4:第4話
黒い狼みたいな魔物は、ララムから目を離そうとしない。低い唸り声が辺りに響いている。
魔物は姿勢を低くして、鈍く光る目で睨みつけてくる。その視線をまともに受け止めてしまい、ララムは足が竦みそうになった。じり、じり、と距離を詰めようとする魔物に恐怖が這いあがってくる。
でも、怯えていることを魔物に悟られるわけにはいかない。気持ちで負けると終わり――騎士学校の授業で何度も教えられていることだ。
ごくりと喉を鳴らし、素手で構えをとる。
(……いや、勝てる気は全くしないけども!)
それでも足掻くしかない。たとえ倒せなかったとしても、傷の一つか二つくらいつけておかなくては。
だって、この先にはセリクがいる。戦闘が苦手な彼のところに、無傷の魔物なんて行かせるわけにはいかない。
魔物の急所である鼻に狙いを定める。ぐっと腹の底に力を入れて、拳を握った。
そしていざ、急所に拳を叩きこもうとした瞬間――。
「ララム! 今、助けてあげるから!」
気弱な幼なじみの震える声が聞こえた。驚いて振り返ると、今にも泣きそうな顔をしたセリクの姿が見えた。こちらに向かって、必死に駆けてきている。
「……セリク?」
セリクの手には訓練用の槍が握られていた。丸腰のララムと比べれば、かなり強そうに見える。
そう――へっぴり腰でさえなければ。
「ララムを傷つける奴は、たとえ魔物でも許さない!」
セリクはぷるぷる震えながら、槍を突き出す。
けれど、槍の先は魔物に届かない。
(……いや、そこで目を瞑ったら当たらないでしょうよ!)
ララムは心の中で盛大に突っ込みながらも、魔物の注意が自分から逸れたことに感謝した。さっと足元の石を拾いあげると、魔物の鼻を目掛けて投げる。
槍をぶんぶん振り回すセリクに気を取られていた魔物は、ララムの投げた石に気付くのが遅れた。まともに石が鼻にぶつかる。
続けて、ララムは二個目、三個目の石を投げつける。
「きゃん!」
次々と急所を狙ってくる石に、魔物はしっぽを巻いて逃げ出した。暗い森の茂みの中へ、その大きな体が消えていく。
魔物が逃げ去る足音が聞こえなくなるまで、ララムは石を手にしたまま警戒し続けた。
「……もう、安全かな」
はあ、と大きく安堵の息を吐いて座り込むと、目の前にセリクが立った。
見上げると、彼は眉を下げた情けない表情で、こちらに手を差し伸べてくる。
「だ、大丈夫? 怪我はない?」
「……うん、平気。ありがとう、セリク」
差し伸べられた手に自分の手を乗せようとして――やめた。
さっき、セリクにひどいことを言ってしまったばかりだ。この手に頼るわけにはいかない。
セリクの手を借りることなくひとりで立ち上がり、ぱんぱんとお尻の土を払う。
なんとなく気まずくて、セリクの顔は見られなかった。
「……あの、ララム?」
おどおどとしたセリクの声。ララムはセリクの方を見ないようにしながら、そっけなく答える。
「なに?」
「あの、さっきはごめん。僕、ララムが邪魔とか、そんなこと全然思ってなくて。だから」
「良いよ、もう。私の方こそ、ひどいこと言った。ごめん」
早口でそう言うと、ララムはさっさと歩き始めた。
とりあえず、魔物が出たという報告をしなくてはならない。
ララムたちは魔物を追い払っただけで、倒したわけではない。また襲われる可能性がある。
教官に報告して、ちゃんと指示を仰がないと。
セリクがララムの少し後ろをついてくる気配がする。
「……怒ってるの? ララム」
「別に。でも、ごめん。私、もうセリクの味方にはなれない。セリクの恋を応援してあげることもできないし、今まで通りの幼なじみの関係でいるのも無理」
「ララム……?」
ララムは馬鹿だから。
セリクの傍にいたら、もっとセリクのことを好きになってしまうだろう。
だって、へっぴり腰ではあったけど、魔物から守ろうとしてくれたことがすごく嬉しかった。
震える手で必死に戦おうとしていた姿が、世界一かっこよく見えてしまった。
これ以上、失恋の傷を広げるような真似なんて、絶対にしたくない。
せめてこの恋の傷が癒えるまで。痛みを忘れられるようになるまでは。
「私はもう、セリクとは関わらないようにする。だからセリクも、私とは関わらないようにして」
「嫌だ」
怒りを含んだ口調で、即座に返された。思いもよらぬ反応に、ララムは驚いてつい振り返ってしまう。
セリクは紫水晶の瞳に強い光を宿し、こちらを見ていた。
「なんでそんなこと言うの? 僕がヘタレだから? 意気地なしだから? 弱虫だから?」
「え、いや、そういうわけじゃなくて」
「僕、頑張って強くなるよ。ララムのこと、ちゃんと守れるようになってみせるから」
セリクが手に持っていた槍を放り投げて、ララムをぎゅっと抱き締めてきた。
ふわりと良い匂いに包まれて、ララムは目を見開いた。
「ちょっ! セリク?」
「ララム。僕は、ララムのことが好きだよ」
「……は?」
――何を言っているんだ、この子。姉はどうした。
「僕がずっと好きなのは、ミレディさんじゃなくてララムだよ。僕、この十年ずっと、ララムにアピールしてきたつもりなんだけど」
「へぷっ?」
なんか、驚きすぎて変な声が出た。いや、意味が分からない。
どういうこと?
「ララムと一緒にいたいから、騎士学校に行くことに決めた。ララムに喜んでもらいたいから、料理の腕を上げた。ララムを他の男に取られたくなかったから、ずっと周りを牽制してきた」
なんだ、これは。夢か。
あ、実は魔物にやられて、生死の境を彷徨っているとか?
「聞いてる、ララム?」
「ふへっ?」
ララムの両頬に、セリクの大きな手が添えられる。至近距離で見つめられて、ララムの顔に一気に熱が上った。
「え、あの、セリク?」
「僕から離れようとするなんて、絶対に駄目だからね。ララムに好きになってもらえるように、僕、もっと頑張るよ。これからはもう恥ずかしいなんて言ってないで、本気でララムを口説いていくことにする。覚悟してね、ララム」
(え……えええー?)