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ジンは、命という概念がないのだから生きた心地がしなかったというのは間違っているが、蒼依の手術が終わるまで穏やかではいられなかった。
忙しなく手術室の中を出入りする医師たちを眺めることしかできない。途中、輸血用の血液が足りなくなったらしいがジンには分け与えることができない。
手術も無事に終わり無機質な病室で蒼依は眠っていた。
数日経ったある日。蒼依は、事故に遭う前の記憶は失ったと井之原教授はジンに伝えた。ジンとのことだけ抜け落ちてしまった。
それは、ジンと過ごした日々の記憶がないということに他ならない。
小説の内容で意見を交わしたこともジンの名前を勘違いしたことも花を摘みシロツメクサの冠を作ったこともそれで指輪を作ってあげたことも水族館に行ったことも花火を見たこともすべて忘れてしまったということだ。
「…………ジン」
蒼依の病室の前にしゃがみこんでいたジンは、反射的に顔をあげた。病室に入り今すぐ抱き締めたかった。でも、知らないという相手にこんなことをされたら蒼依は、きっと驚いてしまう。そう考えるとジンは、その場から動けなかった。ジンの名を呼んだのも眠っていたため無意識の内からだった。
このままここにいてもなにもできない。ジンは、その場から立ち去るしかできなかった。
ジンが病院から出ると、草加が立っていた。
草加は、ジンに気が付くと近づいていき胸ぐらをつかんだ。
「お前、柊さんが事故に遭ったときに近くにいたんだってな。どうして、お前じゃない。なんで彼女が事故に遭わなければならないんだよ!お前が事故に遭っていればっ」
「そうだ。僕が壊れても、先生に頼めば直せる」
「おいおい。簡単に直せるなんて言ってほしくないな」
言い争っていた二人の間にあっけらかんとした口調の男の声が聞こえてきた。
「先生」
「井之原教授」
「直せてもそれなりに費用はかかるんだよ」
口調は、穏やかだったが棘があった。
「ジン。お前はこれからどうしたい?」
「解らないです。でも、僕も蒼依のことを忘れられたらいいのにと思います」
「それは、記憶を消去するということかな?」
「お前、なにふざけたこと言ってんだよ!なんで、柊さんはこんな奴のために!!」
草加は、手を離し病院の中に入っていった。
草加は、ノックをして蒼依のいる病室に入った。
「具合どう?……蒼依」
蒼依は、きょとんとした顔で草加を見た。それを見た、草加は吹き出しベッドの脇にあった。椅子に座った。
「彼氏の顔を忘れたとかいうんじゃないだろうな」
「彼氏?私と草加君が?」
「そう。お見舞いのプリン買ってきたんだ。食べよう」
蒼依は、ぎこちなく笑いプリンを受け取り口にした。プリンは、とろとろで食べやすい。食べながら、草加のことを盗み見た。
『この人が私の彼氏。でも、草加君って服装とか派手じゃなかったっけ?私の苦手なタイプだったと思うけど』
この日の草加の服装は、今までの格好とは違ってパンツも腰で履いてはおらずきちんとしたものだった。
草加は、蒼依の視線に気がつくと笑いかけ、
「その顔は信じてないな。好きな小説が一緒で、そこから意気投合したんだよ。あのアンドロイドと女の子が恋に落ちる話。一緒に市立図書館や水族館や花火大会に行ったこと覚えていない?花火大会に浴衣着てきてくれたよね。藍色のやつ。華はなんだっけ?たしか、朝顔のやつ。それに雨降って大変だったよなー」
誰かと行った記憶はあった。それは、草加だったのか。だが、なにかがもやもやしてすっきりとしない。
蒼依は、自分の好きな人はこの人なのだろうか。好きな人がいたことはかすかに覚えている。だけど、その人物の顔にもやがかかったように思い出せない。草加と一緒にいても胸が締め付けられるような気持ちも起こらない。
街の街路樹が鮮やかなオレンジ色に変えた頃、蒼依は退院した。
入院中、母親が部屋の掃除や洗濯をしてくれていたおかげでさほど汚れてはいなかったが、掃除もかねて衣替えをすることにした。
壁にかけられていた浴衣を見て、はっと息をのんだ。草加はなんと言っていた?
藍色の朝顔。だけどここにあるのは藍色の牡丹。華の名前に詳しくなくてもこれを朝顔と間違うだろうか。
自分の好きな相手は、本当に草加なのかという疑念ばかりが消えなかった。




