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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世界で最も高価なケーキ

作者: 花屋

イエローケーキを知ってさえいれば、誰もが一度は考えそうな話。

 1943年秋 東ドイツ



 戦時中だからこそ、私は姉をやめなかった。


 爆撃機のエンジン音が怖気を煽っても、強烈な地鳴りが骨身に沁みても、私は弟を励まし続けた。

 泣きそうになっても、空腹で目が回っても、弟の前だけでは我慢し続けた。


 警報を聞いては弟を叩き起こし、痣だらけになりながら逃げ惑った。

 瓦礫の市街。欠損した死体。掠める爆音。

 何度も力尽き、何度も頭を下げ、何度も死にかけて食い繋いできた。


 源動力は、弟に対する母性なのだろう。

 一緒にいる時間が、一番の幸福だった。



 付近の動物園が爆撃され、私たちはすぐさま現場へと向かった。

 ひん曲がった柵の奥では、大勢の人が輪になって群れていた。一人の男性が刃物を逆手に持ち、血に塗れながら動物の肉を切り分けていた。


「え……、ワニ……」

「…………」


 繋いだ手に、ぎゅっと力がこもる。

 私は腰を落とし、血液を巡らせるように弟へと寄り添った。彼の悲観が波のように押し寄せて、呑まれないように気を強く持った。


「まってて」

「……Ja(うん)


 短く告げると、弟は声だけで頷いた。

 私は自分自身を鼓舞し、信じてきた道徳を取り払う。やがてゆったりと立ち上がり、殺気に満ちた視線を血の池に泳がせた。



 ワニの肉は美味だった。鶏肉のような味がして、煮込むと柔らかくて頬がとろける。

 食べきれない肉の一部は、大量の衣類と交換した。戦時中は物々交換が主流で、私たちは数週間ぶりに飽食暖衣した。

 夜を迎えると、二人は手に入れた衣類の中で眠った。町には灯火管制が敷かれ、徹底された暗闇に沈みつつあった。


Gute Nacht(おやすみ)


「……Gute Nacht(おやすみ).MeineSchwest(おねえちゃん)er」


 夜空は美しく、川の水音は肩の荷を溶かしていく。

 それらを引き裂くエンジン音も、今の私なら許せた。



 ある日のこと。


 働き先で貰ったパンでサンドイッチを作り、弟の前に配膳する。彼は色褪せた謝辞を述べて、手を付けずに私を待った。

 対面に座ると、弟が細い声で訊いた。


「……Was ist da(これはなに)s?」

「サンドイッチ。レタスとチーズとワニの肉」


 保存用のフィルムをはがし、弟に分け与える。飲料水を用意し、彼の小さな口に注いだ。


「……おいしい?」

Lecker(うん)

「……まだ食べる?」


 弟の嚥下を待ち、サンドイッチを差し出す。顎を持ち上げて咀嚼させ、水で食道に流し込んだ。

 しばらくして、弟が話を切り出した。犯した悪戯を告白するような、萎縮した語調だった。


「……あのさ」

「うん?」

「……イエローケーキって、知ってる?」


 私は首をかしげて、「なに?」と訊いた。

 弟が続ける。


「向こうの工場で作ってるらしいよ。町の人から聞いた」

「郊外の?」

「うん」

「……それがなに?」


 じらさらるのが嫌で、私は眉をひそめて尋ねる。

 すると、彼はずっと言葉を練っていたのか、長い台詞を早口で喋った。


「世界で一番高いケーキらしくて、クリームは黄色で、沢山あって、すごくおいしくて、……遠くの国に贈るとか言ってて」

「……誰が言ってたの?」

「町の兵隊」

「…………」



 兵隊と聞いて喜ぶ人間は、この町にいない。灯火管制で悪人の巣窟と化し、それらの抑制として配備された戦争兵など、歓迎する義理がなかった。


 私は、弟を非難しようとした。

 だけど、弟の気持ちが先に出てしまっていた。


「だから、食べてみたい。……ちょっとでいいから、そのケーキを食べてみたい」

「…………」

「おねがい。おねえちゃん」



 私は、彼の要求を呑んだ。

 彼の保護者として、巣に餌を持ち帰る約束をした。そこに背徳心はなく、命を奪う鳥類よりも正当だと信じていた。


 そして、自分自身の《ケーキ》に対する好奇心。

 断る理由は跡形もなく消えていた。



 深夜。


 痩せた弟を寝かしつけて、私は麻袋を手に工場へと駆けた。

 月明かりは足元を濡らし、空の底には建物の輪郭が浮かんでいる。それらの存在に信憑性はなく、夢の中を走るような錯覚に溺れていた。

 舗装道路を逸れて、剥き出しの地盤を疾走する。何度も躓き転んだ気がするけど、熱としか認識できなかった。

 工場の裏に回り、服を被せた有刺鉄線をよじ登る。着地時に肋骨を折った気がするけど、熱としか認識できなかった。

 立ち上がると、目の前には数百のドラム缶が敷き詰められていた。私は迷いなく缶に登り、頑丈なロックを次々と外した。


 そして、缶の前に立った。

 ドラム缶の天蓋に手をかけて、長く黙った。


「…………」


 好奇、緊張、憧憬、空腹、恐怖、勇気、不満、慚愧、嫉妬、期待、愛情。

 その全てが絶頂した瞬間、



「ーーっ!」



 腕に力を込めて、蓋を一気に持ち上げた。





 翌日。


 東ドイツ東部の転換工場で、15歳少女の死体が見つかった。


 彼女は浄化ウラン(通称イエローケーキ)保管用のドラム缶に、上半身を入れたまま動かなかった。

 手や口内にはウラン粉末が付着し、ひ爆によるショック死と見られる。細胞の壊死、ネクローシスを引き起こし、見るも無惨な姿と化していた。

 有刺鉄線付近には、衣類や保存用フィルムの入った麻袋が落ちていた。



 追記


 彼女は孤独児だった。アーチブリッジの下に住み着き、ベーカリーショップで安い給料を貰って働いていた。


 住み処には、腐敗した食料が多く散乱していた。

 その上にはシートが敷かれ、新しい生活痕も見受けられる。大量の衣類の中からは、腕や目の取れたぬいぐるみも出てきた。


 首輪のプレートには、《Ihre Brü(あなたの)de()r》と刻まれていたらしい。

 口元は、異様に汚れていた。


動物園への爆撃は、実話だったりします。

ある意味高くついてしまった、という感想をいただき、思わず感嘆してしまいました(;´∀`)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 確かに高くつきましたね。それとも安かったのかな。 個人的に自分を守るための嘘というのは、安いような気がします。それを踏まえると皮肉で、より風味が増したように思います。 イエローケーキのこと…
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