チョコロール
次の日の午後遅く、面会時間終了まで一時間ほど残した頃、俺はいつものように仕事途中寄った振りで病室を訪れた。
毎回「遅い!」という言葉とともに笑顔で迎えてくれる優美子が、今日はベッドで布団を被ったまま、向こうを向いている。
俺は沢山のチョコの入った紙袋を小さい棚の上に置くと、ベッドに近づいた。
「どうした? 体の調子が悪いのか?」
俺は常と違う彼女の様子が心配で、「呼ぶか?」とナースコールに手をやる。
もしかしたら、病状が急に悪化したのかもしれない。我慢強い彼女は、普段も痛みを訴えようとしない。手遅れになったらと俺は焦りさえ感じ出す。
「大丈夫だよ」
すこしかすれた声で応えを返しながらも、顔をみせない優美子。
俺は返事があった事で少し安堵したが、ふと違和感を感じてあたりを見回す。花瓶へ久しぶりに花が生けられていた。大きな花びらが下向きに咲いている。
だがやはり優美子が気になる俺は、ベッドに手をついて、反対側の彼女の顔を覗き込んだ。
彼女は何かに耐えるように目を閉じ、震えていた。
化粧っけのない目じりからは、涙がとめどなく流れている。
「優美子!?」
俺の手が髪に触れると、彼女は激しい勢いで身を起こして、俺にしがみ付いた。
おこりの収まらない背に腕をまわして、俺はゆっくりとさする。優美子は手の平に背骨の形が伝わるほどやせていた。
無言で何度も繰り返していると、震えていた彼女は、少しづつ落ち着きを取り戻したようだ。
「もう平気」
俺を両手で押し返してぎこちなく笑う。だが、その瞳は俺を直視するのを避けるように動いた。
「何が、あったんだ?」
そんな優美子の顔を見つめながら言葉を区切って尋ねた俺に、彼女は何か言おうとして、ためらう。
ようやくつぶやいた彼女の言葉に、俺はこわばる。
「……修二君が犯人だったの?」
俺はまじろぎもせず優美子を見つめる。
そして考えもないままに質問で返してしまった。
「どうして?」
否定しなかった事が、逆に答えになってしまった。少なくとも優美子にはそれで充分だったらしい。
布団の端を握り締めながら、ぽつりと答えた。
「お母様がお見舞いに来てくれたの」
戦後、不動産で焼け太りの財をなした俺の一族は、典型的な成り上がりだ。
だからなのか、今でこそ一流企業を経営し、いっぱしの実業家の顔をする彼等の背骨に、実は損得勘定以外の筋など通っていない。
その上、背伸びして骨太な本物の経営家達に入り混じったものの、化けの皮がはがれないよう必死で虚飾をまといつづけた結果、対面を保つ事に神経質な一族となった。
それで花か。白い百合の花。見舞いに花を持ってくるのは世間の常識。あのひとはどんな時でも外聞を気にするからな。そんな両親に育てられた俺達兄弟は、幸福だったのか。
ともかく、母親は例え憎んでいる相手にも、自分をあなどらせるような態度は取らない。
俺は、優美子の転院の件を電話したことを後悔した。まさか、母親がここまでくるとは。
優美子の手に自分の手を重ねて、謝る。
「ごめんな。俺が転院の事伝えたからだ」
彼女は小さく首をふり、下を向いたまま言葉をつぐ。
「お母様は、転院してはやく良くなって、とおっしゃられたわ」
優美子はそこで黙ったが、あのひとの台詞がそこで終わるわけがない。
俺は少し間を開ける。そして母親の言いそうな毒舌と、すこし妙な声の調子をわざと誇張して真似た。
「そして、はーじ知らずに慶一にすがりつくのを止めて、別れてくださいな♪」
俺の声の演技が面白かった優美子は小さく吹きだし、泣き笑いの様な表情になった。
だが、それがきっかけになったのだろう。もともと楽天家の彼女は、握った指の力を抜いて、ふざけてこう返してきた。
「もーし訳ありませんが、優美子さんはこの家の嫁にはふさわしくありませんものね♪」
俺と優美子は顔を見合わせると、我慢できなくなって笑い出した。
互いの両手は、しっかりとにぎりあったまま。
そうだ。いつもの事だ。俺達はこんな事ぐらいで負けたりしない。
◆ ◆ ◆
「あんまり驚かないんだな」
慶一さんはお茶を二人分入れると、ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら飲む。前は熱めが好きだったのに、火事の後は飲み辛そうだ。「熱い湯は喉にしみる」らしい。まだ完治していない事が悲しくてたまらない。
彼は、母親から告げられた内容に対して、思ったより冷静なわたしが不思議みたいだ。
「修二が放火犯なんて、とても信じられないはずだ。もっと錯乱して暴れてもいいと思うぞ」
慶一さん、錯乱って表現なにげにひどくない?
わたしは内心そう突っ込んだが、口にはせず、お茶を含んでから素直に答える。
「驚いたよ。驚愕したよ。大ショックだったよ」
目をこれでもかと開いて、自分の気持ちを強調した。
「どこから手術費用を捻出したのって聞かれて、修二君から借りたと説明した瞬間、お母様の目が鬼になって」
わたしはその様子を思い出してちょっと震える。
「そんなはずはないって断言するから、こっちも慶一さんが嘘をつくわけないって言い張ったんだ」
彼をにらむと、気まずそうに目をそらした。そこでお茶を置いて、両手でがしっと彼の顔をはさむ。
彼は両手で湯のみ茶碗を持っているので、すぐには抵抗できない。
「そしたら、修二君の話を打ち明けてくれたわけ。貴方は部外者だーから、知らなくてもよかったんですけど~♪とか嫌味言われながらね」
なんだかムカムカしてきたわたしは、手に力を精一杯込める。
昨日の自分みたいなタコ顔になった慶一さんは、潰れた口で「すまにゃい」と謝ってきた。
ちょっとだけ腹の虫が収まり、手を離してまた湯のみを手にする。
「だけど、お母様の前だったから。絶対情けない態度見せたくなくてさっ。
ほんとは心臓がばくばくするぐらい驚天動地な話だったけど、素振りも見せずに、実はなんとなくそんな気がしておりましたって、意地で微笑んでやったんだ」
わたしが正直な気持ちを吐露すると、彼は「隠れ頑固な優美子らしいな」と苦笑する。
やっぱりひどい評価だ。慶一さんのばか。
でもあの微笑で溜飲は下がったな。
お母様は「まあ、そうでしたの」と平然を装っていたけど、どこか悔しそうな口元を見逃すわたしではない。相手が帰るまで、そんな言葉の冷戦が終わることはなかった。
「つまり不倶戴天の相手と意地の張り合いをしていたもんだから、混乱するより先に、修二君の件は頭の中に一応情報として入ってしまったんだよね」
◆ ◆ ◆
優美子に怒られながらも説明され、なんとなく納得しかけた俺だったが、ひっかかりを感じた。猫舌の自分にも楽に飲めるようになったお茶を飲んで問いかける。
「じゃあ、なんで俺が来た時泣いてたんだ?」
すると彼女は湯のみの中で湯気の立つ緑茶を覗き込んだ。そのまま俺と視線をあわさない。
しばらくして、ぽちょんとその表面におちる雫。ちいさな池に波紋が広がっていく。
「だって、慶一さんの気持ちを思ったら、泣けてきたんだもん」
少ししょっぱいお茶を一気飲みする彼女。
ああ、もう何度目かわからない。俺は優美子にまた惚れ直した。