ACT.1 〜バタフライ・エフェクト〜
少しばかり残酷な表現がございます。
ご注意ください。
最近、このクラドガル国では連続殺人事件が起きている。
夜な夜な若い娘が残虐な方法で殺され、翌朝発見されるという。
クラドガル国の複数ある領地のひとつ、リヒトクロイツ領では管轄の騎士団が厳戒態勢に入り、夜間の外出禁止命令が出されているにも関わらずーー事件は起きていた。
1週間に、必ず一人。
毎週のように少女が殺されているというのに、目撃者はただの一人も存在しない。
まるで闇夜を渡る亡霊のように、実在するのかどうかも疑われるシリアルキラーは、別名「ファントム」と呼ばれた。
***
9月24日、午後9時53分ーー。
「いいんですか? ヴァレリア嬢。世間ではファントムを恐れて、日が暮れる前に皆、家で大人しくしているというのに」
「そう言うなら営業時間を変えたらいいわ。もし私が殺されでもしたら、この店が一番に怪しまれるでしょうね」
「なんと恐ろしい。それでは明日から営業時間を昼間に変更しますか」
「違法な彫り師が真っ昼間に堂々と営業を? それこそ騎士に目を付けられてよ」
貴族令嬢ヴァレリア・シュタインは、リヒトクロイツきっての悪虐令嬢として名高い。
彼女の悪名は止まる所を知らず、それでも本人が罰せられないのは「それが罪に問われない」からである。
美しきヴァレリア嬢、その気高く高慢な振る舞いは爵位を持つ貴族だけでなく、王族にまで寵愛されていた。
彼女は完璧だった。完璧故に人々はひれ伏す。例え彼女が周囲に恐れられるような悪虐令嬢であろうと。
約4週間前、タトゥー専門店で彼女は違法であるタトゥーを彫る為に、その綺麗な柔肌に針を刺していた。
屈強な大男ですら麻酔無しでは悲鳴を上げる痛みでさえ、ヴァレリアは少し眉を顰めるだけ。
惨めでみっともない自らの姿を、決して誰一人として見せない。それが彼女の矜持でもあった。
そして現在、タトゥーの仕上がりを見せる為にヴァレリアは厳戒態勢の最中だというのに、ここを訪れている。
「綺麗に仕上がっていますね。もう保湿剤などを塗らなくても、普通に過ごして平気ですよ。ご注文の通り、ヴァレリア嬢の胸元で羽根を休めるバタフライのタトゥー。ヴァレリア嬢はとても我慢強かったので、色鮮やかなものに仕上げることが出来ました」
「あら、私の顔が苦痛に歪むのを期待していたのかしら。それは残念なことをしてしまったわね」
「いえいえ、とんでもない。お美しいヴァレリア嬢のお顔が苦悶の表情に歪むなんて、私には想像すら出来ませんよ」
仕上がったタトゥーを改めて鏡で見る。初めて彫ってからというもの、アフターケアにはとても気を遣ったものだ。強く擦らないように洗い、常に清潔に保たなければいけない彫りたてのバタフライ。
その間、激しい運動も避け、かさぶたが出来ても無理に剥がさないよう、自然に剥がれ落ちるのをひたすら待った。
だがこれでようやく、そんな気遣いも不要となる。
緻密かつ繊細に彫られたバタフライの仕上がりを見て、ヴァレリアは満足していた。
「タトゥーが素晴らしいファッションだと、貴族の皆様にも宣伝お願いしますよ」
「気が向いたらね」
「あと、ファントムにはお気をつけください」
くすりと笑って振り返る。
このヴァレリア・シュタインを襲おうとする者など、この世に存在しないと断言するような傲慢な微笑みだ。
「そうなったら返り討ちにしてみせるわ。ファントムですら想像を絶する拷問で、逆に苦痛と恐怖を与えてやるだけよ」
不敵に微笑むヴァレリアに、彫り師は最後に言葉を付け加えた。
「貴女に彫ったバタフライには、とても素敵な意味が含まれています。美の象徴と言われるのはとても有名ですが、他にも幸運や変化、成長など……」
講釈が長いとでも言うように、ヴァレリアは少々うんざりとした表情で聞く。
それでも最後まで聞くのは、自分のタトゥーに込められた意味くらいは知っておきたいと思ったからだ。
「他にも、不死……。復活、などもございます」
深々とお辞儀をして、ようやく演説は終わった。
ヴァレリアは「ごきげんよう」と挨拶し、扉を閉める。
***
夜はさすがに冷える。
ヴァレリアは持っていたコートを羽織って、家路を急いだ。夜間外出禁止令のせいで、ここまで馬車で来ることが出来なかったのだから、本当に迷惑極まりない。
そんな時、ふと寒気が走る。夜気にあたったからではない。
しんとした街中、普段なら酒屋などがまだやっている時間帯だというのに。みんな連続殺人鬼ファントムを恐れて外出を控えているせいだ。国から禁止令が出ているのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
それでも静まり返った街中は妙に不気味で、背筋が凍る思いだ。まるで誰かにじっと見られているような錯覚さえ起こしてしまう。
「きっとあの人が変なことを言ったせいね。ファントムなんて呼ばれているけど、生きた人間であることに変わりはないじゃない。同じ人間なら勝ち目はある。それに私を襲うような愚か者、この国にいるはずがーー」
今夜は満月だった。
真っ直ぐに伸びたメインストリートの先で、月明かりを背後にした黒い影が立っていることに気付き、ハッとした。
ロングコートに、トップハットを被った長身の何者か……。その影を目にしたヴァレリアは、無表情のまま固まった。
厳戒態勢の中、自分以外に禁止令を破っている人間がいたとしても不思議ではない。
だがそれを全面的に否定せざるを得ない、明確な理由がそこにあった。
影の人間は、恐ろしく大きな鋏を持っていたからーー。
こんな夜間に、草木もない街中で、大きな剪定鋏を持った庭師が立っているのは明らかにおかしい。ーーそんなわけがない。
(あれは庭師じゃない。巡回の騎士? いいえ、騎士の持つ武器が鋏であるはずがない。それじゃああれは何?)
ヴァレリアはどこまでも冷静だった。
分析して、相手が何者かを突き止め、先手を取らなければいけない。
仮に相手がファントムとして、このまま背を向けて逃げても無駄だろう。これまでの被害者がそうしてきたように、ヴァレリアもまたあの大きな剪定鋏の餌食になるだけだ。
(街中では複数の騎士が警備に当たっているはず。大声を出せばきっと、近くにいる誰かが気付いて……)
そう思った瞬間だった。
大きく息を吸って助けを求めようとした時、目の前にキラリと光る何かが視界に飛び込んで来たことだけはわかった。それが何なのか理解する前に、ヴァレリアの口は魚のようにパクパクさせるだけで、全く声が出せない。
なぜーー?
ゆっくりと近付いてくる影の手には、剪定鋏がなかった。
首から温かい液体が胸を、腹を濡らしていく。呼吸をする度にヒューヒューと空を切るような音がする。ヴァレリアはガタガタと震えながら、ゆっくりと視線を下へと移していった。
ドレスが真っ赤な血で染まっていた。この血は一体どこから?
そう思考しながら、ヴァレリアは両手を動かし喉元に触れる。そこからぼたぼたと大量の血液が……。
動揺する。混乱する。更に呼吸が荒くなって、喉から直接冷たい空気が入ってくるのがわかった。
(私の喉……一体どうして? なんで……?)
ヴァレリアがゆっくり後ろを振り向くと、何やら銀色に光っている物体が目に入る。
そこには満月の明かりに照らされ、血で染まった剪定鋏が地面に突き刺さっていた。
首を横に捻ったと同時に、片側に残った肉と皮膚だけでかろうじて繋がっていたヴァレリアの頭が、ブチリと嫌な音を立てて下に落ちる。
何が起きたのか理解する前に、ヴァレリアの意識は頭部が地面に落ちたと同時にプツリと途絶えた。
***
「っ……!」
「うわっ、どうしました!?」
ヴァレリアは喉元を両手で押さえて起き上がった。
呼吸が荒くなる。汗が噴き出る。首がちゃんと繋がっていることを確認してから、やっと自分が今どこにいるのか把握した。
「ここ、は……? タトゥー専門店? どうして……」
にわかには信じられない。
正体不明の何者かに殺されたと思った。首を切り落とされたのかと思った。
だがヴァレリアは手術台の上にいる。淫らにも曝け出した胸を、彫り師に見せているところだ。
弾力と張りのある柔らかい心臓付近の胸元には、綺麗に仕上がっているバタフライのタトゥーがある。
「どういう、こと?」
「びっくりするじゃないですか、ヴァレリア嬢。保護シートを剥がしただけですよ?」
「ボルドー、私……ずっとここにいた?」
「え……? 何をおっしゃっているのか分かりませんが。まさか寝ぼけていらっしゃる?」
冗談めいたように軽口を叩いている彫り師が、嘘をついているようには見えなかった。
いや、嘘をついているはずがない。首が地面に落ちた人間が、どうやってまたここに戻れるというのか。
彼の目の前では、本当に何も起きていないのだ。
「頭が痛いわ、クラクラする……」
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ、大丈夫……。私は大丈夫だから……」
しかし混乱していることに変わりはない。
ふと柱時計を見ると、午後10時前を指している。
ヴァレリアはこの後……、約20分後に殺害される……?
満月の明かりに浮かぶ、剪定鋏を持った人物の影が脳裏をよぎった。顔はわからない。しかしかなり長身だったから、きっと男性だろう。
あんな大きな鋏を自分に向かって投げたのだろうか?
そうするとなおさら、女の力では出来ない芸当だ。
ヴァレリアはついさっき起きた出来事を思い出して逡巡した。
これは一体どういうこと?
自分の身に何が起きたというのか。
まさか本当に夢でも見ていたのだろうか?
そう思いながら帰り支度をするヴァレリアに、彫り師ボルドーが語りかけてきた。
「貴女に彫ったバタフライには、とても素敵な意味が含まれています。美の象徴と言われるのはとても有名ですが、他にも幸運や変化、成長など……」
そう耳にした瞬間、ヴァレリアはドキリとした。
彼が口にするより早く、その続きの言葉を紡ぐ。
「不死、そして復活……」
「おや? すでにご存知でしたか。さすがはヴァレリア嬢、お見それしました」
今の言葉で確信した。ヴァレリアのこれまでの人生において、バタフライのタトゥーに関して調べたことなどただの一度もなければ、そんな話題が出て来たこともない。
つまり彼に聞く以前にどこかで仕入れた情報が、頭の片隅に残っていたという可能性はゼロ。
バタフライの意味は、目の前にいる彫り師ボルドーから初めて聞かされたものだ。先ほどの夢の中、殺される直前に。
(あれは実際に起きたこと……。そして私はどういうわけか、時間を逆行した……?)
出て行こうとしていたタトゥー専門店のドアを、即座に閉めて鍵をかける。
驚くボルドーにヴァレリアは、血相こそ変えてはいるが至って普通の表情で説明した。
「外には連続殺人鬼がうろついてる」
「だからさっきそう言ったじゃありませんか」
全てありのままを話しても、どうせ信じてもらえないのは目に見えている。ヴァレリア自身も未だに、自分が過去に戻ってやり直しているなど信じられないからだ。
ならばここは先ほどの出来事に触れることなく、ごく自然に振る舞わなければいけない。
急に頭がおかしくなったヴァレリア嬢、連続殺人鬼に怯える悪虐令嬢だなどと思われるのは癪だから。
「申し訳ないけどボルドー、今すぐ迎えを呼ぶから電話を貸してもらえないかしら。少し貧血を起こしたみたいなの。こんな状態でファントムと出くわして、彼の嗜虐心を私で満たされるのはとても不本意だし、何より不愉快だわ。どうせファントムに出くわすなら、万全の状態で愉しみたいの」
「何とも好戦的なご令嬢がいたものですね。わかりましたよ、電話はこちらです。どうぞご自由に。私は店じまいをしておりますので」
「ありがとう」
ヴァレリアは急いでいる素振りを見せないよう、コツコツとハイヒールを鳴らして優雅に歩き、電話の受話器を取ってダイヤルを回した。
コール音が鳴って三回ほどで相手が出る。シュタイン家の執事だ。
『はい』
「レイリー? 私よ、ヴァレリア」
『これはこれはお嬢様、いかがなされました』
「申し訳ないけれど、今すぐ迎えを寄越してちょうだい。少し気分が悪くて」
『わかりました。今すーー』
執事レイリーが言い切る前に、突然耳元でツーツーという機械音が鳴った。
怪訝に思っていると、出入り口の辺りから冷たい風が吹き込んでいることに気付く。
電話をかける前、ボルドーは店じまいをすると言っていた。ーーまさか外に出してある看板を中にしまう為に、ドアを?
気付いた時には、もう遅かった。月明かりに照らされているのは、開け放たれたドアの前に立っている長身の影。
やがてゆっくりとドアが閉まっていき、カチャリと鍵を閉める音がした。
奴の足元に転がっているボルドー。長身の影は手に大きな剪定鋏を持っている。見たところ、その鋏でボルドーを傷つけた様子はなかった。
あんなもので切り付けられたりしようものなら、その部分は鋭利な刃で切り離されて大量出血するはずだ。しかし床に血の跡は一滴も見当たらない。
「あくまで殺すのは、年端も行かない少女ーーというわけね」
それを実行した上で、これまで一切の目撃証言がないのは不自然だ。これも奴の技量なのだろうか。
誰にも見られず、少女を攫い、心ゆくまで肉体を弄ぶ為に。
ゴツ、と一歩足を踏み入れる。同時に後退り、目線は相手に向けたまま手探りで何か武器になりそうなものを探す。しかしどこに何があるのかわからないヴァレリアに、手探りだけで探し当てるのは困難だった。
相変わらず月明かりを背にしているおかげで、顔を確認することが出来ずにいる。せめて相手の顔を拝むことさえ出来れば、この場を逃れて改めて捕獲することは容易なはずなのに。
「あなた、私をヴァレリア・シュタインと知っての狼藉かしら」
「……!」
反応は確かにあった。その隙をついてヴァレリアと奴の間にあったテーブルを力一杯押しぶつけようとするも、迫ってきたテーブルを軽々と手で払って直撃を避けた。テーブルの上に乗っていた様々な小物やガラス瓶などが、大きな音を立てて床に落ちる。払い除けたテーブルも壁際にあった大きな棚にぶつかり、ガラスで出来た扉が更に大きな音を立てて割れた。
二人の間を遮るものが無くなった。しかしさっきの物音を聞きつけて、巡回中の騎士が駆けつけてくれるかもしれない。それまで持ち堪えることが出来れば、の話だが。
ならばこうやって逃げ回るより、効率よく相手の時間を奪うしかない。
「巷を騒がせているファントム、あなたのことで間違いなさそうね。随分と有名になったものだわ、この国で悪名を轟かせるのは私一人で十分だというのに」
不敵に笑むでもなく、恐怖に慄くでもない。
ヴァレリアはただ淡々と、表情のない顔で話し続けた。下手に相手を刺激するわけにはいかない。相手が何に激昂するのかわからない以上、神経を逆撫でしないよう平静を装うしか無かった。しかしあまりに平常心を保ち過ぎるのも、相手を不快にさせるかもしれないというリスクはあった。
か弱い少女を一方的になぶるような奴だ。その嗜虐性から、これから痛めつけようとしている相手が、全く恐怖を感じていないことに不快感を抱いても不思議じゃない。ならば恐怖を必死で堪えて、その場を何とか鎮めようとしている体を装う方がきっと効果的だろう。
幸いにもヴァレリアには、あらゆる感情を作り出す技術が備わっている。それはあくまで表面的な演技だが、今はそれで十分だ。ほんの少しでも時間を稼ぐことが出来れば、それでいい。
「何がお望み? 生憎だけど、私はこのままあなたに殺されるわけにはいかないわ」
目線の先は、あくまでファントムだけに絞る。
ここできょろきょろと忙しなく視線を泳がせたら、何かを探していると悟られてしまう。
この場をやり過ごす何か、反撃に使える道具、助けを求める方法、ありとあらゆる策を頭の中で巡らせていることを相手に知られてはいけない。
ヴァレリアは殺人鬼を目の前にして、命乞いをしながらタトゥー専門店に入ってから出ていくまでの店内の様子を必死に思い出していた。店内にはタトゥーのデザインの参考にと集められた本が収められている本棚、そして手術用の器具がしまわれている棚が置いてある。
あとは店内の雰囲気の為に揃えられたアンティークの家具、ランタン、絵画などがあるのみだ。
やはり反撃に使えそうなものがあるとすれば、先ほどテーブルが棚にぶつかった時に割れたガラスの破片と、店の奥にある棚しかない。しかしそこへ行くには、手術台とカウンターを越えなければならなかった。きっと辿り着く前に殺人鬼に捕まってしまうだろう。
手術台の側にあるテーブルには、器具類は置かれていない。今回ヴァレリアが訪れたのは、手術経過を見るだけだ。メスなどといった器具を使用する目的がなかったせいだろう。
ヤケを起こしてさっきのようにそこら辺のものを投げつけたりしても、何の抵抗にもならない。相手はかなりの長身、見るからに体格も良さそうだった。単純な力だけで勝てるような相手じゃない。
つまり今ここで出来ることは、極端に限られている。
そう結論付けた瞬間。ヴァレリアは演技をやめた。
命乞いの為にと瞳を潤ませ、体を振るわせ、怯えるように肩で息をすることをやめた。
「……!?」
ヴァレリアは背筋を伸ばす。いつものように、威風堂々とした立ち姿だった。
先ほどまでと様子が一変したことに、さすがの殺人鬼も気付いて仁王立ちのままだ。
明らかに動揺しているのは殺人鬼の方だった。
立場も、力の差も、何も変わらない。どちらが有利かと言えば、明らかに殺人鬼の方に分があった。にも関わらず、たじろいだのは相手の方だったのである。
ヴァレリアは静かに立ち尽くす。その瞳は凍てつく氷のようで、何も怖れず、何にも屈さない、強く鋭い眼光だった。ただそこに居るだけで、誰もがヴァレリアに恐怖する。彼女の強い殺気がそうさせるからだ。
「もうすぐ、ここに人が来るわよ」
「……!?」
冷静に、はっきりと現状を説明してやる。
それで相手の方が溜まりかねて攻撃してきても、ヴァレリアは恐れない。
死への恐怖はない。一度経験したようなものだが、驚いただけで恐怖などなかった。
一瞬の出来事。その程度なら恐るるに足らないと、ヴァレリアは腹を括った。
「さっき棚が壊れた音もそうだけど。私との通話がいきなり途切れて、今頃シュタイン家では騒ぎになってるでしょうね」
そう、寸前まで彼女はシュタイン家の執事と通話していた。
優秀な執事だ。通話途中で途切れたことを、不審に思わないはずがない。
「騎士が先か、はたまた我が家の有能な執事が先か」
それはまるで連続殺人鬼を煽っているような光景だ。
誰がどう見ても、ヴァレリアの方が殺人鬼をけしかけている。真っ直ぐに剪定鋏を突きつければ、その長くて大きな鋏の刃先はヴァレリアに届く程の距離だ。
それでもヴァレリアは怯まない。それがかえって相手を躊躇させた様子だ。
剪定鋏を構えることなく、相手はドアの鍵を開けた。ドアの開閉音と共に男が初めて言葉を発した。
「……また、殺しに来る」
「え……っ?」
低いバリトンボイスが、確かにそう言った。
聞き返す間もなく、連続殺人鬼は転がっているボルドーを跨いで月明かりの下を駆け抜けて行く。緊張の糸が切れたと同時に、激しい疲労感に襲われたヴァレリアは、やがて自分の足で立っていられなくなり、その場に膝をついた。
へたり込んでいる場合ではない。しかしあまりに色々なことが起き過ぎて、思考が追いつかない。だがこれだけははっきりさせなければいけなかった。口に出すことで、それを確信へと繋げる。
「また……、と言った……?」
それはつまり、奴はヴァレリアのことを一度殺していることになる。そういう意味として捉えることしか出来ない。
仮に、すでにどこかで他の誰かを殺した後だったとして。
ヴァレリアに向かって「また殺しに来る」と言うだろうか?
「つまり、あの男も……私と同じように時間を逆行している……?」
目の前が真っ暗になる。
時間を遡ること、過去の体験を持ち越せること、それは次に活かす重要なヒント……有効打となるはずだった。これがヴァレリアのみに起きた出来事ならば、すでに体験した記憶を武器に相手を出し抜く術もあっただろう。
しかし相手もまたループしているとなると……。
「連続殺人鬼ファントムの犠牲者は、一週間に必ず一人……」
そのターゲットに今回ヴァレリアを指名したとなれば、今後もまた命を狙われるという意味になる。
奴がそのルールにどれだけのこだわりがあるのか知れないが、ヴァレリアは一週間……奴に命を狙われ続けることになるだろう。それは逆に、一週間耐え凌げばーーあるいはターゲットを変更する可能性も。
「もし奴のこだわりが強かったら、一週間過ぎる前に……他の少女が犠牲に……?」
その可能性も否定出来ない。奴の目的が何なのかわからない以上、世間一般的に知られるファントムの特徴は「一週間に一人、少女を惨殺する」ということだけ。
何もわからないまま、ヴァレリアに断言出来ることはただひとつ。
「殺される前に、奴を仕留める……。どんな手を使ってでも、必ず……」
ファントムは知っているのだろうか、とヴァレリアは無の表情で、しかし湧き上がる殺意を意識する。
感情表現の乏しい自分が他人に湧き上がる胸の高鳴り、とても珍しく滅多にない昂りだった。殺意の炎が宿った時、ヴァレリアが失いかけていた気力が戻る。床を踏み締め立ち上がると、玄関先で転がっているボルドーの元へ駆け寄った。呼吸と脈を確認する。どうやら彼は気を失っているだけのようだ。
さて、めちゃくちゃになった店内をどうするか。迎えが来るまで一人で片付けておくしかないかと思った時、外からガチャガチャという金属がぶつかり合う音が聞こえて来た。
それを耳にするなり、ヴァレリアは深くため息をついて呆れ顔になる。
「遅い到着ね。これだから殺人鬼一人、捕まえられないのよ」
そう呟いた瞬間、玄関先に現れたのは金髪の小綺麗な顔をした若い男だった。
全身鎧姿ではなく、胸プレートと籠手、脛当てをした比較的軽装の騎士。店内を見渡し、すぐ足元でぐったりとしている店主を見るなり騎士は素早く指示する。後から遅れてやって来た甲冑の騎士、そして金髪の男と同じく軽装の騎士へ向けて手配していった。
「メイガス衛生兵は怪我人の手当てを! ジュノの部隊は周辺捜索、アウグストの部隊は屋内に奴への手がかりがないか徹底的に調べるんだ!」
的確な指示をした後、金髪の騎士はボルドーに寄り添うヴァレリアに手を差し伸べて無事を確認する。
「お怪我はありませんか、お嬢さん。一体何があったのか、記憶が新しい内にお窺いしたいのですが」
「……私はヴァレリア。ヴァレリア・シュタインよ、あなたお名前は?」
「これは失礼いたしました。私はリヒトクロイツ騎士団第3部隊隊長を務めさせていただいております、フォルティス・ユースティアナと申します」
随分若い隊長なのだなと思いながら、ヴァレリアはフォルティスの手を取り立ち上がる。気がかりなのは彫り師のボルドーの状態だ。見たところ外傷はないように思えるが、衛生兵による的確な手当てを受けるのであれば、まず問題ないだろうと騎士隊長に向き直る。
「これは一体どういう有様なのでしょうか。随分とめちゃくちゃに荒らされているように見えますが」
「ご覧の通りですわ。世間を騒がせている連続殺人鬼ファントムらしき人物と、少々揉み合っていましたの」
彼女の瞳から恐怖の色が映っていないこと、そしてその証言によりフォルティスは目を丸くして驚愕していた。
これまで目撃情報のなかったファントムに関する、重大な証言。いつまでも成果が上げられなかった騎士の名誉を取り戻せるかもしれない、重要な目撃者の登場にフォルティスの手に力がこもる。
情熱的な手の握り方にヴァレリアは顔を顰めた。両手で包み込むように強く握られ、骨が軋むようだ。
「興奮なさるのはわかりますけど、女性の手はもっと優しく握るものではなくて?」
「失礼しました! 今まで何の手掛かりもなかったファントムに関する情報だったので、つい……」
つい、で骨を折られたらたまったものじゃない。ヴァレリアはそれでも澄ました様子で、赤くなった手をさすりながらフォルティスを軽く睨みつけた。本来ならば騎士に関わるのは望ましくない。出来ることなら治安を守る立場である人間と、こうして仲良く会話をすることなんてしたくはなかった。
しかし今のヴァレリアは殺人鬼に狙われる立場となってしまっている。このまま何の後ろ盾もなしにシュタイン邸へ戻るわけにはいかなかった。
それならどこまで役に立つのか期待しなくとも、幾分かの戦力にはなるかもしれない。相手が自分の素性を知らなければ、の話だが。
「とにかく、どこか安全な場所へ移動させてもらえないかしら。彼が現場に戻って来るとは思えないけれど、こうしている間もどこかでじっと見られているような気がしてならないの」
「わかりました。それでは私の馬で騎士の詰め所まで行きましょう」
爽やかな笑顔で再び手を差し伸べて来る若き騎士に、ヴァレリアは無言で手を取った。
とにかく、ファントムが今後どういった形で自分の命を狙いに来るのかわからない。ヴァレリア自身もファントムに関する情報は少しでも欲しいところだ。
騎士に情報を提供するのではない、ヴァレリアも騎士から情報を引き出さなければ。
(連続殺人鬼ファントム……、お前が誰を敵に回したのか思い知らせてあげるわ)
クラドガル国公認、リヒトクロイツ領専属の拷問執行官……ヴァレリア・シュタイン。
拷問によるあらゆる責め苦により、相手を生かさず殺さず、最も残忍かつ痛みを伴う方法で情報を引き出して来た、心無き悪虐令嬢。
その手を血で染めて来た彼女に、相手への同情の余地など微塵もない。
***
9月24日、午後1時20分、リヒトクロイツ地下刑場前。
ヴァレリアはいつものように専用の控え室で準備をしていた。控え室にはクローゼット、テーブルセット、飲み物と軽食が保管されているチェストがあるのみ。
シュタイン邸から着てきたドレスを脱ぎ、クローゼットに仕舞われている衣装へと着替えた。黒と赤を基調としており、身体のラインに比較的フィットしたドレスだ。執行官としての衣装なのでフリルなどといった愛らしい飾りは一切ない。そこに威厳を象徴するかのようなマントを羽織る。
ガーターベルトは仕込みナイフを収める為のシースとなっており、他にも腰ベルトには皮の鞭を装着していた。
拷問に使用する道具一式は、拷問部屋に全て揃っているのでヴァレリア自身が身につけるものはこの2種類だけとなっている。武器を持ち運ぶ理由は一つ、拷問相手が抵抗し向かって来た時に対応する為の備えとしてだ。
「今回の対象者はベルナルダン・マンディアルグ、32歳。リヒトクロイツ領主に対し殺害予告とも取れる犯行声明文を送り付け、筆跡鑑定と独特の臭いからあえなく捕縛……」
ベルナルダンの職業は漁師から魚を卸し、それを捌いて販売する鮮魚専門店だった。
本人は毎日、何年間も嗅いできたから自覚がなかったのだろう。彼には魚独特の生臭さが全身に染み付き、それが不覚にも犯行声明文にも付いていたのだ。
無意識の失態。彼は今もなお自身の犯行ではないと否認しているという。
しかしこの国で国王や領主に逆らうことは大罪だ。どんな理由があっても、それに反抗すれば死よりも恐ろしい罰が待っている。
大半は罰を恐れて犯行を否定するが、真に死よりも恐ろしいことは罪を認めた後の罰のことではない。
犯行をいつまでも認めようとせず、抗い、反抗的な態度で時間を無碍にしたその愚行によって行われる尋問行為のことなのだ。しかしそれは実際にその過程を経験しなければ誰にもわからない。
拷問執行官による拷問が、罪を償う為の刑罰だと誤解されているに過ぎない。
「これだけ脅かしても逆らうことをやめないなんて、愚かにも程があるわね。まだまだ私の拷問が足りないということなのかしら?」
しかしこれ以上拷問レベルを過酷にしては相手を死なせてしまうかもしれない。拷問は適度に、生かさず殺さずが鉄則でなければならなかった。その加減をヴァレリアは心得ている。何度も、何人も拷問してきてその匙加減をしっかり覚えた経験の賜物だった。
拷問部屋へ入る。目隠し、そして猿ぐつわを噛まされ唸るベルナルダン。
彼の背後には二人の騎士。ヴァレリアの姿を確認すると同時に、騎士二人の顔色は青ざめた。
それを察したヴァレリアは落ち着いた口調で促す。
「尋問行為が見るに耐えないなら退室して結構よ」
「そうはいきません。我々にはベルナルダン・マンデイアルグの自供を、この耳で聞く義務がございますので」
「あっそう、ご苦労様」
コツコツとヒールを鳴らしながら、ベルナルダンの周囲をゆっくりと歩く。これも威嚇になる。すぐに始めることもあるが、それは自供がすんなりと行くような相手の時だけだ。時間がかかりそうな相手となれば、ヴァレリアはじわじわと、ゆっくりと、しっかり相手の恐怖心を煽ってから尋問していく。
肉体的苦痛で追い詰めるだけではない。精神的に追い詰めることが最も早い尋問方法なのだ。
「ご機嫌よう、ベルナルダン・マンディアルグ」
「んーっ! んーっ!」
「喋れなくて辛そうね。すぐにでも自供を始めるなら、その猿ぐつわを取ってあげてもいいけど。どうかしら?」
鼻息荒く唸るが、首を縦には振らなかった。拒絶、という回答を得たヴァレリアは先に進むことにする。
騎士の一人がごくりと、音を立てて生唾を飲み込む。額にはじわりと汗が滲んでいる。見るからに若い騎士なので、今回ヴァレリアによる尋問に立ち会うのはこれが初めてなのだろう。
それでも彼女は容赦などしなかった。したところで仕事にならない。それ以上に、市民だけではなく騎士の中にも拷問執行官の恐ろしさを心の奥底に植え付ける必要があった。過ちを犯せば、次にこうなるのは自分だと本能でわからせる為に。
「ベルナルダン、あなたは鮮魚専門店で長年働いているそうね」
猿ぐつわを噛ませているのだ。
無言で話を聞くしかないのは当然なので、構わず続ける。
「毎日朝早く漁師から鮮魚を買い取り、捌いて売る。とても立派な仕事だわ。なのにとても残念ね。そんな働き者であるあなたが、なぜリヒトクロイツ領主に楯突くのか」
ベルナンダンに関する資料は一通り、事前に全て目を通していたヴァレリアは遠回しに問い詰める。
彼の罪は領主の長女に対する暴言、そして彼女の名誉を汚す偽情報の流布だ。リヒトクロイツ領主の長女ベロニカは、雑誌のインタビューで魚嫌いを公表している。その記事にはベロニカがいかに魚を嫌悪しているか、そういった理由などが面白おかしく描かれていたのだ。
ベロニカがインタビューを受けた雑誌は、国中で注目を集めているファッション誌。そしてベロニカは領地の貴族令嬢としてだけではなく、ファッションリーダーとしても人気が高い。そんな彼女が「魚は不味い」などと発言すれば、彼女を崇めるファンはその主張に追随してしまう。
現にベロニカのインタビュー記事が載っていた雑誌が発売されて以降、わずかではあるが鮮魚の売り上げが落ちたと……ベルナンダンは証言していた。
自身の鮮魚店の売り上げが落ちた原因が、ベロニカの発言によるものだと確信した彼はどんどん被害妄想を膨らませ、最終的にベロニカに対する嫌がらせへと発展していったのだ。
「真面目過ぎるが故なのかしら? あなたはベロニカ嬢の発言がどうしても許せなかった。あなたのお店が赤字になったのも彼女のせいだと、だから彼女を苦しませる為に散々嫌がらせをした……。そういうわけね?」
最後まで言い切る前に、ヴァレリアはベルナンダンの右手小指の爪を剥がした。
「んんんんんっっ!」
目隠しされ、猿ぐつわを噛まされた状態のベルナンダンが悲痛な呻き声を上げる。何の躊躇いもなく、まるでほんのページをめくるかのようにヴァレリアは爪剥ぎの拷問を行なった。これに驚き、目を背けたのは若い騎士だ。
「気位の高いベロニカ嬢は、あなたの嫌がらせにひどくご立腹よ。何ならあらゆる罪をでっち上げてもいいから、あなたが牢から二度と出られないようにしてもいいと言ってるわ」
これは半分嘘だった。実際にはベロニカは、ベルナンダンの執拗なまでの嫌がらせに心が完全に疲弊してしまって今もベッドから起き上がれない状態となっている。それを憂いたリヒトクロイツ領主が、ヴァレリアを指名したのだ。
『私の愛する娘を苦しめた輩を許すつもりはない。拷問の最中に死んでも構わん』
これがこのリヒトクロイツで、教皇の次に権力を持つ人間の言葉だ。
拷問執行官が全ての人権ある者に対し、公平な裁きを下せるだけの権力があれば。
あるいは情に篤い心を持っていれば。
ベルナンダンに対し、多少の恩恵を与えたのかもしれない。リヒトクロイツ最高権力者でもある聖クリストフ教会の指導者、クルーク教皇に温情を訴えて罪を軽くしてもらえたのかもしれなかった。
しかしヴァレリアに限って、心に訴えかける……という解決策は皆無だ。彼女は仕事を遂行するだけの機械と同じである。仮に目の前にいるベルナンダンが全くの無実の罪であったとしても、でっち上げの罪状でここに連れて来られたとしても。ヴァレリアはただ与えられた仕事を全うするだけの、心無き人形も同然だった。
「権力者に逆らうということは、こういうことなの」
めり、と左手薬指の爪を根元までめくり取る。男の唸り声だけが響き渡る。目隠しの隙間から涙がこぼれ落ちるのを確認すると、ヴァレリアは騎士の一人に目配せした。相変わらず若い騎士の方は視線を逸らしたまま、今にも吐きそうな位に顔面を蒼白にさせている。
何度となく立ち合いをしてきた騎士が、ベルナンダンの猿ぐつわを外した。やっと呼吸がしやすくなって息を吐く。それから激痛で咽び泣き始めた。
「うぅっ、もうしない……だからもう、これ以上は……勘弁してくれ……っ! 認めるから! やったことを認めるから、もうやめてくれぇ……っ!」
全ての爪を剥がされるのかと思っているベルナンダンは、どこにいるのかわからない拷問執行官に対して己の罪を認めた。この地下刑場は自らの罪を断固として認めない罪人が、もしくは秘密を隠している容疑者の口を割らせる為に用意された拷問室だ。
ベロニカへの嫌がらせの罪を認めようとしなかったベルナンダンは、何も知らされずにここに連れて来られた。目隠しをされ、猿ぐつわを噛まされ、そして詰問され拷問されてから初めて理解する。
ここで上の者の機嫌を損ねれば命さえ取られかねないと。
「よろしい。ではこの後の書面の手続きは、この方々にお任せするので。私はこれで失礼しますわ」
ほっと胸を撫で下ろしたベルナンダンを尻目に、ヴァレリアは言葉を付け足す。
「まだ残りの爪が18枚もあったのに、残念だわ。目玉も、耳も、性器も失う前に己の罪に気がつくことが出来てよかったわね」
「ひっ!」
「この後のあなたに下される判決に、私は一切興味はないけれど。もしまたお貴族様の機嫌を損ねるようなことをして、私が呼ばれたら……次こそ五体満足にいかないと思った方が良くってよ」
「わ、わかった! わかったから、もうやめてくれ! 頼む……っ!」
「ヴァレリア嬢、もういいでしょう! あなたの仕事は終わっている!」
見かねた騎士がヴァレリアを諌めると、肩を竦めながら拷問室を出ていった。
コツコツとヒールの音を響かせながら、また来た道を戻る。今日の仕事は存外あっけなかったものだと、ヴァレリアは淡々とした表情でため息をつく。普段はどこぞの国の諜報員に、依頼主や仲間に関することを吐かせることが多かった。その際の拷問は、常人には想像を絶するものとなる。
ヴァレリアの前に、何人もの拷問執行官がその責務を全うしていたが、その誰もが人間に対する拷問に自身の精神が病んでしまった。他人に苦痛を与えることを嬉々として行える人間は、恐らく一般人には不可能なことだろうとヴァレリアは思う。
どんなに特殊な訓練を受けた人間だったとしても、あらゆる責苦を相手に与え、その悲鳴を聞き続けることがどれだけ苦痛か。それは拷問を受ける者だけではなく、与える者の精神も蝕んでいく行為だった。
ヴァレリアは思う。きっと生きている人間に対して、拷問を与えることに何の感情も示さない人間などいない、と。そしてその仕事を何の苦も無く実行出来る人間は、快楽殺人鬼を除けば恐らく自分だけなのだろうと。
「世間を騒がせている連続殺人鬼がいるって噂だったわね……」
その人物は仕事で強制的に実行させられているのではなく、自ら進んで行なっているような変態だ。年端も行かない少女を拐かし、弄び、汚すだけ穢して殺す。拷問を仕事として割り切っているヴァレリアとは違う。
連続殺人鬼ファントムは、いたいけな少女にそのような仕打ちをして一体何が楽しいのだろう。
他人に対してどんなに残酷なことをしても心が傷まないヴァレリアと、人間を自分の玩具のように乱暴に扱って愉しんでいるファントム。
一体どちらが残酷なのだろう。
もしくはーーヴァレリアもファントムも、本当に人間なのだろうか。
ふと、今日一日の仕事を終えたヴァレリアは思う。
機会がないことはわかっているが、一体どんな心境で殺人を繰り返しているのか聞いてみたいものだと。ほんのわずかに他人に興味を持ったヴァレリアであったが、それもすぐに興味が失せてしまう。
拷問執行官の正装を脱ぎ、あらわとなった胸元で羽ばたく蝶のタトゥーを閉じ込めている保湿シートを見つめる。
あっという間に、先ほど聞いた泣き叫ぶ声などもうヴァレリアの耳には残っていない。あるのはやっとこのシートを剥がして、白い柔肌で色鮮やかに飛び回る蝶を目にすることが出来るということだけ。
鏡に向かってふふっと笑って見せた。口角を上げ、頬の筋肉を緩め、柔らかく微笑む練習は何百回としてきた。この笑顔は、ヴァレリアにとってただ一人、大切な人へ向ける為だけの笑顔だ。
他人を散々苦しませた直後に見せる笑顔ではない。
ヴァレリアには、そんな人として当たり前の感情が欠落していた。
だからこそ行える残虐行為。泣き叫ぶ表情を目の当たりにしても、決してその心は揺れ動かない。
そんなヴァレリアが今夜出会う、運命の相手。
この先ひとときも忘れることのない、忘れられるはずがない繰り返しの日々が待っている。
冷酷無比な拷問執行官ヴァレリアと、残虐非道な連続殺人鬼ファントム……。
過去へと遡る能力を手にした二人の戦いが始まる。