井戸端会議
こしらえのいい赤のローブが肩からずり落ち、掛け布団の代わりがなくなったことで、冷たい外気に身震いしたところで男は目を覚ます。
真っ白な頭に白い髭を蓄えた初老の男。
男は、ときたま1人でこの酒場「月ノアニス亭」に思索を巡らせにくる。
当然そのためには、燃料代わりに多少の糖とアルコールを胃に流し込む作業は必須なのだ。
男が酒に意識を失う直前、ハゲに筋肉質のボーイのザルツァに案内され、二本足で歩く黒猫のケット・シーと衛兵隊の隊長付きのドワーフのダロスが、背の丸まった優男と店に入ってきたところまではうっすら記憶にある。
何人かの笑い声の中寝入ってしまったが、しかし今は無人の店内で、冷えた石畳とすきま風は男の体を内から寒く石のように固める。
男は足元に落ちた赤のローブを肩にかけなおし、店内をぐるりと見渡す。
客はともかく、給仕のザルツァも、その後輩で男色家のボーイのバークの姿も見えない。
「なんじゃい、客はともかく店員もおらんのか」
「なんだ、マーシー坊だけ? うちの奴らは? 」
声のする方を見上げると、酒場の主人であるエルフのアニスが2階から階段で降りてくるところで目が合った。
「やぁ、アニス。休憩は終わりか? 」
「あぁ、すまんな。うちの奴らは服装からして自由に過ぎるが、まさか客を置いて店を空けるとは」
苦々しく笑い階段を降りてくるだけだが、その光景がずいぶんと絵になるのもエルフに見られる整った顔という特徴ゆえだろう。
アニスにマーシーと愛称で呼ばれた初老の男もつられて笑い、自分の卓の半分ほど残ったワインボトルを振りながら隣の席の椅子を差し出した。
「まぁ話でもしようじゃないかアニス」
「はぁ......客が来るまでだぞ」
年甲斐もなくニヤニヤと笑うマーシーは、自分の卓の窓側の椅子を、自分の子供ほどの若さに見えるアニスに丁寧に引いてエスコートした。
「ありがとう。.......で、今日は何を悩んでたんだ? 」
「ほぅ、さすがだなアニス。そんなこともわかるか」
「わかるさ」とアニスが微笑むと、マーシーは子供のように、ぐっと息を呑む。
「最初は隊長と折り合いが悪く、次は弓の上達の相談。で、この間が街の孤児の問題だったか」
アニスが指折り数える度に、マーシーは殴りつけられたように顔が歪む。
「やめて! おじさんそんな昔の恥ずかしいこと忘れちゃったの! 」
「マーシー坊がおじさん.......のぉ」
赤のローブと肌との境界線が分からなほどに顔を赤らめたマーシーは、これまた赤いワインを木製のコップに注いでアニスに手渡す。
そのままマーシーはアニスに椅子を寄せて、彼女に向き直して腰をかける。
「でな、アニスよ。呑みながらええから聞いてくれんか? 」
「そう頼られて悪い気はせんが......私はなんでもできる賢人じゃないのだがな」
「かまわんかまわん。ほれ、人に話すだけで整理がつくこともあろう? 」
マーシーに押し切られる形で、アニスも肌に密着するような細いズボンを履いた足を組みかえてから、肘をついて彼に顔を向ける。
「で、今度はどうした? 年長者らしく頼られてやるよ」
わははと笑いながら髭を整え、マーシーは相談を始める。
「この海岸都市に流れる河を上ったところにある湖畔都市があるじゃろ? あそこに先日な、商会の連中と視察に行ったんじゃよ」
「湖畔時計と言えば、この国でも有数の儲けがあるところだろ。確か......ドワーフやホビット、リザードマンなぞが人より多いと聞くが、何を視察するのだ? 」
「そう、それじゃ! それがの、亜人のそのドワーフやリザードマンなぞが下級市民として昔は甲冑やら戦のための武器なぞを作っておったが、最近は戦も少ないのに妙に領主の羽振りがよくて不思議でな。ちょーーっと気になっての」
マーシーのいたずら小僧のような物言いに、アニスはクスクスと笑う。
「で、私に話したのだ。何か見つかったのだろう? 」
アニスの言葉に、眉間に皺を作りマーシーは話し出す。
「そうなんじゃ、あそこは大した特産物もないが鍛冶場だけはいやに多いじゃろ? その一つの鍛冶場でわかったんじゃ。やつらガラスを鋳造し、メガネを作ろうとしてたんじゃ」
「ほう? メガネと......」
アニスが話に相づちを打ちながら、塩辛いベーコンの切れっ端を口に運ぶ。
マーシーは落ち着いたアニスとは反対に、話に熱が入り身振り手振りが増えている。
「うむ、火に強いリザードマンに金属加工に強いドワーフにホビット。メガネとは正にあの街にはピッタリな産業じゃ。しかも手持ち式だけじゃなく、なんと、羊毛で頭にくくりつける手を使わんなどという画期的なものまで考案していたんじゃ!! 」
マーシーの顔はアニスの唇を狙ったかのように近づくが、アニスは「そ、そうか」と手の平で彼の顔を押し返す。
「この街はいつ侵略されるかわからんからなぁ、王様への税は多少減免されるが、増えた人口の維持をどうするか......今さら湖畔のを真似てメガネなぞしても、ガラスの鋳造なぞ教会では出来んし、宝石をレンズにしてものぉ......そもそも人種が多すぎて言葉すらままならんし」
独り言を始めるマーシーの横で、アニスが1人で手酌でワインを嗜む。
見た目も行動も対照的だが、お互いにずいぶん居心地は良さそうだ。
「のぉマーシー坊、少し視野を広げてみたらどうだ? 」
「視野......視野か」
アニスの一言にマーシーは、ぼうっと店を見渡す。
広い二階建ての酒場、見慣れた木の壁に同じく木のカウンター、大小様々なテーブル席に椅子。
壁面には様々な種類の酒のボトルや酒樽が並ぶ。
「そういえば......ずいぶん酒の種類も増えたの」
「だろ? この島の酒に帝国の酒、共和国の酒、商国の酒、なんなら島によった奴らが置いてく民族毎の酒まで増えたんだよ」
丸いボトルや透明な瓶、ひょうたんや竹の様な筒、革袋など様々な形や大きさに色、そしてそのどれもにそれぞれ様々な言語で書き込みがされている。
マーシーは瓶を指さし書き込みの意味を酒場の亭主のアニスに問う。
「あぁ、あれはこの島に来た記念だな。次に来たものと記念に交換にしてくれとか、里の酒の情報を書いて注文が欲しいとか、それぞれ好き放題に書いて置いていく奴や交換していく奴ばっかりさ」
こうして酒場にたまに来るが、もっぱら屋内で過ごすマーシーは改めて街に訪れる人種の多さに驚いた。
日頃扱う書類は清書された自国の言葉だが、それでも街の人間全員が読み書きできるわけではない。
むしろ大多数は読み書きとは縁の遠い者たちだ。
そこに加えて流通の要であるこの街には、様々な異邦人が訪れる。
言語に加えて思想、環境、小人と巨人、狼男に蛇女といった見た目も大きく違う。
その事実を棚に並んだ様々な容器は教えてくれる。
仮に街の産業を起こすなら、ある程度の人数を同一の意識で縛るのが簡単ではある。
農場にしろ、工房にしろ、意思の疎通を行い経験を積み人を育てる。
その形をマーシーの見た湖畔の都市は、リザードマンがレンズの鋳造、ドワーフが枠作り、ホビットのレンズ磨きと分業で縛ることで成していたが、それをマーシーは良しとしなかった。
それは隣に座るアニスもそうだが、故郷を失った人々や訳ありが多いこの街で、言語や習慣は保護すべき人格に等しい。
そういった考えで開拓地として人の力を集めたこの街では、すでに当たり前となっていたし、当たり前を誇るべきであった。
「客の種類も増えたもんじゃな」
間違えて踏んでしまいそうになる子供のままごとのような椅子や、天井に吊られた止まり木を見て、マーシーは改めて呟く。
「おかげで日々大変だよ、店員はバカばっかりで」
笑顔で悪態をつくアニスにマーシーも苦笑いで返す。
「そういうわけで、なんでもかんでも受け入れたマーシー坊には責任取ってもらわなきゃね」
マーシーは、背筋をまっすぐに伸ばし顔を引きつらせる。
アニスの言う責任とは、大抵がとんでもない規模の無理難題が降ってくる。
例えば街の側溝整備や酒税の緩和、離島での教会の建設、長命なエルフの一言と言うより、初恋の女性に男は何歳になっても逆らえないとマーシーはよく理解していた。
「で、わしのような老体に今度は何をさせようと」
マーシーが冷や汗を書いてるのを、ニヤニヤと眺めてから、アニスは一言切り出した。
「メニューを作ってくれ」
「店のか? 」
「そう、この街......いや他国でも使えるような言語をまとめた簡単なメニュー表だ。なに、湖畔都市がメガネを作っても買うのはたかが知れている......だろ」
マーシーは理解した。
これはつまり、湖畔都市に先んじたメガネの前の話。
メガネの需要を作るための文字の受容を生む話。
本とまでは行かずとも、文字を羊皮紙に書き上げる仕事は、量をこなすとなれば教会孤児の《エインセル》や無職の人間に頼むことになる。
当然それは街全体の識字率を上げる話で、商業を主にしたこのセアポリスでは言語が通じれば、それだけ収益も増えるのが見える。
しかし不思議なのは、この余裕の笑みを浮かべる酒場の女主人が昨日今日考えたことにしては、話が全て街の問題にまとまっていると言うこと。
それに加えてメガネを基盤にした話にも思えるのは自分の思いすぎかと、マーシーが考えを巡らせていると、扉の鐘の音と共に酒場の扉を開き長身の衛兵が現れた。
それに応対するために店奥からは、鐘の音に反応した鰐皮に上半身裸のハゲ頭のザルツァが小走りでカウンターに現れる。
「いらっしゃ〜〜っ、あらユアスちゃん! 今日はお1人珍しい」
「お久しぶりですザルツァ殿、今日も惚れ惚れするような筋肉ですな。雄々しく立派です」
ユアスの「惚れ惚れ」に顔を赤らめるザルツァだったが、ユアスは挨拶もそこそこにテーブル席のマーシーとアニスを見つけると、カウンターのクネクネする筋肉を放置し、2人に駆け寄る。
「父上! また屋敷を抜け出してきたのですか」
ユアスを見るやローブを頭から被ったマーシーは精一杯の裏声で返事を務める。
「違うよ! わしは妖精レッドキャップだよ! マルシアスなんて領主じゃないよ」
「ち、ち、う、え!」
ユアスにどやされるマーシーの様子にアニスは腹を抱えて悶絶している。
「そ、そうだユアス坊、お前がこの間言っていた言葉の翻訳書の話。私の方からマーシー坊に言っておいたよ」
「あ、アニス様。ありがとうございます」
アニスとユアスの会話をローブから顔を出した髭面のマーシーが苦々しく見つめる。
「お前かぁぁぁ.......? なんじゃそれ」
「それ.......あぁ! 」
マーシーに指を向けられユアスはかけていたメガネを外し胸元にしまった。
「すいません。仕事終わりでつけたままでして」
ユアスが照れくさそうにしているが、マーシーがよく目を凝らすと、カウンターのザルツァも、今し方怒りながら戻ってきたカウンターで酒を煽るゴーゴンの娘もそれぞれが違う、しかし湖畔の街のものより精巧なメガネをかけている。
少なくともこの街どころか、国でも用意できない代物ではあるが、改めてマーシーは、自分が屋敷にこもってる間の街の変化に驚いた。
「よし、アニスご馳走になった。ユアス帰り道はお前のメガネの話とお前の考えをしっかり話してもらうからな」
家紋付きの赤いローブをひるがえし、このセアポリスの領主パトリック=マルシアスは息子の衛兵隊長のユアスと堂々とした様で店を出て行った。
アニスは1人マーシーの皿を片付けながら、湖畔の都市のことをボヤいてた時分のマーシーからと、彼の出ていくまでの彼のあまりの変わりように、自分の肩にかかった長髪の影で小さくクスリと微笑んだ。




