弐:董鶚と云う男―後
「いやあ、今日は助かった」
金文を読む会を終えた董鶚が楊武に声をかけた。ひょいと手前にあった椅子を片手で三脚掴み、「あっちでいいか?」と尋ねる。
楊武が首を縦に振ると、人の居なくなった部屋を片す楊武と劉巴を手伝い始めた。
「お役に立てたようで何よりです」
「そういえば、何から匿ってもらったんです?」
楊武がへらりと笑う隣で劉巴が問いかける。
「ん? ああ。楊武殿の兄貴が馬付馬に選ばれちまったもんで、俺に見合いの話を持ってきたおっさんらに追われてたんだわ」
長机に等間隔で椅子を置きながら、董鶚は気に掛けることもなく答えた。
「女に追われるならともかく、男に追われるのは勘弁してくれ」
肩をすくめるとわざとらしいため息をつく。
「最近、董鶚殿の噂をしている宮女をよく見かけますが、本当に評判いいんですね」
「いやあ、俺ってば罪作り!」
劉巴が後宮の近くで耳にした話を告げると、董鶚はわざとらしい声をあげて後頭部を掻いた。
「ま、俺じゃなくて人気なのは家な」
董鶚の一族もまた、功臣と名高い立派な血脈を持つ家柄である。自分の名声ではないと董鶚は卑下しているが、実際は自身の評価が大半を占めている。
何といっても楊毅同様、前線の功績を評されて中央に栄転した若手の実力派である。皇太子暗殺未遂事件では楊毅と共に禁軍を率いたことを認められ、祖父の後継として北衙禁軍に抜擢された。
余談であるが、董一族もまた、後継ぎである長兄を差し置いて選出されたが、前線から戻らなくてよい理由が出来たと長兄は喜んでいたらしい。
武人としての能力もさることながら、分け隔てなく話す身のこなしや、業務を円滑に進めるために上司と部下を取り持つことが人間性として高い評価を受けている。今では”楊毅と董鶚“と言えば若手の武人として城内で知らない官人は居ないと言えるほどだ。
また、禁軍に選ばれて以降、後宮との関わりも増えたことによって、たまに見せる人の悪い表情が「温厚でちょっとやる気の無さそうな普段の董鶚様との乖離があっていい!」と宮女から評判がうなぎ上りらしい。
董鶚の人気をうんざりとした表情で遼煌が話していたのを楊武もぼんやりと思い出した。
部屋を原状回復し終えると、董鶚は身近にあった椅子を引いて腰掛けた。釣られて楊武と劉巴も、各々董鶚の向かいに座る。普段の楊毅について楊武が尋ねると、大半の書類を董鶚が楊毅の代わりに承認していた苦労話が絶えず、乾いた笑みを向けるしかできなかった。
「ま、でも身体を動かすことが多い分、兵部に居た頃よりは断然ましだな」
董鶚が机に肘をついたのを見て、楊武は講義中に気になったことを思い出した。
「成り行きで参加していただきましたが、退屈じゃなかったですか?」
「いんや。むしろ楽しかったぜ」
意外と俺、兵部に居た頃から頭脳系って言われてたんだぜ、と顎に手を添えて得意げな顔を見せた。
「銘文の解説もしっかり書き込まれていたのでめちゃくちゃ意外でした」
「は、巴殿!」
「気にしてない! よく言われる」
董鶚が豪快に笑い飛ばす。ふと楊武と目が合い、楊毅のことが気がかりとなった。
「あー。そういえばそろそろ楊毅と公主様の式が近いだろ?」
「そうですね……。毅兄は陛下とお会いしたり、事前の儀式を受けたり忙しなくしているみたいです」
「会ってないのか?」
「休みが合わないんです」
眉をはの字に下げて笑う楊武を見て、近頃楊毅の元気が無い理由はこれか、と理解した。董鶚は腕を組み、一人頷いた。
「なるほどな。あいつが弟に会いたいって言ってたのはそれか」
「楊毅殿って本当に弟が可愛くて仕方ないんですね……」
劉巴が遠い目で此処には居ないが豪快に笑う男を思い浮かべた。
「そんなことないと思いますが……」
「可愛くない弟の為にわざわざ皇太子府まで足しげく通うと思うか?」
「あー……」
楊武は自覚が無いようだが、職務中でも過保護なぐらい弟の様子を見に行きたがる楊毅を知っている董鶚は眉を顰める。今までの楊毅の行動に心当たりのある劉巴も何度も首を縦に振って董鶚に同意している。
突然仲の良かった弟が死んだと言われて落ち込んでいたことも、生きていたからこそ過干渉になりがちなことも、董鶚は理解しているつもりだ。理解しているからこそ、時間のある間……ひいては楊毅が楊一族の屋敷から住居を移すまでに、改めて兄弟で話をしておいてほしかった。
「ま、あいつが婿入りする前に腰据えて話してやれよ」
「そうします」
楊武の肩を軽く叩き、「頼んだ」とほほ笑んだ。楊武は董鶚の朗らかな笑みを見て、兄を心底気にかけてくれていることに嬉しくなった。
「あ、これ俺が助言したって言うなよ? 俺が楊武殿と会ってたことがばれたら面倒だからな?」
「は、はい……」
慈しみの含まれた表情から一転、心底面倒そうに顔を顰める。変わり身の早い董鶚に、楊武は若干圧倒されたが、隣に腰かける劉巴は難くない楊毅の様子に苦笑していた。
「じゃ、今日は世話になった。金文を読む会だっけか? 次開く時も呼んでくれ!」
一通り話終えて満足した董鶚が椅子から立ち上がる。丁寧に机と椅子が平行になるよう整えると、「今度は準備から手伝うぜ」と楊武を配慮した台詞を残して宮を去った。
部屋に残された二人は、顔を見合わせて目を丸くするのみだった。
こうして、金文を読む会にまた一人、新たな参加者が増えた。
後日、董鶚の参加をきっかけに、彼を慕う宮女から参加の申し出が殺到し、またしても金文を読む会は混沌を極めることになる。董鶚の凄まじい女性人気を、彼らは身をもって知ることにまだ気づいてはいない。
馬付馬…本来は馬へんに付の一文字で「ふ」と読みますが、環境依存文字のため、この通りに記載しております。