第96話 新たな選択
時羽は桜羽に抱きしめられたことでとても安心したようだ。藤色の目からぼろぼろと大粒の涙が時羽の頬を伝った。
「あれ、かなしくないのに、なんで?」
疲れ果てていて活気のないその目からは、体の主人の意向を無視して大粒の涙が流れ続ける。時羽は何度も何度も目を擦って涙を止めようとするが、それでは追いつかないほどの雫が桜羽の着物にシミを作っていく。
「涙はな、色々な時に流れるんだ。悲しい時、嬉しい時、緊張が解けた時。他にもたくさん。だから今は好きなだけ泣きなさい」
「ゔん」
桜羽はより一層時羽をぎゅっと抱きしめた。
部屋の入り口に翡翠はいた。しかし親子の触れ合いを邪魔してはいけないと思い、少し離れたところから見守っていた。
「貴方は行かないのですか?」
見守るだけに徹する翡翠に声をかけたのは、楓の母だった。
「今は行かねえよ。本人にゃ伝えられないが母子感動の再会なんだ」
「案外すぐに呼ばれるかもしれませんよ」
楓の母は面白そうに言った。
この予想は当たった。桜羽が翡翠を呼び寄せたのだ。
「お前も早く来い、翡翠」
「俺が行ったところでなぁ。あの子からしてみりゃ初見の不審者なんじゃないのか」
そう言いつつも時羽を抱きしめている桜羽の真正面に翡翠は正座した。
時羽はいきなり現れた背丈が高く軍服を着ている男に恐怖を感じた。今自分の近くで一番頼れるのは桜羽である。抱きしめられているがより一層強く桜羽に頭を埋めた。
「時羽。そのままでいいから話を聞いてくれ。俺は翡翠。この集落の者で、桜羽の旦那だ」
とても優しい翡翠の声にほんの少しだけ警戒をといた時羽は翡翠の方をチラリと見た。
「はじめまして。ときはです。よろしくおねがいします」
それだけ言ってまた時羽は桜羽に顔を埋めてしまった。
「嫌われちまったか?」
「いや、今までたくさんの軍服を着た男たちに追いかけられてきたんだ。ただの警戒心さ。これから同じ集落で暮らしていくんだいずれちゃんと守ってくれる人と認識されるだろうな」
「ねえ、おとは。おなじしゅうらくでくらすってどういうこと? おとはといっしょじゃないの?」
「私たちを追いかけてくる奴らはまだ残っている。だから時羽は冬井家に、花凛は秋津巳家に預かってもらおうと思ってな。もちろん、ここじゃないどこかに帰りたいならそこまで護衛しよう。強くなりたいのならばつけてやれる稽古もある」
時羽はポカンとしている。いきなりすぎて単純にに意味を理解しきれていないのだ。集落についても花凛と自分と桜羽で暮らすと思っていた。それなのにいきなり違う家に行けだなんて、まさか自分が捨てられたのではないかという考えがよぎる。
「でも、かりんにもきかないと」
「これは時羽が決めるべき問題だ。もちろんかりんもこれは自分で決めなきゃいけない問題だ。それぞれの家に残るならばそれでよし。生活が精神的苦痛になるのならばその時はまた一緒に考えよう」
「さいしょからおとはのいえじゃだめなの? わたしたちなにかわるいこと、しちゃった?」
言葉を重ねる時羽の声は涙に濡れ、声は震えている。
「おとは、わたしたちをすてるの?」
「っ違うよ、時羽。安全のためなんだ。今翡翠も私も追われてるんだ。もちろん同じ一族出身のお前たちにも追っ手は来るのかもしれない。だからこれから村を空け、私と翡翠は大元を潰しに行く。これは大人の都合だ。恨んでもらっても構わない」
「わかんないよ。とつぜんだし、わけわかんないし。でも……」
急な選択肢の出現により時羽の脳内は混乱を極めた。なんとか自分の胸にすっと入ってくる言葉に噛み砕こうとしても、難しい。
「元はと言えば私に責任があるんだ。提案がいきなりすぎたな。今度、考えがまとまったら、詳しいことを決めよう」




