第6部
姉さんが東京から帰ってきた。「文科、父さんの具合はどうなの!」
「それがね・・・。」
父さんは単身赴任先の寮で割腹自殺を試みた。
姉さんと二人ドクターから説明を聞いた。
「警察の話ではお母様が発狂された事を苦にした事による突発的な行動だったようです。手術は成功しました。お父様は腹部を十字に切っており、臍部の周辺は痛みが強かった為か傷はそれ程深くなく小腸へのダメージは少なかったのですが、大腸が深く傷ついており一部摘出せざるをえませんでした。これからはオストメイトとして暮らして行く事を余儀なくされるでしょう。」
オストメイト・・・。介護の仕事に興味を持っていたボクには多少知識があった。オストメイトとは人工肛門・人工膀胱保有者の事で、腸の疾患、外傷等の為、腸の一部を切除し、腸の切断端を体外に出して腹壁に固定して便を体外に排出するようにした人工の排泄口の事でパウチの中に便を溜める。
「これからどうなっていくのでしょうか?」姉さんは医師に聞いた。
「腸内洗浄という方法があります。それを行えば便をしばらくの間排泄しなくても善くなります。ただ極度のうつ状態で精神科で診てもらったほうが良いでしょう。職場復帰はそれからです。」医師はそう告げた。
「どうして家ばっかり・・・。」
「姉さん心配しないで。お金ならボクが稼ぐから。」努めて明るい口調で言った。
母さんが発狂したのは三年前。ボクが受験を控えて大事な時。あの時はとにかくレベルの高い高校に入って姉さんみたく東大を目指したかった。しかしボクはボンクラだった。家庭環境のせいにして怠けてばかりいた。それで精神のバランスを保っていたのかもしれないが。姉さんは市内で一番だという進学校に入って必死で
勉強していた。小説家になりたいといつも言っていた。母さんの事があって私もそういう病気になるかもしれないと脅えていた。発狂する前の母さんの様子を見ていればそうなるのも仕方がなかったかもしれない。
部屋にこもって耳栓をしてプルプル震えて何か呟いている母。
両手を合わせて高く伸ばし念仏を唱えている母。
私は不貞を働いたからエイズになったという母。
最後には素っ裸で家を飛び出して警察に保護された。
ボクと姉はその様子をリアルタイムで見ている。
姉が精神分裂病(今は統合失調症と呼び方が変わったが)という病気に恐れを抱くのも仕方がない事だったかもしれない。
しかしボクは気にもとめていなかった。姉はガリ勉で友達も少ない様子だったが、ボクには仲間と呼べる存在がいたから・・・。ただボクは土壇場で捨てられる悲しい道化師で、相手は完全に心を許してくれていなかったかもしれない。一方通行な好意。ボクのテーゼなのだろうか。
父さんは精神科に入院することになった。姉は東京に帰って勉強を続けるという。バイトしながら。高校卒業までに必ず百万円渡すからと約束をして別れた。家には父方の祖父が常駐する事になった。
もうヨボヨボで頼りになりそうもなかったが、それでも晩ご飯だけはいつも用意してくれていた。ボクは学校と部活を終えたらパチンコで稼がなければならず家に帰るのは十一時は必ず過ぎていたが、爺ちゃんは必ず起きて待っていて夕食を食べなさいと言ってくれた。
わかばを吸っていて痰がからむのかいつも咳払いをしていた。ゴホン、ゴホンと。味噌汁に痰が混入していた事があった。さすがのボクも泣きそうになった。自分が可哀相だと感じた。不条理は感じるが、自分で自分を抱きしめたい気持ち、そんな感情を味わったのは初めてだった、かもしれない。
学校でも辛い事があった。クラス替えで勇とも立川君ともへーハチローとも猛とも違うクラスになってしまったボクはいきおい孤立しかけていた。
ある日突然の事だった。へーハチローが「文科、俺お前と友達止めるわ。」と言ってきた。
「え?なんで、なんで?」
「俺バイト始めるんだ。社会勉強しなきゃ。お前みたいにその場しのぎで将来の事考えて無い奴と付き合ってたら損をする。」
確かにそう言ったが、聞いたところによると、ブサイクなのに女が近寄ってくるあいつは許せない。俺とは住む世界が違う。顔が嫌いなんだ。あいつと付き合ってたら顔の良い俺が損だ、と損をするのは同じだが、どうやらボクのルックスが気に入らないらしかった。
驚いた。そんな理由で友達関係を解消しようなんて言う奴だとは思ってなかった。それからは話し掛けても返事をしてくれなくなった。「なんで?なんで?」そればかりだった。
それからボクは部活に以前にも増して打ち込むようになった。正直マイッテイタ。部活の友達だけが、サッカーが心の支えだった。春の高体連予選、忘れもしない二回戦市内最強とうたわれるT高校にボク達は1-0で勝利した。今思えばこれが人生で一番楽しく幸せで栄光に満ちた1日だったかもしれなかった。
ボク達は破竹の勢いで全道大会に出場した。優勝は出来なかったが夏の高体連のシード権を獲得した。そして夏、進学校に在籍するボクらにとって事実上最後の大会となる高体連が始まった。2回戦。相手はまたも因縁の市内最強T高校。炎天下の中の試合だった。前半を終えて0-0。疲労はピークだった。汗だくで頭がポーっと
した。
ピー。後半開始のホイッスルがなった。とにかく走りまくろう。そう思っていた。勝たなきゃ。絶対。いや勝ちたい。しかし思いとは裏腹に得点のチャンスは来ない。圧倒的に攻め込まれ防戦一方のボク達。時間がどんどん過ぎ去って行く。みんなギリギリだ。応援してくれる人達の気合さえ絡みつく糸の様に脳みそを不快に刺激するように感じた。このままでは負ける。PKに持ち込むしかない。
立川君のスーパーセーブがなければゆうに3点は取られてる。
一良も優真も信太も最高のパフォーマンスを発揮している。後10分、5分、3分、2分、1分。ロスタイムが恐ろしく長く感じた。ピー。後半戦終了の合図だ。勝負はPK戦となった。
順番は優真、宇津さん、貴文、ボク、一良の順に決まった。どちらのチームも3人目までは無難に決め、ボクの順番が回ってきた。
右に蹴るか左に蹴るかボクは迷っていた。優真はど真ん中に決めたがボクにはそんな勇気はない。とにかく丁寧にコーナーをついて、そう考えていた。少し助走を長めに取る。これは思い切り蹴ると見せかけるためのカモフラージュ。GKの目をジーっと見つめた後「ふー」とため息をついた。決める。走り出す。左足の踏み込みはゴールマウスの左側を狙う為に左に向ける。そう見せかけた。
右サイドにインサイドキック、頼む。蹴った。きっちり右端のギリギリにコントロールされたボールの行方を確かめると同時にGKが右に飛ぶのが見えた。しまった!と思った時にはボールはゴールマウスから弾き出されていた。「外した・・・」みんなの所へ戻る。宇津さんに一言「文っち、弱いよ。読まれてた。」静かにそう言われた。
T高校の4人目は決めた。一良も冷静にネットを揺らした。最後5人目。立川君が止めてくれればサドンデスになる。(止めてくれ。頼む、立川君!)ボクのせいで負ける。それはあってはならない事だ。また捨てられる。怖い、そう思った。
T高校の5人目がボールをセットする。そしてホイッスルが鳴る。思い切りシュートした。立川君がボールと同じ方向に飛ぶ。止めた!そう思った瞬間、立川君の手を弾いてボールはゴールマウスに吸い込まれた。
ボクはフラフラとベンチに戻る。「みんな良くやったな。」吉永先生が言った。貴文と一良と優真と信太がやってきて「この下手くそ!」と言ってボクを抱いてくれた。ボクは泣いていた。宇津さんは憮然とした表情で、それでもみんなに「俺の責任だ。ストライカーが一点も取れないんじゃ負けても仕方がない。」そう言った。 誰もボクを責めなかった。逆にそれが辛かった。
秋、最後の集合写真を撮った。みんなで決めた、みんなの汗がしみこんだユニフォームを着て最後の。ボクはいっちょ前の男の顔になっていた。
冬、それぞれがそれぞれの道に向かって歩み始めていた。ボクの初体験の相手、それは幸か不幸か理子ちゃんだった。理子ちゃんは既にM大学への推薦入学が決まっていた。ボクはと言えばセンター試験の成績が最悪でどこの大学にも入れそうにもなかった。そんな時、猛が顔の広さを利用して息抜きに自分の家でパーティでも
しようと言ってきたのだ。男女合わせて十人くらい集まっただろうか。その中に理子ちゃんもいた。知らない奴もいた。でもボクの事は知られていた。「パチンコで稼いでる文科君だ。」もうボクの代名詞だ。猛はサッカー部のあの事件を知っていながら懲りずに酒を出してきた。
「飲もうぜ」若者はどうしてルールを破る事に快感を覚えるのだろう?ボクも同じ穴のむじなだ。
「私も飲もうかな」意外な事に理子ちゃんがそう言った。進路が決まってハメをはずしてもよい気分だったのだろうか?
肝心の理子ちゃんはというと酎ハイを一杯飲んで、吐いていた。下戸らしい。「文科くーん。膝枕してくれる?気持ち悪くてー。」甘えた声でそう言われた。髪を撫でてあげた。気持ち良さそうにしていた。
どちらともなく抜け出してラブホテルに行った
僕ら無我夢中で、高濃度の酸素の中にぶちこまれたような爽快感と、男女の湿ったくぐもりの不快感。そして終わった後の喪失感。全てを知ったような気持ちがしていた。2人はこの世の終わりを明日に迎えたかのように震える心を重ね合わせ眠りについた。
早朝、僕は二万円を支払い、先にチェックアウトした。寂しかった。
とても寂しかった。記憶は泡沫の夢。朝方、橋の上から見下ろした線路を走る列車に「ウォー」と叫んだ。
卒業してから理子ちゃんに会うのはそれから何年も後の話だ。2人の関係は1夜限りに、ボクがそう望んでいたからだろう。
実は理子ちゃんとHする時は僕は部屋の電器を消した。
「恥ずかしいでしょ」そうは言ったが僕の秘密に気付かれたら確実に嫌われる。それは性病なのだが尖型コンジロームだとばかり思っていた。伝染したら困るから、もちろん僕はその時童貞だったので
どうして性病に?という疑問もあった。10年くらい経ってようやくフォアダイスという害のないぶつぶつだという事を知ったのだが。日本人男性の30%くらいが思春期には発症しているらしいかった。
何か大きな事をやってみせる。男になったからには。とは言うものの学校を卒業してボクはプラプラしていた。高校で金は稼いだ。しかしこれだという仕事はなかった。
夢があれば人は強く生きられる。そんな言葉を頼りに日々暗中模索。ボクはこの頃から一人でいる事が多くなった。友達が一人また一人いなくなっていくのは身を切られるような思いだったが、ボクには人と繋がれる手段がなかった。正確にいえばパチンコもサッカーも自我を守る為の鎧みたいな物である意味何もしてなかったようなものかもしれない。
タバコを覚え、たまに酒を飲み、今まで見えていた自分の鏡に映る姿が曇りガラスに遮られているような、そんな気がして自分を見失いそう・・・。それは目的を持てない青年がみんな通る道だという事に気付く術はなかった。
そこでボクは母の病院に見舞いに行く事にした。正直彼女の病気についてはなんの知識もなかった。精神分裂病という何か怖い名前の、得体の知れない霊に取り付かれたあちらの世界に行ってしまった人の事を指すのだと思っていた。
母は元気そうだった。「文科、元気だったかい?大学は順調?」「大学は行ってないんだ。会うのは3年ぶりかな。でも前来た時は母さん寝てたから。」「そうなの。頭が良い子だからね。浪人してもいいから大学行きなさい。」何々しなさい、何々しなさい、何々しなさい。昔からちっとも変わってないように思えた。
「母さんの期待に添えるように頑張るよ。じゃあね。」同室の年齢不詳の女が鋭い視線でこちらを見ていた。
ボクは帰り精神病に関する書物を山ほど買った。書店の店員が奇異な目で見るほど……。しばらくの間読みふけってノイローゼになりそうになったが大体の事はわかった。
父さんの入院している病院にも行く事にした。母さんのように閉鎖病棟ではなくみな普通の人のような感じがした。ただ表情は生気がなくその点健常者とは違う所だった。
父さんは介護福祉士にパウチの交換をされている所だった。「文科見ないでくれるか。俺の傷を。」「うん、わかった。」 それはきっと心の傷の事も言っている。たぶん。チラッと見た腹の十字の傷。自殺未遂を図ったのは本当に母さんが発狂したからなのか? それだけではないような気もする。それだけでやってしまった、そんな気もする。
父さんはいつも笑顔を絶やさない明るい人だった。僕が中学を卒業する時まで。母さんの事も受け入れていると思っていた。それが何故?
「父さん何故自殺未遂なんてしたの?」と聞く勇気はなかった。
「文科、退院するまでには少し時間がかかりそうだ。まだ死にたいという気持ちがある。お金の事は姉貴に頼んである。浪人してでもいいから姉さんみたいに大学に行け。」
母さんと同じ事を言う。しかしボクは自分の脳に異変を感じ始めていた。
友達といても会話が出来ない。忘れっぽい。人の話してる事の意味が理解できない。
ただする事もないし、最大手の予備校には行く事にした。授業はさっぱり理解できず、新しい友達もなかなか出来ない。それでも我慢して半年通った。
そして行くのを止めた。
一人暮らし。家に籠る様になった。不眠気味だった。正直、オナニーばっかりしてた。女の事?それは考えてなかったか。どうだったか。PCのエロゲーがオカズだったから。
二次元に興味を持ってしまった。ありがち?不潔だ。犯罪者になるんじゃないか。そう思ったら女性の裸を思い浮かべる。でも綺麗だったなとだけ回想してみても性欲、そう正常な性欲のインポテンツなんだ、きっと。 そういう結論。オナニーも次第にしなくなった。電器店で18禁のパソコンソフトを買う度に女性店員が「あら、この子」みたいな笑みをいつも浮かべるから。18だから恥ずかしくはない。そういう時には勇猛。何が悪い。でも僕は考えた。女にナメられる、それは悔しい。
次第にボクは2人目の女性を獲得する為には、顔が大事。なんといってもそうだろう。なんだかんだ言ったってやっぱり顔はカッコ良い方がモテるに決まってる。そう考え出した。