第86話 雪の日⑧
おそらく山の向こう側からやって来たのだろう。いつの間にか、楓や涼が来た方向とは逆から近づいてきた男が声をかけてきた。自分たちのことで一杯一杯で、視野が狭くなり周囲のことがほとんど見てていなかった2人は驚き叫んだ。
「ぎゃぁぁぁあ! 見られた! 詰んだ!」
「僕やってません、巻き込まれただけです!」
「だから俺やってねーって言ってるし、人のことサラッと売ってんじゃねえよ。ていうかおっさん誰?! 村で見たことねーけど」
男は真っ紅な髪を頭の真ん中あたりで束ね、腰の辺りまで垂らしていた。服は田舎であるこの村ではあまり見ない洋装だ。洋装が普段着であるような地域はあるにはあるが、もっと北の方でかなり距離もある。それなのに、持っている荷物は長旅をするような量ではなく、ちょっと隣村に買い物に行く程度の量だった。
「俺は翡翠。一応村の人間だ。つってもここ五年以上帰ってねえからな。お前らが赤ん坊だった頃に会ったことはあるが、まあ覚えてるわけねぇよな単純に考えて。」
「赤ん坊だった頃の俺たちを見たことあっても、今の俺たちがその赤ん坊だとは限らないだろ。」
突然湧いて出た不審者とその言葉への驚きと少しの恐怖心に、いつの間にか涙は引っ込んでいた。代わりに、その涙の引っ込んだ目で相手を睨み、なけなしの威嚇をしておく。
翡翠とはかなり体格差があるため、その威嚇は全く効いていないようで、くつくつと笑っている。
「その気の強さ、お前さんが楓だな。母親の小さかった頃そっくりだ。で、隣のが涼か。妖力だの魔力だのが全く感じられん。今時人間の純血は珍しいし、あの村にゃお前の一族しか居ねえよ。それに、一歳から二歳になる一年間、お前らのこと育ててたの俺だからな。流石にわかる。」
「そんなのまっっったく憶えてないんですけど?! それ本当なの?!」
「はあ?! 俺の母親が気が強いとかあり得ねえよ! うちの村で一番大人しくて穏やかだって言われてるんだぞ!」
楓の母親は目力が強く、背も村人の中でも大きいほうだ。背筋はいつもピシッと伸ばし、堂々とした佇まいである。しかし、いつも笑顔を絶やさず、話し方も穏やかであるため、村の中では随分と頼りにされている。
自分たちが悪さをしたときは、どんな些細なことでもとっ捕まえて説教をするが、なぜ駄目だったか、如何するべきだったかを無駄に怒鳴ることなどなく静かに懇々と説教をしてくる。
村の外から買い物に来た商人が理不尽な要求を突きつけてきたときも、決して声を荒げることはなく、話し合いだけで相手を丸め込んでしまう。
どんな状況でも動じることも声を荒げることも無く、穏やかに話し合いだけでやり過ごしてしまう母親が、自分と同じように気が強いだなんて信じられない。ましてや結構やんちゃして好き勝手暴れ回ってる自分と子供の頃の母親が似ているだなんて楓は想像すらできなかった。
「随分とまあ大人しくなったんだな。詳しい話は後でしてやるよ。それより、何か困ってたんじゃないのか?さっきまでギャーギャー泣いてただろ」
「泣いてねーし! 混乱してただけだし!」
「ははは、そういうことにしておいてやるよ。で、実際のところどうなんだ?」
楓と涼は顔を見合わせた。自分たちだけではどうすればいいか見当もつかないこの状況下に現れた翡翠は大人で、もしかしたら何とかしてくれる救世主かもしれない。しかし、心の片隅ではお前たちがやったんだろうと責められるかもしれないという疑念も拭えない。
そんな不安と迷いを感じ取った翡翠は、楓と涼にに近づき、片膝をついてしゃがみ込み目線を合わせ、より優しい声で話しかけた。
「ここ数ヶ月、北の方で色々あってな。こっちにも影響が来てるかもしれん。もし何か見たんなら俺に話してみろ。できる範囲でなら何とかしてやる。それに、何を見たっていきなりお前らのこの疑ってかかったりなんてしないさ。安心して言ってみろ、な?」
2人はもう一度顔を見合わせ、うなずいた。そして、楓は意を決して口を開いた。
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