、タップして開くと今日の放課後図書室集合とのことだった。碧はその文を二度読み返した後で、今日は委員会はないよと返信してスマホを切った。

 着替えをしている途中にピロンと音が鳴る。一瞬表示されたポップアップには、『そんなことは分かってるんだよ』とスタンプが二件。既読を付けると長くなりそうだから、学校に行って返信することにした。

 

 学校に着くと、すでに校門に問題の人間が立ってこちらを睨んでいて驚いた。さすがにこれは予想していない。まさか遅刻、早退常習犯の奈々が自分よりも早く来て校門でまばらに登校している生徒にガンを売っているのだから。何も知らない下級生は鋭い視線とかち合わないように地面を見ながら早歩きでその場を通りすぎる。自分もそうしようかと迷っていたが迷っている間に奈々の視界に入ってしまう。

「おはよう。珍しいね」

「あたしのライン見た?」

「図書室集合でしょ? 既読は付けてないけど見たよ」

「それは見たって言わないんだよ。じゃあその後、送ったのは見てないんだな」

見てないと素直に答えると、奈々は見ろよとぼやいた。

「学校着いてから返信しようと思ってたから」

「あっそ、克樹が山中くんが学校でスマホ触ってるの見たことないって言ってたから絶対会えるように芝居売ったのに」

こんなという腕には生徒会の腕章が嵌められていることに碧がようやく気が付くと、奈々は呆れて碧の肩を軽く小突いた。

 「どうしたの?」

「今日、挨拶運動で生徒会の奴らが校門に立つらしいから友達に頼んで借りた。もう少ししたら生徒会来るよ。そしたらあたしは友達にこれ返して、教室戻る」



指定された通りの言葉を図書室の前で偶然を装った出会った奈々に言う。奈々は頭を掻きながら、いやーほんと頼むわとそれっぽくアドリブを入れて図書室の中に先に入っていく。図書委員が軽く会釈をすると、自分がいつもそのように接していることを思い出してなんだか恥ずかしくなる。

 奈々は図書室に通っているおかげで図書室で目が届きにくい席を熟知している。迷うことなく、本棚の裏に一組だけある四人用テーブルに座る。彼女は隣の席にスクールバックを置いて、「いやーほんと助かったわー」と小声で言う。碧は彼女がスクールバックを置いた席の前に静かに腰を降ろして、謙遜の言葉を返す。

「中間ぼろぼろだったから教えてもらえるなんて」

 志田さんのお母さんは、今日彼氏である碧が家に遊びに行くことを許したそうだ。だけど、志田さんが断られることを前提に昨日の夜、突然伝えたために夜ご飯の用意をしていないと騒ぎ立てた。奈々がそこまではいらないと言うと、母は強引に押し切った。かくして僕らは空いた時間を埋めるために志田さんと校内に残ることになったわけだが、志田さんが他の人に仲良く居残りをしていることをバレないために図書室で勉強を教えてもらうというシチュエーションを取ることになり、それが今現在のこのこそこそした行動の全てである。

 ちなみに克樹は先に家に帰って部屋の掃除をしているらしい。昨日もめちゃくちゃ掃除機掛けてたのにとこっそり教えてくれた。あと、クローゼットの中のちょっと怪しい本のことも。そんなこと知ってどうしろっていうんだ。

 「で、これからどうするの? 本当に勉強するの?」

「するわけないでしょ。あたしは適当に今日の分の課題をやって寝る。山中くんはお得意の読書で時間潰して。六時に家に帰るって言ってるから五時のチャイムなったら学校出るよ」

スクールバックの中から透明のクリアファイルを取り出して、プリントを三枚抜き出して、机いっぱいに広げると、奈々は自分の名前を纏めて記入した。記入したプリントの一枚を手元に残して後の二枚を端に揃えて置き、考えることもなくすらすらと問題を解く。その手は答えを最初から知っているかのように淀みない。

 あっという間に一枚を解き終え、二枚目も三枚目も同じように空白を埋める。碧が口を挟むまでもなく、宿題だというプリントは完璧な答えを持ち、丁寧に透明なクリアファイルに収納される。

「授業出てないのにこれって神ってやつは酷いよ」

碧が一つ嫌味を言って見せると、奈々はその言葉はもう聞き飽きたという風に「だからあたしたちは双子なんだよ」と言った。

「二人で一つって言葉はプレゼントをケチりたい親しか使わない」

「ケチられたことあるんだ」

「あるね。山ほど。小さい時のあたしは蓋にでかい宝石が付いたかわいいリップが欲しかったのに、二人で一つだから薬用リップしか買って貰えなかった。だから、克樹を殴って変わりばんこで誕生日を貰うことにした」

「志田くん殴ったんだ。可哀そう。あとで志田くんの頭撫でておかないと。きっと腫れてるよ」

「あたしも殴り返されたんだけどな。撫でてくれねえの?」

「嫌だよ。唾でも付けときなよ。必要ならそこの棚にある医学書持ってきてあげる」

「冷てえの」

奈々の視線はそこにある医学書に向けられた。だけど、興味なさそうにちらっと見ただけで、立ち上がりも碧にとって来いと指示することもなく、机にべたりと上半身を付けた。

 机が奈々の髪で覆いつくされて、古い蛍光灯の弱弱しい光を受けて、オレンジ色に光っている。柑橘の匂いも相まって、そこにみかんがあるように錯覚してしまう。奈々はもうずっと柑橘の香水を振りまいていた。曰く、弟と同じ匂いを使っているのはシャンプーが同じようで気持ちが悪い。別に同じ家に住んでるんだからシャンプーくらい同じだろうというと、この艶にいくらかけてると思ってるんだと怒られた。確かに、克樹の髪は少し光の反射が弱いかもしれない。光の反射は髪の長さに比例するものだと思っていたか危うくそう反論しそうになって思いとどまった。

 それから、本当は奈々のものの甘い香水は克樹の匂いとして定着した。あの甘い匂いはキツイわけではないのにフェロモンのようにどこに克樹が留まっていたのかを痕跡として残す。碧はそれをかぎ取って、克樹を捜し、克樹もまた碧の海外で使われている独特な柔軟剤をかぎ分けるのだ。

 奈々の髪をひと房掬いあげると、奈々は抵抗を見せない。髪を触られることが嫌なわけではないようだ。彼女らは双子だから奈々の髪を触っていると、不思議な感じがする。克樹の髪が長ければ、それだけ自分が触れる面積が大きくなるから、克樹も髪の毛を伸ばせばいいのにと思う。

 毎日、丁寧に時間をかけて克樹の艶の維持のために汗水たらしてドライヤーを掛けることはきっと幸福だろう。奈々の髪を触っているとそういう気持ちになる。きっと僕は克樹が髪の毛を今以上に短くしても特に気にしないけど、奈々が克樹のように短くしたら怒るんだろう。僕は長い髪の志田さんしか嫌だと駄々を捏ねるんだ。それは奈々の髪の毛に対してではなく、克樹とそっくりになってしまうから嫌なんだ。

「髪の毛をよく触る人は不安感が強いってのがあるんだけど、もしかして緊張してる?」

奈々は言葉を吐くと彼女の口の近くにある髪の毛がぶわっと持ち上がる。それをうっとおしそうに手で払いのける。

「志田くんが髪の毛長かったらいいのにって思ってただけ」

「人の髪無断で触っておいて失礼なこと考えるなあ。でも、緊張してないんだ?」

「うん」

「しておいた方がいい。もしかしたらうちの親君に凄く酷いことを言うかも。これ前もいったけどさ。傷ついてもいい鎧は髪でもなんでも必要かも」

「今更髪の毛は伸びないけど……まあそうならないように願っておくのもいいかもね。占いの本でも取って来るよ」

 碧はそういってなるべく静かに椅子を引いて立ち上がった。古い座り慣れた椅子は碧の行動に反してギシギシと音を響かせる。カウンターの方をちらりと見ると、今日の当番はスマホに釘付けで、真剣に画面を叩いていた。


 「聞いておきたいんだけど、もし、克樹との関係がばれたら僕は無理やり別れさせられたりする?」

 「するんじゃない? もっと酷いかも。学校中にあんたがゲイだってこと言いふらして、そんで親にも事情を説明するかも。あなたの息子さんが男のこと好きだって知ってました? って」

 奈々は重そうに頭を持ち上げて、肘をついた。

「そう。思ったより大したことないんだね」

「大したことない? いいの? 山中くんが求めていた平和で卒業がもう出来なくなるけど」

「いいや、僕なんでもいいかも。ゲイだってことも志田くんが好きなのも今更変えられないから。なら、卒業式で志田くんの名前を呼んで、正面から抱き合って泣くほうが綺麗かもしれない」

「ふーん。それもいいね。あたしは写真撮ってあげるよ。そうなってもならなくてもあんた達二人が抱き合って泣く写真」

 チャイムが鳴る。低くくぐもった音が頭上で三年聞いた音とは違う音を奏でる。全てに濁音が付いたような重そうな音色は奈々を立ち上がらせ、およそ誕生日会をするとは思えない戦地に向かう戦闘兵のような雰囲気に仕立て上げる。

 「ほら、ぼさっとしてないで帰ろう」

 奈々の所々がほつれたカーディガンが碧のブレザーを弱々しく掴んで引っ張った。碧は右肩にリュックを掛け、引かれるままに歩を進める。上履きがきゅっと音を立て、奈々はもう碧のブレザーを掴んではいない。カウンターには誰も座っていなかった。いつ、当番がいなくなったのか、二人には分からなかった。もしかしたらこっそり帰ったのかもしれない。誰もいないカウンターの前をそこに誰もいないことに気が付いていないように奈々は大股で通り過ぎていく。自分で扉を開けて、碧がその扉を閉める。そのたくましい信頼関係、あるいは傍若無人さに感涙すべきだ。そうして、碧は奈々のストーカーのように三歩後ろをついていった。



 

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