4話 夢、それとも?
「……おしっこ」
とある日の夜明け間近の時間に、ユナは尿意を覚えて目を覚ました。
ジェイクを見ると気持ちよさそうに眠っており、起こさずにひとりでトイレに向かう事を決意する。
人間ではランプがなければ足元がおぼつかないような暗闇でも、犬人のユナにとっては歩く程度なら十分の明るさであった。
「そーっと、そーっと……」
ユナはそう呟きながら抱きしめていたジェイクの腕をゆっくりと離すと、ベッドを抜けて忍び足で扉へと向かう。
ギィ……
「ん……」
慎重に扉を開けたつもりだったがわずかにきしむ音がしてしまい、その直後にジェイクが寝言を発したので起きたのかと思いびくりとしてしまうユナ。しばらくじっとしていたが、ジェイクが起き出す様子がなかったのにほっと胸をなでおろす。
そしてそっと扉を閉めると廊下に出ていくことに成功した。
「したまでいかなきゃ」
家賃に見合わぬ環境の良さを誇るこのアパートだが、流石にトイレは1階にしかないため3階から階段を降りなければならず、身長が1mそこそこのユナにとってはひとりで降りるのは結構な苦労であった。
「んしょ、んしょ…… やっとついた」
ユナはようやく1階にたどりついて一息いた。しかし今降りてきた階段を見上げると、果てしなく続くように思えて、あとでまたこれを登るのかと思うと自分の行動に後悔の念が浮かんできてしまう。そんな風に考えて足が止まっていたが、体がぶるりを震えて改めて尿意を感じて慌ててトイレに向かっていった。
「ふぅ……」
このリエージュの街のには国内有数の整備された下水道がある。一説によると今の街は過去にあった魔族の街の上にあり、その際に良好な状態で残っていた下水道を再利用したという事だ。なんでもスライム状の魔法生物を使った排水の浄化設備もあるという話だが定かではない。
ともあれ、用事を済ませたユナがトイレから階段へ戻ろうとしたときにふと一つの扉の隙間から灯りが漏れ出しているのに気が付いた。
「おおやさんのへや?」
確か、灯りが付いているのは大家の部屋であったことを思い出す。そして好奇心に誘われるままに扉に近づいてそっと押すと以外にもあっさりと開いてしまった。
「うわあぁ……」
そして中を覗き込むとそこは左右にびっしりと本が詰まった本棚が並ぶ部屋であった。
「……あれ?」
ユナはしばらく本の群れに圧倒されていたが、ふとあることを思い出した。
(おおやさんのへやってこんなのじゃなかったような……)
何度かジェイクに連れられてきたことのある大家の部屋は、小綺麗なテーブルやタンスがある部屋で確かに本もあったけど小さい本棚が一つだけだったはずだ。
「勝手に人の部屋に入ってはダメよ、ユナちゃん」
「ひゃっ!」
ユナが不思議がっているといつの間にかそばに立っていた大家に声をかけられ、びっくりして文字通り飛び上がってしまった。
「ふふふ、驚かせちゃったわね」
「あ、ごめんなさい。あかりがついてたからきになっちゃって……」
楽しげに笑う大家に叱られたと思ったユナがしょんぼりとした様子で謝る。
「まぁいいわ。……『通路』を閉じ忘れるなんて私も歳かしらね」
「え?」
言葉の後半部分の声が小さすぎて聞き取れなかったユナが聞き返すもなんでもないと言われてしまう。
「そういえばこうしてふたりきりで話すのは初めてね。お茶くらい御馳走するからお座りなさいな」
「いいの?」
「ええ、確か蜂蜜入りが好きだったのよね」
促されるまま、ユナが本棚の群れの真ん中にある小さなテーブルとセットになっている椅子に座る。すると大家は、いつの間に用意していたカップにポットのお茶を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ふんわりとした嗅いだことのない不思議な香りのするお茶にびっくりするほど甘い蜂蜜が上手くあっていて非常に美味しく感じる。
「すごいおいしい」
「それは良かったわ。それを飲むとよく眠れるのよ」
そう言って大家も自分の分にカップに口を付ける。
しばらくふたりで静かにお茶を飲んでいたが、ユナはどうしても気になっていることが聞きたくなってもじもじとしてしまう。
「どうしたのユナちゃん?」
「あの、このおやへって……」
「ここはね、私の秘密の部屋なのよ。だから誰にも言っちゃだめよ。約束できる?」
「おとちゃんにも?」
「ええ、お父さんにもよ」
「……うん、わかった」
「良い子ね」
ユナは『秘密の部屋』というだけでなんだか納得してしまい、誰にも話さないことを約束する。
「あんまり引き留めても悪いわね。……そうだわ、最後にお近づきのしるしに良いものを見せてあげるわ」
「いいもの?」
「ええ、こちらにいらっしゃい」
ユナ呼ばれるままに椅子から立つとトコトコと大家のそばに寄っていく。
「それじゃ私の膝の上に座って」
「……わかった」
一瞬ためらったがユナはぽすんと大家の膝の上に座る。
「そしたら目を閉じて」
「ん……」
言葉に従い、ぎゅっと目を閉じるユナ。
「d@94h4iwyep9」
「え、いまなんて? ひゃ!」
ユナは大家が何を言ったかわからず、聞き返そうとしたときにひんやりとした風が頬を撫でて驚いて目を開けてしまう。
「え……」
すると目の前には一面の星空が広がっており、地平線からは今にも太陽が顔を出そうとしている。そして何より足元には何もなく、空を飛んでいた。
「ふふ、驚いた? でも危ないから動いちゃだめよ」
大家に抱きかかえられたままの格好でユナはこくこくと頷く。
「ほら、夜が明けるわ」
「きれい……」
太陽が昇り始めるとさぁーっと大地に光がさし、自分が街の上を飛んでいることに気が付いた。見覚えのある広場や建物があり、それがリエージュの街であることが分かる。
「おおやさんはまほうつかい?」
「そうね、ちょっと違うけど魔法は得意な方よ」
しばらくの間、驚きと感動で言葉が出ずにいたが、大家が魔法使いなのかが気になり質問するが、帰って来た答えはどっちともとれるものであった。
「ふあぁ……」
ユナはその後もあちこちときょときょと見まわしていたが、急に眠くなってきて大きなあくびをしてしまう。
「あら、おねむなのね。大丈夫よ、おやすみなさい……」
「おやすみなさぁ……」
その言葉とともにユナの意識はすうっと落ちていった。
§§§
「――ほら起きろユナ。いつまで寝てるんだ」
「……はぇ? はっ!」
ジェイクの声で起こされたユナがはっとして辺りを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。
「おそらは?」
「空? 何言ってるんだ、夢でも見たのか?」
「……ゆめ?」
「ほら、それよりも着替えて下で顔洗ったら朝飯を食いに行くぞ」
「……わかった」
なにか釈然としないものを感じながらもジェイクに手渡された巻き服に着替えていく。
「もう自分で布巻くのも慣れてきたなぁ。えらいぞ」
「えへへ……」
ジェイクに褒められて嬉しくなっていると、さっきまで気になっていた何かもなんだかどうでもよくなってくる。
「ほれ、こことここをピンで留めれば、完成だ。うん可愛い可愛い」
「ありがとー」
ぐしぐしと頭をなでるジェイクの腕にしがみつくとふたりは1階にある洗面台に向かった。
§§§
「うし、顔も洗ったし食べに行くか」
「いくかー!」
ふたりして顔を洗った後に雑に水をふき取ると、アマンダの店に行こうと玄関へ向かう。すると玄関では大家が床を掃き清めているところだった。
「大家さん、おはよう」
「おふたりともおはよう。今日はちょっと遅いのね」
「ユナがなかなか起きなくてね」
「あっ!」
「ん? どうした」
ジェイクと大家があいさつを交わしていると、ユナは唐突に夜明けの事を思い出した。急に驚いた声を出したユナをジェイクが振り返って見ているその先では、大家が唇に指をあてて『内緒よ』という仕草をしていた。
「……ううん、なんでもない!」
「そうか、ならいいんだが」
「それじゃあ大家さん。ちょっと出てきますね」
「はい、いってらっしゃい」
「いってきまーす!」
なんだか大家と秘密を共有していることでちょっとだけ大人になれが気がするユナであった。