ガトーショコラ
俺は、優美子の少し頬の薄い顔を横目に、鞄から大学ノートを取り出した。
可愛い丸文字で「慶一⇔優美子」と表紙に書いてある。
恥ずかしながら交換日記というヤツだ。
「今回はどんな失敗をしたのかなあ?」
彼女はにやにやとしながら、精一杯手を伸ばしてくる。少しでも早く読みたいのだろう。
俺はわざとノートを自分の膝に置き、大げさな身振りで反論する。
「毎日、しくじっている訳じゃないからな」
「わかったから、早くう」
優美子もわざと甘えた声を出してあわせてくる。周りから見たらまあ、砂吐くほどの二人だとは自覚しているが、この部屋には俺達だけだから、気にしない。
俺がノートを渡すと、付箋の付いたページを開き、熱心に文字を追い始めた。
もちろん、ずいぶんと懐かしい手法を取るのは理由がある。
俺の仕事は休みも少なく、定時に終わらない業種だったので、なかなか見舞い時間に来る事が出来なかった。
患者の家族なら深夜診察口から入れたし、彼女には何時でもいいから来てと言われていた。しかし不規則な訪問は優美子の体に負担をかけてしまう、と主治医に忠告されたのだ。
本当は携帯でメールをしたいのだが、残念ながらこの病院は患者が携帯所持する事を禁止している。
人工心臓や医療機器の誤作動防止と言われれば、仕方なかった。
その上ベッド脇備え付けの電話はただのプッシュ回線で3分ごとに通話料が発生する。
懐具合はお互い承知しており、通話だけではあまり意味が無いので、結局アナログ極まりない方法を選んだ。
この方法は優美子が提案した。その時懐かしそうに笑ったものだ。
「慶一さんとは高校の時、交換日記したもんね」
「そうだったかな」
「もう、とぼけちゃって。慶一さんはモテたから。クラブの先輩としては結構気を使ったのよ」
優美子は慶一のひとつ上だった。どっちが最初に好意を持ったのかは分からない。
高校も携帯厳禁の進学校で、学校内で見つかれば内申書に影響すると噂されていたため、普通の学生だった二人は穏やかな方法を選んだのだ。
もちろん家では互いに携帯を使いまくっていた。何年か前、慶一が携帯を無くした時には、二人の思い出のメールも無くしたと、優美子にカンカンになって怒られたぐらいに。
そして優美子が入院してからは、見舞いの度にノートを交換して、全然足りない会話の時間を文字で埋めていた。
俺はそこに、見舞いに行く間にあった日々の生活や、その時の気持ちをなるべく素直に書きつづっていた。仕事の愚痴。同僚の奇行。ギガ盛ランチの激安店。
悔しかった事。嬉しかった事。優美子に会いたい事。
だが会社が潰れて、今無職だという事だけは、ノートに書く事はもちろん、いまだに打ち明けることが出来ずにいた。
彼女に心配をかけストレスが増して体にいい事などないのは、医者に聞かずとも明白だ。
毎月切り詰めているので、まだ入院費はなんとかなっている。
だが、優美子の病気を治すための手術代までは、手が届かなかった。一生届かないんじゃないかと恐れていた。つい数日前までは。
「それで、あの話だけど、進めてもいいか?」
俺はノートとそこに目を走らせる優美子の空間に手を入れて遮り、ゆっくりと尋ねた。それは彼女が何度も何度も交換日記を読み返し、閉じかけたページを再び開いた後の事だ。
「修二君からの提案の件?」
「ああ、アメリカなら優美子の治療もできるって」
優美子はノートにまた目を落しながら懐かしそうにつぶやいている。
「修二君も慶一さんと字がそっくりだったなあ。さすが兄弟だ」
「俺が教えたんだから似るに決まってるだろ。それより転院の話だよ」
日本よりも先進的な医療に積極的な米国。富める者の究極の望みは健康と長寿になる。そして日本とは比較するのも馬鹿馬鹿しいほど、経済的事情による医療格差は酷いのだ。
優美子の治療は日本では難しいと診断されていた。だが、アメリカなら希望が持てる。ただし保険も効かない外国の先端治療を受けるには、大金を用意する必要があった。
俺はそんな金さえ用意できない自分の不甲斐無さが許せない毎日だったが、ここに来て幸運が舞い込んだ。いや、これが悪魔の仕業でも躊躇はしない。
だが、会社に押しかけた債権を持つヤクザが奪いにくるかもしれない。俺は急ぐ必要があった。
「慶一さんが良いなら、問題ないよお」
彼女は気軽にうなずく。
そんな風にされると、俺の方が慎重になってしまうじゃないか。
俺は交換日記のページ代わりに、細くやせた手の平に指で文字を書く。
「優美子の、体の、事、なんだぞ」
「うん。でも一緒に来てくれるんでしょ?」
答える彼女は全く屈託がない。聞きたい事はその一点だとでも言うように。
「ああ、向こうで修二が仕事を見つけてくれるってさ。今の仕事と比べりゃ何でも出来る気がするよ。それで修二に借りる手術代をかえしてやるからな」
「世に有名なブラック企業にお勤めですからねえ」
優美子は俺を優しい目で見つめる。俺はなんだか照れてしまって横を向く。視線の先の白い壁には、水彩で描かれた植物のカレンダーが掛かっていた。
「慶一さん」
「うん?」
彼女の方をまだ見ようとしない俺の姿に、優美子は低いけど柔らかな声を立てて笑う。その笑顔が見たくてようやく振り向いた俺の手の平に、今度は彼女が指で返事を書いた。
「あ、り、が、と、う」