『My Favorite Things ~ジャズ研 恋物語~』
「今夜の呑み会も白熱しそうだ」by篠崎優斗
5月のある金曜日の夕方、セッション前の練習も兼ねて部室もスタジオも部員であふれていた。俺は部室で当時安かったマックのハンバーガーをカーペットの上に6個並べて、黙々と食べていた。玲奈をはじめとする沢渡・荒川姐・沢木のガルバン部隊からは「副部長、何かの宗教儀式みたいで気持ち悪いです」と言われていたが、しょうがない。腹が減ったし、この後のセッション用の燃料だ。黙々と食い続ける。
「てめーこんな所にミドリ甲羅置きやがって!」
ピアノで同期の菊田はスーファミの画面に向かって、大きく身体を右に傾ける。マリオカートだ。相手をするのはD年のギター・倉持。先輩相手だろうが、勝負事には容赦ない。
「みなさんそろそろ時間ですよ、準備準備!」と玲奈。バズーカ砲みたいな楽器ケースを楽器ラックからひょいと軽々と取り出す。「それじゃあ、私も」と動くのはC年の高木さん。まさかのトロンボーン入部に、部は湧いた。よくぞまあジャズオケに行かずにうちに来てくれたもんだ。「高木さん、今日もよろしくね」ハンバーガーを貪りながら、俺は言う。高木さんは「はい、今日はセッションで演奏したいと思ってます」とのこと。
C年のみんなは入部からほぼ1か月ちょい。少しずつジャズの勘どころを各々が身に付けて、練習に励んでくれているのがわかった。
セッションは次第にD年中心に、いわゆる「C年曲」といわれる比較的簡単なコード進行でテーマも短い曲がメインになった。C年たちが果敢に挑んでいく。そんな様子をスタジオの後ろの方で見ながら、かつて自分が辿ってきた道をなぞっていた。
『I’ll Close My Eyes』が聴こえてくる。先程のボントロの高木さんが何とテーマだ。沢木の優しいベースラインと、荒川姐のソツのないピアノが、緊張する高木さんを導くように鳴る。
見ていて何とも心が温まる、そんなあったかなアイルクローズだ。高木さんの後ろには、斎藤くんと佐々木さんが控えている。このリズム隊なら多少のC年の子たちがヘマっても、誤差はうまくカバーしてくれるだろう。
俺はその光景を見ながら、首に下げた楽器のキーを動かす。俺だったらどうやろうか? 昔から変わらない俺の癖だった。
そんなスタジオのドアが少し空いた。ひっそりと入ってきて、スタジオの隅にいた俺のところ桜子さんがやってきた。
「優斗、お疲れ」と桜子さん。「お疲れさまです、桜子さん」と俺は小声で言った。
「どう?」「上手なほうだと思います。伸びしろもあるし、何よりチャレンジ精神が旺盛なのがいい。それが上手く部全体の雰囲気にマッチしてくれたら、と」
僕の言葉に、桜子さんが言う。「優斗、なんか部長みたいじゃね?」「いえ、副部長です」と答える。
C年の演奏あと、残りはE年中心のステージだ。
俺は、スタンダードブックをめくり、「これどうかな?」とメンバーに示す。曲はマイフェイバリットシングスだ。
ピアノの菊田と、ベースの佐竹は「おう」と答える。ドラムの沢渡は「はい」と返事した。ギターの倉持は「いいっすよ」と俺を一瞥した。「桜子さん、テーマ取ってもらえますか?」抑揚のないその言葉に「お、おう」と一瞬怯んだあと、楽器を構えた。
「菊田、重厚なイントロいける?」「分かった」
菊田がピアノを引き始める。Gのペダルだ。他のリズム隊の皆も、次第に入ってくる。
「いつでもどうぞ」と言わんばかりに、菊田が桜子さんを見る。桜子さんが頷いた。
静謐な桜子さんのメロディーがはじまる。感情を押し殺したような、緊張感に満ちたサウンドに思わず引き込まれる。俺はところどころオブリやハモを吹いて、彼女の行方を追った。
そうして、ソロ。
今度は感情が堰を切ったような、情熱的なアドリブ。ああやっぱり、この人うめえわ。目の前に展開する桜子ワールドに、すっかり引き込まれている。桜子さんは気持ちよさそうに頭を振る。
目の前の景色も音楽も、ただただ美しかった。
やがてセッションも終わり、スタジオを片付けながら、「今日呑み行く人、誰?」と俺がみんなに聞くと、半分ぐらいが手を挙げた。いつもの日向屋に電話を入れ、俺はスタジオを出た。そこで、桜子さんが待っていた。
「日向屋いきますけど、来ます?」と聞くと、「うん」と答えが返ってきた。
部室に楽器を置いて、桜子さんと欅並木を歩き出す。
「あの、こないだの事、本当にごめん」
桜子さんが正面を向いたまま、言った。
「俺も…言い過ぎました。小さなことで、ついカッとなってすいませんでした」
俺も、正面を向いたまま、言った。
「今度から気をつける。それでいいかな?」
桜子さんの横顔に向き直って「はい、もちろんです。ちゃんと彼氏彼女になりましょう」とだけ言った。桜子って、実は素直なひとなんだな。俺はコートに仕舞った彼女の手を取ると、自分のコートのポケットに誘った。
「ところでさ、優斗」「何ですか?」と笑顔で問いかける。
「内定、出た」と桜子さんはニカッと笑った。
…マジですか。今夜の呑み会はヒートアップしそうだと予見しながら、僕らは並木道を歩き続けた。