リコと新しい従業員
――最悪です。
昨日はココの家で女子会でしたが、さすが吸血鬼で貴族の家は伊達ではありませんでした。
庭も大きく、屋敷は見上げると首が折れそうで、使用人の方もたくさんいらっしゃいました。
だから店に帰ってきて現実に引き戻されたから最悪……ではありません。
ココの屋敷は花の匂いに包まれた、それはそれは過ごしやすい空間でした。
「加齢臭が……すごいです」
おかしいです。
昨日は誰も店には居ないはずなのに、街中走り回ったかの様な壮年男性の体臭が店に立ち込めています。
たまに緊張してるマスターからも、なかなかにエキゾチックな香りがしますが……こんな、ドワーフが集団で酒盛りした後の様な臭いにはなりません。
……とりあえず、そろそろマスターが出勤する時間なので待つとしましょう。
――ガチャッ
あっ、噂をすれば朝ごはん……いえ、マスターが来たようですね。
裏口のカギが開く音が……したんですが、入って来ません。
「…………から」
「…………って」
電話でもしてるのでしょうか? なかなか入って来ませんね。
「…………ち着いててよね」
「……から、早くってば」
カギを忘れたんでしょうか?
仕方ないですね、出迎え……部屋の加齢臭を換気がてら裏口のドアを開けてあげますか。
――バンッ!!
「だから絶対驚かないでくださいね! 」
「分かったから、トシツグに整理整頓とか求めてないって〜」
「おはようございますマスター、お腹減りました」
「……」
マスターの手を引いて入ってきた女性は……見慣れない服を着られてますし、マスターのことをファミリーネームじゃなくファーストネーム呼び……あちらの世界の方でしょうが……
「あーー、おはようリコくん。とりあえずご飯にしますか……」
「ちょっ! トシツグ! 誰この子!? モデル!? 人形じゃないよね? 誘拐でもしたの? ねぇ、ねぇ!? 」
「とりあえずご飯より先にマスターは状況説明を……ご飯を作りながらお願いします」
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今朝は白パンと塩っけの強いベーコンと匂いの強いチーズ、それからトマトと味噌のスープ……無意識なのでしょうが、マスター献立は匂いの強い発酵食品が多く、おかげで店内の臭いも気にならなくなりました。
「――と言う訳で、オーナーのお願いで今日からこちらのチサチサちゃんを雇うことになりました。チサちゃん、こちらキミの先輩になるリコくんね」
「ほへ〜〜、よろしくねリコちゃん」
「はぁ……よろしくお願いします」
オーナーのお願い……長いものに巻かれるマスターに断れるわけはないんですが、それにしてもこちらの……チサさんはずっと私を見てらっしゃいますが、やりづらいです。
「リコちゃんってモデルとかしてないの? 絶対人気でるよ? 後で写メ撮っていい? 」
「ね〜、この白パン? って鏡餅みたいだし初めて食べたけど固いし酸っぱいね? 普通の食パンとかない〜? 」
「トシツグも久々に会ったけど変わってないよね〜こっち返ってきて半年だっけ? せっかく近所なんだからさ、ウチにも顔くらい出してよ〜」
……チサさんは先程からずっと1人で話されてます。
見た目通りの快活な方なんですね……私は得意ではないですが。
「ごちそうさまでしたマスター、私は店を開けときますね」
「あ、もうそんな時間? お願いするね」
私が食器を水に漬けていると、チサさんは不思議そうにされてました。
「そんなに時間きっちりにしなくてもさ〜、商店街なんてそんな人居ないからいいんじゃない? 」
チサさんの発言にマスターはパンを咥えながら頭を抱えてますね。
私はさっさと店を開けますか……
「えーと……チサちゃん、さっきも店の裏口を通ったらもう異世界って言ったの覚えてる? 」
「え、うん? 覚えてるよ。異世界って驚かすからさ、すっごい散らかってるかと思ったもん」
「あーー……そうじゃなくて」
あちらではマスターが頑張って説明されてますね。
確かに扉の先は異世界です……なんて信じられないですよね。
私も初めてマスターの後ろから『ニッポン』を覗いた時は、一面岩盤を削ったような一枚岩の地面に煙っぽい香りがしたのは覚えてますが、違う世界なんて信じられないのはよく分かります。
それでもこのフクロウ堂の魔法のような家財の数々は、異世界か死後の世界の物でないと説明できないような不思議な物ばかりだったので、すぐに納得させられましたが……
開店のために店の入口を開くと、少し土の香りが混ざった街の香りが、市場の方から響く足音や微かなラッパの音と共に感じられました。
「今日はベルの音がされますし、海外の舶来品が市場に並んでるのでしょうか……」
市場からはベルやドラなど様々な音色が日毎に流れて来ます。
それによって港から荷が届いたり、市場に店を出したことを報せたりと遠くに居ても分かりやすいのは、ありがたいことです。
「店の前も後で掃かなれけば……1日開けないと土埃が多いですね」
「にゃ? リコちゃんおはよーだにゃあ」
後ろから声をかけて来られたのは、少し大きめな黒猫のケット・シーのニャーム様でした。
長い尻尾をクネクネと揺らしながらご機嫌なご様子で、二本足で歩いておられます。
思わず抱き上げたくなりますが……これで古着屋の店長で私の倍は生きてらっしゃいますし、おじさんなんですよね。
「おはようございますニャーム様」
「リコちゃんは仕事熱心で偉いにゃぁ、さっき市場で買った干し肉をあげるにゃ、オヤツにするにゃ」
ニャーム様は肉球の隙間に器用に挟んだジャーキー私に下さいました。
「珍しい味ですね……魚のような……肉のような」
「南の商船の船員にもらったにゃ。確か……なんだったかにゃ。珍しい魚にゃ」
なるほど、魚で干し肉を作れるほど身を切り出せるなんて元は大きめな魚だったんでしょうね。
中々の塩味ですが美味しいです。
「そうにゃ、イズミんにもあげるにゃ、失礼するにゃ」
私が扉を開けて差し上げ、ニャーム様を店内に招いたところで、マスターとチサさんが話してる途中だったことを思い出しました。
……まぁお客様ですし、問題ないですよね。
「だから……ここは日本じゃなくて別の国でして……」
「そういう設定? トシツグ……商店街でずっと店閉まったままだし、本当は病んでない? 大丈夫? 」
……すごく楽しい話になってますね。
マスターが病的なのは今に始まったことではありませんが、それは後にしましょう。
「マスター、お客様です」
「うわっ!! 黒猫! かわいい〜〜」
「ちょっ! 」
マスターの制止より早くチサさんがニャーム様を抱き上げてしまいました。
「チサちゃん、そちらお客様だから! 」
「ずいぶん可愛いお客様だね〜、ほらにゃ〜って言ってみ」
チサさんの胸の中でニャーム様は頭を振りため息を漏らします。
「お嬢さん、落ち着くにゃ。にゃーは誇り高きケット・シーだにゃ」
「…………へ? ……喋った? 」
マスターは頭を抱えてます。
いつも私がマスターにどれだけ苦労してるか少しは理解いただけたかも知れませんね。
そういう意味では、新しい従業員は私にとってはプラスだったのでしょう。
「だから……言ったじゃないですか、ここは日本じゃないって」
「おーい……おーいお嬢さん? ……黙ってしまったにゃ? そうにゃ、キミにも干し肉あげるにゃ。イズミんもどーぞにゃ」
「あ、ありがとうございます。魚っぽいけど……これ何肉です? 」
ニャーム様から差し出されたジャーキーをさっそくかじるマスター、反対に口に突っ込まれたチサさんは苦い顔をしてますね。
「ぶぇっ! な、何これ? 木の皮? かったい! 」
「今朝市場で買った干し肉にゃ……何の魚だったかにゃぁ」
「トシツグ? ……この猫普通に話してんだけど……」
チサさんはまだ現実を受け入れられてないようです。
ケット・シーが話すのなんて当たり前なんですが……
「にゃ! 思い出したにゃ! イルカの肉って言ってたにゃ! スッキリしたにゃ〜」
「…………」
「…………」
マスターとチサさんが顔を青くして黙ってしまわれました。
少し塩味が強かったんでしょうか?
そうこうしていると、ニャーム様はチサさんの腕から脱出し悠々と玄関へ。
「じゃ、にゃーは帰るにゃ。リコちゃんもまた遊びに来るにゃ」
「はい、ニャーム様。またお邪魔しますね」
揺れる尻尾を玄関から見送り、店内に戻るとお二人はまだ静かなままでした。
「……トシツグ……イルカってイルカだよね……」
「そうですよ……イルカはイルカです」
朝食の後ですから食が進まないんでしょうね。
お二人ともずいぶんゆっくりと咀嚼されてます。
「ここ……本当に日本じゃないんだね」
「……分かっていただけて何よりです」
??
チサさんは物分りが良いみたいですね。
私が魔法のような家財を見たのと同じようなショックがあったとは思えませんが……理解してもらえたのは良いことですね。




