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ACT.2 〜耳に残るは君の歌声〜

 9月24日 午後11時12分ーー。


 秋季ともなれば、夜間は特に冷えるようになってきた。

 コートを羽織っているとはいえ、フォスティスの背にしがみついて馬に跨ったヴァレリアは寒さで凍えそうだった。震える両手はしっかりと若き騎士団長の腹部に回され、振り落とされないよう力を込める。

 よほど急いでいるのか、それとも女性を乗せて馬を走らせたことがないのか。とにかく彼は容赦なく馬を駆けさせた。


 騎士の詰め所に到着した頃には、すっかり気を落ち着かせることが出来たヴァレリア。それまでファントムに対する情報収集をしなければ……と息巻いていたが、今ではシュタイン邸での様子に思考を回す心の余裕さえ出来ていた。


(今頃、どうしてるだろうか……)


 ファントムの邪魔が入ったことで、途中で電話が切断された出来事を思い出す。

 シュタイン家の執事であるレイリーは、きっと不審に思ったに違いない。ファントムに向かって投げた言葉の通り、レイリーは今頃ヴァレリアの足跡そくせきを辿っていることだろう。

 ヴァレリアがタトゥー専門店に向かったことは事前に伝えてある。しかしそこに辿り着いたとしても、その場にあるのは荒らされた店と、取り調べに当たっている騎士がいるだけだ。

 恐らくヴァレリアの行方は、フォステイスの部下が説明してくれるだろう。レイリーが迎えに来るまで、自分はこの詰め所でファントムに関する情報を仕入れておくつもりだった。

 それでもヴァレリアの気持ちは他のことに散っていて、居ても立っても居られない状態だ。


(歌が聴きたいわ……)


 詰め所の奥にある暖炉前で、フォステイスに椅子を勧められ腰を下ろす。

 冷え切った体に暖炉の温もりは、この上ない安らぎを与えてくれた。しかしそれはあくまで肉体的な癒しであり、精神的な癒しはシュタイン邸でしか得ることが出来ないことを、ヴァレリアは十分理解している。

 だからこそ、ここでの用事を速やかに終わらせ、レイリーの迎えと同時に帰るつもりでいた。

 思えば随分と頭の切り替えが早いものだと、不思議に思った。ーー死を経験した直後だというのに?

 何より「時間を逆行する」という、にわかには信じられない不可思議な体験もした直後なのに?


(違うわ、むしろ逆ね。死を経験して、生きていた頃に時が戻って……。まるで夢でも見てるような感覚になっているせいかも……)


 誰に話しても信じるはずがない。経験したヴァレリア自身がそうなのだから。しかしこれは事実であり、現実の出来事だ。

 そんな超常的な経験をしたから、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。まるで非日常が、日常に起きた出来事のように錯覚してしまってるのだろう。

 連続殺人鬼ファントムに遭遇し、殺され、時が戻り、そして再び対峙し……。

 そんな現実に起こり得ない出来事の連続で、心が麻痺してしまったのだ。

 だからとにかく今は「早く帰って安らぎを得たい」と、強く思う。


(あぁ、でも……この時間だとエドナはもう寝てしまってるわね)


 フォステイスから温かいコーヒーをもらい、両手でカップを受け止める。氷のように冷たくなった指先が、カップの熱でじんわりしてくる。一口すすり、喉を通るコーヒーが全身に沁み渡るようだった。

 これだけでも安らげるが、ヴァレリアの意識はもうずっと我が家にある。暖炉の火、熱々のコーヒー、ゆったりと座れる肘掛け椅子。

 命懸けのやり取りと、寒空の下を馬で駆けて来たことにより消耗した体力が、ゆっくり回復してくるのを感じる。

 両目を閉じて、また一口コーヒーをすすりながらヴァレリアは思いを馳せた。


 あれはそう、自分が他の者とは違うと自覚した歳の頃。

 幼いヴァレリアが自身の異常に気付き、一生心が動くことなんてないと思っていた。

 そんな時に出会った、一人の少女……。


 ***


 約9年前ーー。


 ヴァレリア・シュタインは10歳の誕生日を迎えた。

 同時に父親から思いも寄らぬ告白を受ける。


「ヴァレリア、お前の誕生日というめでたい日にもう一つ。嬉しい報告が出来て嬉しいよ」


 ヴァレリアの父ゲラルト・シュタインは、娘の誕生日に自身の再婚の話を切り出した。嬉しそうに、幸せそうに紹介する父の姿にヴァレリアは何も感じなかった。

 恐らく「ごく普通の少女」ならば、自分が主役であるべき誕生日当日に他のめでたい話をされたら、怒り狂って当然のはずだったろう。しかしヴァレリアの心は露とも動かなかったのである。

 学園の友人や保護者もパーティーに呼んでいる。そして彼らはヴァレリアの心情を勝手に代弁するかのように、ゲラルトを非難する眼差しで見届けていた。その光景は、張本人であるはずのヴァレリアも目にしている。

 しかしまるで他人事のように、ヴァレリアは感情を揺さぶられたりしなかった。


(あぁ、やっぱり私は心が死んでいるんだわ……)


 思えば心当たりはいくつかあった。

 最初に自覚したのは、ヴァレリアの実の母が病に倒れ亡くなった時だ。当時7歳であったヴァレリアは母親の死を理解していなかったと、本人も周囲の者もそう受け取って見過ごしていたところがある。

 それ以前にもおかしいことはいくつもあった。毎年ヴァレリアは誕生日を祝ってもらっていたが、母親が健在だったにも関わらず、とうとう一度も笑顔で迎えることがなかったのである。

 まるで自分のことではないように、嬉々とした表情を顔に出したことがないーーそんな少女だった。

 そして母親が亡くなった時も、ついに悲しみの感情を表すことがなかったことで、いよいよ自分はおかしいのだと感じるようになったのだ。

 愛情たっぷりに育ててもらったはずの、実の母親に対してさえヴァレリアは感情を揺さぶられることがなかった。

 その出来事がきっかけで、シュタイン家の者はヴァレリアに対して抱いた感情は様々だ。

 侍従はヴァレリアのことを「可哀想」だと嘆いた。母親を失ったショックで、心が壊れてしまったのだと結論づけた為だ。

 友人達の反応も同じようなものだったが、一部では感情の起伏が見られないヴァレリアのことを「不気味」だと敬遠した。

 そして父もまた愛する妻を失った悲しみの中で、娘が涙の一つも流さなかったことがよほどショックだったのだろう。娘に対して不信を抱くようになり、ついには深く関わることを拒絶するようになってしまった。

 ヴァレリアが表情のない人形のようであることも理由の内ではあるが、ゲラルトは何より愛する妻にどんどん似ていく娘の姿に耐えられなくなったことが最たる理由だ。

 表情がとても豊かで、笑顔が素敵だった妻を心底愛していたゲラルトにとって、感情のない無機物のような娘が受け入れ難かった。

 笑顔の一つでも見せてくれたなら、きっと拒絶なんてしなかっただろうとゲラルトは信じて疑わない。

 しかしそんな気持ちとは裏腹に喜怒哀楽の表情を見せないヴァレリアの顔は、日に日に妻の生き写しとなって成長していった。そんな葛藤から導き出した答えが、今回の再婚だった。

 そのタイミングが娘の誕生日当日となっても、どうせ娘は何も感じないだろうとたかを括った。案の定ヴァレリアは悲しみの色も無く、そして涙を見せることも無く、ただ一言「おめでとうございます」とだけ口にした。

 妻の顔で淡々とそのようなセリフを口にされ、さすがのゲラルトも心が痛んだが、寄り添う新しい妻に支えられ、なんとか持ち直す。ゲラルトにとって、これからが新しい生活の始まりとなるのだと言わんばかりに。


「ヴァレリア、紹介しよう。彼女には娘が一人いてな、今日からお前の妹となるエドナだよ」


 そう言って紹介された一人の少女、再婚相手の後ろからゆっくり出て来た栗色の巻き毛が愛らしい女の子だ。

 母親のドレスにしがみついたまま少女は小さくお辞儀をして、恐る恐るヴァレリアの顔を見つめる。それを鉄面皮のような顔をしたヴァレリアが、エドナを見つめた。

 エドナはヴァレリアより5歳年下、ついこの間5歳になったばかりだという。突然現れた新しい母親と妹の存在に、それでもヴァレリアは淡々とした態度で挨拶をした。その様子を見た義母は気を良くしたのか、満面とした微笑みでエドナの背を押して感謝の気持ちを伝えさせようとする。


「エドナは昔から歌が好きで、聖歌隊として歌を習っているんですの。ほらエドナ、新しいお姉さんにあなたの歌を披露なさい」


 クラドガル国は実質、聖クリストフ教会が権力を有していた。教会の力が絶対の為、それにまつわる行事などは盛大に取り組んでいる。聖歌隊もその一つであり、聖クリストフの生誕祭には少年少女から成人に至るまで、聖歌隊による大合唱が祝祭を大いに盛り上げるイベントとなっていた。

 エドナも、その聖歌隊に所属しているということだから、その歌唱力はきっと折り紙付きなのだろうとヴァレリアは察する。生誕祭には毎年参列していたので、聖歌隊の大合唱を目の当たりにしたことがある。

 一大イベントなので失敗は許されないということもあり、その圧倒的な歌唱力に心打たれ涙する者が後を絶たない。信仰心がそれほど強くない父ゲラルトでさえ、一筋の涙を流したほどだ。聖歌隊の歌唱に対する実力は国随一といえよう。それでもしかし、心を動かされることのないヴァレリアがその歌で感動したことはただの一度もなかった。

 いい加減その振る舞いによって周囲の者を怪訝にさせることに嫌気が差していたヴァレリアは、今度こそ作り笑いでもいいから何かしら感情を表に出した方がいいかもしれないと考えていた。

 新しい家族の誕生に浮き足立っている父、意気揚々となっている義母、何より小さな少女を傷付けるようなことがあってはヴァレリアの立場もないというというものだ。


(笑顔の練習はしてきた。上手く出来たことは一度もないけど……)


 それでも自分の無表情ぶりに周囲がどよめくという流れに、そろそろ億劫に感じて来たことも事実。何より面倒だった。楽しくもない、感動もしていない、何の気持ちも湧かないのに周囲はそれを異常だと言う。

 だからこれを機にヴァレリアは「周囲に合わせる」ことにした。それに気付くまで随分と時間がかかってしまったが、ここでエドナの歌を聴き、笑顔で拍手を送れば周囲の自分に対する評価も少しは変わるだろう。


「エドナ、聴かせてもらえるかしら」


 ひくついた笑顔で促すヴァレリア。自分でも相当に嫌な表情をしていただろうと自覚したが、エドナはヴァレリアに話しかけられ頬を紅潮させた。それまで怯えたように隠れようと必死だったエドナが、ゆっくりと前に出て嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

 ヴァレリアの持つ金髪とは違う、栗色の巻き毛がこれほど愛らしく見えたのは初めてだ。

 翠色の瞳は大きく、キラキラとしていて吸い込まれそうだった。

 小柄な少女はヴァレリアの前でお辞儀をし、緊張した面持ちで挨拶する。

 とても可愛らしい声で耳がとろけそうになった。


「エドナ・ミオリネです。あっ、今はシュタインです……っ! 初めまして、ヴァレリアお姉様」


 おどおどと言い間違いを訂正しながら、ヴァレリアの顔色を窺い、くすくすと笑いの起きる周囲に目を泳がせながらもエドナは懸命に続けようとした。

 こんな時、立派なレディなら少女の失敗を笑いもせず励ましたりするのだろう、と頭の中ではわかっていたヴァレリア。しかし理屈でわかっていても、それをどう表現したらいいのかわからない。真に気遣いの出来るものならば本能で動けるのだろうが、ヴァレリアにはそれが皆無だ。

 だからいくつか読んだ本の知識で、日常生活の中で、学園で見かけた光景などで、学習してきた動きを模倣する。

 そっとエドナの頭を撫で、目線を同じ高さに合わせてみた。笑顔はまだ柔らかく作り上げることは出来ないが、精一杯口角を上げるよう努める。


「大丈夫よ。聖歌隊として歌う時を思い出して、いつも通りに歌ったらいいわ。人目が気になるなら、両目を閉じるといい」

「……はい、お姉様」


 伝わっただろうか、と怪訝に思いながらヴァレリアは腰を上げて後退する。

 両手を胸の前に当てて何度か深呼吸し、言われた通りに両目を閉じたエドナ。周囲がしんとする。誰もがエドナの歌声を待ち望んでいる。それもそのはず、聖歌隊のよる歌は公式の場以外に人前で歌うことは推奨されていない。

 禁止までされているわけではないが、神に捧げる聖歌をおいそれと人前で歌うものではないという教えがあるからだ。だから聖歌隊に所属しているエドナの聖歌を、パーティー会場に来ている誰もが期待していた。


(それでも所詮は5歳の子供の歌……。年齢の割には上手いと思うような、そんな合唱レベルでしょう)


 そしてエドナが歌う。

 びくびく、おどおどしていた時の少女とはまるで別人のようだった。

 静まり返った会場に、その声が響き渡る。確かな声量、音質、透き通るような歌声が全員の耳を刺激した。

 衝撃的だった。ヴァレリアの耳に、胸に強い刺激が駆け巡る。臆することなく歌い続ける少女の歌唱に、咄嗟にピアニストが弾き始めた。誕生日会の為に呼んでいた音楽隊は、エドナの歌声を邪魔しないよう各々演奏を始める。

 楽器の演奏が加わり、エドナの聖歌は一層本格化していった。しかしヴァレリアは音楽隊の演奏がむしろ邪魔にさえ思えた。ーーうるさい、邪魔な音を鳴らすな。


 もっとエドナの声を、歌だけを聴きたいのにーー!


 心が震える。渇望するように耳をそばだてる。決して聴き逃してなるものかと思うほど、食い入るようにエドナに、歌に注目した。

 声は確かに年相応の子供の声なのに、美しく透き通るような歌声と、確かな音階を奏でるメロディーに、目頭がだんだんと熱くなっていく。鼻の奥がツンとしてくる。

 これまでにたったの一度も経験したことがない体の異常に、唐突に戸惑う。

 気付くとヴァレリアの頬が濡れていた。

 歌に夢中になり過ぎて、片手でそっと頬に触れ、それが自分の瞳から流れていることに初めて気付く。

 物心ついてから初めてのことだ。実の母親の死にさえ、涙したことなんてなかったのに……?

 なんてことだろう。自分はエドナの歌を侮っていた。合唱レベルなんてものじゃない。

 これは、天使の歌声だ。

 地上に舞い降りた本物の天使による、この世で最も美しい聖歌そのものだ。

 胸が熱くなる。ポロポロと自然に涙がこぼれ落ち、心はエドナの歌を求め続ける。

 こんな気持ちは初めてだった。言葉で言い表せられない、この感情を言語化することがとても難しい。

 我に返って周囲を見渡すと、全員が心を打たれ涙を流していた。今のヴァレリアと同じように。


(今ならわかる……)


 唇を噛み締めるように、ドレスの裾を強く握って堪える。しかし初めて流した涙を止めることは敵わなかった。


(そう、今ならわかるわ。これが、感動というものなのね……)


 生まれて初めての感情の波に、ヴァレリアはそれまでただの子供だと思っていた少女に特別な思いを抱くようになる。

 誰よりも歌が上手いというだけではない。

 もちろん義理の妹だからでもなかった。

 エドナこそヴァレリアが失った感情を芽生えさせる、この世で最も特別な存在として扱うべきだと悟った。

 これまでどんな出来事に遭遇しようと、実の母親の死に目にあったとしても、心が動くことのなかったヴァレリアの沈黙した感情。

 エドナの歌で、ヴァレリアは普通の人間のように感情を表すことが出来た。


(エドナ、私のエドナ……)


 歌い終えて、再び羞恥を感じたエドナをヴァレリアは抱き締めた。両手で優しく包み込み、愛しく、丁重に、大切にハグをする。

 驚いたエドナであったが、義理の姉となるヴァレリアに受け入れられたと思って喜びを露わにする。


「ありがとう、エドナ。とても素晴らしい歌だったわ」

「えへへ、ありがとうございます! ヴァレリアお姉様」


 二人の少女による微笑ましい光景に、会場は拍手喝采で溢れた。エドナの歌に感動し、新しく姉妹となった二人の門出を祝福するように、その場にいた誰もが笑顔で讃えた。

 ゲラルトと後妻であるミランダもまた、互いに肩を寄せ合い二人を温かく見守った。


 ヴァレリア・シュタインの10歳の誕生日は、ここにいる全ての者にとって最高の1日となった。


 その翌年、シュタイン家で惨劇を迎えるまでーー。

 誕生日パーティーに参加した者達にとって、にわかに信じることが出来ない……そんな悲劇が訪れることとなる。


 ***


「ゲラルト・シュタイン、そしてミランダ・シュタインはあなたのご両親で間違い無いですね」

「なぜ私の経歴を確認する必要があるのかしら? 今は連続殺人犯ファントムに関する情報交換が最優先ではなくて?」


 取り調べの席につき、何やら過去の資料を持ち出して来たかと思えば、それはファントム関連の資料ではなくヴァレリアに関するものだった。

 呆れるようにヴァレリアは深いため息をつきながら、目の前にいる生真面目な騎士に向かって嫌味の一つでも言ってやろうかと考え、やめた。彼の目は至って真剣、まるでこちらを値踏みするような眼差しで資料とヴァレリアの顔を交互に見つめている。あぁ、そういうことかと合点がいった。真面目な気質であればあるほど、ヴァレリアのことが信用に足る人物ではないと疑ってかかるのは当然の反応だ。


「今回の件と、過去に私が両親を殺害したことに何か関係があるとでも? それはもう今となっては公的に赦された事件よ。どうしても腑に落ちないというのなら、裁判所に問い合わせてみたらいいわ。……みんなこぞって話題を変えようとするでしょうけどね」


 鼻を鳴らしながらヴァレリアは吐き捨てるように述べた。これはもう時間の無駄だ。だから真面目な人間は好かない。すぐに別の件を持ち出し、話の腰を折ろうとする。


「失礼、いたしました。あなたのお名前をどこかで聞いた気がしたので」

「そんな言い訳、今はどうでもよろしくてよ。私は連続殺人鬼ファントムに関する情報を知りたいだけだわ」


 信じられない、とヴァレリアは呆れ返っていた。取調室で待っている間、この男はファントムに関する情報を持ってくるどころか、ヴァレリアに関する資料を探していた。

 今は一分一秒を争う程に時間が惜しいというのに、とんだ茶番に付き合わされたものだと。それを目一杯、表情に乗せた。

 不機嫌、不快、呆れ。それらを眉で、瞳で、口元で表現する。

 鏡を見ながら何度も練習を重ねてきた、作った表情。それを存分に発揮させる。


「本当に、申し訳ありませんでした。えっと……、連続殺人鬼ファントムに関する詳しい情報、でしたよね。えぇ、ここに目撃情報や凶器、被害者の特徴などを記録した資料がございます。全ての情報を開示するわけにはいきませんが……」


 もう一息というところでフォスティスが出し惜しみしたので、ヴァレリアは身を乗り出し声を押し殺した。怒気を含めた口調で。


「私は、殺されかけたのよ? 噂によればファントムは、狙った獲物は決して逃さない。彼のルールも知っているわ。一週間以内に、私が殺されてもいいと。騎士様はそう言うのね?」


 嘘の中に交える真実。そうすることで嘘は真実味を増す。

 ヴァレリアの勢いに完全に気圧されたフォスティスはたじろぐが、それでも頑なに責務を全うしようとした。


「申し訳ありません。これは秘匿情報でもあるのです。ファントムに対する恐怖や不安、お察しいたします。ですが安心してください。我々騎士団がヴァレリア嬢の安全を保障いたしますので! お任せください!」


 そのままヴァレリアは背もたれに身を預けて、フォスティスを蔑視した。

 今のヴァレリアの気持ちを、感情を顔に出すことすらしなくなる。それだけフォスティスのことを、使えない駒だという認識を。ヴァレリアは先ほどの態度と言葉で察した証拠だった。

 ともすればこんな所にいても、それこそ時間の無駄だと判断したヴァレリアは立ち上がってドアへと向かう。


「ヴァレリア嬢、話はまだ――」

「いいえ、終わりよ。護衛も結構です。それはシュタイン家で雇いますので。失礼」

「ヴァレリア嬢っ!」


 必死に何度も声をかけるフォスティスに、ついに一瞥もくれることはなかった。

 颯爽と歩き、次々と声をかけては引き留めようとする他の騎士達を無視して、ヴァレリアは外に待機しているレイリーに命令する。


「お迎え、遅くなりまして申し訳ございません。ヴァレリア様」

「今すぐ帰るわよ。シュタイン家に戻るまで、馬車を停めることは許しません。馬車の前を横切ろうとする愚か者がいたら、そのまま轢き殺してしまいなさい」

「承知いたしました」


 綺麗な角度でずっと頭を下げているレイリーの白髪頭を目にしながら、ヴァレリアはファントムの襲撃を想定した。シュタイン家に戻るまで、邸内に入るまで、エドナに会うまで、油断は出来ない。

 馬車に乗り込み、御者が発車させる。向かいに座るレイリーに、ヴァレリアはほんの少しだけ気を許した言葉を投げかける。


「早くエドナの顔が見たいわ……」

「エドナ様も、ヴァレリア様と全く同じことを仰っておりました」

「そう、嬉しいわ」


 帰ったらまずエドナの安全を確認する。

 ファントム対策は、その後でも構わない。

 何事も緻密に、綿密に計画を練り。相手を追い詰める手段を、方法を。ヴァレリアは常に思考していたはずだった。対象者に関する情報を脳内に埋め尽くすことで、どうすれば相手を最も苦しめることが出来るのか。

 それを考え実行することがヴァレリアの本業であった。あくまで仕事、趣味などではない。生きる為に必要な仕事だった。しかし今回の件に関しては、さすがのヴァレリアも初めての経験で油断していた。

 ファントムを見くびっていた。侮っていた。何も知らないのだと、相手がヴァレリアであることを知らないと。そう軽視していたヴァレリアの、最大級に致命的なミスだった。


「ああああっっ!!」


 ヴァレリアの絶叫がこだまする。

 愛らしい壁紙、いたいけな少女の為にと揃えられた可愛らしい家具、ぬいぐるみ、装飾品の数々。それらが真っ赤な鮮血で濡れている。

 部屋の中央には、ピアノ線で天井に吊るされた少女の、無残な姿――。

 瞳は虚ろに、口から舌がだらりと垂れていた。

 きっと似合うだろうと、ヴァレリアが義妹の為に買ったシルクのネグリジェは真っ赤な血に濡れて滴り落ちる。それを真下にあるベッドのシーツが吸って、吸い続けて……。


「エドナッ! エドナァァァッ! いやあああ!」


 心が死んだヴァレリアの痛ましい叫び、嗚咽。真っ赤に充血し、血の涙を流すヴァレリアは遺体となって発見した愛しいエドナを、無残な姿をその目に焼き付ける。

 頭がひび割れるように痛み、心臓は早鐘を打つ。全身の血が沸騰するように沸き立ち、ただひとつの感情に支配されるヴァレリア。


「ファントム……っ! 許さない……っ! 絶対に!」


 歯を食いしばりながら、怒りと悲しみで気を失いそうになった自分を奮い立たせるように。冷静さを取り戻そうと、シースに備え付けていた仕込みナイフを取り出す。

 それを思い切り自身の太ももに突き刺した。痛みで頭がおかしくなりそうだったが、それ以上にエドナの死を受け入れられない。

 何度も何度も何度も。思考が冷静になるまで。エドナを失った悲しみを無くすことは不可能だが、ファントムへ抱く感情だけは失ってはいけないとでも言うように。何度も何度も。


「ヴァレリア様っ! おやめください、足が使い物にならなくなります!」

「うるさいっ! 黙れレイリー! 私は冷静だっ!」


 鼻息荒く、ヴァレリアは床を見つめながら激痛に耐える。それから呼吸を整え、考える。

 なぜ? どうして?

 奴はどうやってヴァレリアの情報を得たのだろうか。こんな短時間の間に、どうやってエドナに辿り着いたのか。それだけが疑問だった。不可思議だった。

 また一つ冷静になる。

 考えても無駄だと、そう捉える。奴は標的となったヴァレリアに関する情報を、全て持っていると考えた方がいいのかもしれない。そう結論付けた。

 ならばやることは一つだった。

 そうしてまた一つ、ヴァレリアは冷静になって思い返す。

 一度目の、自分の死を。

 あの時はあまりに唐突で、衝撃的で、冷静に思考することが出来ずにいた。

 斬首された経験は初めてだった。誰でもそうだろう。

 自分の頭が冷たい道路に転がっていく。ヴァレリアの記憶はそこで途切れていたはずだ。しかし思い出そうとすれば、その先を自分の目は見つめていた。

 人間は、首を落としても数秒間は生きたまま意識を保っている。

 ヴァレリアの目は、倒れて仰向けになっている自分の体を目にしていた。男の足が体の方へ歩いて行き、大きな剪定鋏をヴァレリアの胸に、心臓に思い切り突き刺す光景――。

 そこまで思い出し、ヴァレリアは左胸にあるバタフライのタトゥーに触れた。

 正直、自信はない。成功する保証だってどこにも。


「だけど、受け入れられるはずがない。こんな現実……っ、私は耐えられない……っ!」


 ヴァレリアは仕込みナイフで思い切り、力の限り、何の躊躇もなく突き立てた。


「ヴァレリア様っ!?」


 やり直す……っ!

 ヴァレリアはその一突きで即死するように、なおも力を込める。足りないと思って、バタフライのタトゥーに突き刺さったナイフごと仰向けに倒れた。

 ナイフが胸の奥へ、深く深く入って行くように全体重を乗せる。


「戻せ……っ! 時を……っ!」


 神か悪魔か、誰かは知らないけれど……っ!

 私を逆行させろ……っ!

 エドナさえ幸せならば、無事ならば、生きてさえいてくれれば……。

 その為ならば、欲しいものをくれてやる。

 だから私に、ファントムを殺させなさい……っ!


 ***


「はっ!」


 瞬時に周囲を見渡す。

 ヴァレリアは寝転んでいた。タトゥー専門店で、施術用のリクライニングチェアで。


「綺麗に仕上がっていますね。もう保湿剤などを塗らなくても、普通に過ごして平気ですよ」


 タトゥー専門店の店主ボルドーが、にっこり微笑みかける。

 戻ったのだ。そう理解した瞬間、ヴァレリアは高笑いした。泣き叫ぶように、狂ったように笑い声をあげた。


(戻った……っ! 時間を逆行した……っ!)


 ヴァレリアはこれ以上ないほど歓喜した。感情というものが皆無と思っていたヴァレリア自身も驚くほどに。これほど喜びに満ち溢れたことは、エドナの聖歌を初めて聴いた時以来だろう。

 そして熱い感情が込み上げてくる。


 エドナが生きている時間に、戻ってこれた……っ!


 それだけがヴァレリアの全てだった。

 あまりの出来事に、自分でも頭がおかしくなったのかと疑うほどだ。


「ヴァレリア嬢、大丈夫ですか?」

「ええ、ボルド―。大丈夫よ、私は大丈夫……」


 新たに湧き上がる感情。

 それは歓喜とは全く異なるもの、――あふれんばかりの殺意。


 この手で残酷に、惨たらしく、今度こそ。


 ヴァレリアのみならず、ファントムは最も手を出してはならない少女に手を出した。

 そしてこの世で最も敵に回してはならない人物を、完全に敵にしてしまった。

 ヴァレリアの瞳には、熱く煮えたぎる復讐の炎が巻き起こる。


 

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