第2話 状況
昔から、同じ夢を何度も何度も見ている。
まだ幼い自分が、アルバムでみた一歳くらいの自分が、公園ではしゃいでいる。
秋なのだろう。
公園の木々は多くが紅葉して、温かい暖色系の空気を作り出していた。幼い僕がはしゃいで走ると、地面に落ちた葉っぱがカサカサと乾いた音をたてる。
男性が優しい声で「弓、いくぞ」と僕の名前を呼ぶ。幼い僕は男性が投げる柔らかいボールを、精一杯追いかけてキャッチする。
「パパ、とれた!」
僕はいつも男性を、パパ、と呼んでいる。それが本当なのか、それともこの男性は自分の想像上の父親にすぎないのか、確かめる術はない。
僕の父の写真は、少なくとも自分が知る限りは存在しないのだ。
「弓、パパ、もうすぐお昼だから帰ろう」
母さんは公園のベンチから立ち上がると、僕たちの方に手を振りながら言う。
「今日のお昼は?」
「今日はスパゲティ」
「やったな弓、スパゲティだ。弓の大好物だぞ!」
男性が嬉しそうに僕をだっこする。幼い僕は男性の腕の中で、幸せそうに身をよじっていた。
この夢の中では、僕はいつも何も言わず何もせず、その三人の後ろ姿を見送る。
「そうだ、弓。お昼を食べたら弓道場へ行こう。お前は弓の音が好きだからな」
男性は愛おしそうに、幼い僕の耳に触れた。僕は、その手をくすぐったそうに払う。
「弦音……お前もきっと、あの凛とした音のように素敵な大人になれる」
「つるね……?」
幼い僕が首を傾げると、男性は「そうだ、つるね」と宝物を撫でるように、そっと幼い僕の頭を撫でた。
男性の顔は逆光で見えない。
ただ優しい声色だけが、自分の息子を心から大切に思っていることを伝えている。
この夢は必ず、同じ場面から始まり、同じ場面で終わる。繰り返し繰り返し、何度も同じ場面を夢として見ているのだ。
在りし日の幸せを忘れまいとするように。
「はっ」
目が覚めると、布団の中にいた。
「あれ……」
起き上がって部屋を見回す。
十五畳ほどの和室に、僕は一人ポツンといた。
床の間や押入れのあるきちんとした和室で、どちらかというと応接間のような雰囲気。これは寝室ではないだろうな、と勝手に推測する。
僕は今まで使ってきた布団の二倍の厚みはあろう、ふかふかの布団の上にいて、着物に着替えていた。寝ている間に着崩れたのか、着物が肩からずり落ちそうになっているのを直す。
そうだ、僕はこの家にやって来たのだ。
昨日の記憶を手繰り寄せながら、千鳥足一歩手前のふらつきで立ち上がる。
「うわ!」
恐る恐る障子を明けた僕の目に、縁側で寝転ぶ男性の姿があった。
長い栗毛色の髪の毛をポニーテールのように束ねて、学校の体操服のような緑色のジャージを着ている。
「ん……起きた?」
男性は眠そうに目をこすると、僕を見つめる。
目……あいてるのかな?余計なお世話だが、そんなことを思ってしまった。糸目なのか、開いていないのか、僕には判断できないまま男性は「保智殿〜」とどこかへ行ってしまった。
「あ……」
一人縁側に取り残された僕は、ふと視線を外にうつした。
手入れの行き届いた日本庭園で、庭を挟んだ向こう側には時代劇に登場するような屋敷があった。昨日は暗くてわからなかったが、ここはどうやら文化財レベルの立派な日本家屋のようだ。
この家があるのが東京都とは、にわかには信じ難い静けさ。だけど、向かいの屋敷のさらに向こうに、青く染まって空と同化しつつあるビル群が見える。あんなおびただしいビル群があるのは、日本では東京くらいだろう。
少しすると、バタバタと人の足音が聞こえてきた。
「君が……」
さっき去っていった男性が呼んできたのは、背の高い男性だった。例の夢の中でみた男性と少し似ているけど、何かが違う。
男性は一瞬、まるで怯えたように身体を震わせると、すぐに笑顔に変わる。
「はじめまして。昨晩は挨拶できなくてすまない。私は鳳おおとり保智やすとも」
彼は照れたように握手を求めてきた。
「君のお父さんの弟…おじさんだね」
「あっ、えっと、若宮弓です」
おじさんのごつごつとした右手に、そっと両手をそえる。
「弓、君に会えてよかった。兄さんに弓のこと聞いたときから、ずっと気にしていたんだ。兄さんの言う通り、君はお母さんによく似ているね」
大柄な彼は、小柄な僕に視線をあわせるために、腰を曲げて屈んでいた。真っ直ぐに目を見て話そうとする姿勢に、偉そうな言い方だけど好感を持った。
おじさんは少し目を伏せると「お母さんのことは残念だったね。早くに援助できなくてすまない」とつぶやいた。
「気にしないでください…それより」
僕はおじさんの後ろに視線をうつした。
「あの人たちは?」
おじさんの後ろには、若葉さんと、浮世離れした雰囲気の男たちがひかえていた。
さっきまで敷いてあった布団はいつの間にか片付けられ、僕もお手伝いさんにあれよあれよと服を変えられる。なんとなくむず痒い。
布団がいなくなるとより広く感じる部屋で、僕とおじさんたちは向かい合う。僕はまだ経験したことはないけれど、圧迫面接とはこんな感じだろうか、と一人思ってしまった。
「弓、まずうちの家……鳳家について話そう」
ごく、と唾を飲み込んだ。
これほど大きな屋敷に、おじさんの後ろにいる家来のような派手な人々や、自分をここまで連れてきてくれた運転手。それだけでも、ここが普通の家でないことは田舎の出身である僕も十二分に理解できていた。
「弓、我が鳳家は、先祖代々妖を使役する……弓に馴染みがある言葉で言えば、陰陽師のようなことをしている」
僕は一ミリも理解できなかった。
「…………は」
言葉を出そうとしたが、何も出てこず、やっとでたのが意味を持たないこの「は」だった。若葉から妖についての説明はあったけれど、陰陽師なんて初耳だ。
「うん、急に言われてもそうなるよな。陰陽師といっても、歴史に存在する職業としての陰陽師とは違う。ただ、いつの時代からか陰陽師と呼ばれるようになった」
おじさんは僕を置いてペラペラと話し始める。
「弓、弓の名前はたぶん真名まなじゃないな?」
「マナ…って、なんですか?」
「真名というのは、本当の名前。つまり本人の魂の総てだ。相手の真名を知るというのは、相手の魂の総てを知っているということ。格下の相手に知られると困ることが多いが、それよりも自分よりも強い相手に知られると、かなりの危険がある。だから、ここの者は皆、仮名というものを使っている」
おじさんはそう言うと、す、と右手を横にのばした。
「弓から見て右から、花の家の百合之丞ゆりのじょう、風の家の若葉、月の家の十五とおご。今は京都に行っていないが、雪の家の吹美実ふみさね。これが彼らの仮名だ」
三人の男性は、それぞれ頭を下げた。深深と下げる人や、微妙に頭を揺らした程度と、各々個性の出る形であった。さっきの上下緑色ジャージの人は十五と言うのか、と勝手に答え合わせをする。
「ま、ここで今さら弓に仮名をつけて呼ぶのも、あからさますぎるしな。いかにも仮名です、という顔で、これからも弓と呼ぶことにしよう」
何を言っているのかよくわからない。
とりあえず、僕は変わらず弓と呼ばれることだけは、なんとなく理解した。
「陰陽師の家は四神家と呼ばれて、大きく四つある。うちは『鳳家』の一族だ。その中でも鶴の家、と呼ばれている。陰陽師の一族には、どの家にも代々花、風、月、雪と呼ばれている四つの家が仕える。彼らは先祖が妖と契約し、人間離れした力を手に入れた半妖の一族だ。そして、そんな彼らを使役できる契約をしたのが、私たち陰陽師の一族だ」
僕の脳みそは、洪水のように情報が氾濫していた。普通に長野県の片隅で暮らしていた僕には、まったく想像もつかない、奇妙なマンガのような話。
「陰陽師は、悪さをする妖や鬼、悪霊を祓うことを仕事としている……まぁ、必要なことは追々説明していくから、焦って覚えることはない」
おじさんは頭からいくつものハテナを生やす僕を気遣い、微笑んだ。
「慣れない土地で大変だろう?幸い今は弓も夏休みだ。この四人と仲良くなりつつ、数日間はここでのんびりしなさい。これからこの屋敷は君の我が家だ。広い屋敷だから、まずは部屋を覚えることから始めるといいさ」
太陽のような明るさで、おじさんは僕の頭を撫でた。撫でるというか、ほぼ揺さぶるくらいの強さだけど。
「何より若葉からの報告だと、弓は妖が見えているそうじゃないか。感心感心」
「えっ?」
僕は若葉さんをとっさに見る。
若葉さんは何も言わず、ぐっ、と親指をたてるだけだった。なんで得意げなんだ。
「妖とは弓の言葉でいえば、バケモノだね。何かおかしなものが見えていたんだろう?」
「あ」
児童養護施設での一連の出来事を思い出す。
俊太くんや、他の人たちを苦しめたバケモノ。若葉さんが倒してくれたあのバケモノだ。
「若葉の報告によれば、弓は妖をひきつける力が強い。逆に言えば、それだけ才能があるということだ」
才能。
僕は自分にとって馴染みのないその褒め言葉に、頬が熱くなった。
「えっと、できる限りがんばります!」
「うん。いい返事だな!それでは私は仕事があるから、夜まで帰れない。何かあれば、彼らに聞きなさい」
僕はおじさんにだいぶ雑に撫で回されてくしゃくしゃになった髪を手ぐしで直しながら、コクコクと頷いた。
優しい人だ、と素直に思えた。
腫れ物に触るようでもなく、自分を家族として当たり前のように受け入れてくれる態度に、心が温まるのを感じた。
僕の母さんには親戚と呼べる親戚がいない。だから、こういった血縁の温かさに触れるのは初めてだった。
「帰ってきたら、兄様に──弓、君のお父さんに会わせてあげよう」
おじさんは背中越しに、僕に告げた。
家族というものに初めて触れた僕は、おじさんの発する父親という言葉に、少し冷ややかなものを感じた。
夢の中のあの男性なのだろうか。
僕は夢が叶うような、壊れてしまうような、不思議な気持ちになった。