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月夜の逢瀬

作者: 眞森悠

「例えば、本気で信じれば逢えるのか?」

 空に浮かぶ真白い満月は、何も語らず淡々とした光で、その公園を照らしていた。

 四月――風は緩く肌を撫でるばかりで、彼が背を預ける桜の木もまだ三分咲きと言ったところだ。彼の右手では、街路灯が誰もいない道を映している。ただ緩慢と、流れていく薄雲だけが時の流れを印象付けている。

『幻想は虚像のままで、でも現夢の中なら、もしかしたら……』

 儚く、彼とは背を向ける位置で桜に身を委ね、彼女はそっと囁いた。

 零れ落ちた言葉は震えていて、辛く現実に阻まれる。

「正直、どうすればいいのかわからない。このままじゃ、俺は朽ちていく。お前が、嫌がるのは知ってるのにな」

 ジャリ、と土を踏み締め、彼は独白する。その仕草はまるで自分の脆さを踏み躙るようで、目の前の現実を踏み躙るようだった。

 桜の枝が少し揺れて、真白い月が朧げに移ろった。

『あなたは、ちゃんと前に進んでいけるよ。信じてる。大丈夫だから、そんなに不安がらないで』

 雲の翳りに消されそうになりながら、彼女は懸命に自分を押さえて、言葉を綴る。かつてと同じ――彼のための言葉を。

 夜闇は、そんないじらしさも無関係に深まって、緩々と包み込んだ。

「信じられないんだよ。俺は、弱いんだ……」

 彼は自分の手を曖昧に見詰めて、そう言った。

 あと少し手を伸ばせば守れたのかもしれなかった。あるいは、今もまだ砕けていないのかもしれない。その、見えもしない絆という鎖は。

『そんなことないよ。わたしは知ってるよ。すごく嬉しかった』

 届かない。

 届いてくれない。

 届くはずがなかった。

 彼女の心からの言葉も、言葉に出来ない想いも、全て風がさらっていってしまう。

 ただ真白い月が、なんとか二人を照らしている。

「ああ、わかってる。わかってるんだ。自分が未練がましいことなんて。ちゃんとわかってる。けど、もう少し待ってくれよ。せめてこの桜が散るまでは許してくれ」

 彼は、誓いのように、自分に言い聞かせるように、壊れたように、早口に声を絞り出した。苦しげなその声は、風に揺れて、ただそこに残響する。

 彼女が好きだった風景に想いを託して、それが自然と失われる時を区切りとして、そうやって自分を追い詰めた。もう逃げられないようにと、逃げ道と大切な想いを突き崩した。

『そっ……か……』

 彼女は、まだ咲きやらぬ桜の、その枝先を見上げた。

 彼女には手の届かないその薄紅色の花びらが、淡く香りを漂わせて綻ぶのが、風にさらわれて舞い踊るのが、真白い月に照らされて妖艶と浮かび上がるのが、好きだった。


 だから――

 たくさん、話をした。この桜の美しさを。

 たくさん、話をした。優しい春の喜びを。

 たくさん、話をした。どんなに彼を愛しているかを。

 たくさん、話をした。心に思い描いた幸せな未来を。

 たくさん、話をした。いつまでもいつまでも、一緒にいたいと。


 それから――

 たくさん、話をした。真白い月の切なさを。

 たくさん、話をした。淋しい秋の哀しさを。

 たくさん、話をした。彼女がとても綺麗だというのを。

 たくさん、話をした。二度目の恋をしたということを。

 たくさん、話をした。始めて誰かを愛した、その満ち足りた心を。


 ふと、彼女の左手が後ろに引かれた。互いに背を預ける桜の木に添うように、震えながら、引いた。

 不意に、彼の右手が後ろに伸びた。互いに背を預ける桜の木に添うように、探りながら、伸ばした。

 二つの手が触れ合った。

 ――いや、それは幻想だ。無機質に世界を照らす電灯は、一人の男だけを映していた。彼女の手は、その灯りの中で消えていた。

 現世(うつしよ)幽世(かくりよ)は重ならない。

 現実は幻想を許さない。

 彼女は泣きそうになりながら、彼は当たり前のように、手を戻す。

「この桜が散ったら、もう逢いたいなんて言わない。ちゃんと独りで生きていく」

 彼はそれだけ言って、まだ幾らかは花を開いている小枝を手折った。そのまま公園を抜ける前に、道端に佇む真新しい花瓶にその枝を差して、何も言わずに立ち竦み、それから、何も言わずに立ち去った。

 真白い月が翳った公園にはもう誰も、そしてなにもいなかった。

 ただ桜の花は、春の陽射しを待って蕾を膨らませていた。




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