4話
アイエスたちと別れた後、キムはオルブライトン家当主代行のもとへと向かった。アイエスの母、クレア・イヴ・オルブライトン。十年前の戦から所在不明となっている当主アレックスに代わり州都テルフィアを治め、ブルーズ州総督代行も務めている才媛だ。
自他に厳しく、当主代行に相応しい威厳と気品を持っており、オルブライトン家に使えて十年経つキムでさえ未だに緊張してしまう。
「奥様、失礼いたします」
執務室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と返答があり、ゆっくりと入室する。仕事用の眼鏡をかけて書類仕事をこなしていたクレアが、その手を止めてキムを見やる。
「先ほどお嬢様がお戻りになられました。また、本日付けでトマス・マグワイア氏が、一身上の都合によりお嬢様の家庭教師をご退任いたしました」
「そう……苦労をかけたわね」
貴族の娘が放蕩の限りを尽くし、家庭教師から匙を投げられるなど醜聞以外の何者でもない。しかし、クレアは意に介することもなく、再び書類へと目を落とす。
いつも通りだ。とキムは内心感じていた。
クレアは厳しい人物だが、アイエスについては全て使用人に任せて放任している。親子仲が悪いわけではない。2人とも顔を合わせればしっかりと会話もするし、食事も共に過ごす。しかし、娘の奇行や不勉強について、クレアがアイエスを諌めたことは一度もなかった。
「それとお嬢様の誕生祝賀会の件ですが……本当によろしいのでしょうか」
「何がですか?」
今度はキムに目もくれずクレアは答える。
「内通者がまだ見つかっておりません。このまま開催すれば、お嬢様の身が危険です」
「既に諸侯へ案内を出しています。今更中止などできませんよ」
「しかし……!」
「キム」
反論しようとしたキムを遮ったのはクレアではなく、その傍らに静かに立つ眼鏡をかけた老執事だった。
「エニラ様……」
「少し落ち着きなさい。お嬢様を想う気持ちはよくわかります。しかし、お嬢様を危険に晒さないようにお前たちがいるのですよ」
エニラと呼ばれた老執事は叱るように声を荒げるでもなく、ただ教え子を諭すように穏やかに語りかけた。
「確かにこの祝賀会に乗じて、不穏な動きが見られるのは事実です。しかし、仮に何か起きたとしても……」
エニラは眼鏡を指で正す。
「敵が誰であれ、軍勢が如何ほどであれ、オルブライトン家はただいつも通りに過ごせばいいだけです」
「簡単なことですよ」とエニラはにこりと笑う。それが簡単にできれば苦労はないのだが、何事も完璧にこなす執事長エニラ・グラハムにそう言われては、キムもそれ以上何も言うことはできなかった。
このエリシア城には常駐の騎士団もいる。十年前の戦を経験している歴戦の猛者揃いだ。並の敵など脅威足り得ない。
しかし敵の実態が掴めないというのは、守勢側にとって厄介極まりない。敵が何か搦手を使ってきたら? 暗殺者を送り込む可能性は? ありとあらゆる想定をし、一つ一つ潰していかなくてはならない。
「……引き続き内通者の特定と、警備の強化を続けます」
「そうしてちょうだい。エニラ、少し休憩にします」
「かしこまりました。本日は奥様のお好きなフォートナムのファーストフラッシュをご用意しております」
それを聞いて鉄仮面のようなクレアの顔がほんの少しだけ和らぐ。フォートナムはフレアランド帝国随一の茶葉産地で世界的に有名だ。そのファーストフラッシュは収穫量も少ない上に人気で、上流階級でも手に入れるのに苦労する。
「ありがとう。手に入れるの、大変だったでしょう」
「簡単なことでございます」
老執事は穏やかに笑い、キムと共に執事室を後にした。
◆
自室に戻ったアイエスは、何をするでもなくベッドに横になり、ぼんやりと宙を見つめていた。ヒラリーの言うとおり、自身の誕生祝賀会を前にしてアイエスは気持ちの整理をつけられずにいる。このテルフィアをいつか出て行かなくてはならない寂しさと、そして——。
「お父様……」
十年前の戦から行方不明となっている父、アレックス・ロイ・オルブライトンの帰りを、待ち続けることができずにこの地を離れるだろう悲しさが、絞るように胸を締め付けてくる。
父が大好きだった。優しく、強く、家族を愛してくれた父。誰もが父を慕った。先帝の右腕として信頼され、先の戦でも筆頭将軍として武功を挙げ、敗色濃厚だったフレアランドに勝利をもたらした救国の英雄だ。
最後の戦の後からその行方はわからず、心無い者からは「領地惜しさに死んでいるのを隠匿しているのではないか」と陰口を叩かれた。
学校で魔術学の教師が遠回しに父を死んだ者として扱い、揶揄したことが、当時七歳だったアイエスにどれだけ深い傷を負わせたことだろう。
アイエスだけではなく、クレアも、使用人や騎士団の誰もがアレックスの生存を信じて疑っていない。いつか必ず帰ってくるものとして、このテルフィアとブルース州の領地を守り続けてきた。
アイエスも本心ではわかっている。こんなワガママに生きてもオルブライトン家の名に泥を塗るだけだと。何も変わりはしない。皆が必死にオルブライトン家を守ろうとしている中、自分だけが己の役割を放棄している。
学問を必死に修め、母のように領地経営に携わろうとするでもなく、次期当主となる伴侶を得るために淑女として努力するわけでもない。
「ダメだなぁ……私」
アイエスはこの間十六になったばかりだ。そして、一番親に甘えたかった時期に、父と離れ離れになった。まだ幼く、家族や領民たちからの愛情をもっと受けていたい彼女にとって、それはあまりに幼稚で健気な反抗だった。
物思いに耽っていると、不意に自室のドアがノックされた。
「お嬢、いるか?」
来訪者は自身のお目付役、ヒラリーであった。
「いるわよ。どうしたの」
「客が来てるぜ」
ゆっくり考え事をしたい時に……とアイエスは苛つく。体調が悪いとでも言って追い返してもらおうかと思った矢先——。
「あの小うるさい幼馴染くんだよ」
アイエスはベッドから飛び起きた。
次回は10/11(水) 11時ごろに更新予定です。