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第三章

 それから3日が経過したが、有効な手がかりは一つも入ってこなかった。

 しかし、アイシャは変わらずに各所とやり取りを続けている。

 心配になった直巳が、この方法で大丈夫なのか、アイシャにたずねてみることにした。

「なあ、アイシャ。この方法で、Hgの情報って集まるの?」

「集まってないわね。ま、集まるとも思ってないけど」

 アイシャは悪びれもせず、平然と答える。

「そんな! それじゃ、何の意味も――」

「ないと思うの?」

 声を荒げる直巳を、アイシャは変わらず落ち着いた口調でたしなめる。

「そんな意味の無いことのために、私が労力を使うと思うの?」

「いや、そうは思わないけど……でも、情報、集まってないんだろ?」

「ええ。当たりが引ければ情報も集まるけどね。外れを引き続けるのも大事よ。外れを潰していけば、当たりの可能性が高くなるんだから、そのうち――って、冗談よ。そんな顔しないの」

 怪訝な表情をする直巳を見て、アイシャがククッと意地悪そうに笑う。

「そんな気の長いこと考えてないわよ。そりゃ、すぐに見つかるわけじゃないけど、ちゃんと意味があってやってることなんだから、安心しなさい」

「意味……?」

 手当たり次第、かどうかは知らないが、各方面にHgの所在を知らないか問い合わせをしているだけだ。たしかに、そのうちに当たるかもしれないし、続けていけば絞り込みはできる。だが、アイシャは当たりを引くためにやっているのではないという。

「意味……聞き込み以外に、他に何かやってるってこと?」

「バカね。少しは頭を使いなさいよ。わざわざメールや電話で、私達はHgという魔術具作成者を探してます、って言い触らしてるのよ。普段なら、絶対にそんなことしないわ。時間がないから、多少のリスクは覚悟の上でやってるのよ」

「えーっと……気長どころか、時間短縮のためにやってるってこと?」

「そう言ってるじゃない。その様子だと、わかってないみたいね。直巳なら、わかると思ったんだけど、つばめに関わることだと、クールになりきれないのかしら」

「う……そう、なのかな……気を付けるよ……それで、答えは?」

 ギブアップした直巳を、アイシャは冷たい目で見る。直巳は少し怯んだが、このままではいつまで経っても答えを教えてくれそうになかったので、仕方が無い。

「撒き餌よ、撒き餌。これだけ情報撒いておけば、Hgと関わりのある誰かの耳に入るかもしれないでしょう」

「ああ、なるほど……だから、わざと手広く情報を撒いてるのか。周りの――いや、周りの周りの人間にまで、届くように」

 普段のアイシャなら、こんなに雑な人捜しはしない。例えば、付き合いの深い魔術商である天木のような、信頼のできる――彼が信頼できるかは置いておいて、ある程度、事情を知っている人間にしか頼まないだろう。それを、わざわざ多数の人間に発信しているのだ。多数の人間に発信しているということは、多数の人間が受信しているということ。こちらが想像しているよりも多数の人間が。直巳に入った話がアイシャにも届くように。そうやって、情報は広がっていくのだ。周りの周りの人間にまで。

 直巳の答えに、アイシャはある程度満足したようだった。ようやく、バカにしたような冷たい目線をやめてくれた。

「そういうことよ。情報がないから、周りの反応を期待してるわけ。Hg本人の耳に入ったら、本人が出てくるかもしれない。Hgの敵の耳に入ったら、Hgを売りにくるかもしれない。同じくHgを探している人間がコンタクトを取ってくるかもしれない」

「それはわかるんだけど……逃げられるってことも、あるんじゃないか?」

 Hgに関する情報が入ってこないということは、あまり表に出てこない、もしくは、自ら姿を隠そうとしている可能性が高い。もし、後者であれば、自分を探しているという情報を手に入れれば、さらに遠ざかってしまうのではないだろうか。

「そうね。その可能性はあるけど――無理よ」

「無理?」

 アイシャは口元をゆがめて笑った。

「人間、かならずどこかで誰かと繋がっているの。それが、どんな繋がりであろうとね。広がり続ける情報の速度から、過去との繋がりから逃げられる人間なんて、どこにもいないのよ。死んでもなお、ね」

 人との繋がり――誰にも知られず、誰も知らない人間などいるだろうか。人間は生まれた瞬間から、誰かに知られている。そして生きている限り、人とは繋がるしかないのだ。死んだとしても、その人に関わる全ての記録、記憶が風化するまで、どれだけかかるだろう。

 ただし、それは普通の人間なら、だ。例外もいるだろう。

「――アイシャも、その関わりから逃げられないの?」

 三千年生きている、不老不死の少女。アイシャこそ、例外中の例外だろう。

 アイシャは、少し悩んでから、その質問に答えた。

「ええ、逃げられないわ。何もかも捨てて、数百年ぐらい、誰とも接しなければ可能かもしれないけど――」

 そういうと、アイシャは立ち上がって、直巳の目の前に立った。アイシャが直巳を見上げ、その細い手で、直巳の胸にそっと触れた。

「一人は、嫌よ」

 アイシャは、そのまま直巳にしなだれかかってきた。

「え……あ、いや……」

 直巳はしどろもどろになり、両手を宙に泳がせる。冗談でも抱きしめられるほど、直巳はこういった状況に慣れてはいない。

「――一人だと、こうして遊んでくれる相手もいないもの」

 アイシャは、直巳にくっついたまま、人の悪い笑みを浮かべて直巳を見上げる。

「ドキドキした?」

「したよ……そりゃ……」

「そうよね。こんな可愛い子に抱きつかれて何ともなかったら、あんたのことぶっ殺してるところだったわ」

「アイシャが可愛いから、命拾いしたかな」

「あら、言うじゃない――それぐらいじゃないと面白く――」

 ガチャリと、リビングの扉が開く音がした。

「……あ」

 リビングに入ってきた伊武が、抱き合っている二人を見て硬直する。

 直巳も同じく、どうしていいものかわからずに固まっている。

 そんな中で、いち早く動いたのがアイシャだった。

「――ふふ」

 アイシャは笑うと、伊武の方を見ながら直巳に抱きついた。

「ちょっ! アイシャ!」

「ねえ直巳、もっとギュッってして?」

 アイシャがわざとらしく、鼻にかかった甘ったるい声を出す。そんな機能がアイシャについていたのかと錯覚するぐらいの甘えた声だった。

 もちろん、アイシャが本気でこんなことをするわけがないと、みんなが知っている。これがアイシャの冗談だと、誰もがわかっている。今の伊武だって、わかっている。

「……離れた方が……いい」

 伊武は、静かにそれだけ言うと、リビングから出ていった。

 普段の伊武なら、シンプルにアイシャを引きはがし、素直に殺そうとしてくるはずだった。

 直巳とアイシャが、顔を見合わせる。

「……まれー、おかしいわね」

「……うん。変だったな。俺、ちょっと行ってくる」

 直巳が言うと、アイシャは、直巳からスッと身を離した。

「ええ、そうしてあげて。あの子、思い詰めると何するかわかんないから」

 直巳は伊武を追って、リビングを出ていこうとした。

 扉を開けた所で、一度振り返った。

「アイシャ。ああいう悪ふざけは、もうやめてくれよ。心臓に悪い」

「直巳が慣れて無反応になったらやめるわ。つまらないから」

「でも、無反応だったらぶっ殺されるんだろ?」

「そうよ。だから、いつまでも私の可愛さに慌てふためいてちょうだい」

「言ってろ」

 直巳は笑いながら、扉を閉めてリビングを出て行った。

 一人残されたアイシャは、深く椅子に腰掛けると、両足を遊ばせながらつぶやいた。

「一人は嫌って、言ったんだけどねー」



 直巳とアイシャがじゃれているのを見た後、伊武は自分の部屋に戻っていた。

 本気じゃない。アイシャがふざけていただけ。それは伊武にもわかる。アイシャは、もう何度もああやって直巳をからかって遊んでいるし、直巳はそれに付き合っているだけだ。直巳が自分から抱きついたことはない。いつもの自分なら、無言でアイシャを引きはがして、それで終わり。さっきだって、そうすればよかった。アイシャの不愉快な冗談をやめさせて、しても無駄な注意をすればよかった。

 だけど、できなかった。直巳の胸にしなだれかかるアイシャを見たからだ。

 あれは――絵になっていた。小さなアイシャが、直巳の胸に抱かれる。とても自然なこと。自分ではできない。自分は、直巳よりも大きいのだから。

 背が高いことなど、気にしたことはない。殴り合いの時に有利で、服を買う時にちょっと面倒。それだけだ。それだけのはずだった。

 直巳は、自分よりも背の高い女の子は嫌いだろうか。自分よりも力が強い子は嫌いだろうか。やはり、小さくてか弱い、美しい女の子の方が好きなのだろうか。例えば、見た目だけで言えばお姫様と見まごうばかりの、アイシャみたいな少女が。

 伊武にも、そんな時期があった。小さい体で、人の胸に抱きしめられて安らぎを感じることのできた時期が。こんな戦うための体ではなく、ただ、愛されていればいい少女の時期が。

 自分を抱きしめてくれていたのは、男性でも母親でもない。

「Hg――」

 幼い伊武が抱きついて甘えていたのは、Hgだった。

 Hgは女性だ。伊武よりも、十歳ほど年上の。

 最近、嫌でもHgのことを考えるようになった。そうすると、嫌でも少女時代の自分を思い出すようになる。Hgは自分の少女時代の象徴だった。

 今では信じられないことだが、昔の伊武は、同年代の少女と比べても、小さくて細い、かよわい少女だった。そんな伊武を、Hgは良く抱きしめてくれた。膝に乗せてくれた。彼女に抱かれて眠ったことだって、何度もある。

 伊武は着ていた服を脱ぎ、下着だけの姿になる。

 鏡に映る自分の姿は、あの頃とは大きく変わっていた。別人どころではない。別の生き物としかいいようがなかった。

「どうして――」

 伊武は、自分の体に両腕を回し、強く抱きしめた。二の腕に筋肉が盛り上がり、大きな胸は寄せられて、さらに大きく見えていた。少女というには、あまりにも強く、たくましい体。

 その時、部屋がノックされた。

「伊武、いるかな」

 直巳だった。自分の後を追ってきてくれたのだろう。それは嬉しいことのはずだったが、いつものように素直に喜べない。直巳のせいではなく、自分の気持ちがおかしいからだ。

 伊武は扉を開けようとして、手が止まった。

 下着姿だから――とっさに頭に浮かんだのは、そんな言い訳だった。いつもなら、事故を装って下着でも裸でも見せつけようとするのに。

「どうした……の?」

 扉越しに返事をする。自分の小さな声は、扉の向こうに届いているだろうか。

「ああ、いや。さっきのことでさ。あれ、いつものアイシャの悪ふざけだから。変な誤解しないでくれよって、言おうと思って」

 少し慌てた直巳の言葉を聞いて、伊武は小さく笑う。直巳はいつも、こうして気を使ってくれる。ささやかなことだが、その気づかいが少し嬉しかった。少しだが。

「うん……わかってるよ……大丈夫……いつもの冗談……だよね」

「ああ、そうなんだよ。変なことじゃないから。それだけ」

「うん……わかった……それじゃあ……私、着替え中……だから……」

「あ、そうだったのか! ごめん!」

 扉の向こうで、直巳が慌てているのがわかる。その声を聞いて、伊武の中で、いいようの無い衝動が芽生えた。

 伊武はブラジャーを外し、自分を抱きかかえていた両腕をおろした。

 何もつけていない――以前、直巳にもらった指輪以外は。

 まだ、つばめが無事だったころ。直巳と天使狩りをしておらず、普通の友人だったころに、お弁当を作っていったことがある。そのお礼として、直巳は自分に指輪をくれたのだ。

 背だけではなく、手も指も大きな自分に合うような、大きめの指輪を。伊武はあれから、一度も指輪を外したことがない。

「入って……きても……いいよ……」

 扉を開ければ、嫌でも伊武の裸が目に入ることになる。

 なぜ、そんなことをしようとしたのか。伊武にも、よくわからない。

「えっ! い、いや! さすがにそれはな! やめておくよ!」

 当然、そういう反応をするだろう。直巳は、ここで喜んで入ってくるような男ではない。

「……そう」

「ったく……伊武まで俺のことをからかって……」

 直巳が笑いながらそう言うと、伊武は自分の衝動の正体が、少しわかった気がした。

「ふふ……いつも……アイシャばっかりで……ずるい……でしょ」

「勘弁してくれよ……ああ、下に、おやつ用意してあるからさ。着替えたら来なよ。コーヒー煎れるからさ」

「うん……わかった……すぐ……行くね……」

 そして、直巳は部屋の前から立ち去った。

 伊武は床に座り込むと、部屋の中で一人、自分の体を抱えてうずくまった。

 できるだけ小さく、小さく。自分の体を何かに閉じ込めるように。

 腕に触れた指輪が食い込む。伊武は自分を抱きしめる腕に力を込めて、さらに指輪を食い込ませる。指にも腕にも痛みを感じ始めて、さらに力を込める。

 指輪のもたらす痛みだけが、直巳との繋がりのように思えた。


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