〈2〉
彼をはじめて見かけたのは、百三十年と半年前の、凍えるような冬の日だった。
魔女に成り立てであったノーナはとにかく力を使いたくて仕方がなかったので、頭から雪を被って吹雪のなかを歩いていたその青年を不思議に思いながらも助けてやることにしたのだった。
風除けのまじないを吹き込んだ小石を、好奇心と悪戯心とほんのちょっとの親切心を込めて、ノーナは窓から青年に向かって投げつけた。
小石は青年の頭を直撃し、いてっ、と声をあげた彼はきょろきょろと周囲を見回していた。
ノーナはこみ上げる笑いを堪えながら、二階の窓辺に頬杖をついてそれを眺める。
間抜けなものは面白い。
はじめはそれだけの感情だった。
青年は次の日も雪の中を歩いていた。
ノーナはまたもや不思議に思いながら、昨日と同じように小石を投げた。
小石はまたもや青年の頭を直撃し、今度は「なんなんだ!」と憤慨した声を上げた。
堪えきれず、ノーナは窓の下にしゃがみ込んでケタケタと大笑いをした。
「面白いものがさらに面白くなった、これはいい!」
更にその翌日も青年は通りがかった。
来る日も来る日も、あの男はどこに通っているのだろう?
ふと頭を過ぎった疑問は好奇心だった。
後ろをつけてみようか。それとも明日を待ってみようか。
ノーナは空を見上げ、首を傾げる。
本日は曇り空、雪が降り出すにはもう少しばかり掛かるだろう。
「でも、帰り道に寒い思いをするかもしれない」
三日目もまた、ノーナは風除けのまじないを吹き込んだ小石を眼下へと投げ落とした。
頭ではなく肩に当たったそれは、跳ね返って地面に落ちる。
昨日までは積もった雪の中に埋もれていた小石は、今朝は石畳の上で固くなった氷雪の層に残ってしまった。
青年は怪訝に小石を拾い上げると、ふと顔を上げた。
「まずった……!」
目が合ったような気がした。
慌てて窓の下にしゃがみ込み、きっかり十秒、息を潜める。
窓の縁に指をかけてそろそろと顔半分を覗かせると、青年は小石をポケットに入れて去っていくところだった。
目が合ったと思ったのは、気のせいか。
どうにも落ち着かない気分のまま、ノーナは一日を過ごした。
そんな冬の日がひとつきあまり続いたある日、青年の姿をぱたりと見かけなくなった。
どうしたのだろう。
なにかあったのだろうか。
ノーナはいつの間にか、彼が通りがかることを待ちわびるようになっていた。
雪の季節はもうじき終わる。投げた小石を隠してくれる雪が降らない以上、風が冷たくともまじないの掛かった小石を投げることは危険だ。
魔女とは隠れて暮らすもの。
「退屈だ」
いつものように窓辺に頬杖をつく。
ノーナはため息をこぼし、そんな自身に驚いてしまった。
人に会えなくて退屈だと思ったことなど、未だかつて無かったからだ。
次に青年を見かけたのは、住居前の石畳の通り道ではなかった。
適当な酒場。
安っぽくて気さくでいい加減な愛すべき隣人たちが、彼らと似たような安酒を飲んで騒ぎ、笑う居場所。
その酒場の一角には小さな壇上があり、それぞれの楽器を持った三人の男がステップを踏みながら音楽を鳴らしている。
そのうちのひとりが、あの青年だった。
ひと月越しの再会だ。
遠目でも解る同じ形の魂が、彼の鳴らす古いバイオリンのにぎやかな演奏に合わせて、心底楽しそうに揺れている。
ノーナは目を奪われてしまった。
平凡な顔をしている。衣服から察するに金持ちでもない。
それでも、どんな美人よりもどんな金持ちよりも、ノーナにはその青年が魅力的に映った。
「ああ、なんて純粋な色」
天使のひとりでも彼を見下ろしていたとすれば、恐らく「無垢な魂」とでも言い表したに違いない。
(魔女のくせに馬鹿げている。この男は、いや、私はこの男に相応しい女じゃない)
頭では理解していた。しかし、気づいた時には身体が動いていた。
安酒を飲み干し、踊り騒ぐ客人たちの間を抜けて、壇上で笑う男の襟を掴む。
「え、なに……」
驚いた笑い顔は、強制的な口づけによって驚愕へ変わった。
ひとしきり唇を味わったノーナは、楽器を手に硬直している青年を見上げ、一言「好き」と言った。
「……だ、誰かと間違えているんじゃないか。僕は君を見たことがないと思うし」
「これから好きなだけ見ればいい。私のものになって」
「何を言っているんだ……っ」
生娘のように狼狽える青年と、平然と男を口説く女。
はやし立てる周囲の口笛やらやっかみやらに耐えきれなくなったらしい青年は、耳まで赤くなると楽器を預けてノーナの袖を引っ張った。
手も握れない。
「ちょっと、いったん外で話し合おう。ここじゃ人目が多すぎるよ」
「構わない。可愛い人、あなた名前は?」
「名前も知らないでキスしたのか!? 君、おかしいよ!」
おかしくて当然だろう。ノーナは魔女なのだから。
とにかくその後の話し合いによって、彼とノーナはひとまず「友達」となった。
そうは言っても、ノーナは隙あらば唇を奪い耳に噛みつくような「特殊な友達」だったので、恋人となるまでのつかの間の期間に過ぎなかったと言えるだろう。
幸せな時間を過ごした。いつまでも続くものだと思っていた。
しかしノーナはある現実から目を背け続けた。
それは、人間は老い、やがて死ぬのだという普遍的事実だった。
年々老いていく愛しい男。
変わらずに若々しい、不自然な存在であるノーナに言及することもなく、ただあるがままを受け入れてくれる優しさが、かえって苦しかった。
いっそのこと化け物だとでも罵って、捨ててくれれば良かったのだ。
結局ノーナは、彼の愛情から逃げ出した。
その後の彼が一年も立たずに死んだことを知ったのは、彼の埋葬から五年も経った冬だった。
墓石に刻まれた名前と数字を前に、ノーナはただ後悔に暮れ、声を殺して泣くことしか出来なかった。
ああ、どうして。
「どうして私は、あの人を置き去りにしてしまったのだろう」
その自問は今なお、重石のようにノーナの身体の軸に冷たく居座っている。