■ ■■観察記録
いつものようにキャンパス内にある図書館で蔵書を探していると背伸びをして手を伸ばしている女性がいた。観察してみると読みたい本にあと一歩のところで届かないようだった。たしかこの辺りには、踏み台は置いていなかったと記憶している。近くには、僕の他に学生はいない。司書もいないし、巡回に来る時間でもない。となると、この女性自ら司書を呼びにいくか踏み台を持ってくるかだろう。先生にそろそろ本以外のことを学びなさいと言われていたので、いい機会だから僕は、その本を取った。
本を渡すとじっと僕を見つめ驚いたようだった。そういえば、先生から異性の人にいきなり声を掛けると驚かせるから注意しなさいと言われていたことを思いだした。
本を渡した時に指が触れた。それは、僕とは違って温かかった。
それから数日が経ち、あの女性が僕の隣に座った。手にはハードカバーの新刊。僕の今、読んでいる作家のもののようだ。本を読んでいるとちらちらと僕のことを見ている。そろそろチャイムが鳴る頃だというのに動こうとする様子はなくそのまま読み続けていた。
僕は、顔を上げこの本の気になったことを聞いてみた。この女性は、二人の選んだ未来が気に入らないようだった。彼の住む世界を捨てさせ彼女と一緒になって欲しかったようだ。僕はそうは思わない。彼だけが彼女以外のすべてを失うなんて公正じゃない。そう指摘した。すると、僕ならどうするのかと尋ねられた。
僕は、どちらも選ばない。彼女も世界も。そう言うと、少し淋しそうにずっとひとりで生きていくんですね。と言った。
その後、この女性を見かけたが、声をかけてくることも近づいてくることはなかった。
出会う前に戻っただけ。ただそれだけのことだ。
「これはなんだい?」
青年が研究室に戻り、パソコンに文字を入力していると後ろから中年の男が声を掛けてきた。この大学の教授である。
「なになに。―――観察記録」
そう読み上げると堪えきれずに吹き出し笑った。
「そんな実験動物を見るかのように書くんじゃないよ」
「お言葉ですが、先生。もっと、他の人間と関わりなさいと言いました」
「はい。確かに言いました。でも、報告するにしたって書き方ってものがあるでしょう。友達との日記みたいにさ」
「ですが、僕とあの女性は友達ではありません」
「そうだったね。まだ友達じゃなかったね」
そう付け加えると不適に笑った。