壱:楊毅の栄転
話は、少し前に遡る。
今日も今日とて、楊職方司こと楊毅は弟を訪ねていた。
楊武が生きていたと知り、ひと騒動起きてから数か月が過ぎた。楊毅は何かあれば楊武を訪ね、弟に甘やかしに来ていたのだった。
先日、正式に楊一族の四男として改めて雇用され、一族初の文官となった楊武。
血気盛んな兄弟の中でも物静かだった彼は、喧嘩を見ているのがつらい心優しい楊毅と共に行動をすることが多かった。
故に楊武の死は大きな心の傷となっており、その穴を埋めるように彼は弟の元へ足しげく通っていた。
「聞いてくれよ武……」
今日は珍しく落ち込んだ様子の兄に、楊武は紙面から顔をあげた。
「どうしたの? 毅兄が落ち込んでるなんて珍しいね?」
日常茶飯事のあまり、広間で執務をしている属官たちも彼らに見向きもしない。人目のある部屋であろうがお構いなしに楊毅はやってくるのだった。
「……お兄ちゃん、北衙禁軍に異動になっちまった」
そう言うと背もたれを跨いで、椅子に逆向きで座っていた楊毅は、背もたれに顔を突っ伏した。
悲壮感漂う兄に、弟はわなわなと身体を震わせていた。
「ほ、北衙禁軍!?」
声を荒げない楊武が大声をあげたため、流石に付近で机に向かっていた英慶宮の属官たちが集まり出した。
「そうなんだよ……。この前の一件で禁軍を束ねたことが評価されたらしくてよ……。兄上じゃなくて俺が父上の後釜に選ばれたらしい」
「……ちちうえの、あとがま?」
劉巴が復唱すると、楊毅は頷いた。
ため息をつき、黄昏ている楊毅をよそに、属官たちも楊武同様、身体を震わせる。彼らの口からは意味をなさない「あ」や「え」などの母音が発せられていた。
「つ、つまり、楊職方司殿は、この前の功績で北衙禁軍に栄転された……と?」
「正確には何か月後かにな。職方司の引継ぎしなきゃなんねーから」
英慶宮の属官の一人、羅浪が尋ねるも、楊毅は口を尖らせたままだった。
「え、え~~!?」
楊毅の様子に納得がいかない属官たちがとうとう叫んだ。英慶宮には六人、日勤している属官がいる。六人のうち、少なくとも三人は声をあげ、もう三人は目を丸くしたまま動けなかった。
「騒がしいぞ」
皇太子の側近・鄭 博文が別室から顔を覗かせると、劉巴がすぐさま広間に連れ込んだ。
「楊職方司殿、栄転されるらしいですよ! 北衙禁軍に!」
「なんと……」
博文が視線を下げると、不機嫌そうに椅子を上下にがたがたと動かしている楊毅の姿があった。
これが本当に、栄転する男の姿なのだろうか? この兄弟の行動は理解できないことが多い。
博文は未だにわなわなと震える楊武を一瞥してから、また楊毅に目を向けた。
北衙禁軍とは。
そもそも禁軍とは、皇帝直属の兵力のことである。
組織形態は政治の中枢とは別組織で、中でも北衙禁軍はその由来を皇帝の遊園を警護していたことから、皇帝が一言「出撃」と言えば動く、私的な軍とも言えるだろう。
そんな皇帝に尤も近い武官を統括しているのが、楊武と楊毅の父・楊勝である。
北衙禁軍は世襲制で、六十歳と言う定年が存在する。
定年となれば同族から次の世代が入隊し、そしてまた次の世代、次の世代と下っていく。現在、楊一族は楊勝が代を任されていた。
「そろそろ定年なのはわかるんだけどよぉ、てっきり兄上が継ぐんだと思ってたし」
「ん~。普通ならそんな気もするけど、辺境の様子も変わりつつあるからね」
楊一族の長男・楊隆は辺境守備の長官である。近年、周辺諸国との大規模な戦は無く、比較的貿易もうまくいってはいる。
しかし、此処数か月で近況が変わりつつあった。北方に何やら動きがあると伝達があり、最前線で負けなしの楊隆が西域から北方の長官へと異動していた。
「ちなみに隆兄は毅兄で良いって言ってるってことでしょ?」
「当然だろ、あの人が戦場から中央に帰ってくると思うか?」
あー……。楊武は頭を掻くと、好戦的な長兄の目を思い出した。
「ないね」
「だろ」
つまり、就きたくなかった官職に次兄がちょうど選ばれて楊隆は万々歳と言うわけだ。
今頃辺境で指揮を執っているであろう兄を想像し、楊毅は悔しそうに背もたれに拳を振り下ろした。
「貧乏くじ引かされちまった! でもあの時は仕方なかったんだ!」
もう何度も経験したことであるが、鬼と恐れられている男が、戦場から出れば大型犬や駄々っ子のように見えるのは何故だろうか。英慶宮の属官たちは何故か憎めない大男にため息をついた。
「てかなんでそんな嫌なの? 栄転でしょ?」
「そ、そうっすよ! 北衙禁軍なんて一握りしか選ばれない皇帝直轄じゃないっすか!」
劉巴の言葉で、更に口を尖らせた楊毅が視線をさ迷わせて言う。
「だってつまんねー」
「平和なのはいいことじゃない」
「それはそうだけど! ちげえんだって」
楊毅は腕を組み、片目を閉じて唸った。
「嘉国の為に粉骨砕身で働く。絶対に負けられない戦いを受けた空気感。あれを一回でも肌で感じてみろ。お前だって戦に出たくなるぞ」
「それはないね」
楊武がばっさり切り捨てると、楊毅は「最前線で嘉を守ることに意味があるんだ!」と駄々をこねはじめた。
「うるさいぞ楊毅」
「殿下。失礼しています!」
「……最近遠慮がなくなってきたな」
英慶宮の主、朱 央晧は自室まで聞こえる楊毅の声にうんざりして広間へ顔を出した。
少し前であれば愛想よく追い返していただろうが、今となっては蹴り上げでても追い出す。もう誰の前でも皮を被る必要が無くなったのだ。
「うちの属官の邪魔になるからこれ以上騒ぐなら帰れ」
「殿下からも言ってくださいよ! 俺、現場のほうが性にあってると思いません!?」
「まあな」
背の伸びた央晧は、今や楊武を頭半分以上の差をあけて高くなった。
背筋を伸ばし、腕を組むと、開けっ放しであった扉に向かって指を差す。
「鷹狩りも十分現場だぞ。ずべこべ言わずにお前も引継ぎをしてこい」
しっし、と追い払う手の動きに、楊毅は渋々「しつれ~しました」と英慶宮の扉をくぐった。
「超出世街道まっしぐらなのにあんなにがっくり来てる人初めて見た」
「俺ら文官にはわからねえ葛藤だな」
羅浪と劉巴が丸くなった背を見送り、扉を閉める。
静かになった英慶宮には、つかの間ののどかな午後が訪れていた。