漆:囚われの公主
目が覚めると、地面に横たわっていた。
遼煌は先ほどまで部屋で博麗に弱音を吐いていたはずだった。その後、追加の茶葉を取りに博麗が部屋を出ると、入れ替わりに数人の男が入ってきた。抵抗する間もなく連行され、そこで意識は途絶えた。
鮮明になってきた意識に、遼煌はもぞもぞと身体をよじる。両手、両足はそれぞれ紐で縛られ、挙句猿轡を噛まさせられており声がうまく出ない。猿轡の布に舌打ちは消え、遼煌は更に苛立ちを覚えた。
日干し煉瓦の地面と、太陽の光がじりじりと露出している手や首を焼いているところを鑑みて、都護府の見張り台だろうか。視界の端には、街側の壁ではなく、反対側――つまり異民族との境界側に縄梯子のようなものがある。更にきな臭くなってきたと遼煌は眉をしかめた。
目だけを動かし、話声のする方に視線を向ける。張縣の父であり、この都護府の長官である張恙となめし皮をまとった体躯の良い男が数人、話しをしていた。
――嘉の言葉では無いわね。
焦った様子の張恙が話す言葉は、嘉王朝の言語ではなかった。言葉を選び、片言で話すあたり、毛皮をまとった男たちは異民族なのだろう。
聞き耳を立てた遼煌が、大まかに現状を把握し始めた。
(つまり、私は異民族との取引のために拉致されたってことか……)
内容はわからないが、決して都護府側に有利な取引ではないことが伺える。
(何が「都護府と中央の繋がりをより強固なものとするため」よ! 既にこの都護府は腐ってるんじゃない! 帰ったらあの糞親父、一発殴ってやるから!)
果たして、帰れるのかどうか。遼煌も自身の置かれた立場に、命の保証はできないだろうと理解していた。
(強がりでもなんでもいいのよ、この際。多分、諦めたら死ぬか異民族に売られる)
胸に宿した灯火だけは消さぬよう、大国の第一公主は精いっぱいの虚勢を張った。
どれぐらいの時間、張恙と異民族の駆け引きを聞いていただろうか。
目を閉じたまま、耳だけに全てを集中し、聞き入っていたが、おそらく依然として張恙は不利なまま話が進んでいるようだ。地面に倒れた人質には誰も気を留めていない。
いつ行動に出ようか。せめて足だけでも動かすことが出来れば何か気を逸らすことも出来るのに。
張恙の取引に応じなかった異民族たちの足音が近づいてくる。このままではもう洛陽には帰れないかもしれない。
(仮病使ったからいけなかったのかしら。それとも、悪運尽きるってことなのかしら)
もう一度、弟と会いたかった。出来れば即位も見守りたかったし、あと出来ることなら弟と師父がつかみ取った国史も読みたかった。遼煌の願望はすぐに思い浮かぶだけでも十はあった。
(この都護府でもう一度叶うなら、)
遼煌が最後に祈ったのは、今願ったどの願いよりも些細なものであった。
――もう一度、楊毅様のお声が聴きたかった。
近づく気配に、諦めで胸の灯火が消え入りそうになったその時。見張り台の扉が吹き飛んだ。
「な、何事だ!?」
張恙や異民族たちがざわつく中、遼煌は薄目で扉を突き破った影を見やる。徐々に驚きで見開く遼煌の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「公主様をどうするつもりだ」
一目会いたいと願った思い人が、鬼の形相で張恙と異民族をねめつけていた。