チェス盤の準備その5
立花山の頂上にある龍仙神社に行くためには、延々と続く蛇のような階段を登らなくてはならない。その無限に続くかのような道を一人の少女が歩いていた。
「全く、本当に重労働ですわね」
その少女、つまり雪村由香は頂上まで登り終えると、真っ赤な鳥居を潜った。
「ごめん下さい。神主に合わせて頂けませんか?」
由香は目の前にいる黒い袴に茶髪の髪をした見るからに不良っぽい外見をした若い男に声掛けた。
「神主は忙しい。またにせよ」
折角地獄のような階段を登り切ったというのに、随分とつれない反応である。しかし由香は冷静だった。
「封神計画のことと言えば分かりますか?」
由香の言葉に、男は表情を強張らせ、同時に眼が飛び出したように剥いていた。これは感極まった際にこの男がよくやる癖だった。
「待っていろ。今呼んで来る」
男はそれだけ言うと、裏庭の方に走って行った。
しばらくして一人の少年が出て来た。神主の癖に随分と若く、彼女と同じぐらいか少し年上に見えるぐらいの外見をしていた。さらに言えば、身体の線が細く、最初に見た時、由香は神主が少年と分からなかった。髪は短く切り揃えられていたが、ボーイッシュな少女と説明されても、彼を知らない人間は信じてしまうだろう。事実、由香が目の前の人物を少年と一発で理解できたのは、少年が男子用の制服姿だったからだ。それも自分と同じ学校のものだった。
「中で話を聞きましょう」
少年は慇懃にそう言うと、ぱっちりとした、愛らしい二重の大きな瞳で由香を見据えると、くるりと踵を返して建物の中に彼女を案内した。
「どうぞ」
一面緑色の畳部屋に案内された床はお茶と菓子をを出され、ちゃぶ台の前に可愛らしく正座して座っていた。反対側には神主の少年がいる。
由香は改めて少年の顔を観察してみた。男も色を覚える美少年というのはこういう人を言うのだろうと、勝手に感心していた。
(男の癖に長い睫毛…)
由香はお茶を啜りながら、少年の言葉を待った。
「申し遅れました。私は龍仙神社の主をしております。結城双葉と申すもの。この暑い中、遠路遥々ようこそいらっしゃいました」
「ふっ、別に遠路遥々ではありませんわ」
「ところで…」
双葉は顔を上げると、廊下の方に視線を移した。
「外のお賽銭箱にお金は入れましたか。ここの神様は長寿祈願に安産、それに健康成就に商売繁盛、恋愛成就に効果があるありがたい神様です。どうぞ後でお参りをして行って下さい。ええ、100円でも構いません。ご利益はあります」
「は、はぁ…」
とんでもない神様だと由香は内心呆れていた。そしてその可憐な少年が明らかに金を要求している浅はかさが何ともギャップがあって、彼女は苦笑することしかできなかった。
「しかし、どうしてここに来たんだ。まさか今更リタイアしたいなんて言わないだろうね」
「ふっ、リタイアするのは私の兄ですわ。私の兄の透を降ろして下さい。彼はとてもこの戦いに生き残れるような器では無い。そればかりか引き当てた神は、偽りの神。名前も無ければ神器も無い。ただ呼び名が無いのは不便なので、マリンと呼んでいますわ」
双葉は大きな溜息を吐いた。そしてお茶を一杯啜ると、先程の茶髪の男を呼んだ。
「土御門お代わりを」
「はっ」
土御門と呼ばれた男はよく見るとまだ若かった。彼は空になった湯呑を持って部屋を出て行った。
「さてと、再三伝えていることだけど、封神計画のリタイアは認めていない。それに本人が頼みに来るならまだしも、代理人とはおかしい」
「兄に死ねと?」
「そういう契約の筈だ。ならば代わりにあんたが自分の神を兄に譲れば?」
そんなことできるはずがない。それを知っていて双葉は口にしている。何て意地悪な。
「ところで、あなたも神を呼び出していますわね。調停者の参加はルール違反では?」
「俺が呼び出したのはケルベロスだ。あれは戦いの際に人間の死体が出た際の処理に使うだけの存在だ。契約はしていないし、殺しても何にもならない。封神計画が終われば自動的に消えるシステムだよ。封神計画の存在が一般人に知られてはいけないからね」
「それで、私の祖父も始末したと?」
由香の刺すような言葉に、流石の双葉もバツが悪そうだった。サラサラとした前髪を手で弄りながら、土御門が運んで来たお代わりのお茶に口を付ける。
「本来ならば遺体は家族に引き取って貰うのが筋だが、発見したのが遅く、腐敗が進んでいたので、匂いで周りの人間にバレるのが怖かった。俺は今回の封神計画の調停者だからね。全体の風紀を守り、この計画が無事に完終されるのを見届けなければならない。だから、悪いけど遺体はケルベロスに食べさせた」
結城家は代々封神計画の管理を任せている一族だった。この恐るべき計画を最後まで適切に管理仕切らなくてはならない。
「分かりましたわ。では、私はこれにて…」
由香はもう頼むまいと思った。兄を助けたいという思いはあるが、それは自分の身を犠牲にしてまでという程のものでは無い。ただ、あのマリンという名も無き少女だけはどうにかして救いたいという気持ちはあった。