職業ヒーロー、休職中の俺が「ヒーロー」になるまでの話
ごく稀に、特別な力を持って生まれてくる人間がいる。
それは、他の追随を許さない圧倒的な疾さ。
それは、触れるだけで岩を砕くような畏怖されるべき怪力。
それは、空想の中で語られるような超常現象を操る能力。
それを普通でいたいと隠す者、有効活用する者、悪事に使う者。そして、それを「守るため」に使う者を我々はこう呼んだ。
ヒーロー、と。
東谷咲良は悩んでいた。
悩んでいるときに散歩をするのは現役時代からの癖だ。暗い部屋にこもっていると余計沈んでしまう。
だから外に出て、ついでに少し運動をして、それで寝てしまえば大体解決したのだが、今は身体を動かす気にもならなかった。
行き先も決まっていない、ただ歩くだけの沈んだ散歩をここ三ヶ月くらい続けている。
平日の昼間な事もあり、ここには自分を可哀想な目で見る中学生も仕事はどうしたと直球で聞いてくる小学生もいない。
小鳥の声と遠くから聞こえる車の音だけが静かに響くここで今日何回目かのため息をついた。
「はぁ…………」
東谷咲良、二十五歳。
職業、ヒーロー(休職中)。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と東谷は数ヶ月前のことを思い出す。
休職届けを半ば無理矢理出させられてから半年。
東谷は少し前までは辞書の「勝ち組」という項目に載せられるような人生を歩んでいた。
神に愛された才能、それに負けない実力、全てを兼ね備えていた自分は無敵だったというのに随分と落ちぶれてしまった。
「…………」
ヒーローとは、力がなければヒーローではない。
だったら、ヒーローである資格を失った今の自分は一体なんなんだろうか。
「………!……ーー…!」
ふと前方を見ると川を跨ぐようにかけられた橋の周辺に人だかりが出来ている。
何かの撮影でもあるのだろうか?
野次馬根性で近づいてみると、すぐにただ事ではないことがわかった。
明らかに川の中にぐったりした子供がいる。
手には帽子を持っていることから落としかけた帽子を拾おうとしてそのまま、と行ったところだろうか。
幸い下から突き出た岩に引っかかって流されてはいないが、2月の寒空の下水中に居させるのはまずい。落ちたばかりならいいが時間によってはーー。
子供を早く引き上げた方が良いが、救助隊もヒーローも来る気配はない。
スマホで道路情報を調べてみると間が悪いことに本部からここまでの道路が渋滞しているようだった。
こんな時にすぐに派遣されるヒーローに至っては来るはずがない。だってこの町担当は東谷だ。基本的に救助や危険を伴う業務を行うために地域に充てられるヒーローは1人だけ。
ここ担当の東谷が不在なのであれば隣から他のヒーローが来るのを待つしかない状況なのだ。臨時でも余ったヒーローを派遣できれば良いのだけど、生憎ヒーロー職は離職率が激しいため余計な人員を割くことができない。
「誰か助けに行かないと本当に死ぬぞ?!」
誰かがそう叫ぶ。
今までの東谷なら、そんな言葉が聞こえる前に飛び出していただろう。困ってる人がいるなら助けなきゃ、だって俺はヒーローだから。だけど今は足が動かない。何故か?俺はヒーローじゃないから。
「誰かいないのか!」
うるせえ、じゃあお前が行けよ。
今にも口に出てしまいそうだった。
行くべきなのはわかってる。でも仕方ないんだ、今の俺は能力が使えない普通の人間で、ヒーローじゃないから、だから助ける義務は無いわけで、だから。
頭の中で言い訳ばかりがポップコーンみたいに湧いて来るくせに助ける理由は一つも湧いてこない。
自分は、ついこの間までヒーローだったのに。
「退け」
凛とした声が後ろから響いた。
野次馬を掻き分けて颯爽と橋から飛び降りたのは艶やかな黒髪を持ったーー……、東谷より一回りは歳下のまだ小さな子供だった。
「?!」
慌てて橋の下を覗き込むともう事は終わっていた。
寒さで青ざめた少年を抱きかかえた子供がなんともない顔で泳いで河岸を跨ぐ。
少年を安心させるように頭を撫でた後、頭上に居る東谷たちを睨みつけた。他の大人達は拍手をしたり勇敢な少年に歓声を上げて騒いだりしているから気がつかなかったかもしれない。
それでも東谷は聴いたのだ。「どうしてお前が助けなかったんだ」少年の目はそう言っていた。
そこにいられるわけがなかった。
東谷咲良の人生は能力の開花で一変した。
童話のシンデレラの様だと思う。
自分が育った環境は決して良いと言えるような環境ではなかった。
今こそ貴重な能力者として国に身柄を保護されているが、それこそ、小学生の頃に能力が開花しなかったらどうなっていたかわからない。
もしかしたらとっくの昔に汚い部屋で汚物と一緒にのたれ死んでたかもな、と自分の部屋に戻るたびに東谷はよく考えるのだった。
『……精神が不安定になるとたまにあるんだ。こういう事。君だけじゃない。珍しいことじゃないよ』
『少し休んで………、それでも治らないなら……』
『……酷なことを言うけれど転職を考えたほうがいい』
『それって、能力の無い俺はいらないってことですか?』
『……君はヒーロー枠で採用されたから』
上司から言われた言葉は半年経った今でも胸に重くのしかかっている。
さて、問題です。取り柄なんて能力以外ない「能力だけ」を認められた俺は能力が無くなって可燃ゴミと同等レベルにまで落ちました。これからこの人はどうすればいいでしょう?
①このまま意味のない通院を続けていつか能力が使えるようになるのを待つ。
②諦めて普通以下の人生を歩む。
③死ぬ
答えは今日も出ない。
なのに世界は早く答えを出せと、決まっているだろうと東谷を責めるのだ。
社会の目だとか、劣等感だとか、未来への不安が早く答えを出せと、希望を持つのはやめろと、もう諦めろと。ずっと語りかけてくる。
能力をコントロール出来なくなった人間が、再度元どおりに使えるようになる確率は何%も無いのだと、医者が淡々とした声でそう言っていた。
能力は宿主の精神状態に左右される。
だから心が壊れてしまったら完全に元どおりには使うことが出来ないのだと。だったら治ったとしてもまともに使えるかわからない力が戻るのを待つより、新しい人生設計を考えた方が現実的なんじゃないかと。
東谷は国に拾われた日からヒーローになる以外の将来なんて考えた事がない。
だけど、少数の中の少数に滑り込めるほど自分が特別な人間だと言う自信もなかった。
興味を持てる仕事もない(選べる立場ではないというのに)好きなこともない(趣味を楽しむ時間なんてなかった)特技もない(唯一の自慢があの力だった)何もなくなった自分は、これから何をすればいいのだろう。
ヒーローになれない東谷咲良という人間は無価値だ。
自分のジャケットに鈍く光るヒーローバッジをいつまで胸につけていられるのだろう。
きっとこれはもうすぐ東谷には必要なくなるのだと、東谷自身が一番わかっていた。
それがわかっているのに、銃も、ホルスターも、バッジも常に身につける癖が抜けないのはヒーロー職に未練があるからだろう。
「いや、……もういらないか」
あの子供を見捨てた俺にはこれを持っている資格はない。
東谷はジャケットからそれを毟り取ると、前方へ思いきり放り投げた。純金のバッジが地面を跳ねる。
公園に不法投棄なんて正義の風上にも置けないな、なんて思ったけれどもうヒーローでは無いのだと思い直して自然と笑いが漏れた。
晴れやかな空は俺のことを嘲笑っているように見えた。
「そんなにため息ついてると幸せ逃げるぜ?」
いつのまにか背後で少年が東谷を見て笑っていた。小学五年生位だろう。ランドセルは背負っていないが今日は平日。普通ならば今は学校の中のはずだ。
そこまで考えてはた、と気付く。濡れたから着替えたのだろう、服こそ違うものの、その姿は先程の少年と類似していた。
「人間が抱え込める幸せなんてのは多くないんだから少しでもこぼさないようにしなきゃ」
「キミは子供のクセに随分と達観してるな」
「子供?……あぁ、精神年齢と実年齢は相対しないって意味。ま、確かにお兄さんよりは色々経験してる自覚はあるけど」
余裕を含ませた少年の雰囲気はやけに東谷の精神を逆撫でした。何故かはわからない。
だが、少年の瞳は全てを見透かしたように東谷だけを見つめていて、まるで責められているような錯覚を一瞬起こしてしまったのも一因としてあるかもしれない。
「それにしてもヒーローがこんな所で油売ってていいの?パトロールだけじゃなくてテレビ出演とか最近のは色々忙しいんでしょ?」
「……なんでヒーローだって」
「ヒーローバッジ。政府に飼われてるヒーローの証だ。それ持ってると色々と優遇されるんだっけ?ほんっといい御身分。ヒーロー様様だよね」
少年は東谷が投げ捨てた純金を拾うと、東谷の方へ軽蔑した目線をやった。
「困ってる人がいても見てるだけのクセに。これは偽善者の証か何か?」
気づいたら身体が動き出していた。
図星だった。でも、だって、何も知らないくせに。
本当は自分が助けたかった。いつもみたいに、すぐ助けに行って、もう大丈夫だよって、言ってあげたかった。でもその権利は、もう自分にはない。
「その偽善者に救われてるのはお前らだろッ?!」
少年のシャツの首元をつかんでいると自覚したのは怒鳴って、息が上がってからだった。大の大人にこんなことをされているというのに彼は少しも怯んだりしない。
それどころか滑稽だとでも言うように口元を歪ませている。それが余計に東谷の頭を熱くした。
「さっきのガキだってそうだよ!あのままだったらヤバかっただろうな!でも誰も見てるだけで助けようとしなかった!そういうのをさ、俺は助けてきたんだよ!わかっただろ?!俺がいないと誰もやんないんだ!なのに俺たちが助けてやらないと死ぬだけのくせにどいつもこいつもそれが当然みたいな顔しやがって!能力も開花してないクセに劣等種のクセにッ!なんでそんなに偉そうなんだよ!」
「じゃあなんでお前は彼を助けなかった?」
「………ッ!」
動揺で一瞬力が緩む。少年は首元にかかった東谷の腕を掴むとそのまま払った。
その力は少年とは思えないほど強く、そのまま尻餅をついてしまう。
「手を差し伸べなかった時点でお前はその劣等種と同じだよ。ヒーローに求められる選択はYESかはいだ。それ以外は必要ない」
起き上がった少年は服についた砂を払うと、東谷を見下ろした。失望したような目だった。
「ま、持論だから参考程度にしかならねえがな。でもこれだけは言える。見返りを求めるお前はヒーロー向いてないよ。転職した方がいい。それともお前は野次馬になる為にタマ賭けてヒーローやってんのか?」
そのまま背中を向けると振り向く事なく歩き出す。
たち去り際にかけられた言葉が東谷の一番弱っているところに突き刺さった。
ビーッ、ビーッ
爆音を売りにした迷惑な目覚ましみたいな音が道行く人の腕輪から鳴り響く。
Vアラート。半径3km以内に能力を使用している人間が現れたことを知らせるアラームだ。
能力を使う人間なんてヒーローか能力を悪用している人間しかいない。
ヒーローは鎮圧時以外の能力使用を禁じられている為、これが鳴ったら実質危険人物が現れた警告なのだ。
国民の義務であるアラームウォッチの合図を受け人々は一斉に画面の危険エリアから遠ざかろうと走り出す。
その中で東谷は逆走していた。だって今はここにヒーローはいないんだぞ?誰が能力者を鎮圧するって言うんだよ。
能力が使えない自分は何も出来ない。そんなことは承知している。だが単純に気になったのだ。自分以外の誰がこの街を守るのか。自分は、本当にもう不要なのか。
アラートの発生源はここからそう遠くない海に面した公園だ。あそこは広さだけはあるから派手に暴れられても一般人を巻き込むことはないだろう。
バイクを十数分走らせた先は異常に静まり返っていた。鳴り続けるアラートをOFFにして周りを見渡す。静かだった。波の音しかしない。
まさか誤作動か?そう踵を返そうとして気づいた。波の音しかしない?風なんて吹いてないのに?
その疑問はすぐに解決することになる。
背後から突然聞こえてきた大きな水飛沫の音。反射的にホルスターに手を掛け振り向き、東谷は思わず目を丸くした。
「……日曜朝じゃないんだから」
3mを優に越す巨体を揺らしながらそれは現れた。ぶよぶよとした半透明な身体はゼリーみたいに綺麗だが今は感動している場合ではない。東谷は観察する。
左胸に浮かんでいる機械がおそらく動力源だろう。だとしたらアレを作った主人が別にいるはずだ。おそらく割と近くに。あたりを見回すが人影はない。
ズルズルと体を揺らして海から陸へ上陸する。ゼリー状の身体が触れた鉄柵が一瞬で朽ちた事から恐らく酸性の物質か何かで体を構成されているのだろうか。
目前に現れたそれを前に東谷の肌には冷や汗が浮き出た。
このままにはしておけない。でもーー……
「……俺に、」
今の俺に何ができるって言うんだよ。
能力が使えなければホルスターの中の銃もただのオモチャだ。俺は、コイツを倒せない。
大人しく一般市民と一緒に逃げていれば良かったのに。あの時の子供の時みたいに見て見ぬ振りをしておけば良かったのに。
「何も出来ねえよなあ……」
顔を上げた瞬間に見えたのは怪物が飛び散る姿だった。びちゃびちゃとゼリーが飛び散り地面を溶かして蒸発していく。
ヒーローはこの街にはいないはずなのに。ゼリーが飛び散った方を見ると、1人の長身の男が自分の手元を見ていた。
「また縮んじまうじゃねえか」
漆黒の戦闘スーツとマスクに身を包んだ男の拳は、酸性の液体を直に浴びたことで赤黒い肉が丸見えになっている。
だが、マスクで表情が見えていなくてもわかった。恐らくこの男は痛みを感じていない。
何故なら彼の身体があまりにも普通だったからだ。痛みに力んだ筋肉が動くこともなく、震えることもなく、まるでそれが普通の事のように男はそこへ立っていた。
やがて男は何かに気づくと近くの茂みへと近づく。そこを無造作に蹴り上げると中年の男の身体が宙に飛んだ。
「?!」
「アイツを作ったのはお前か?」
「だ、だったらどうした!」
「今すぐ消せ。お前の身体を飛び散らせたくなければな」
「は、はは!もうおせーよ!」
もうそこに怪物はいなかった。
地面に付いた跡から察するに海へ逃げ込んだのだろう。そういえば彼は動力源らしきものを破壊していなかった。
「アレにはこの街を破壊し尽くすように命令してある!私を迫害したこのまちの人間を破壊し尽くしてーー「そうか」」
彼は話を遮って男に手錠をかけた。精神の奥深くに作用し、能力を無力化するアイテムだ。これでさっきの怪物も元の物体に戻っただろう。
「他人の事情には興味はないんでね。自分語りならTwitterでやってくれ」
左手を上げて彼が合図をすると何処からともなく武装隊が現れ手錠の男を連れ出していった。
男は隊長らしき人間と二言ほど話した後その場を去る。東谷は男の後を追いかけた。
「待って!」
茂みに入った男はアラームウォッチに手を掛けながら振り返る。
「……野次馬くん」
「は?」
瞬間、男は眩しい光に包まれる。東谷が目を開けた時にそこにいたのは長身の男ではなく、あの時の黒髪の少年だった。
「ダメージは受けるし企業秘密はバレるし散々だな。で、何か用か?」
「君は、俺の後任……この街の新しいヒーローなのか」
俺は本当にもういらないのだと、頭を強打した気分だった。連絡も無く後任配置、それは実質クビだろう。俺はもう本当に価値がない人間なのだ。
死刑宣告を受けたような顔をする東谷を見て少年は笑った。
「逆だよ逆。お前が俺の後任だったんだ。お前が働かないせいで俺はまたコレを付けるはめになったけどな」
少年がワイシャツの襟を裏返すと、金色の飾りが光るのが見えた。
「コレがあると自由に動けねえから引退したのに都合が悪くなるとコレだ。犬には首輪の有無は選べないらしい」
少年は東谷の代わりに復帰させられたということだ。
俺はこの小さな少年と同じレベルなのだと思うと涙が滲んでくる。俺の代わりは10代の子供で務まるのだと、お前にはその価値しかないのだと言われたような気がした。
「君みたいな小さな子でも……あれだけ戦えるなら俺は本当に……」
「ああ、勘違いするなよ?俺はな、お前が少年に欲情するペド野郎なら残念だが中身は60のオッサンだ。諦めてくれ」
「は?え?」
見た目は小学生にしか見えない。コレが俺より年上だと言うのならついに人間は不老不死の境地に至ったのかと動揺してしまう所だ。
不老不死なのか?東谷がそう尋ねると、少年は半分正解だと答えた。
「お前リスク持ちの事は知ってるか?開花したら即研究所行きレベルの特殊能力を持った奴らだ。強力な能力の代わりにそれ以上のリスクがつきまとう。俺はその一員。能力は《再構成》。一瞬で神経を繋いだり、筋肉のリミッターを外したり、あと肉体を全盛期の姿に戻したり発動中は自分の好きなように身体を作り変える事ができる」
一般的に能力は応用が利かないものばかりだ。火を出せるなら火を出すだけ。怪力なら怪力だけ。足が速いなら速いだけ。この男のようにどんな使い方もできるなんて能力は聞いたことがない。
「ただし、だ。さっきみたいに肉体を損傷すると再構成する材料が足りなくなってそれで作れる姿にしか戻れなくなっちまう。今回も手が溶けただけで2cmは縮んだな」
「ペットボトルの中の残りの水みたいな感じ?」
「そうだ。満タンが開花した50代の頃として今の外見年齢は10代前半。少なくても30年分くらいの血肉を失ってる。あと数回デカいダメージ受けたら御陀仏だ。ま、再構成のおかげで逆にそれ以外じゃ死なねえがな」
「……じゃあ中身がなくなれば死ぬって事?」
「死にはしない。ただ身体を構成できなくなるだけだ。だがアレだ、将来的には意識だけは残る状態で永遠にそこらを彷徨うことになるだろうよ。お前はそれを後伸ばしにする為の後任だったんだがな。……どうして戦わない?」
東谷は狭まる喉から絞り出すように言った。
「……能力が、使えなくなった」
初めて、医者と上司以外にこの事を話した。バカにされると思ったからだ。ただの一般人のお前なんて、と。
「急に、だった。いつもみたいに戦って、倒して、それで……気づいたら使えなくなってた。医者にはかかったけど、……元のように使える可能性は、……難しい、と」
だけど少年はそんな無価値な俺を笑わなかった。
「だからお前は他人を見捨てるのか?能力がなければ目の前の不幸を見捨てていいと?違うだろ」
「……俺に出来ることなんて何もないよ」
そう、今の俺には目の前の人を救うことも能力者を制圧することもできない。
そんなのはこの少年もわかっているはずなのに、そう言った東谷の頬を両腕で叩いた。ペシッと、軽い音が耳に響いた。
「お前はなんでヒーローやってんだ?金の為か?名誉の為か?オレはそれでもいいと思う。だがな、そうじゃねえならもう一度思い出してみろ」
暴力には慣れているはずなのに。痛みなんてとうに感じない身体のはずなのに。何故か少年に打たれた頬は涙が出るほど痛かった。
「お前は、何の為にヒーローになったんだ?」
自分はヒーローであると、この数年間そう思っていた。
弱きを助け強きを挫く。悪を倒して民衆を救う。いつだって正しくて頼れて駆けつけてくれる無敵のヒーロー。そう思っていたし、その実力もあったと思う。
その日もいつものように一般人に危害を加えていた能力者と戦っていた。簡単に無力化出来た。だって自分は首都を担当するエリートヒーローで一番強いのだから。
これでみんながまた安心して過ごせると、顔を上げた時だ。その時初めて気づいた。
東谷は囲まれていた。無数の目に囲まれていた。
それは自分達を助けてくれたヒーローへの尊敬や感謝の視線ではなく、また恐怖から解放された安堵を含んだ視線でもなかった。
スマホのシャッター音が絶え間無く聞こえる。嫌に耳につく若い女の笑い声と揶揄る声がする。俺を囲んでいるギャラリーは、皆ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべている。
それは「慣れ」なのだろう。ヒーローとして優秀だった東谷は赴任してから市民が不安にならないよう、安心して暮らせるよう戦ってきた。負けたことなんてない、苦戦したことなんてない、被害だって最小限に収めていた。
だからこそ、「慣れた」のだ。
危険なのはヒーローだけであって、自分は安全だと。何があっても自分は蚊帳の外なのだと。自分には関係ないと。
東谷はやっと自分の市民の評価に気づいた。
それはTVで見るようなプロレスや野球や、そのほかのスポーツと同じようなもので、彼らにとって東谷は街を守る無敵のヒーローではなく娯楽でしかなかったのだ。
ーー俺は、こんな奴らのために戦ってきたのか。
東谷は優秀だった。だが、決して無傷で鎮圧できるわけではない。傷だって負うし当たり前のように痛みだってある。過去の象徴である痛みは嫌いだった、血も得意ではなかった。
それでも市民の為に戦ってきたというのに。
それに一度気づいたらもうダメだった。幸いなのは敵が無力化された後だったことだろうか。あの日から東谷の身体はうんともすんとも言わない。
「……何のために、か」
少なくても他人の娯楽の為にヒーローをやっていたわけではなかった。じゃあ何だ?名誉の為?それとも誰かの憧れになる為?
……消費物であるヒーローに憧れる奴なんているんだろうか。思いつくどんな理由もピッタリと来ない。
数年前、ヒーローになるまではきっとそれを大事に抱えて前に進んでいたのだろうけれど、今となっては思い出すこともできないなんて薄情な話だ。
思い出したところで今更出来ることもないが。ヒーローの条件は、どうしようもなく能力の有無でしかない。
「俺にはもう、何も……」
六畳一間の窓際に仕舞い忘れた風鈴が音を鳴らして揺れた。夕焼けがベッドしかない部屋を照らす。
自分には何もなかった。ヒーローであること以外ないのに、神さまはそれすらも奪うのか。
ヒーローに、憧れていた。
まだ親に暴力を振るわれていた頃。お金がなかった頃。世界に否定されていた頃。
一度だけ死にかけたことがあった。
その日は父親の機嫌が悪くて、母親も別の男の家に逃げていて、どうにか避難しようと逃げ込んだ公園で運悪く能力者に捕まった。
『子供は格別だ。これから何をされるか想像が出来ない分、私自身への恐怖の純度が高い。これが大人だとこの爪だとかこの牙だとかに意識が散漫して話にならんからな』
だが東谷はその能力者の期待には答えられなかった。
何故なら首元に爪を当てられても服を破られても殴られても蹴られても肌を裂かれても爪を剥がされても指を折られても何も感じられなかったからだ。
自分は無価値だから。生きてても仕方ないから。悪い子だから。だから仕方ない。
恐怖は感じなかった。暴力が日常に溶け込んでいたから痛覚なんてとうに鈍っていた。ただ、ここで死ぬのかとそう考えて終わりだった。家から逃げても結局死ぬのかと、笑ってしまった。
諦めて、目を瞑った時だった。
『お前が諦めても俺は助けるぞ』
意識が朦朧としていたから姿はよく覚えていない。
だけど一瞬でその男は怪人を倒して自分を助けてくれた。どうして、と思った。無価値なのに、生きてても仕方ないのに。死んでも良かったのに。
そう途切れ途切れに口から漏らした東谷を男は抱き上げて小さく頭を撫でた。
『俺はヒーローだからな、相手の都合なんて考えない。俺が助けたいから助ける。相手が死にたいと思っていようが生きて欲しいから助ける』
『………』
『もしお前が死にたいと思ってるなら助けた俺を恨んで生きてくれ。でもこれだけは覚えて欲しい、お前の未来を守りたいと思った奴が少なくても一人いたと言うことをな』
病院に行こうか、そう言った男は優しい声色で言う。
生きてていい、と肯定されたような気がした。嬉しかった。東谷は返事の代わりに男の腕をつかむことしか出来なかったけれど、誰かにそんなことを言われるのなんて初めてで、誰かが自分を見てくれたことなんて初めてで、とても嬉しかったのだ。
東谷はその日ヒーローに、あの男に憧れた。
あの男に近づけたのかはわからない。
東谷の能力はリスク持ちまでとはいかないとは言え、強力なものだ。成績や実績だけならきっと劣らないだろう。
それだけの自負はあった。
汗でベタつく前髪を払って寝返りを打った。
実績もある、能力さえあれば今だって、今日の能力者だって瞬殺できる。
でも、きっとそれだけだ。自分はきっとそれだけしかできない。あの男の様になるなんて、きっとーー……。
窓の向こうからは子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。上体を起こして覗いてみると、目の前の小道で小学生数人が傘を振り回しながら笑いあっていた。
「いくぜ!雷よ!我が剣の元に!ライトニングソード!」
「ハイ無敵!今バリア張ったから効きません〜〜!」
「おまっ、ずりーぞ!」
微笑ましい光景だと言うのになんだか胸が重くなった様な気がした。テレビ映えするヒーローと言うのはいる。能力が派手だとか見た目がカッコいいとか。
「……もう、誰の記憶からも……」
三ヶ月。たった九十日休んでいただけだ。
だけど元々テレビ等のメディアにも興味がなく、能力も「映えない」東谷はこの町でしかしかほとんど認知されていない。
だから、仕方ない。誰の憧れにもなれないのも、忘れられてしまうのも。
散歩は好きだ。
平和な町を見るのが好きだ。みんなが笑っているのが好きだ。その光景を自分が守っていると言うのが誇らしかった。自分がいなければこの景色は無いのだと、だから頑張ろうと思っていた。
実際は、東谷がいなくてもみんな笑える。東谷が居なくても代わりのヒーローはいて、東谷が居なくても平和だ。
自分がヒーローでない時だって、世界は普通に動いていたというのに、自分がいないと、と驕っていたのだ。
土手に寝転んでも誰も咎めなかった。やっぱり自分はもう要らないのだと、そんな気がした。
「よく会うな、野次馬くん。」
視界に影が降りる。目を開けて見ると、眼前には昨日も見かけた少年が東谷のことを覗き込んでいた。
「そっちこそ、小学校はどうしたんです」
「今日は祝日だぞ。曜日の感覚も無くなったのか」
「……ニートですからね。先輩にはわかりませんよ」
中身は歳上なのだから、と態度を改めると先輩は目を丸くした。
「……お前でも敬語使えたんだな」
「なんなんですか」
「自分の後任の事くらい調べるさ。自信家で、傲慢で、無遠慮だけど単純だから扱いやすい若手ルーキー。能力だけで採用されたってみんな言ってるぜ」
「そうですか」
「落ち込まないのか」
「知ってましたから」
強い者は強い、弱い者は弱い。弱い者は価値がない。弱い者とつるむ必要は勿論無いし、同じレベルの奴等は人気ばかり気にしていたから内心見下していた。
ヒーローの仕事は市民を守ることだ。それ以外、例えば馴れ合いなどは必要では無い。テレビや民衆への人気も必要ない。
そんな自分が周りから好かれるはずもなく、裏で色々有る事無い事言われているのは耳に届いていた。
「ヒーローに仲間は必要ないです。必要なのは能力と敵を倒せる強さだけ。そうでしょ?」
「いや、なんもいらんぞ」
「は?」
「だからなんもいらないって」
「いや、なにもって!じゃあ何ですか?!じゃあ無能力者でも、そこらへんの子供でも、犬でも、ヒーローになれるって言うんですか?!」
「なれるぞ」
先輩はそう断言する様に言った。
「ヒーローになるのに資格なんかいらない。必要なのはヒーローになる「理由」だけだ。あとはどうとでもなる」
「昨日、貴方にそう言われた後考えました。でも考えつきませんでした。俺はヒーローだから敵を倒す。それだけです」
「つまんねえ男だな」
「貴方はどうなんですか」
「俺?俺はアレだよ。目の前で人が死んだら目覚め悪いだろーが。それだけだよ」
「そんなの……、ヒーロー失格です」
「じゃあヒーローってなんだ?」
「え……」
「出動時間がかかるし何より軍事コストとか周辺地域への影響とかの関係でやらないけどな、能力者を倒すだけなら自衛隊でもできる。もしこの近辺でヒーローがいなくなったら普通に自衛隊が派遣されるだろうな」
「で、敵を倒すだけならヒーロー職なんていらないわけだ。じゃあお前は何で戦うんだ?」
「それは……」
考えても、考えても答えは出なかった。だって悪い能力者を倒すのがヒーローの仕事で、それが戦う理由だろう?それ以外の理由なんて東谷には考えつかない。
「…………わかりません」
「そうか」
少年は無反応でそう言ったが、すぐに表情が青ざめていく。
「……やべ」
髪の毛を手櫛で整えると、先輩は東谷の襟ぐりを掴み耳元で呟いた。
「野次馬くん。悪いがちょっと協力してほしいことがある」
「えっ」
「なにも喋らなくていい。今からオレのお兄ちゃんになれ」
「は?!」
お兄ちゃんってなんだ。そう口に出す前に、元気な幼い声が土手に響いた。
「あー!西野くんだー!」
頭上から幼い声が落ちる。先輩と同じくらいの背丈の男女が少し遠くからこちらに向けて手を振っていた。
「しゅーくん、ゆうちゃん!こんにちわ〜〜!」
「?!」
少年の口から出てきたのはまるで子供のような高い声。発音は若干たどたどしく、先程まで話していた男と同一人物だとは思えない。
「ななな何ですか気持ち悪い」
「バカヤロー、オレは現役小学2年生だぞ。普段はこっちだ」
笑顔は崩さず声を潜めて話す彼に寒気がする。中身はいい大人の彼はこんな演技をして恥ずかしくないのだろうか。
小走りで駆け寄ってくる子供達は東谷を見て首を傾げた。
「そのおじさんだれ?」
「田舎から遊びに来た、いとこのさくらおにいちゃんだよ、ね!お・に・い・ちゃ・ん!」
後半の台詞には圧がかけられていて否応無しにうなずかさられる。
「う、うん。こんにちわ」
「へえー、暗そうだね!」
「えっ?!」
「おにいちゃん友達いないから……」
「えっ?!」
「おとななのに?」
子供は残酷とかそういうレベルではない。
確かに休職してからやつれたかもしれないが、もう少しオブラートに包むとかそういうのはないのだろうか。
「じゃあゆうが友達になってあげるね〜」
「しゅうも〜」
「えぇ……」
両手を握って左右に振り回す少女にされるがままになっていると後ろの方から母親だろう、子供達を呼ぶ声が響いた。
「あー!ママ呼んでる!」
「えー……、ゆうまだおにいちゃんとおはなししたいのに」
残念がる少女に先輩は慰めるように言う。
「大丈夫だよ。おにいちゃん暇だから呼べば来てくれるから」
「暇じゃないですけど?!」
いや、暇ではあるんだけども。
西野の言葉に真を受けた少女は何が楽しいのか飛び上がるくらい喜んで東谷に笑顔を見せた。
「本当?じゃああした学校終わったら遊ぼ!」
「明日?!」
「うん!じゃあまたあしたね!ばいばーい!」
二人は一方的に約束を取り付け母親の元へ駆けていった。
「……すまん、あの双子……優と修太郎とは仲が良くてな」
「最近の子は元気ですね……」
「……ガキっていいよな」
「ロリコンですか?」
茶化してみると西野は眉を寄せて東谷を足蹴にした。
「ちげーよ。……ガキは明日が来るって疑わないんだ。当たり前みたく明日の話をする。明日が来ないことなんて可能性すら考えない。俺たちが守ってるのはこの街じゃなくてそれなんだって、子供に戻って久しぶりに思い出した」
「……随分美しいお話で」
「お前も思い出せるといいな」
「何を?」
「色々と、だ。……じゃあ、オレは見回りに行くからこれで」
「見回り?」
「最近ピンポイントで小学生を狙った誘拐事件が多発してるんだ。オレが小学生やってんのもあわよくば自分が当たればって考えだしな」
そういえばニュースで見たような気がする。
小学生連続誘拐事件。
この町の低学年の小学生ばかり消えており、あまりに誘拐が巧み過ぎて能力者の仕業だと言われているとか。
「……能力者相手じゃなければヒーローの管轄ではないのでは?警察に任せればいいじゃないですか」
「ここはオレの町だ。見過ごせるわけないだろ」
「そうですか」
その感覚はわからないが、理論は理解した。
自分の元を去る先輩をただ目で見送る。
俺はあんな風に本気でヒーローを出来ていただろうか。
東谷の心にはそれだけがいつまでもくすぶっていた。
次の日約束通り河原に行くと、優と修太郎が既に東谷の事を待っていた。それと西野も。
「「おにいちゃん!」」
喜ぶ双子を横目に西野はゲッとした表情で東谷の方を見た。
そのままカツカツと革靴を鳴らしながら東谷の方へ向かうと襟首を引っ掴んで小声で怒鳴り込んだ。
「お前なんで来てんだよ」
「約束したのアンタでしょうが!」
「あんなん双子宥める為に決まってんだろうが!空気読め空気!」
「読めませんよそんなの!」
小声で言い合っていると、双子が東谷の両腕を掴む。
「おにいちゃん!水切りってできる?!」
「水切り……?あぁ」
河原まで降りると適当な平べったい石をスナップをつけて川に滑らせる。
石は水上をピョンピョンと四回飛び沈んでいった。十数年前のボーイスカウトで得た知識がこんなところで役に立つとは。
「すっごーいっ!ねえねえ!ゆうにも教えて!」
「しゅうも!」
ワイワイと足元ではしゃぐ子供たちにどうしていいかわからず、少年に助けを求める。
顎で「やれ」と無言の圧力をかけられてしまえば後輩なんて何もできない。
「わ、わかった。一人ずつな」
双子は飲み込みが早く、すぐに水切りを覚えた。
「おにいちゃん!みてみて!いっぱい飛んだ!」
四回を超えて、五回、六回。
すぐに回数を追い越されてしまって立つ瀬がなくなってしまったが二人が楽しそうだから良しとしよう。
「ゆうちゃんもしゅうくんも上手いな〜」
頭を両手で撫でてやると二人ともキャーと喜ぶ。
なんだか温かい気持ちになった。一人の人間として見てもらえるなんていつぶりだろう。
ずっと、透明人間だったのに、色がついたような、なんだかそんな気分になった。
「しゅーくん、そろそろ」
西野の声で修太郎が振り向く。
「もう少し」
「だめだよ。おばさんも心配するよ」
「うー」
「しゅうくん、何かあるの?」
しゃがんでそう聞くと、修太郎は嫌そうに答えた。
「今日病院なの……」
「しゅーくんは心臓弱いんだ。毎月検査がいる」
先輩が補足する。
「その間ゆうはおつかい!」
「……と言うわけだ。おにいちゃんはゆうちゃんを送ってやってやれ」
「……はあ」
ただでさえ誘拐事件が多発しているこの町だ。
付き添うのはやぶさかではないが、それは自分が誘拐犯と間違えられるケースじゃないだろうか。
「大丈夫だ。堂々としてれば案外疑われん」
「そうですかねえ……」
西野と修太郎、そして自分と優に分かれて川沿いを反対に歩く。優は手をつなぐ事を望み、東谷はそれに大人しく従った。
「そういえば何買いに行くの?」
「お夕飯の材料!」
渡されたメモを見るに今日の夕食はカレーらしい。書かれた多数の香辛料に戸惑いつつも二人でたわいのない話をして夕暮れを歩いた。
「今日はねー、ヒーローチョコも買って良いの!」
「ヒーローチョコ?ゆうちゃんヒーロー好きなの?」
ヒーローチョコとは、ご当地担当ヒーローのブロマイドが付いてくるウエハースチョコレートの事だ。
東谷はその能力の地味さからオファーすら受けていないが、世間では人気らしい。
「うん!リリカリックヒロインが可愛いから一番好き!ゆうも大きくなったらヒーローになるんだ!」
他のヒーローには興味はないが、そんな女性ヒーローもいた気がする。
確か自分の嫌いなタイプ、アイドル的人気に固執していた女だった。実際に現場に赴くよりはテレビを中心に活動している。そういうタイプが、東谷は嫌いだ。
そもそも能力がなきゃヒーローに成れないなんて子供に言うのは無粋だろう。
東谷は優の話を聞きながら遠くまで伸びる自分の影を見つめていた。
自分は、まだヒーローに固執しているのだろうか。
能力がないのに?
使えないのに?
何にも成れないのに?
考えても答えは出ない。
長い影が伸びる。長い長い影。二つ並んだ影の小さい方が突然ブレた。
「ーーえ、」
人型。優の影から二倍はあるような人型が飛び出る。驚いた優は思わず東谷の手を離してしまう。
が、それがいけなかったのだろう。黒い波のように襲い来る影に少女は逃げることもできなかった。
「おにいちゃ……」
「ゆうちゃんッ!」
一瞬で優の身体を包む影に向かって手を伸ばす。
伸ばした片手はギリギリの所でかすって、そうして小さな手のひらを掴み取った。
暗い闇が二人を包む。
気がついた時は少女と東谷は同じコンクリートの上に放り出されていた。
「……ここは」
「おにいちゃんっ!」
ひし、と優が胸に向かって抱きつく。
東谷はそれを宥めながら頭の中で状況を確認した。
時計を見ると覚えがある時から数十分も経っていない。
きっとアレは能力者ーー…しかも西野が追っている誘拐犯の能力だろう。
そしてここはどこかの小屋らしい。
打ちっ放しのコンクリートの床、粗末なビニールシートの天井。まるでホームレスの家のようだ。ただ違うのが中には何もなく、生活感がないことくらい。
(出られないことはないな)
「ゆうちゃん、俺が起きる前に人に会ったりした?」
「ううん」
「よかった」
これで何かされていたら年長者の示しが立たない。
起き上がってさっさと逃げてしまおうと身体を持ちあげる。
だが、いくら身体に力を入れても普段のように動くようなことはなかった。
「……能力か」
ぺったり接着剤でくっつけた時のように床から離れない。どういう能力かはわからないが、これは手こずりそうだ。
(って、俺はもうヒーローじゃないんだった)
解決する義務も能力もない。
助けを待つまで何も。
だが、警察ですら手こずっているこの犯罪者にこのまま彼女がいいようにされるのをみているだけなんて。
力さえあれば、歯がゆい思いをする想いをする東谷はあることに気づく。
「ゆうちゃん……動けるの……?」
床にへばりついたまま動けない東谷と違い、少女は立ったり座ったりどうにか東谷を床から離そうと模索している。
同じ床の上なのに何故。
いや、先ずは人命が優先だ。
深く考える前にゆうちゃんに声をかける。
「ゆうちゃん、俺の腕の時計取れるかな?」
「これ?」
アラームウォッチを取らせ、少女に渡す。
「そう。その横の赤いボタンを押して……動けるならそれを持って全速力で逃げて。どこでもいい。とにかく走るんだ。それさえ持ってれば誰かが助けに来てくれるから、とにかくここから離れて」
「おにいちゃんは……?」
「おにいちゃんは大丈夫だよ。なんたって大人だからね。だから行って」
少女は少し迷った後、それを持って小屋を出た。ビニールシートから漏れ出た光が一瞬、硬直を軽くしたような気がした。
もし、予想があっているのなら。
あの時東谷に彼女を任せたのが誘拐犯対策だとしたら。
きっと西野はそれを計算済みで割り当てをしたのだろう。ヒーロー用のアラームウォッチには、同じヒーロー登録者が近くにいるかが分かる機能がある。
区画によって担当が分かれてはいるが、どうしても隣の方が応対が早い地区がある場合が度々ある。
そんな時に使うのがこの機能だ。この機能があれば既に犯人を確保した場合の二度手間を防ぐことも、長引く戦闘での救援を呼ぶこともできる。
先程彼女に押させたのは救援ボタンだった。ここが何処かはわからないがきっと先輩、もしくは他のヒーローが彼女を保護してくれるだろう。
問題はここからだ。
能力もない一般市民が能力者に勝てるわけがない。
逃げるのはもう諦めたとして、説得も……いつも力で解決してきたから無理として、五体満足で帰れるのは。
(うん!無理だな!)
だが、能力が無くなった時点で、ヒーローで無くなった時点で、そもそも生きてる意味なんてない。ここで死ぬのもまた一興。
そんな諦めの姿勢で終わりを待っていると、粗末なテントから光が入ってきた。
「……子供は逃げたか」
現れたのは東谷より平たい痩せ気味の男だった。風が吹いたら飛ばされそうな。
こんな男に負けるなんて来る所まで来たな、東谷は心の中で自身を嘲笑った。
「逃したよ。……お前の能力は「影を自由に動かせる能力」に近いものだろ。だが、対象人数は一人だけだ。だから逃したんだ、俺が一緒にいたから。そのナリだと俺のワンパンでダウンしちゃいそうだもんなあ」
「う、うるさいっ!」
挑発すると、動かない身体に思い切り蹴りを入れられる。腹に入った蹴りの威力はなかなかで嘔吐物までとはいかない唾液が咳とともに漏れ出た。
「か、は……っ!」
「の、能力無しのくせにボクに逆らうなよ!こっちは殺すことだってできるんだからな!」
続けられる一方的な暴力に耐えながら東谷は内心自分を嘲笑っていた。
(はは、同じこと言ってら)
自分だって、そう思う。
そして、それは覆せない。
今の自分はこんな小物以下なのだ。こんな変態に負ける一般人。
少し前まではコイツなんてすぐ制圧できたのに。でもこの状況は事実だ。
紛れもなく、東谷は目の前の男に対して無力だった。
「そしてこの子だって!」
急に体が軽くなる。とっさに起き上がったが、男が操る影の中の少女を見た瞬間、動くことが出来なくなった。
「ゆうちゃん……!」
影の人型に身体を掴まれぐったりしている優は東谷の方を見ると、ほっと息を漏らす。
「……おにい……ちゃん、……良かった……」
「逃げろって言ったのに……!」
身体中から嫌な汗が吹き出る。優は見るからに憔悴している。まるで生気を吸われたようだ。もしかしたら「影」の能力の一つなのかもしれない。
「この子、どうしてたと思う?アンタを助けようと影でずっと辺りを探ってたんだよ!可哀想に、アンタを見捨てておけば無事に家に帰れたのに!」
「……その気があるなら返してやれよ」
そう投げかけると、男は気が狂ったように声を上げた。
「ボクはな!こういう女が大嫌いなんだよっ!顔のいい男ばっかに尻尾振りやがってっ!ボクには何もしてくれない!ボクはその芽を摘んでやってるんだ!やがて売女になる芽をなあッ!」
「気狂いの論法だな……」
そんな応答の間にも少女は影に首を締め上げられる。
助けようと無意識に足を踏み出すと、男の声に静止された。
「おっと、そこから動くなよ!動いたらその瞬間殺す」
「動かなくても殺すだろ」
そうだ。結果的にはどっちに転んでも死ぬ。だとしたら動いた方がいいのに、どうして俺にはアレに対抗する力がないんだろう。
どうしてヒーローじゃないんだろう。
ヒーローなら助けられるのに、どうして。
『ヒーローに資格なんか要らないだろ』
先輩の声が頭にリフレインする。
そうだ、なんでもいい。
力がなくったっていい。先輩に最初に会った時みたいに、誰かを救えれば。
ヒーローは究極のエゴイストだ。
だから、ヒーローには資格なんていらない。
だって誰かのヒーローになりたいと動いた時、その理由が出来た時、既にそれは自分の中ではヒーローだろ?
心に小さな炎が灯った気がした。
小さな火種、きっと俺には完全な能力は戻らない。
でも、今あの子のためのヒーローになれるなら、東谷はどんなことだってできる気がした。
コートで隠れたホルスターから銃を引き抜く。
「銃?!」
いつものこと。この銃さえあれば、いつだってこの世界は東谷を贔屓してくれた。
今回も頼むぞ、愛銃に心に灯った炎を装填して狙いを定める。
「ーー全ての事象を無に帰せ、全ての糸は我の手の中に在りーー……」
「デウス・エクス・マキナ!!」
東谷は驚く男を撃ち抜いた。だが、男の身体には確かに打たれたと言うのに銃槍の一つも付かなかった。
「確かに撃たれたのに……、どうして……」
困惑する男の影響で影の縛りが緩くなる。
能力は精神状態の揺れに直結する。撃たれたはずのショックに混乱する頭に左右されたのか影は優をそのまま床に落とした。
咄嗟に解き放たれた少女に駆け寄ると彼女は首を絞められたショックで朦朧としているものの、特に大きな怪我はないようだった。
空に上がった日が一瞬陰る。
東谷はそれに気付くと勝利を確信した様に、少女の手を取りながら言った。
「俺の能力名は『デウス・エクス・マキナ』」
そう呟いた瞬間、一つの影が空を舞う。
「"全ての事象を、俺の都合の良いように引き寄せる"能力だ」
一瞬だった。
現れた黒いヒーロースーツの男は、一瞬、空を舞うと一気に能力者の男目掛けて落ちてくる。
空中からのキックは能力者の男が四メートルは吹っ飛ぶほど、威力の高いものだった。
「あが……ッ!」
男は喉奥から声を上げて小屋ごと高架下のコンクリートの壁に叩きつけられた。
壁は衝撃でヒビ割れ、パラパラと小さな欠片が落ちる。
「遅いですよ」
「……ヒーローは遅れてやってくるんだよ」
黒衣の男はそうやって笑った。
その声はいつかの昔に聞いた声とよく似ていて、すとん、と全てに合点がいった。
運命と言うのがあるのなら、こう言うことを言うのだと思う。
「……たまには捕まる前に来てくださいよ」
憧れたあのヒーロー。自分はいつの間にか同じ場所に立っていた。
西野の活躍で変態男はお縄になった。
予想通り連続誘拐、もとい連続殺人の犯人はこの男で、西野の追いかけた件も一件落着、と言ったところだろう。
囮にされたこっちはシャレにもならないが。
「おにいちゃん!ゆう、おにいちゃんの足手まといになってごめんねえ……」
事が収束した後、優は泣きながら東谷の方に駆け寄ってきた。
「怪我はない?」
「うん……」
「よかった。でも、どうして逃げなかったの?」
出来るだけ不安がらせないように、しゃがんで目を合わせてそう聞いてみると優は涙声で答えた。
「……わかんない。おにいちゃんを助けなきゃって、そう思って、そしたら身体の方が先に……」
あぁ、こう言うことか。
東谷は西野の言葉を思い出す。
『ヒーローとして戦う理由はなんだ?』
今なら答えられる。
『そんなものはない』と。
目の前で困ってる人がいたら助ける。許せない事があれば駆けつける。
それがたとえお節介だとしても、野暮だったとしても、自分が『ヒーロー』であるならきっと身体が先に動き出す。
「ゆうちゃんは俺のヒーローだね」
不安そうな優の頭を撫でると彼女は首を傾げて「ゆうには能力なんてないよ」と答えた。
今までの自分と同じ答え。でも今なら違うと言える。
「ヒーローになるには能力も、何にもいらないよ。ゆうちゃんは俺を助けようとしてくれた、それだけでもう君は俺のヒーローなんだ」
彼女はぱあ、と顔を明るくした。
「そしたらね!おにいちゃんのおかげなんだよ!」
「え?」
「ゆう、おにいちゃんのことちゃんと見てた!悪い人いっぱい倒して、ゆうもおにいちゃんみたいになるってきめてたの!」
「……そっかあ」
優にはお礼を言わなければいけない。
だって、彼女の存在で、彼女に救われたことで、もう願いは叶ったのだから。
やっと思い出せた。
『俺は、誰かの憧れになる様な、誰かの生きる希望になるような、そんなヒーローになりたいです!』
ヒーローになる能力者が受ける面接で成りたいヒーロー像を聞かれてそう言った覚えがある。
忘れていた。やっと思い出せた。
諦められるわけがない。能力が無くなったごときで諦められるようならヒーローになんかなってない。
東谷にとって、あの黒衣の男ーー西野に助けられた時から人生はヒーローになる為だけにあるのだから。
警察に連れられる彼女を見送りながら東谷はあの人の事を想う。
やっと思い出したのだ。自分がどうしてヒーローになりたかったのか。
押し付けでいい、恨まれてもいい、あの人が自分をそう言って助けてくれたように、自分も最強のエゴイストになりたかった。
ヒーローを続けていたら、彼女の様に新しいヒーローが増えるかもしれない。
その為だったら笑われたって、娯楽として消費されたって構わない。
「……って、もう能力は使えないんだけど」
デウス・エクス・マキナを使った時のような心の高ぶりはもう無い。
恐らく、火事場の馬鹿力の様なもので能力が戻ったわけではないのだろう。
そもそも、本当に発動したのかすらわからない。
『全ての事象を都合よく引き寄せる』それを待たずに西野が駆けつけたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
現状は何も変わってないと言うのに、東谷の心にはもう重しは無くなっていた。
「なんだ、いい顔してんじゃねえか」
ヒーロー姿を解いた西野がニヤつきながら声をかける。
「なんかいい事でもあったか?」
「えぇ。ちょうど思い直した所です」
「何を?」
「史上初の、無能力ヒーローになってしまおうかなあ、と」
そんな夢物語を聞いた西野は揶揄いもせずに「良いじゃねえか」と口元を上げて笑った。
「……と、言うわけなので!」
西野の中学生にも満たない身体を両手で持ち上げる。
「お、おいっ!」
たかいたかいの格好でジタバタする彼に自分でもビックリするくらい弾んだ声で告げた。
「俺、貴方の弟子になります!」
「はあ?!」
「武術、知能共にSSS判定。能力は使えませんがスペックには自信がありますっ!」
「だーーっ!わかったから早よ降ろせ!」
必死な声に微笑みながら降ろしてやると西野は呆れた様に言った。
「それで?理由は見つかったのか?」
「ないですよ。それでも目の前の人を助けます。きっとそれが新しい実を結びますから。あえて言うなら、それが理由です」
「そうか。……大きくなったな」
「俺は最初から大きいですよ!で、弟子入りの返答はどうなんですか?!」
「……考えとく。ほら、これ返すよ」
そうして投げられたのは、いつか捨てた純金のヒーローの証だ。
「ヒーローなんだろ?」
「……はいっ!」
バッジを襟元につけると、若干純金の輝きが増した気がした。歩き出す西野につられ東谷も歩き出す。
これが俺が本当のヒーローになるまでのプロローグ。
そして誰だってヒーローになれると教えてくれた、ヒーローに憧れる少女との最初の出会いの話。
こんな能力の無い俺がヒーローになれるなんて思わないだろ?そこにいる君だって、少し動き出せば誰かのヒーローになれるかもしれない。
フィクションの話じゃ無いんだから無理だって?
いや、きっとなれるよ。
俺はそう信じてる。
だって現に、無能力でただの一般人の俺がそうなんだから!
「東谷、行くぞ」
出会った時よりまた一回り小さくなった西野に呼びかけられて俺は声を上げる。
「はいっ!」
東谷咲良、二十六歳。
現在、ヒーロー営業中!