第88話 雪の日⑩
「春谷紅音の家は知っているな?」
「……うえっ、ああ、うん」
翡翠の声で、楓は現実へと引き戻される。処理しきれないものを処理しようと頑張っていた最中にさらに新しい情報を与えられたため、返事は遅れたし、声も若干裏返ってしまった。
「前と変わってなけりゃ、そこで診療所みたいなことやってるはずだ」
翡翠は楓の返すぎこちない反応を気にせず続けた。
「うん。まだやってるよ。うちの村で唯一の医者!」
「そうか、それは良かった。そしたらお前達は先に村まで走って急患2人だと伝えてきてくれるか?歳は……そうだな、お前らと同じくらいかそれよりも下。傷は主に切り傷だが、打撲や骨折なんかもあるかもしれん。できる限りの怪我に対応出来るようにと伝えておいてくれ。」
「急患2人、としはおれたちと一緒か年下、切り傷が一番大きい、怪我の手当ての準備!」
楓は言われたことを繰り返した。多少情報の詳細さが甘い部分はあるが、一番伝えたい要点は押さえられている。
頭の中で情報がこんがらがり曖昧なまま伝わることや、今より伝わる情報量が減ってしまうことを考えると、下手に訂正するよりも、今楓が自分なりの言葉でまとめた事を伝えてもらうほうが良いのかもしれない。そう判断した翡翠は、楓の言葉を肯定した。
「そうだ。これを伝えたら、治療の準備を手伝ってやってくれ。正直このくらい怪我がひどいとそんなに速くは走れん。下手に衝撃を与えるとせっかく塞がりかけた傷が開いちまうからな。」
「わかった。涼、村に戻るぞ!走るよ、はーやーくー!」
未だ「生きている」の一言からもたらされた情報と感情を処理しながらぼうっとつっ立っている涼の手を軽く引き、声をかけ走って村に戻るよと促す。ところが、涼には、楓の声も肩を叩かれている感覚も届いていないのか、呼びかけに対する返事はない。
少しの衝撃を与えるだけでは、涼の意識をこちらに引き戻すことは難しいと楓は判断した。そして、一度全力で手を引いて体勢を崩し、無理やり自分の方に意識を向けさせた。
「ちょっと、そんなに強く引っ張られたら転んじゃうよ」
涼からしてみれば、言われたことを理解しようと必死に脳みそを回転させていたところに、いきなり体勢を崩すという攻撃をされたようなものだ。幼馴染の暴挙に対して抗議の声を上げる。それに納得できなかった楓も、もちろん抗議し返した。
「何度も村に戻るよって声かけてんのに反応しないからだろ!さてはお前おっさんの話聞いてなかったな?!」
「おうこら待てガキンチョ。おっさんはないだろ、おっさんは。まだそこまで衰えちゃいないぞ」
敬語を使わない話し方も、会ってすぐの時から取り続けた生意気とも言える態度も、全く注意することなく寛容に許し続けてきた翡翠にとって許容範囲外の呼び方だったらしい。怒っている訳ではなさそうだが、訂正しろと初めて注意らしきものをされた。
「急いだほうがいいんだろ! 変なところで突っかかってくんなよー、じゃあひすいでぇ」
楓は投げやりに叫んだ。
いくら生きていると言われても、片方の傷だらけの少女を見ているといつ死んでしまうか気が気ではない楓は、一刻も早く怪我の治療ができる医者に少女達を診て欲しかった。
もしかしたら、5分後には死んでいるかもしれない、もしかしたら何かの拍子にもっと血が出てくるかもしれない。せっかく最悪の事態ではないとわかったのに、これ以上自分たちがもたもたして、目の前の消えかけている命の灯火が消えてしまう瞬間だけは見たくなかったのだ。
「それなら許す。ほれ、速く行ってこい」
「そうだよ楓、行くよ」
真面目なのは楓だけであった。
一方で、翡翠は半分くらいはわざと巫山戯たような言動をした。これは経験からだ。実際、旅をしていく中で瀕死の者や怪我をした者、既に亡くなってしまった者を見ることは少なくなかった。他人だけでなく自らも負傷者となることも少ないとは言えない。
怪我の具合を見れば、どのくらい動けるか、どんな治療が必要であるか、そして生き残れる可能性が高いか低いか、大体のことは分かるようになった。このことから少女達が助かる確率は高いと予想している。
残りの半分は、優しさからだった。涼は非日常的状況下においてマイペースを貫き、思考の沼に落ちて周囲の音をシャットアウトすることもできる。そして、ただ自分の行動を貫くだけでなく、その切り替えも早い。この状況適応能力は、普通ではないが問題もない。
だが、楓に関しては翡翠への警戒心は薄れているが、少なくとも出会ったか時からずっと気を張り詰めている。目を背けたくなるような傷を負った者を見てしまったにも関わらず、大人の指示を冷静に聞くことのできる楓も、状況適応能力はおそらく同世代よりも頭ひとつ抜けて高いだろう。
しかし、いくらそうであったとしても、気を張り詰めたままいることはそれだけで体力も気力も奪っていく。加えて、歩きづらい雪道を下って村へ帰らなければならない。
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