陸:主の居ない部屋
都護府までの帰路、楊毅はなぜかそわそわとしていた。
「本当に俺が選んでよかったのか?」
大男が肩を丸め、威厳のない声をあげる。先ほどの露店で購入した香炉を大事そうに大きな両手で抱えていた。
「先輩が選んだ匂い、とっても素敵だったっす!」
「そーそー。香炉はみんなで選んだんだから気にすんなよな」
張縣は両手で拳を握って力説し、董鶚は後頭部に両手を組んで呆れた様子で、各々楊毅を慰めた。
男手三人――しかもその内の二人は戦場にしか興味がない――では女性に何を贈ってよいかわからず、結局、店主お勧めを言われるがままに購入した。
高価なものは買えないと言ったのだが、見舞いの品だと伝えたところ、店主の厚意によって破格で譲り受けることが出来た。
今、楊毅の手に収まる宝石の入った三本足の香炉は、西域より店主が自ら掛け合って買い付けた一点ものだと言う。
「し、しかし……馬付馬候補を差し置いて俺が……」
「お前が選んだのがよかったって満場一致したんだから気負いすぎるな馬鹿」
変なところで気にしすぎる楊毅を董鶚が小突いた。
都護府の入口はもう目と鼻の先である。いい加減覚悟を決めてお前が手渡せ、と董鶚は内心舌打ちを鳴らした。
何がなんでも香炉と楊毅が選んだ香を彼の手から渡してもらわねばならない。楊毅の手に宮女と禁軍の命運がかかっていると言っても過言ではないのだ。遼煌の機嫌が良ければ誰も彼も悲しむことはない。
宮女たちの懇願する姿を思い出し、董鶚は楊毅に一喝入れようとした。
「ほら、いい加減腹括って……」
「よ、楊毅様!」
先ほど街で出会った宮女たちが都護府から駆け出して楊毅の名を懸命に呼ぶ。
「今すぐ遼煌様のお部屋までお越しください……!」
尋常ではない焦り方をした宮女が三人を都護府に呼び戻した。明らかに何かあったとわかる様子に、三人の顔は自然と険しくなった。
宮女に促されて遼煌にあてがわれた部屋へ向かうと、背を向けた鄭 博麗がぽつんと腰かけていた。
「博麗殿? これは一体……」
董鶚の呼びかけに、背筋の伸びた背中がゆっくり振り返る。彼女の手には絹の布が握りしめられていた。
「……わたくしが茶器を取りに行ったわずかな間に、遼煌さまが行方不明になられました」
「それって……」
「いえ、いつもの脱走とはおそらく異なります」
握りしめた布に深い皺が寄る。楊毅も見覚えのあるそれは、いつも遼煌が目深に被っているものであった。
「脱走であれば窓からこっそり抜け出されるはずですが、窓は閉まっていました」
「窓、が?」
窓が閉まっていると何故脱走ではないのか。遼煌と知り合って間もない楊毅と董鶚、そして張縣は首をかしげた。
「ええ。遼煌さまが鍵を開けたまま部屋を出るなど、ありえないのです」
普段おしとやかで忠誠心に厚い博麗の鋭い目つきに男たちは息を呑んだ。
「鍵を取りに行く時間稼ぎができないからです」
こんなにも拍子抜けな理由であるが、謎の説得力がある。偏に博麗の経験則からくる根拠なのだろう。依然、室内は緊迫した空気が流れていた。
「つまり……」
「おそらく、体調が芳しくないのを逆手にとって……」
耐え切れなくなった博麗が、布に顔を寄せて肩を震わせる。楊毅たちを連れて来た宮女が博麗に寄り添い、彼女もまた崩れ落ちた。
「一体誰がなんの理由で公主様を?」
「そ、そうっすよ……! 公主様は都護府と中央を結ぶ役割なのに!」
張縣が悲痛の声を上げる。握った拳は白く色が変わっていた。董鶚は悔しそうに俯く張縣を一瞥し、未だ何も話さない楊毅の方を見た。
「……」
大事そうに抱えた香炉はかすかに震えていた。俯いて表情は見えないが、ひしひしと怒りが伝わる。
彼の怒気は、大半が嘉への忠誠心から派生した感情であった。楊一族の名にかけて、国を揺るがす者は何人とて許さない。楊毅たち兄弟は幼少より教え込まれていた。
彼の怒気に「遼煌が連れ去られた」と言う理由が少しでも含まれていたのならば、遼煌にもわずかな希望があるのでは。場にそぐわない推測ではあるが、董鶚は怒りに震える楊毅を冷静に分析していた。
「……!」
突如、楊毅が勢いよく顔を上げる。左右に首を振り、何かを探す素振りを見せると、董鶚に香炉を押し付けた。
「すまん、これ頼んだぞ!」
董鶚に念を押し、扉を勢い任せに開けるとけたたましい音を立てて部屋を出て行った。
「ちょ、待て! 楊毅!」
泣き崩れる宮女に「これ、公主さまへの見舞いだから!」と受け渡す。董鶚も張縣を引きつれ、楊毅の後を追って部屋を飛び出した。
馬付馬…本来は馬へんに付の一文字で「ふ」と読みますが、環境依存文字のため、この通りに記載しております。