カカオトリュフ
「義理チョコってのは、好きじゃない人に送るもんだろ?」
俺は安っぽいスチールベッドの背もたれを上げている優美子を呆れて眺める。
清潔ではあるが白い壁で囲まれた病室。しかし普通の家では当たり前な落ち着いた色も、温かな光や心地よい匂いを思い起こさせる事はない。
俺はここに来る度、昔バイトした工場の滅菌スペースと同じ雰囲気が漂っていると思う。しかもそんな硬質で低温な余所余所しさを、この部屋は隠していなかった。
俺が座る折りたたみイスは金属部分の接続がずれ、体重を移すたびギシリと音をたてる。
だが、優美子には今更なのだろう、なんの苦にもならない様子で反論してくる。
「違うわよお。本命以外でも、お世話になった人とかにあげるでしょう? むしろそっちの方が気を遣って大変なんだから」
ぷうっと膨れた頬で横を向く彼女。俺は腕を伸ばすと優しく両頬を掌で包む。
「け、慶一さん?」
そのまま俺が顔を寄せてきたので、彼女の頬が染まってくる。
そこで俺はにやりとしながら、いきなり両手の幅を狭めて優美子の顔をむにゅっとはさんだ。
タコの様に口をすぼめられた優美子は、むぐむぐとした声しか出せないのだろう。おこって俺の腕をばんばん叩く。
「慶一さんってばひどいっ」
俺の手が離れて喋れるようになると、顔を赤くし口をとがらせて非難する。その表情は元々少しアヒル口な彼女の可愛さを引き立てるので、俺はついつい優美子をからかってしまうのだ。
「わるかった」
俺が頭を撫でると、「子ども扱いしないで」と振り払われた。仕方なく背筋を伸ばして頭をきちんと下げて謝罪する。
「わるかった」
優美子は本当に反省しているのかこちらをうかがっていたが、俺の神妙な顔つきに納得したのか、上向いた眉を元にもどす。
「本当に、慶一さんは悪戯なんだから」
彼女の許してあげるという笑顔に、俺は苦笑を返す。こんな事で幸せに満たされるなんて、ずいぶんと惚れているらしい。
「さっきの続きだけど、そんなに義理チョコ買わなきゃだめなのか?」
俺はそもそもの始まりだった話題を手振りと共に再び繰り返した。
「だって、お父さん達とここの先生方や看護師さん。そうそう、修二君にもあげないとね」
優美子が指を追って数える友人、知人が両手を越えた所で、俺は掌を上げてストップをかけた。
「先生方はともかく、看護師さんは20人以上いるんだから、まとめてじゃだめなのか?」
俺は数字を指で強調する様に示すが、逆に優美子は「ダメダメ」と首を振った。
「修二君が言ってたじゃない。クラスで女子から袋のアルファベットチョコを手つかみで配られた時、情けなかったって。明らかな義理なんて逆に馬鹿にされた気分だったって」
「弟も夢見がちな年頃だったんだよ。義理でも個別に貰えれば、実は本命とか期待できるからな」
「そういえば、修二君はまだアメリカ?」
「ああ、当分帰ってきそうも無い」
「アメリカにもバレンタインってあるんでしょ?」
「そりゃな。まあ元々欧州の記念日だったらしいけど、知り合いに親愛の情を込めて贈り物をする日であって、好きな女から男へチョコを送るってのは日本独特みたいだぞ」
聞きかじりの知識で、なんとか範囲を限定しようと試みる。だいたい、最近女性の義理チョコなんて送る側も嫌がって、セクハラと言われるぐらいなんだからな。
「それぐらい知ってるわよお。お菓子会社が始めたんでしょ。いいのよ。きっかけなんだから。それに本来の意味に従えば、義理チョコも親愛のプレゼントになるじゃない」
女の子同士の友チョコとかもあるんだしと、優美子は俺より詳しい情報を教えてくれた。
「はいはい。じゃあ、配る相手のリスト作るから名前挙げてくれよな」
「今までの感謝もこめて沢山配りたいんだけどいいの?」
「心配すんな。トラック1台分だって大丈夫だ」
俺は面白そうな優美子の姿に、これ以上野暮な話をするのは止めにした。
病院の四角い部屋の長方形のベッドで、墜落防止用格子窓に切り取られた景色を見ているだけの彼女。
その景色すら、背の高い古ぼけた暗褐色のビルが眼前に迫り、建物の裏側の非常階段がらせん状に伸びているだけなのだ。トイレと思われる小窓が各階にあるが、それすら開いている事は無い。
そんな彼女が楽しい気持ちになるなら、チョコぐらいトラック一台分でも安いもんだ。
もちろん、会社が潰れた今の俺には、そんな金があるはずはなかった。無かったのだが、先日ここへ来る前に銀行によったら、どうにも奇妙な事になっていたのだ。
その直前に会社が駄目になって、俺は慌てて職を探したが、そんなに簡単に良い先などありはしない。 ともかく電気代が止められないよう、日銭仕事で稼ぎ、ギリギリのタイミングで口座へ入金をした。
すると、銀行残高になぜか2千万近い入金があったのだ。入金の欄には「タカラクジブンパイキン」と記されている。
俺には、そんな覚えなど全く無かったが、入金元の名前「ベア&バード」を見て、なんとなく理解した。
心底ありがたい話だったので、それ以上の追求をするつもりもない。
2千万円のくだりは短編「めりくり。熊原と佐鳥さん」
にリンクしております。お読みいただければ幸いです^^