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チサトとレンズ

「――知里」


「知里!」


LEDの証明が照らす天井は真っ白で、コミックの白ゴマを誤魔化すようにお母さんの声が響く。


「チサト、聞いてるの? 」


「あ、あぁうん。聞いてるよなーに?」


四十手前で最近は白髪で騒がなくなってきたお母さんの方へ、アタシはソファから身を起こして顔を向ける。

夕飯の準備をしながらの会話でも母さんはテキパキと動いてる。


「チサトあんた最近トシくんとどうなの?」


トシくんとはトシツグのことで、アタシたちは昔から家族ぐるみの付き合いをしていた。

だから休学中なのもあって、アタシのことになると口うるさい両親も、トシツグならばとアルバイトをすんなり承諾してくれた。


「どうって……どういうこと?」


お母さんは少し照れくさそうにしながら、悪い顔で独り言みたいに言葉を続ける。


「ほら、トシくんもいい歳だし。あんたも昔からトシくんトシくんって」


「――ちょ!!」


お母さんもお父さんもすぐ人の子どもの頃の話を持ち出してきて、ほんとヤダ!

だって小さい頃から遊び相手にはトシツグしかいなかったし、仕方ないじゃん。


「小学校の頃まではトシくんのこと本当のお兄ちゃんだと思ってて、なんで違う家に帰るの?っていつもグズってたし……」


「お母さん!! もうホントやめてってば!」


恥ずかしい気持ちを誤魔化そうと、癖で腰まで伸ばした髪をいじろうとした私の手が空を切る。

忘れてた。先月バッサリ切ったんだった。

リビングがしばらく無言に包まれたあと、母さんがお味噌汁をお椀にそそぎながらまた独り言みたいに話し始めた。


「それでさ、トシくんのとこにメガネとか買いに行こうと思うんだけど。いくらくらいになるの?」


「え、あぁ、なんでもいいんじゃない」


アタシが食卓にかけたら、対面で座っている母さんは年甲斐もなく頬を膨らましている。


「なんでもってことはないでしょ! メガネもそうだけど……レンズだって色々値段あるじゃない」


あー、今日のお味噌汁赤だしなんだ……米味噌がよかったなぁ。

でもレンズ……そっかレンズね。

明日店行ったら聞いてみよ。



「おはよーー」


裏口からお店に入ると、絵本のお姫様みたいにキレイな銀髪を結わえた人形みたいに可愛い女の子がアタシに振り返った。


「おはようございますチサさん」


「おっはよーリコちゃん」


ロングスカートのエプロンドレスってメイド衣装で毎日店内をピカピカにしてリコちゃんはアタシの可愛い可愛いバイトの先輩。

どうしてか知らないけどゴツイ検査用のメガネかけてるけど、聞いていいかわかんないからなるべくスルーしてる。


「あれ? リコちゃんトシツグは?」


「マスターですか? マスターは今朝ユアス様に連れられて出かけて行きましたよ」


「ユアス……ユアス……ユアス。あぁ! あの髭もじゃドワーフの隊長のイケメン? え? なんで? どうして?」


「路上で女性に襲い掛かったんじゃないでしょうか?」


「――え!?」


ビックリする私に、リコちゃんはハタキを動かす手を止めてイタズラっぽい顔をする。

この子がこういう風に悪い顔すると可愛くってキュンキュンしちゃう。


「きっとメガネっ子を求めて路上で女性にメガネでもかけさせて捕まったんですよ」


あ、……あぁ、幼なじみとして否定したいけど、トシツグ昔から集中すると周り見えなくなるし、最近お店でメガネっ子がいないメガネっ子がいないってブツブツ言ってたし、やってそう。


「で、リコちゃんホントのところは? 」


「もうしばらくしたら帰ると思いますよ」


なら気にすることもないかな?

でも母さんのメガネの話したかったんだけど困ったなぁ。

お店もヒマだし、リコちゃん答えてくれるかな?


「ねぇねぇリコちゃん」


「なんですか?」


リコちゃんは一通り掃除が終わったみたいで、刃がカーブした珍しい形のナイフを布でピカピカに磨きだした。


「教えて欲しいことがあるんだけど……いいかな?」


「お客様が来られるまではかまいませんよ? ちなみにこれはククリナイフと言って主に皮を――」


「いや、いいから! それはいいの! あのねレンズのことなんだけど」


初めて会ったころは無表情と思っていたけど、少し残念そうにしてるとことかリコちゃんはよく見ると表情豊かなんだよね。


「それなら……これがウチの価格表です」


リコちゃんが渡してくれたのは大学ノートくらいの冊子で10ページくらいにみっしり表と金額が書かれてて写真もいっぱいでもう何が何やら。

きっとアタシが普段からメガネとかかけてればいいんだろうけど、残念ながら両目で1.0だしいらないんだよね。

全然わかんない……もっと1個ずつ書いてくれてれば分かるのかな?


「リコちゃん……もうちょっと1個ずつ書いてるのとかないかな?」


「それならこちらに……」


そう言ってリコちゃんがカウンター奥の棚から出してくれたのはメーカー事のバインダーでどれも広辞苑みたいに分厚いのを5冊も……


「え、こんなに……」


「まだまだありますよ?」


確かに棚にはまだまだバインダーがギッシリ詰まってて嘘じゃないよう。


「う、ううん! これでいいや」


「そうですか?」


リコちゃんは小首を傾げてから接客カウンターでまたナイフを磨きだしてる。

こういう変な趣味が無ければすごく良い子なのになぁ。


さて、とりあえず勉強勉強っと……

バインダーを開くとレンズの名前の横にSP……スペシャル?

それから縦横に数字の書いてる方眼紙みたいなのがビッシリ書かれてて、横には細かい説明が……

次のページも、そのまた次のページもずっと同じ……


「リコちゃん……リコ先輩……助けて」


あ、リコちゃんまた悪い顔して笑ってる。


「チサさん。分かりますよ。全然読めないですよね」


あぁーー!!

分かってて渡したんだ。教えてほしかったよ。


「とりあえずマスターから教わった内容なら教えられますね」


「……はい」


年下の女の子に教えられるって情けないような、ありがたいような不思議な気持ち。


「まずは……」


横に来てくれたリコちゃんは横髪を耳にかけながら顔バインダーを覗き込もうとするんだけど、いい匂いするしまつ毛長いし肌白いし何この子可愛い天使!?


「チサさん聞いてます?」


「あ!! ごめん聞いてなかった……」


「だからまずは価格表から覚えましょうと言ったんです」


怒られちゃった。

急いで横に置いてた価格表を開くとリコちゃんが最初のプラスチックレンズと書かれたページの1番上を指さした。


「まずは普通のレンズ、単焦点と言うものですね」


「ふむふむ」


「左から球面レンズ、非球面レンズ、両面非球面レンズだそうです」


「違いはなんですか! リコちゃん先輩」


えっと……と言いながらリコちゃんは仕事のメモのノートを確認している。

ほんとマジメだなぁ。


「球面が1番歴史が長く、薄型と言われるものが非球面レンズ。それから高いのが両面非球面レンズ。高い物の方が歪みは少ないそうですね。レンズの横の数字も1.50~1.76とありますが数字が大きい方が薄くなるから高くなります……」


説明を終えたリコちゃんは少し誇らしげにチラチラと私の方を見ている。

か、かわいい〜〜!!


「すごいねリコちゃん!! じゃあその両面なんとかと球面レンズってのの違いって何?」


「それは両面非球面レンズのほうがレンズがまっすぐに近いので歪みが少ないんです」


「歪みって?」


「えっと……景色がこうぐわ〜〜っとなるんです」


「ぐわ〜〜っと?」


「そうですぐわ〜〜っとです……」


つい説明に熱が入ったリコちゃんが両手を広げて表現してくれたけど、今は冷静になって顔が赤くなっちゃってる。


「と、とりあえず高い方がキレイに見えるってことだよね」


赤い顔を手で抑えたリコちゃんがコクンと頷く。

とりあえずお母さんにはここら辺をすすめたら良いのかな。

それにしてもレンズも、なるべく細くてキレイな方がいいって……なんか女の子に求められてることと同じなんだなぁ。


そんなことを考えながら次のページを開くと、次はガラスレンズのページだった。


「あたしはどっちかというと脆いガラスかなぁ」


そんな独り言を呟いて、また切っちゃって無くなったロングヘアを手でいじろうとしたところで、店の玄関が大きく開いた。


「あ、いらっしゃいま……て、トシツグか」


「おかえりなさいマスター」


疲れた顔で帰ってきたトシツグにリコちゃんは笑顔でナイフを向けてる。

ずっと持ってたの怖いよ。


「リコくん全然迎え入れてくれてないよね。僕疲れてるんだけど」


「トシツグ、何? 疲れてんの?」


「えぇ、ユアスさんと海側の……港の方にできたメガネ屋に連れてかれましてね。そこの店主がほんとにもう嫌な奴でもう!」


「え? ライバル店とかヤバいじゃん大丈夫なの?」


港の方って街でも一等地って聞くし、絶対ヤバい。次のバイト探すべきかなぁ。


「いや、ライバルじゃないですよあんな貴族向けの店! 馬鹿みたいに高いし周り見下してるし、メガネなんて見えればいいとか!! メガネっ子なめんなって思いましたね」


おぉ、トシツグが珍しく息巻いてる。

よっぽど嫌なとこだったんだろなぁ。

大の大人が地団駄踏むなんて久々に見たや。


「そうですよね。マスターの言うと思り人間なんて皮を剥がせばそんなに大差も無いんですから……」


「リコくん良いこと言った風で皮剥ぎナイフこっちに向けないで」


「皮かぶりのくせに……」


「ずる剥けですぅ! 見てもないのに適当に言わないでくださいぃ」


皮が剥けてるってトシツグ日焼けでもしてるのかな? そういえば顔も赤くなってきてるし。


「トシツグ皮剥がれたんなら薬買って来ようか?」


「!!?」


薬買って来るって言った途端にトシツグが前屈みで青ざめた顔になったけど……え? アタシなんか変なこと言った??


「だ、大丈夫だよチサちゃん。皮剥がれてないから……無事だから」


「そう? ……ならいいけど」


「むしろマスター剥がしましょうか?」


「リコくんナイフ握り込まないで! 構えないで! 振りかぶらないで! しまって!」


リコちゃんが店奥にナイフを片付けに行ったところで、トシツグがようやく立ち上がって私の散らかしたカウンターが見つかった。


「あれ? チサちゃん調べものですか?」


「あ、違うの、これはお母さんがメガネ買おっかなって言うからレンズをね……」


トシツグは納得した顔をしてる。


「あぁオバサンがですか。で、予算を調べてたんですね」


「そ、そうそう。それでトシツグに聞きたかったんだけどさ、1番良いレンズってどれかな?」


価格表を見せようと広げたけど、トシツグは全然価格表を見ずに私の顔を見てて、つい目を逸らしちゃった。


「全部良いレンズですよ」


なんかけむに巻いたようなセールストークみたいだけど、トシツグは当たり前みたいに答えてる。


「いや、そういうのじゃなくて……安いので4000円で高いのなんて5万なんだから、そりゃ高い方がキレイに見えて薄いんでしょ?」


トシツグは少しポカンとしたけど、相変わらず私の顔を見たまんま。


「それはですね、高い方が技術料みたいなもので、人によっては5万のより安い方が効果があるときもありますし、薄いレンズの方が暗くなったり弱くなったり材質として弱くなることもありますから……まぁ善し悪しは人それぞれレンズもそれぞれってことですかね」


あーー、トシツグらしい!

そっか、そうだよね。

メガネ以外には興味ないっていうか……キレイで細い女の子よりもメガネっ子なんだろうけど……それはそれでなんかビミョー。

まぁ、そっか1番とかそんなことばっか気にしなくてもいいんだよね。

学校行かなくなって伸ばしてた髪切ったアタシにお父さんもお母さんも、トシツグのとこのオジサンもオバサンもびっくりしてたけど、トシツグだけは何にも言わなかったからやっぱりトシツグは何年経ってもトシツグのままだなぁ。

学校でのイジメとか忘れて……また髪伸ばそっかな。

あとは帰ったらお母さんにレンズは何でもいいって言ってみよう。


……ご飯のときに言ったら、それが1番難しいのって怒られそうだけど、知里は一皮剥けたよ! って安心させてあげなきゃね。




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