「あいつとは付き合ってない」と笑った幼馴染が、私に彼氏ができた途端怒り出しました
「あいつとは付き合ってないって」
昼休みの教室で、航は机の端に腰を預けたまま、隣の席で笑っていた男子に向かって手をひらひらと振った。
「家が隣同士で昔から近所だっただけだから。そんな目で見たことないし」
私は弁当箱のふたを半分閉めた姿勢のまま、指先を止めていた。
直前まで、航は私の机に肘をついて、放課後に一緒に帰るかどうかを聞いてきていた。それを見たクラスの男子が、彼女の予定くらい把握しておけよと冷やかしたのだ。その言葉を遮るように、航は間髪を入れずに笑い飛ばした。
いつものように愛想笑いでも浮かべて、からかわないでよと流せば、航は私の弁当箱の横に置いてあった購買のパンをくわえ、じゃあ放課後なと言って自分の席に戻っていったはずだ。今までもそうやって、周りから何か言われるたびに曖昧に笑ってやり過ごしてきた。
その日は、喉の奥が引き攣れたように固まって、どうしても笑うことができなかった。
「……そうだね」
小さく息を吐き出しながら呟いて、弁当箱を黄色い巾着袋の中へ押し込んだ。プラスチックの箸箱の角が親指の腹に食い込んで痛かったけれど、力を緩める気になれなかった。
去年の冬、私は航に好きだと伝えた。幼馴染として大事に思っているという誤魔化しがきかないように、ちゃんと付き合ってほしいと、凍えそうな風が吹きつけるバス停で真っ直ぐに言った。自分の耳が熱くなっていくのが分かるくらい緊張して、言葉を二度繰り返した。
航は頭を掻きながら、急に言われても困る、今までどおりでよくないか、とだけ答えた。
それからも、航は何事もなかったかのように毎朝私の家のチャイムを鳴らし、一緒に登校し、放課後も一緒に帰り、休日に買い物へ付き合わされることもあった。あやふやにされた答えをもう一度問いただすのが怖くて、いつか航の方から別の言葉をくれるのではないかと、自分に都合のいい期待を抱いて立ち止まり続けていた。
私たちは高校3年になり、どちらも18歳を迎えていた。もうとっくに、突然の告白に戸惑っていたという言い訳が通用する時間は過ぎている。
「朝倉、これ、昨日話してた映画の上映時間」
すぐ隣の通路から、西崎くんが自分のスマートフォンの画面をこちらへ傾けて見せてくれた。今日から夕方の時間割が少し変わったらしく、最終の上映回が15分ほど繰り上がっている。
「本当だ。教えてくれて助かった、見落とすところだったよ」
「今日行くの?」
「うん、帰りに寄ろうと思って」
私は画面から目を離し、少し離れた席にいる航へ視線を向けた。昨日の夜にメッセージで、今日は一緒に帰ろうと話していたから、駅へ向かうバスの便だけでも合わせるつもりでいたのだ。
航は私の返事など気にも留めていない様子で、別のグループの輪に入り、今度の土曜に遊びに行く計画を楽しそうに話していた。
放課後になり、昇降口でローファーを履き替えようとしていると、階段の方から激しい足音が近づいてきた。見上げると、航がブレザーのボタンを外したまま駆け下りてくるところだった。
「日和、悪い。急に用事できたから図書室で待っててくれ。終わったら連絡入れるから」
「用事って、何?」
「駅前のカラオケ。隣のクラスのやつらに誘われてさ。すぐ抜けるから」
航の背後から、隣のクラスの女子2人が楽しそうに腕を組んで歩いてきて、航の背中を軽く小突いた。私はその2人と形式的な会釈を交わし、通学鞄の持ち手を強く握り直した。
「私、これから映画を見に行くよ」
「映画なんて明日でもやってるだろ。お前が先に帰ると、うちの母親が俺も帰ってきたと勘違いして飯の準備始めちゃうんだよ。いつもみたいに一緒に帰ればいいじゃん」
航の母親は、航が帰宅する時間に合わせて出来立ての夕飯を用意したい人だった。私の家に寄っていく日には、私が母に頼んで航の家へ連絡を入れてもらっていた。いつの間にか、航がどこで何をして何時に帰るのかを私の家経由で伝えるのが、当たり前の決まりごとのようになっていた。
「遅くなるなら、自分で連絡してよ」
「後で送るからさ。いいから、ちょっと待ってろって」
放課後の図書室で、時計の針を見つめながら待たされた記憶は一度や二度ではなかった。読みたい小説がある日はまだ紛らわすことができた。けれども、窓の外が藍色に沈んで閉館の音楽が鳴り、廊下の冷たいベンチで画面を眺めながら立ち尽くした日もあった。見に行きたかった映画の回を諦めて、航の連絡を待った日もあった。
今日もまた同じように待って、明日適当な時間に出直すのだろうか。航は自分の好きな相手と好きな場所へ行き、私は航の都合に合わせて自分の時間を空けておく。そんな関係がこれからも続くのだと想像した瞬間、胸の奥で何かが静かに途切れた。
「待たないよ。先に帰るね」
「は? 日和、何言ってんの?」
私は航に背を向け、靴のかかとに指を入れて強引に履き直した。焦ると指が引っかかって、うまく足が入らない。早くこの場を離れたいのに、足元すら落ち着かなかった。
「お昼に、付き合ってないって言ってたでしょ。だから私も自分の予定を優先する」
「あんなのノリだろ。何でそんなことで怒ってんだよ」
「怒ってないよ。映画を見たいだけ」
それ以上、航の言葉を聞くつもり配慮も気力も残っていなかった。私は靴底を鳴らしながら、足早に昇降口の自動ドアを抜けた。
校門を出てバス停へ向かう坂道の下り口で、後ろから早足の靴音が追いついてきた。振り返ると、西崎くんが息を整えながら肩を並べてきた。
「一緒に帰ってもいい?」
「うん」
夕方の冷え切った空気の中を並んで歩いた。停留所に停まるバスを待つ間、私たちが言葉を交わすことはなかった。私が鞄からスマートフォンを取り出し、映画館の座席予約の画面を開いたとき、西崎くんが少し背中を丸めて画面を覗き込んできた。
「その時間なら、俺も間に合いそうだな」
「西崎くんも見に行くの?」
「気になってたんだけど、1人だと寝てしまいそうで迷ってたんだよね。あの監督の作品、劇中の音楽がほとんどなくて静かだし」
「私はあの静かな雰囲気が好きなんだよ」
「それ、昨日の放課後にも熱弁してたね」
西崎くんが小さく吹き出すように笑ったので、私の強張っていた頬も自然と緩んだ。一緒に見に行くかと尋ねると、彼はポケットから財布を取り出しながら、行こうと即答してくれた。
バスに乗り込んで席に座ると、母へ向けて夕飯はいらないという連絡を送った。航の帰宅時間については、一文字も書き添えなかった。
映画館の自動券売機の前で、画面の座席表を2人で眺めた。私は少し見上げるような後方の席が好きで、西崎くんはスクリーンの真正面がいいと言った。結局、両方の希望を取って、中央ブロックの少し後ろ寄りで2席並んで空いている場所を選んだ。
コンセッションの列に並んでいると、西崎くんが一番大きなサイズの烏龍茶を注文した。映画が終わるまでに飲み切れるのかと私が尋ねると、彼は少し真顔になって答えた。
「飲み切る自信はあるんだけど、上映の途中で席を立ちたくならないかだけが心配」
そして上映が終わった直後、彼は映画の余韻に浸る間もなく、小走りで通路の奥の御手洗いへ駆け込んでいった。ロビーのソファーで待っている間、笑ってはいけないと思いつつも、吹き出さずにはいられなかった。
劇場の外へ出た後の感想は、面白いくらいに意見が割れた。私は物語の結末で主人公が街を去る選択をしたのが好きだったけれど、西崎くんは主人公があの場面で踏み止まらなかった理由が納得いかないと首を傾げていた。お互いに印象に残った場面を挙げていくうちに、駅までの道がずいぶん短く感じられた。
「朝倉は、あの主人公が帰る決断をしたから救われたと思ったんだ」
「うん。あそこに残ってたら、ずっと自分の気持ちを誤魔化し続けることになってたと思うから」
「なるほどな。俺はまだ、踏み止まって戦えよって怒ってる側の人間だわ」
夜の商店街を歩きながら、2人で顔を見合わせて笑った。ポケットの中で震えたスマートフォンを取り出すと、航から、カラオケ終わったけどどこにいる、とメッセージが届いていた。映画を見て今から帰るところ、とだけ打ち込んで画面を閉じた。
すぐに着信画面に切り替わり、呼び出し音が鳴り始めた。私は指先で通話の終了ボタンを押し、今は他の人と一緒に帰っているから電話には出られないと短く送信した。西崎くんは私がスマートフォンを鞄にしまうまで、歩く歩調を少し緩めて待っていてくれた。
「次は、俺が見たい映画に付き合ってくれない?」
「どんなやつ?」
教えてもらった題名は、私が普段なら絶対に選ばないようなサスペンス映画だった。少し怖そうだなと感じたけれど、楽しそうに内容を説明する西崎くんの顔を見ているうちに、一緒に見てみたいという気持ちの方が勝っていった。
日曜の午後に駅前の映画館で待ち合わせる約束をして、私は自宅の玄関を開けた。隣の家の窓に明かりがついているかどうかを確かめることもなかった。
次の週の月曜日、私はいつもより1本前のバスに乗るために家を出た。
毎朝7時40分に航の家の玄関前で待ち合わせをする習慣を、その日から完全にやめた。前日の日曜のうちに、これからは朝の登校は別々にするし、起きたかどうかのモーニングコールもやめるとメッセージを送ってあった。航は既読をつけたまま何も返してこなかった。
バスの座席に揺られていると、画面に、今どこにいるんだ、という短い文言が表示された。もうバスに乗ったよと返信すると、何で起こしてくれなかったのかと不満気な文面が返ってきた。
私はそれ以上返信をするのをやめ、スマートフォンをポケットにしまった。鞄から英単語帳を取り出して、昨日覚えきれなかったページをめくった。学校へ着くまでの時間を、誰かの機嫌を伺うことなく自分のために使えたのは、ひどく久しぶりのことのように思えた。
航は朝のホームルームが始まる数分前に教室の扉を乱暴に開けて入ってきた。肩で息をしながら私の机の前に歩み寄ると、通学鞄をドスンと机の上に置いた。
「おい、まだ怒ってんのかよ」
「一人で行くって昨日メッセージ送ったよね」
「だから、いつまでそんなくだらない意地張ってんだよ」
「これからは自分で目覚ましをかけて起きて。私も自分の都合で家を出たいから」
近くで教科書を整理していた男子たちが、お前、朝倉に起こしてもらってたのかよとからかうように笑った。航は顔を赤くして、頼んだ覚えはない、こいつが勝手にやってただけだ、と吐き捨てるように返した。
「うん。だから私が勝手にやめるだけだよ」
机の上の鞄を押し戻すと、航は苛立ったように舌打ちをして自分の席へ歩いていった。
その日の夜、机に向かって現代文の課題をこなしている最中に、明日の提出物の範囲を教えてほしいと航から連絡が入った。私は黒板の右端に書いてあった内容をそのまま打ち込み、次からは自分で連絡帳に控えてねと付け加えた。その直後に着信が入ったけれど、今から集中して勉強するからと通話を拒絶した。
航と一緒に過ごした年月の中で、楽しかった思い出まで全部嘘だったわけではない。好きだった時間が長かった分、家に帰ってから一度もスマートフォンの通知が鳴らない夜には、言い知れぬ落ち着かなさを感じることもあった。指が勝手にトーク画面を開いて、名前を探してしまいそうになる瞬間もあった。
それでも、次の休日の約束を航の気まぐれで潰されたくないという気持ちの方が、日を追うごとに強くなっていった。カレンダーの余白を眺めながら、航から連絡が来たらどう断ろうかと思い悩む時間よりも、西崎くんと見に行く映画の予告編を再生している時間の方が、ずっと呼吸がしやすかった。
2本目のサスペンス映画を見終えた後は、私の方から別の作品を提案した。秋の中間試験の前はお互いに連絡を控えて勉強に専念し、模擬試験の成績が返ってきた日には、お互いの点数の悪さを駅のベンチで苦笑いしながら報告し合った。西崎くんは自分が落とした長文読解の設問を正確に記憶していて、私は見直しの段階で答えを書き換えて間違えた数学の小問にいつまでも悔しがっていた。
週末に予定が合わない週でも、放課後に駅へ向かう道中で、他愛のない雑談を交わす時間が増えていった。
12月の半ばを過ぎた頃、映画館のロビーの吹き抜けに、青と銀のオーナメントで飾られた大きなツリーが置かれていた。チケットをもぎって出口の自動ドアへ向かう途中、西崎くんが少し歩調を緩めて立ち止まった。
「朝倉、次の休みもどこか行かない?」
「行こう。次は何の上映が始まってるかな」
「いや、映画も観たいんだけどさ。……ちゃんと付き合ってほしいって、言おうと思って」
不意を突かれて立ち止まった私を見て、西崎くんはコートのポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出し、少し緊張したように首の後ろを撫でた。
「俺、朝倉のことが好きだから。映画の話ができるのが楽しいのも本当だけど、それだけじゃないから」
何か気の利いた返答を返さなければと思ったのに、胸がいっぱいになってしまって、うまく言葉の形にならなかった。頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを手で隠そうとして、私は思い直して両手を下ろし、真っ直ぐに彼を見上げた。
「私も、西崎くんが好き」
「付き合って欲しい」
「……うん。いいよ嬉しい」
西崎くんが肩の力を抜いて深く息を吐き出したので、私までつられて長い息をこぼしてしまった。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「断るわけないよ」
駅へ向かって歩き出す途中、私はおずおずと彼のコートの袖に触れた。西崎くんが手袋を外した手を開いてくれたので、その隙間に自分の冷えた指を滑り込ませた。自分の気持ちを言葉にして受け止めてもらい、相手からも真っ直ぐに同じ言葉を返してもらえるということが、こんなにも指先を温かくするものだとは知らなかった。
航がそのことを知ったのは、その週の木曜日の昼休みだった。
昼食を終えて机の上を片付けていた私の席に西崎くんがやってきて、今度の日曜の帰りに寄りたい文房具店があるのだと話しかけてきた。前の席に座っていた女子が、2人って付き合ってるの、と目を丸くして尋ねてきたので、私は少し迷ってから頷いた。
「うん。先週から」
自分の口で認めるのは気恥ずかしくて、私は誤魔化すように水筒の麦茶を飲んだ。クラスの女子たちが良かったねと声を上げてくれたその瞬間、教室の後ろの方から早足で近づいてくる足音が響いた。
「どういうことだよ」
航が眉間に深い皺を寄せて、私の机の脇に仁王立ちしていた。
「どういうことって、今話したとおりだけど」
「いつから西崎とそんな話になってたんだよ。俺、何も聞いてないぞ」
10月に私たちを冷やかした男子生徒も、気まずそうに後ろから様子を伺っていた。私は水筒の蓋をきゅっと締め直して、机の中央へ置いた。
「10月からだよ。休みの日に映画を見に行ってたの」
「あの日から? お前、人の彼女に手出してんじゃねえよ」
航が西崎くんの胸倉を掴みそうな勢いで一歩踏み込んだので、周囲で弁当を食べていた生徒たちの視線が一斉にこちらへ集まった。西崎くんが私の前へ出ようとしたのを制して、私は椅子から立ち上がった。
「人の彼女って言わないで。私、航の彼女になったことなんて一度もない」
「日和はずっと俺の隣にいただろ!」
「好きだったよ。去年の冬に、ちゃんと付き合ってほしいって言った。でも航は、今までどおりでいいって言って私の気持ちを流したよね」
大勢のクラスメイトの前で過去の告白を口にするのは、骨が軋むくらい恥ずかしかった。手足が冷たくなっていくのが分かったけれど、ここで口をつぐんでしまったら、また航の都合のいい解釈に引き戻されてしまう。
「急に言われても実感が湧かなかったから、そう言っただけだろ!」
「それからずっと待ってたよ。でも、航はここでみんなに向かって、私とは付き合ってないって言ったじゃない」
「あんなの、周りがしつこくからかってくるから適当に合わせただけで」
後ろにいた男子生徒が、慌てて両手を振って割って入った。
「いや、俺は本気で付き合ってないんだと思ったよ。航がそんなふうに見てないって笑いながら言ったからさ」
「だから、それは場の空気で!」
「付き合うっていう返事、一度ももらってないよ。今までどおりって言葉で曖昧にしたまま私を都合よく引き留めて、私が離れようとしたら怒るの?」
航は言葉を詰まらせた。西崎くんに向いていた肩の怒りが、少しずつ所在なげに揺れ始めた。
「そんなに不満だったなら、俺にちゃんと言えばよかっただろ」
「好きだって言ったよ。映画を見に行きたいとも言ったし、放課後も待たないって伝えた。航が私の言葉をまともに聞かなかったから、私は自分で決めたの」
胸が締め付けられて声が少し掠れてしまった。私は一度小さく深呼吸をしてから、航の目を真っ直ぐに見据えた。
「西崎くんと付き合うことは、2人で決めたの。航に許可をもらうようなことじゃないよ」
航は唇を噛み締め、机の角を掴んでいた自分の手をゆっくりと引き戻した。
「……俺より、そいつの方がいいわけ?」
「誰かと比べる話じゃないよ。私が好きなのは、西崎くんだから」
教室のざわめきが静まり返り、遠くのグラウンドから笛の音だけが聞こえていた。言い過ぎてしまったのではないかという恐怖が背中を掠めたけれど、一度口から出した言葉を取り消す気にはならなかった。
航はそれ以上何も言えず、乱暴に踵を返して自分の席へ戻っていった。
教室の空気が緩んだあと、最初に冷やかしてきた男子生徒が私の席へやってきて、頭を下げた。
「日和がそんなに嫌な思いしてたなんて気づかなかった。お前ら昔からあんな感じだったから、平気なのかと思ってた。ごめんな」
「もう変にからかわないでくれたら、それでいいよ」
「うん、絶対に言わない」
周囲の女子たちも、航と当たり前のようにセット扱いしていたことを謝ってくれた。私はぎこちなく笑いながら、大丈夫だと答えるのが精一杯だった。
その日の放課後、西崎くんは昇降口で私を待っていてくれた。駅まで一緒に歩く間、彼は教室での出来事について詮索するようなことは一切言わず、今度見に行く映画のチケットをネットで予約しておいたとだけ教えてくれた。
それからの数ヶ月間、航は友人を介して、一度だけでいいから放課後に話したいと伝言を頼んでくることがあった。
最初の一度は、2人で話すことは何もないと直接断った。次に別の男子生徒が申し訳なさそうに伝言を持ってきたときは、航本人にもう断ったはずだと答えた。
「悪いな、朝倉。もうあいつから頼まれても断るわ」
その日の放課後、その男子が航に向かって、振られた相手にいつまでも友だち使って連絡すんなよ、と呆れたように言っているのが聞こえた。航が何か怒鳴り返していたけれど、私を呼び止める声が廊下に響くことはもうなかった。
朝の登校時、私は自分の部屋の窓から隣の家の様子を窺うこともなく、自分の時間に合わせてバス停へ向かった。忘れ物がないかを確認する無遠慮な着信も来なくなった。たまに同じ便のバスに乗り合わせることもあったけれど、航は最後列の端に座り、私は前方の降車口に近い席を選んだ。
同じクラスである以上、配付されたプリントを後ろの席へ回す程度の接触はあった。ことさらに無視をして険悪な態度を取るつもりはなかったけれど、休日にどこへ出かけるのかも、進路の決定事項も、航に伝えることは二度となかった。
3月の初旬、卒業式の看板が掲げられた校門の脇に、航が1人で立っていた。
西崎くんとは、担任の先生へ挨拶を済ませてから正門の時計台の下で合流する約束になっていた。私は一緒に歩いていた友人たちに先に行ってもらい、航から数歩離れた位置で立ち止まった。
「日和、俺、あれからずっと考えてた」
「うん」
「今までどおりに甘えてた俺が全部悪かった。お前のこと、本当に好きだから。もう一度、やり直してほしい」
航の声は小さく震えていて、教室で適当に手を振っていたときの軽薄さはどこにもなかった。初めて対等な人間として返事を求められているのだと分かったからこそ、私も曖昧に濁さず、はっきりとした声で答えた。
「ごめんね。付き合えないよ」
「今からでも変わるから。朝だって俺が迎えに行くし、お前の行きたい場所にもどこでも付き合うからさ」
「航に待っていてほしくて、西崎くんと付き合ったわけじゃないんだよ」
航の目元が赤く染まっていくのが見えた。私の喉の奥も、昔の痛みを思い出して少しだけ熱くなった。泣きたいくらいに好きで、何年もその背中を追いかけ続けていた過去は消えない。
「去年の冬は、航と付き合いたかった。でも、今の私が一緒にいたいのは西崎くんなの。これからも彼と一緒に過ごしたい」
「……俺たち、子どもの頃からずっと一緒だっただろ」
「うん。一緒に遊んだことも、楽しかったこともちゃんと覚えてるよ」
航はきつく唇を噛み、持っていた卒業証書の筒を両手で握りしめた。私はもう一度だけ、ごめんね、と呟いて軽く頭を下げた。
少しの間沈黙が流れたけれど、航が私の腕を掴んで引き留めることはなかった。
正門へ向かって歩いていくと、約束していた時計台の支柱の横に、西崎くんが立っていた。先生たちと記念に撮影したデジカメの液晶画面を見せてくれて、シャッターの瞬間に担任の先生だけが目を瞑ってしまっているのを発見して、2人で思わず笑ってしまった。
「後で写真送るね。……大丈夫だった?」
「うん。帰ろう」
私が手を差し出すと、西崎くんは少し照れくさそうに笑いながら、その指をしっかりと握り返してくれた。背後を振り返ることはせず、私たちは駅へと続く並木道を歩き出した。
「今度の日曜、時間は空いてる?」
「空いてるよ。見たいやつ、もう決まった?」
「うん。あの音が静かな監督の、最新作の上映が始まったみたい」
西崎くんが少し真剣な顔で考え込んでから、今回は一番小さいサイズの飲み物にする、と言った。私は声を立てて笑いながら、今度は映画が終わった直後に、あなたの感想から先に聞かせてほしいと頼んだ。
春から進む大学は別々になるけれど、電車で30分も移動すれば会える距離だった。次の休日の上映時間をスマートフォンの画面で一緒に確認しながら、私たちは駅の改札へ向かって歩いていった。
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