【9】伝承
ログアウト時に使った下宿屋二階の一室に降り立つ。
現実で洗濯や掃除に買い出し、その他普段の休日には一通り行っている家事を済ませてログインする時にはお昼時を過ぎていたはずだが、グリムニールの世界ではまだ昼になる前だったようだ。
決して日当たりが良いとは言えない室内の空気は少し肌寒く、頭頂から背筋に伝い落ちる刺激に身体がぶるりと反応する。
「あれ?」
何かが足りない違和感。室内を見渡して確信する。
室内に琥珀の姿はなかった。
そもそも召喚獣はプレイヤーがログアウトした後、どのように生活しているのだろうと今更になって疑問が浮かび上がってくる。
「琥珀、どこ行ったんだろ」
とりあえず状態確認のためメニュー画面を呼び出し、召喚獣項目をタップする。半透明に浮かぶディスプレイに指先が触れた瞬間、左腕に付けていたブレスレットが発光した。
「わぁっ」
室内が光に包まれ、目の前に収束する。
それは獣の姿を形取り、色彩をはっきりとさせながら質量のある一匹の白虎を顕現させていった。
「グルルルルゥ」
「なるほど、そういうことか」
ベットの上に腰掛け手招きする。
のっそりと近づいてくる琥珀の下顎を撫でてやると、間延びした鳴き声を上げながら膝下へと頬を摺り寄せてきた。ざらざらとした体毛が擦れて少しくすぐったく、温かい。
召喚石のブレスレットを手に入れた直後は特に使用方法も書かれておらず、単なる装飾品かと思っていたが、どうやら召喚した召喚獣の隔離スペースになっているようだった。ログアウト時、あるいは任意の時、呼び出しあるまで召喚獣たちはそこで主を待っているわけだ。
そういえば昨日見た掲示板にもそれっぽいことが書いてあったなあ、とマリーは記憶を掘り返していく。
「巨人とかも出るみたいだし、考えてみればそうだよね」
大型召喚獣が常に外にいるなら街中がもう少し賑やかになりそうなものだし、昨日ログインした時に見かけていてもおかしくない。
「琥珀はどっちがいい? 外? こっち?」
ふと、この子はどちらがいいのだろうと疑問を問いかける。ブレスレットを指刺し反応を待っていると、緩み切った表情がこちらを向いた。琥珀は小さく首を振る。
「わかった」
マリーは微笑み、小さく呟いた。琥珀と触れている時間が楽しかった。
琥珀の頭を撫でながらメニュー画面を呼び出し、フレンド一覧に目を移す。どうやらルチアはまだログインしていないようで、表示されている名前は薄暗く暗転している。暫く時間があるのなら先に用事を済ませようかと王都の内部MAPを表示させ、昨夜調べた薬品店のある場所を確認した。
調薬スキルは素材をもとに主にHPやMP回復、状態異常回復薬を作り出すものだが、一度正規の工程を踏まないとスキル生成が行えない仕様となっている。
これは他の鍛冶スキルなどの生産系スキルも同様であり、対応する職人の下で工房を借りたり、または道具を購入しなければならなかった。
とはいえ、調薬に関しては本格的な作業場を借りる必要もない。
調薬で必要としているのは乳棒、乳鉢、鍋を一纏めにした調薬セットと呼ばれるもので薬品店で購入するか、ギルドと呼ばれる組合に併設された多目的室でレンタルし、貸し出し料を払って利用するのが一般的だ。
レンタル料が幾らかまでは確認していなかったが、ギルドを尋ねるごとに手続きを行うのは面倒な気がする。そして何度か作ることになるなら自分で買った方が結果的に安く済みそうだったので、悩んだ結果購入することに決めた。
手元の所持金の少なさに多少の心配はあるものの、この購入はたぶん間違ってはないだろう。
――2500Gは確保しておきたいんだけどなあ。
万が一死亡してしまった時のことを考えて、いつでも再召喚できるように予備の召喚石と魔石は持っておきたい。
召喚道具一式と食事に宿泊料を支払って5000Gから始まった所持金は残り1700Gしかなく、少々心許なかった。
「とりあえずの目標はそれかな」
内部MAPによると中央市場から東に少し離れた場所に一つと南に一つ、紫蘇の葉のようなアイコンが二つある。東は建物が大きく、南は小さい。
距離的には南が近そうなので、最初はそちらから伺ってみることに決める。詳細情報をタップすると、店名はブノワ薬品店と表示されていた。
「南区にある薬品店にいます。inしたら連絡くださいっと」
続けてルチア宛にメールを送り、琥珀に離れるよう指示を出した。
「琥珀、行くよ」
マリーがベットから立ち上がりドアノブに手を掛けると、自動で解錠音ががちゃりと響く。
部屋を出ると心地の良い小刻みな音がトントントン、と静まり返っていた空間にただ木霊していた。L字型に作られた階段を降りていると厨房で仕込みをしている女将と目が合う。
「おはようございます」
「あらおはようさん。お連れのお嬢ちゃんは?」
「……向こう? でまだ用事があるらしくて」
どのように返答していいか分からず、マリーは苦笑いを浮かべつつ琥珀へと目線を逸らす。
正直伝わるとは思えなかった切り返しに対して女将は一度こちらを見据え、作業を再開した。
包丁の奏でる音が再び室内に響いていく。
視線は作業台に向けたまま、「そうかい」と短く呟いた。
「来訪者の事情ってのも、ある意味伝承通りなのかもしれないね」
「伝承?」
それはこの世界に古くから言い伝えられてきたものだった。
来訪者は異世界からの旅人である。
しかし彼らの肉体はこちらに長く留まることが出来ず、時より元の世界に戻らないといけない。
消失した場所に戻ってくることもあれば、決まった特定の箇所に再度降り立つこともある。
死して尚生きながらえることが出来るのも来訪者の肉体と精神の結び付きが不安定である故だ。
彼らの特異なる力は厄災が近づきし時、我らの力になってくれるだろう。
「そんなものがあったんですね」
なんというべきか、見事にこちら側の事情を逆手に取ったこの世界の根幹となる設定だった。
「あたしにはよくわからないけど、お金を払って飲み食いして、泊まってもらえれば皆お客さんだよ」
女将は豪快に笑い、マリーも愛想よく笑みを浮かべる。
――厄災ってあれかな。
伝承の最後の一文。
規模としては単なるフィールドボスなのか、レイドボスかまでは分からないが、恐らくゲームイベントの一つなのだろう。
伝承という手段もよく考えられている。
NPC達が本来感じるであろう違和感――、現実世界の存在やログアウトによる突然の消失、そして不死性、それらを定義し理解させようとしているのだから。
「そうそう。夕飯は食べに戻って来れそうかい? 腕を奮って待ってるよ」
「どこで食べるか決めかねているんですよねー。ちなみに夕飯のメニューは?」
「買い込んだ馬鈴薯と肉を使って何か作ろうかね」
大鍋で作れるものだとシチューとかだろうか。肉じゃがは……さすがに世界観的になさそうだ。
そもそも自分の作れる料理の種類は大した数ではなく、商店街の惣菜やレシピサイトに頼っているという自覚がマリーにはある。
上京したてのとき、最初は頑張るぞ。と自炊にも力を入れていたのだが、結局手軽さが一番いいよねという結論に落ち着いてしまったのだ。
「私でも作れるものですか?」
「あたしが出すのは家庭料理が大半だよ。そりゃあ、お客さんに向けてちょっとは手を加えるけどね」
昨日食べた兎肉はまあまあ凝っていた気もするのだが、この辺りは一般人と客商売をしている人の目線による違いなのかもしれない。手軽なのが家庭料理と言うわけではないのだから。
それでも、物によっては向こうで再現してみるのも面白いかもしれないな、とも思う。
「この前はあんなに美味しそうに食べてくれたんだ。あたしも作り甲斐があるよ」
「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出す女将にお辞儀をして、マリーは木漏れ日の火蜥蜴亭を後にした。
次回以降、更新頻度が落ちます
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