森島くんが死んだ
森島くんが死んだ。
さっき親からの連絡で知った。
「あなたの同級生、亡くなったの。香典をだしたわ。まだ若いのに、事故なんて残念ね」
東京の外れにある、とある駅のホームには私と同じ大学生ばかりで、ほとんどの人が私と同じようにスマホを見ている。でも同級生の死を知ったのは、たぶん私一人。
私の初恋の人、森島くん。フルネームは森島篤人。頭が良くて、イケメンで、運動ができなくて、家がヤバい、いじめられっ子だった。高校の時の話。
私の実家はマジでガチのど田舎にある。ど田舎県ど田舎群ど田舎市。私も森島くんもそこ出身。生まれも育ちもど田舎。ど田舎賛美的なものを口にする人間が、私は大嫌いだ。ど田舎はクソ。賛美する人間は、実は都会出身か、いじめっ子だと思ってる。別にバスがなくても、電車が全然来なくても死なないからいいけど、あの同じ人間がぐるぐるしてるだけの閉塞感は、人が死ぬ。
私と森島くんは同じ高校出身で、同じくいじめられっ子で、同級生だった。私はバカで金持ちだからこっそりいじめられてて、森島くんは家がヤバくて運動音痴だからこっそりいじめられてた。なんでこっそりかっていうと、ど田舎なりに進学校だったから。内申点下げることは絶対しない。大義名分はあった。私は絶対裏口入学だから、森島くんは家がヤバくてたぶん本人もヤバい奴だからいじめられてた。
同級生の心の中とかわかんないけど、いじめてた側は別に殴ったり下駄箱に画鋲入れたりしてないし、普通に嫌ってただけだと思ってる。廊下歩いてるだけでヒソヒソ嘲笑われるのは、いじめとは違うとか本気で思ってるけど、偏差値は私より高い。
ちなみに私は裏口入学じゃない。でもバカなのは事実だった。平均点下げまくったし、補修の常連だった。しかも不真面目なヤンキーではなく、普通に真面目な生徒だった。なんでかわかんないけど、ヤンキーは恐れられて真面目なバカは蔑まれる。親はいわゆる地元の名士。しかも高校のOB。裏口入学を疑われる証拠は充分。良い悪いの問題じゃなく、私がいじめられっ子なのはほとんどの人が納得いくと思う。
問題は森島くんに対するいじめだ。ただの嫉妬を理由に、進学校に行くような頭が良い高校生が、森島くんをいじめるのは違和感があるって人もいると思う。でもど田舎のルールでは、森島篤人は私と同じくいじめられっ子で当然な人間だった。原因は森島くんの家族。先祖代々貧乏で警察のお世話になった人がたくさんいて、叔父さんが人を殺して服役中で、お母さんは隣町のジジイにおっぱい揉まれる仕事で、お父さんが誰だかわかってなかった。家族と本人は別って建前がわからないほどバカな人間ばかりじゃなかったけど、非行少年っていうのは森島くんみたいなヤバい家から出るって信じてた。大人しくて真面目な森島篤人が、いつかぶちギレて何かやらかすと思ってた。ヤバい奴だと思ってるなら、媚び売ったりしても良さそうだけど、悪い奴だって思い込むと、嫌わずにはいられないセーギカンの持ち主が多かったのだ。
いじめられっ子仲間ではあったけれど、私と森島くんは仲が良いわけじゃなかった。むしろお互いバカにしていた。でもある日、転機が訪れた。
蒸し暑い夏の日。私は補修を受けに、森島くんは部活で学校に行った。森島くんは陸上部だった。うちの学校の運動部は笑っちゃうほど弱い。そして弱っちい運動部のエースほど性格が悪い人間はいない。私は森島くんがなぜ陸上部に入ったのか、ずっと疑問だった。森島くんは運動が苦手なのに。科学部とか文芸部とか、文化部に入れば良かったのに。補修の帰りに部活帰りの森島くんとバッタリ会った私は、夏の暑さに血迷ったのか、本人にそのことを尋ねた。
「森島くんはなんで陸上部に入ったの? 」
と。なんでその話になったのか、なんで森島くんと話すことになったのか、その顛末は全く覚えてないけれど、彼の答えはよく覚えている。
「人間は走ることで初めて人間になったんだよ」
意味がわからなかった。そういう顔をしていたんだと思う。森島くんは長い睫毛を伏せて、少しだけ口角を上げた。
「チンパンジーは、こう、人間みたいに腕を振って走らないんだ。僕ら人間は、森を出ざるを得なくなって初めて、野原を走る必要ができた。二本の足で立って、走って、人間は初めて人間になったんだ」
バカみたい、と思った。でも森島くんの長い睫毛の奥の黒目がちの瞳は、いつになく輝いていた。森島くんがイケメンだったことを、当時の私は再認識した。ど田舎には馴染めないくらい、森島篤人は繊細な顔立ちをしていた。森島くんは言葉を続けた。
「それはたぶん『逃げ』だったんだ。逃げるために僕らは人間になった。それってなんかいいなって僕は思う」
森島くんは不思議ちゃんではない。あの言葉は森島くんの本心だったと思う。馬鹿な私には未だに意味がよくわからないけど、『逃げるために人間になった』その一言に森島くんのナニかが詰まっている気がして、何度も何度も思い返しては、その言葉を噛み締めた。私は森島篤人に恋をした。
死んだ。
森島くん。
事故で死んだ。
私は駅の待合室に長いこと座り込んでいた。東京の冬は風が冷たいわりに、待合室が暖かくない。灯油ストーブがないからだ。ど田舎に未練があるとすれば、温かい待合室だけだ。
夢遊病患者のようにフラフラ立ち上がって駅を出る。もっとも夢遊病患者を見たことはないけど。東京はいい。明らかに様子がおかしな女が歩いてても見て見ぬふりをしてもらえる。
涙は流れなかった。ただ呆然として足を引きずって歩いた。逃げちゃいたいな。このまま、森島くんがいなくなった世界から。そう思った。
森島くんの言葉が甦った。人間は、逃げるために人間になった。私は自然と速歩になった。
あの時は夏だったけど、今は真冬だ。プリーツのスカートを穿いていた私は、今はジーンズを穿いている。高校生から大学生になって、東京の私立大に通うようになった。クラスで一番馬鹿だった私は、世界はど田舎の進学校よりずっと広いことを知った。
あの時の私達は今よりずっと子どもだった。戻りたくはない。どうしようもなく変わってしまった。ただそれだけ。森島くんは高校を卒業して就職したと聞いた。彼もまた、どうしようもなく変わっていたのだろうか。
耐えきれない感情の嵐から逃げようと、私は走り出した。
パソコンの入ったリュックは重い。ロングコートは邪魔だし、お気に入りのショートブーツは走るのには向いてない。
あっという間に息が苦しくなったけど、私は走り続けた。逃げろ、逃げろ、逃げていいんだから。
涙が頬を濡らした。マスクの下は鼻水でべしょべしょだ。酷い顔をしている自覚はある。それでも、走りたかった。
異様な女が暴走しているのは、流石の東京でも珍しいのか、何人かがこちらを振り返った。無視した。車の前を横切ってクラクションを鳴らされた。ごめん、それどころじゃない。知り合いがギョッとした顔でこちらを見ている。ほっといて!
私は自分のアパートに駆け込むと、呼吸困難で死にそうになりながら、大声で泣いた。どんなに逃げても感情は追いかけてきた。
森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん、森島くん。
何を言いたいのかわからないまま、もう私の心の中にしかいなくなった森島くんに話しかける。
「大好きだよ」