世界で最も高価なケーキ
イエローケーキを知ってさえいれば、誰もが一度は考えそうな話。
1943年秋 東ドイツ
戦時中だからこそ、私は姉をやめなかった。
爆撃機のエンジン音が怖気を煽っても、強烈な地鳴りが骨身に沁みても、私は弟を励まし続けた。
泣きそうになっても、空腹で目が回っても、弟の前だけでは我慢し続けた。
警報を聞いては弟を叩き起こし、痣だらけになりながら逃げ惑った。
瓦礫の市街。欠損した死体。掠める爆音。
何度も力尽き、何度も頭を下げ、何度も死にかけて食い繋いできた。
源動力は、弟に対する母性なのだろう。
一緒にいる時間が、一番の幸福だった。
※
付近の動物園が爆撃され、私たちはすぐさま現場へと向かった。
ひん曲がった柵の奥では、大勢の人が輪になって群れていた。一人の男性が刃物を逆手に持ち、血に塗れながら動物の肉を切り分けていた。
「え……、ワニ……」
「…………」
繋いだ手に、ぎゅっと力がこもる。
私は腰を落とし、血液を巡らせるように弟へと寄り添った。彼の悲観が波のように押し寄せて、呑まれないように気を強く持った。
「まってて」
「……Ja」
短く告げると、弟は声だけで頷いた。
私は自分自身を鼓舞し、信じてきた道徳を取り払う。やがてゆったりと立ち上がり、殺気に満ちた視線を血の池に泳がせた。
ワニの肉は美味だった。鶏肉のような味がして、煮込むと柔らかくて頬がとろける。
食べきれない肉の一部は、大量の衣類と交換した。戦時中は物々交換が主流で、私たちは数週間ぶりに飽食暖衣した。
夜を迎えると、二人は手に入れた衣類の中で眠った。町には灯火管制が敷かれ、徹底された暗闇に沈みつつあった。
「Gute Nacht」
「……Gute Nacht.MeineSchwester」
夜空は美しく、川の水音は肩の荷を溶かしていく。
それらを引き裂くエンジン音も、今の私なら許せた。
※
ある日のこと。
働き先で貰ったパンでサンドイッチを作り、弟の前に配膳する。彼は色褪せた謝辞を述べて、手を付けずに私を待った。
対面に座ると、弟が細い声で訊いた。
「……Was ist das?」
「サンドイッチ。レタスとチーズとワニの肉」
保存用のフィルムをはがし、弟に分け与える。飲料水を用意し、彼の小さな口に注いだ。
「……おいしい?」
「Lecker」
「……まだ食べる?」
弟の嚥下を待ち、サンドイッチを差し出す。顎を持ち上げて咀嚼させ、水で食道に流し込んだ。
しばらくして、弟が話を切り出した。犯した悪戯を告白するような、萎縮した語調だった。
「……あのさ」
「うん?」
「……イエローケーキって、知ってる?」
私は首をかしげて、「なに?」と訊いた。
弟が続ける。
「向こうの工場で作ってるらしいよ。町の人から聞いた」
「郊外の?」
「うん」
「……それがなに?」
じらさらるのが嫌で、私は眉をひそめて尋ねる。
すると、彼はずっと言葉を練っていたのか、長い台詞を早口で喋った。
「世界で一番高いケーキらしくて、クリームは黄色で、沢山あって、すごくおいしくて、……遠くの国に贈るとか言ってて」
「……誰が言ってたの?」
「町の兵隊」
「…………」
兵隊と聞いて喜ぶ人間は、この町にいない。灯火管制で悪人の巣窟と化し、それらの抑制として配備された戦争兵など、歓迎する義理がなかった。
私は、弟を非難しようとした。
だけど、弟の気持ちが先に出てしまっていた。
「だから、食べてみたい。……ちょっとでいいから、そのケーキを食べてみたい」
「…………」
「おねがい。おねえちゃん」
私は、彼の要求を呑んだ。
彼の保護者として、巣に餌を持ち帰る約束をした。そこに背徳心はなく、命を奪う鳥類よりも正当だと信じていた。
そして、自分自身の《ケーキ》に対する好奇心。
断る理由は跡形もなく消えていた。
深夜。
痩せた弟を寝かしつけて、私は麻袋を手に工場へと駆けた。
月明かりは足元を濡らし、空の底には建物の輪郭が浮かんでいる。それらの存在に信憑性はなく、夢の中を走るような錯覚に溺れていた。
舗装道路を逸れて、剥き出しの地盤を疾走する。何度も躓き転んだ気がするけど、熱としか認識できなかった。
工場の裏に回り、服を被せた有刺鉄線をよじ登る。着地時に肋骨を折った気がするけど、熱としか認識できなかった。
立ち上がると、目の前には数百のドラム缶が敷き詰められていた。私は迷いなく缶に登り、頑丈なロックを次々と外した。
そして、缶の前に立った。
ドラム缶の天蓋に手をかけて、長く黙った。
「…………」
好奇、緊張、憧憬、空腹、恐怖、勇気、不満、慚愧、嫉妬、期待、愛情。
その全てが絶頂した瞬間、
「ーーっ!」
腕に力を込めて、蓋を一気に持ち上げた。
※
翌日。
東ドイツ東部の転換工場で、15歳少女の死体が見つかった。
彼女は浄化ウラン(通称イエローケーキ)保管用のドラム缶に、上半身を入れたまま動かなかった。
手や口内にはウラン粉末が付着し、ひ爆によるショック死と見られる。細胞の壊死、ネクローシスを引き起こし、見るも無惨な姿と化していた。
有刺鉄線付近には、衣類や保存用フィルムの入った麻袋が落ちていた。
追記
彼女は孤独児だった。アーチブリッジの下に住み着き、ベーカリーショップで安い給料を貰って働いていた。
住み処には、腐敗した食料が多く散乱していた。
その上にはシートが敷かれ、新しい生活痕も見受けられる。大量の衣類の中からは、腕や目の取れたぬいぐるみも出てきた。
首輪のプレートには、《Ihre Brüder》と刻まれていたらしい。
口元は、異様に汚れていた。
動物園への爆撃は、実話だったりします。
ある意味高くついてしまった、という感想をいただき、思わず感嘆してしまいました(;´∀`)