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魔力ゼロで婚約破棄された私ですが、魔族領では自慢の針仕事が大人気です。今さら戻れと言われても困ります。

作者: スナハコ
掲載日:2026/10/18

 王宮の大広間、半年に一度の王宮夜会の場は、華やかな音楽と貴族たちの談笑に包まれていた。


 だが、中央の壇上で王太子ダリウスが足を止めた瞬間、周囲のざわめきが潮の引くように静まった。


「コレット、お前との婚約は今夜をもって破棄する。魔力を持たぬ者が王太子妃の座に居座り続けるなど、王家の恥だ」


 冷ややかな声が広間に響き渡る。

 壇上には声の主である王太子ダリウスと、彼に寄り添う侯爵令嬢が立ち、その正面に婚約者である伯爵令嬢コレットが立たされていた。


 コレットは息を呑み、身に纏った淡い水色のドレスを握りしめた。今夜のために、幾晩もかけて刺繍を施した一着だ。指先に馴染んだ糸の感触が、今にも崩れ落ちそうな体を支えてくれる気がした。


 周囲の貴族たちは、芝居でも眺めるかのように、静かに壇上へ視線を向けていた。扇の陰でくすくすと笑う者もいる。


 そして――ダリウスの傍らには、豊かな魔力を誇ることで知られる侯爵令嬢が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼に寄り添っていた。


「殿下……突然、何を仰るのですか。この婚約は、亡き王妃殿下と私の母が結んだもの。そう唐突に破棄など……」


 困惑の中コレットが声を絞り出すと、ダリウスは心底疎ましそうに眉をひそめた。


「過去の約束など知ったことか。母上が亡くなってから、いままでお前を婚約者として置いてやったことだけでも感謝してほしいくらいだ。だが、いつまで経っても魔力の欠片すら芽生えぬ落ちこぼれを、これ以上婚約者として王宮に置いておくわけにはいかぬ」


 この国では、貴族は魔力を持って生まれるのが当たり前で、その量が多いほど高く評価されてきた。魔力を持たない者は家の恥とされ、追い出されることさえ珍しくない。

 コレットの婚約は、彼女が幼かった頃に母と王妃が交わした約束によるものだった。二人が相次いで世を去ると、ダリウスは顔を合わせるたびに彼女の魔力のなさを蔑むようになった。礼儀や教養を身につけても、その態度が変わることはなかった。

 周囲も王太子に倣い、彼女を軽んじた。そうしていつしかコレットは、ただ頭を下げてやり過ごすことを覚えていた。


「明日、お前を国境の向こうの魔族領へ追放する」


「魔族領へ追放、ですか……!? 殿下、私は王家に背くような罪は何一つ犯してはおりません!」


 魔族領。

 人間とは異なる姿を持つ、魔族たちが暮らす国だ。この国では、魔族は残忍で恐ろしいものだと語られ、その地への追放は重い罪を犯した者に科される罰だった。


 婚約を解かれるだけではない。罪人として国を追われるのだ。

 思わず一歩踏み出したコレットを、ダリウスは氷のように冷たい眼差しで射抜いた。


「私に釣り合わぬこと自体が罪だと言っているのだ。お前がいつも下賤な職人工房に入り浸ってやっている、自慢の針仕事があるだろう。針仕事しかできないお前には、向こうで魔族の服でも繕う暮らしがお似合いだ」


 どっと周囲から嘲笑が湧きあがった。


 コレットは唇を噛んだ。

 自分がどれほど冷遇されても耐えてこられた。けれど、亡き母との思い出そのものであり、自分を救ってくれた職人たちの誇りでもある針仕事まで笑いものにされたことが、コレットの胸を深く抉った。


 ここで言い返せば、懇意にしてくれている職人工房の人々にまでダリウスの怒りが向かうかもしれない。コレットは唇を噛みしめ、震える指先をドレスの裾に隠して深く頭を下げた。


「……仰せの通りに、殿下」


 静かに一礼し、背中に笑い声を浴びながら、コレットは一人で夜会場を後にした。


 王宮の客間へ戻ると、ドレスを着替える間もなく実家の伯爵家から使者が訪れた。てっきり事情を聞きに来てくれたのだと思ったコレットに、使者は冷たく告げた。


「伝言を預かっております。王太子殿下の不興を買った者を屋敷へ戻すわけにはいかない、とのことです」


 使者は返事も待たずに去っていった。夜会での出来事から、まだいくらも経っていない。どうやらダリウスは、あらかじめ父と話をつけていたらしい。


 直後にダリウスの命令書を携えた衛兵たちがやってきて、夜明けとともに国境へ向かうこと、荷物は手に持てる分しか許されないことを言い渡された。


 コレットは濁流に呑まれたような気分のまま飾り気のない普段着に着替え、懇意にしていた職人ギルド長のベルナールへ、これまでの感謝と別れを伝える手紙を書いた。


 それから、母の形見である古い木製の裁縫箱だけを胸に抱え、まだ薄暗い早朝の王宮から、粗末な馬車に乗せられた。




 数日間、固い座席に揺られて辿りついたのは、冷たい風が吹き抜ける国境の関所だった。この先が完全に別の世界であることを示すかのように、冷たい石壁が延々と伸びている。


「ここから先は魔族領だ。二度と王国の土を踏むな」


 衛兵はそれだけ言い捨てると、関所の扉の向こうにコレットを一人降ろし、すぐに馬車を返してしまった。


 重々しい扉が背後で閉ざされ、乾いた風の音が残る。石畳は続いているものの、そのすぐ両脇にはうっそうと茂った森が広がっている。見知らぬ土地の入口に一人取り残され、コレットは不安を押し殺すように胸元の裁縫箱を強く抱きしめた。


 その時、石畳の道を踏みしめる足音が近づいてきた。


「……おい、こんなところに人間の娘が一人でいるぞ」


 顔を上げると、そこには額から二本の角を生やした二人の魔族がいた。鎧を身に纏っており、腰には剣を携えている。


 コレットが思わず背筋を強張らせると、そんな彼女を気遣ったのか、年長の兵士は一歩手前で足を止め、落ち着いた声で尋ねた。


「道に迷ったのか? ここは魔族領との境だぞ」


「あ、あの……私は王国のコレットと申します。数日前まで王太子の婚約者でございましたが、婚約を破棄され、この国境の向こうへ行くようにと命じられて……」


 声を震わせながらも礼を失わないように頭を下げると、巡回兵たちは驚いたように顔を見合わせ、やがて呆れたように息を吐いた。


「また人間たちの勝手な押しつけか……。だが、丸腰の娘をこんな吹きっさらしに放っておくわけにもいかんな」


「ええ。ひとまず城へお連れして、クロード様の判断を仰ぎましょう」


 若いほうの兵士が巡回用と思われる馬車へ戻ると、予備の厚手の外套を持ってきてコレットに差し出した。


「風が冷たいだろう。薄着のようだから、城に着くまでこれを羽織っていなさい」


「え……あ、ありがとうございます」


 恐る恐る受け取って肩にかけると、しっかりとした毛織物の温もりが冷え切った体を包んだ。


 馬車に揺られる中、年長の兵士はコレットに語った。


「まったく、人間は身勝手なものだ。何かあるたびに、いらなくなった者をこちらへ置いていく。魔族領をゴミ捨て場か何かだと思っているのかね」


「あの……申し訳ありません」


「なぁに、お嬢さんが謝ることないさ。なにせお嬢さんは捨てられた側だからね」


 そうして笑う兵士に、コレットは乾いた笑いを返すことしかできなかった。


 けれど――王国の社交界では、魔族は恐ろしく粗野な連中だと噂されていたのに、自分を国境へ捨てていった王国の衛兵よりも、ずっと親切なように思えた。


 しばらく街道を進むと、やがて小高い丘の麓に広がる城下町が見えてきた。


 馬車の小窓から外を覗いたコレットは、思わず目を瞬かせた。

 魔族領というからには荒涼とした土地を想像していたのに、整然と敷かれた石畳の通りには色とりどりの店が並び、角や翼、獣の耳を持つ人々が穏やかな笑顔で行き交っていた。


 彼らが身に着けている衣服も、それぞれの角や翼に邪魔にならないよう工夫された、機能的で美しい仕立てのものばかりだった。


「珍しいだろう。魔族領は人間と違って、様々な種族が一つになって暮らしている。まぁ、そのせいで街は雑然としているがな」


「いえ……奇麗です」


 こんなにも穏やかで豊かな暮らしがあるのだと見入っているうちに、馬車は街を見下ろす丘の上の壮麗な居城へと到着した。


 兵士たちに先導されて石造りの廊下を歩き、案内された執務室は、高い天井と大きな窓がある落ち着いた部屋だった。

 大きな執務机の向こうで待っていたのは、濡れたような黒髪に、鋭い金の瞳を持つ男だった。細身ながら身の丈は高く、その背中からは黒曜石のように艶やかな一対の大きな翼が覗いている。


「この地を治めるクロード公爵閣下であります」


 兵士が頭を下げると同時に、コレットも恭しく頭を下げた。


 巡回兵からの報告を聞いたクロードは、古い木箱一つだけを抱えて立つコレットに鋭い視線を向けた。


「魔力がないという理由で国境へ放り出されたと……?」


「……はい。王太子殿下のお眼鏡にかなわず、このような形で御領内へ立ち入ることになりました。誠に申し訳ございません」


 弁解もせず、ただ頭を下げるコレットを、クロードはしばし無言で見つめていた。やがて、低い声が沈黙を破った。


「……やはり、人間は愚かなものだ」


「え?」


「事情は分かった。我が領内で保護した以上、放り出すことはしない。当分の衣食住は保証しよう」


 領主らしい迷いのない声だったが、すぐに冷ややかな光を瞳に宿して付け加えた。


「だが、ここに人間の使用人はいない。不満でも、それは諦めてくれ」


 かつて王国から来た使節が、角や獣の耳を持つ使用人を嫌がって人間を寄越せと騒いだことがあったのだと、傍らに立つ兵士が補足する。


 コレットは胸元の裁縫箱を抱え直し、丁寧に頭を下げた。


「急なことでご迷惑をおかけしているのは私のほうです。住む場所と食事をいただけるだけで、十分にありがたく存じます。どうかお気遣いなく」


 クロードは少し意外そうに眉を動かしたが、それ以上は何も言わず、扉の外に控えていた侍女を呼んだ。


 恐る恐る入ってきたのは、頭上に柔らかな狐の耳と、腰の後ろにふさふさとした大きな尻尾を持つ少女だった。


「侍従のピナだ。不都合があれば彼女に言え」


「ピ、ピナと申します……よ、よろしくお願いいたします」


 ピナは耳を伏せ、緊張した面持ちで肩を強張らせていた。


 そんな彼女の様子を見ていると、不思議とコレットの肩の力も抜けてくる。彼女のそばへ歩み寄り、穏やかに微笑んだ。


「コレットと申します。これからお世話になりますね、ピナさん。どうぞよろしくお願いいたします」


 ピナはぱちくりと目を瞬かせ、それからほっとしたように狐の耳を揺らした。


 そのままピナに案内された客間は、清潔なシーツと椅子が整えられた静かな部屋だった。


「すぐにお食事をお持ちしますね」とピナが出ていき、パタンと扉が閉まる。


 部屋に一人きりになった瞬間、あの夜から張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、コレットはその場の椅子へ深く沈み込んだ。


 膝の上に乗せた母の裁縫箱を指先で撫で、真鍮の留め金を開けようとしたところで、指先が震えて止まった。


『針仕事しかできないお前には、向こうで魔族の服でも繕う暮らしがお似合いだ』というダリウスの冷たい声と、夜会場を埋め尽くした嘲笑が耳の奥に蘇る。王宮にも、実家にも、もう自分が帰れる場所はどこにもないのだと初めて実感し、熱い雫がぽたりと裁縫箱の木の蓋に落ちた。


 蓋の上で滲む涙を見つめたまま動けずにいると、控えめなノックの音がして、扉がそっと開いた。


「コレット様……お食事をお持ちしました」


 盆を抱えて入ってきたピナの優しい声に、コレットは慌てて目元を拭い、ようやく顔を上げた。

 ピナはコレットの赤くなった目元に気づいたようだったが、何も聞かずに湯気の立つスープと柔らかなパンをテーブルに並べた。


「あの……長旅でお疲れでしょうから、温かいうちに召し上がってくださいね。食べ終わられたら、洗面の温かいお湯もお持ちします」


「……ありがとうございます、ピナさん」


 勧められるままにスプーンを手に取り、スープを一口含んだ瞬間、じんわりとした温かさが冷え切った胸の奥まで広がった。

 自分を見守るピナの狐の耳が心配そうに揺れているのを見て、コレットはこわばっていた肩の力がすっと抜けていくのを感じた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 それから数日が経った。


 毎朝、ピナが食事や湯を運んでくるたび、コレットは「おはようございます、ピナさん」「いつも丁寧にしてくださって助かります」と笑顔で礼を伝えた。


 耳や尻尾を見ても嫌がる素振りを見せないコレットに、ピナはすっかり安心し、やがて部屋の片付けをしながら街の暮らしについて楽しそうに話をしてくれるようになった。


 ある穏やかな昼下がり、コレットが窓辺の椅子で自分の服のほつれを繕い、その上から細やかな花を刺繍していると、ピナが興味深そうに手元を覗き込んだ。


「コレット様は、本当にお裁縫がお上手なのですね。針がすいすい動いて、あっという間に可愛いお花が咲いていくみたいです」


「ありがとうございます。子どもの頃から母に教わって、針を持つのが一番の楽しみだったのです。……ピナさんも、奇麗なお洋服や刺繍はお好きですか?」


 コレットが針を止めて微笑みかけると、ピナは嬉しそうに狐の耳をぴくりと揺らし、少し照れたように声を潜めた。


「はい、大好きです! あの……実は私、人間の国の衣装絵を一枚だけ持っているんです」


 ピナがエプロンのポケットから大事そうに取り出したのは、腰の後ろに大きなリボンを結んだ王国風のドレスの刷り絵だった。


「まあ、腰の後ろに大きなリボンを結んだドレスですね。とても華やかで可愛らしいですね」


 よく見ると紙の端が少し柔らかくなっており、いつも大事に眺めていることが分かった。


 コレットが覗き込んで優しく言うと、ピナは自分の宝物を褒められたのが嬉しかったのか、ぱっと頬を染めて頷く。


「えへへ、行商の方から譲っていただいてから、ずっと憧れているんです。もうすぐ街で秋祭りがあるので、こんな可愛いリボンがついた服を着てみたいなって思うんですけど……私の服は、尻尾を通すようになっておりますでしょう?」


「ええ。ピナさんの普段の侍女服は、尻尾が窮屈にならないよう腰の後ろが奇麗に仕立ててありますものね。……そうか、この絵のまま腰の真ん中に大きなリボンをつけたら、ピナさんの豊かな尻尾に隠れて潰れてしまうのですね」


 少し寂しそうに自分の尻尾を見つめるピナの姿に、コレットは胸の奥が温かくなるのを感じて微笑んだ。


「この絵のような王国風のドレスやリボンなら、何度か作ったことがあります。もしよろしければ、いつもお世話になっているお礼に、私がピナさんのドレスを仕立ててもよろしいですか?」


「えっ、本当ですか!? でも、獣人の服は尻尾を通すための特別な仕立てが必要で、人間の服とは腰回りの作りが違いますよ?」


「はい、尻尾を通す服を縫うのは私も初めてです。ですから、ピナさんの普段の服をお手本にさせてください。それと、もし街に馴染みの仕立て屋さんがいらっしゃったら、その尻尾周りの仕立て方を教わりに行きたいのですが、ご紹介いただけますか?」


「もちろんです! いつも私の服を仕立ててくださる優しい親方さんがいるので、明日さっそくご案内しますね!」




 翌日、コレットはピナに連れられて、城下町にある年配の仕立て屋の工房を訪ねた。


 工房の中、色とりどりの反物が並ぶ店の奥から現れたのは、下半身が艶やかな黒蜘蛛の形をした、アラクネ族の年配の親方だった。白髪交じりの髪をすっきりと後ろで束ね、眼鏡の奥に穏やかな目を細めている。

 その背から伸びる六本の腕が、二本で布地を支え、二本で針を持ち、残る二本で裁ちバサミとメジャーを操るという鮮やかな手さばきを見せていた。


 下半身が蜘蛛、上半身が人の形をしている外見に一瞬怖気付きながらも、コレットはすぐに一切の無駄がない六本の腕の美しい動きに目を奪われた。


「いらっしゃい、ピナちゃん。こちらが例の、人間の国からいらしたお嬢さんかい?」


「はい! コレット様とおっしゃって、お裁縫がとってもお上手なんです!」


 コレットが丁寧に頭を下げて持参した刺繍入りのハンカチを見せると、親方は六本の指先でそっと布地を受け取り、精密な縫い目を見て感心したように頷いた。


「ほう、これほど細かく揃った針目はなかなかお目にかかれない。確かな腕をお持ちだ。どうぞ、こちらの作業台へお入りなさい」


 快く招き入れてくれた親方は、複数の腕で器用に獣人用の型紙と仕立てかけの服を広げて見せた。


「獣人の服というのはな、尻尾を動かしたり座ったりした時に布がひきつらないよう、腰の切り替えに独自のゆとりを持たせて仕立てるんだ。換毛期用のはもっとゆとりを持たせるんだが……まあ、今はいいな」


「なるほど……! こうして尻尾の動きを逃してあるから、動いても奇麗な形が保てるのですね」


 コレットは既存の仕立てを熱心に学び、続けて人間の宮廷意匠に使う立体的なリボンの作り方や、布を華やかに重ねる意匠を説明した。


「へえ、人間のドレスはそうやって布を重ねて見せるのか。お嬢さん、若いのにたいした腕だ」


 親方も感心しつつ、二人は種族を超えて互いの技術に目を輝かせた。




 屋敷に戻ったコレットは、さっそく淡い琥珀色の布を裁ち、教わった腰回りの構造を取り入れて仮縫いのドレスを縫い上げた。


「ピナさん、一度着てみていただけますか? いつも通りに少し歩いたり、尻尾を動かしてみたりしてください」


「はい!」


 仮縫いのドレスに袖を通したピナが、姿見の前で二、三歩歩き、ふさふさとした尻尾を揺らした。


 だがその途端、腰の中央に仮留めしていた大きなリボンが尻尾の根元に押し上げられ、背中の布が不自然に浮いてしまった。


 ピナの狐の耳が、しょんぼりと下がった。


「あ……やっぱり、私の尻尾が大きいから、絵みたいな可愛いリボンは無理でしょうか……」


「無理なんかじゃありません。まだ仮縫いですから、ここからピナさんに一番合う形にするのですよ。少しだけ、そのまま待っていてくださいね」


 コレットはピナの後ろに膝をつき、中央のリボンのピンを外した。


 ピナの豊かな尻尾が呼吸に合わせて左右に揺れるのを見つめながら、手元の深紅の布を折り畳み、少し小ぶりな二つのリボンを作って尻尾の左右にそっと当ててみた。


「ほら、ピナさん、鏡を見てみてください。真ん中に一つではなく、こうして尻尾を挟むように左右へ二つ並べてみたらどうでしょう?」


 鏡を覗き込んだピナが、ぱっと目を見開いた。


「わあ……! 尻尾に全然当たらないのに、すごく華やかです!」


「もう一度、尻尾を動かしてみていただけますか? 引きつるところがないか確かめますね」


 コレットが指先で腰元の布の張りを確かめながら丁寧にピンを打ち直していると、鏡越しにその手元を見つめていたピナが、ぽつりと呟いた。


「コレット様……私の尻尾のために、こんなに一生懸命考えてくださるんですね」


 コレットは手を止め、鏡の中のピナと目を合わせて微笑んだ。


「いつもお世話になっているお返しです。……それに、ピナさんが秋祭りで一番可愛く見える服にしたいですから」


 ピナは頬を赤らめ、嬉しそうに尻尾を揺らした。


 誰かのために工夫を凝らし、一緒に鏡を覗き込んで笑い合う時間が楽しくて、この土地で初めての友人ができたような温かさがコレットの胸に満ちていった。




 それから三日後、ついに完成したドレスを着たピナは、姿見の前で息を呑んだ。

 ふんわりと広がる琥珀色のスカートの上、ふさふさとした尻尾の左右で、深紅の二つのリボンが華やかに揺れている。ピナがくるりと回るたびに、豊かな尻尾の毛並みとリボンが揃って愛らしく跳ねた。


「すごい……! 尻尾が全然窮屈じゃないのに、後ろ姿がとっても可愛いです! コレット様、私、絵の服よりこっちのほうが好きです!」


 狐の耳をぴょこぴょこと弾ませて喜ぶピナを見て、コレットも胸が熱くなった。自分にもここでできることがあったのだと、自然に笑みがこぼれた。


「騒がしいと思ったら、何をしている」


 不意に低い声が響き、振り返ると、開いていた扉の前でクロードが足を止めていた。ピナが慌てて背筋を伸ばし、それから誇らしげにスカートの裾を摘まんで見せた。


「クロード様、ご覧ください! コレット様が秋祭りのために仕立ててくださったんです」


「ピナさんにいつもお世話になっているお礼にと思いまして。街の仕立て屋さんにこちらの服の作り方を教えていただいて、王国のリボンの意匠を合わせてみました」


 コレットが控えめに微笑んで話すと、クロードはピナの腰元で揺れる深紅のリボンと、現地の職人に教えを請うたと気負いなく語るコレットの顔を交互に見た。


 やがて、その厳しい目元がほんのわずかに和らいだ。


「……よく似合っている。いい服だ」


 思いがけない褒め言葉に、ピナはぱっと顔を輝かせ、コレットも胸の奥がじんわりと温かくなった。


 その週末、新しいドレスを着て秋祭りへ出かけたピナが、翌日の昼休みに一人の女性を連れてコレットの部屋を訪れた。ピナとよく似た狐の耳を持つ、彼女の姉だった。


「妹から聞いたんです。秋祭りで、みんながこの子のドレスを褒めていて……あの、私にも一着お願いできますか?」


 期待に目を輝かせるピナの姉を見て、コレットは驚きながらも、嬉しくなって大きく頷いた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 同じ頃――王国の王宮では、遠方の街での商談から戻った職人ギルド長ベルナールが、王太子ダリウスの執務室へと乗り込んでいた。


 コレットが残した手紙を読んで追放の事実を知った老職人は、旅装を解く間も惜しんで王宮へ駆けつけたのだ。


「殿下、コレット様を魔族領へ追放されたというのは真《まこと》でございますか! どうか今すぐ処分を取り消していただきたい!」


 白髪を振り乱して詰め寄るベルナールに、机の向こうのダリウスは不快そうに眉をひそめた。


「騒々しいぞ、ベルナール。私が誰を婚約者にし、誰を追放しようと王家の勝手だ。ギルドの長とはいえ、たかが職人の分際で口を挟むな」


「黙ってはいられません! 私の孫娘は、かつて脚に大きな傷を負い、人目を気にして家に閉じこもっておりました。その時、コレット様があの子の望む晴れ着を作ってくださって、孫娘はようやく笑顔で外へ出られたのです! あのように誠実で確かな腕をお持ちの方を、針仕事しかできないとおっしゃったのですか!」


 拳を握りしめて訴えるベルナールの言葉を、ダリウスは退屈そうに鼻で笑って受け流した。


「たかが針仕事を職人に褒められた程度で、魔力もない女に王妃が務まるものか。お前たち職人は、余計な口出しをせず、命じられたものを作っていればいいのだ」


 ベルナールは息を呑み、やがて静かな怒りを湛えた目で、ダリウスが身に纏っている豪奢な金糸の礼服を真っ直ぐに見据えた。


「殿下。今お召しになっているその礼服も、魔力ではなく、職人の針仕事でできております。……我が工房は、これにて王家からの新規のご注文をすべて辞退いたします。すでに契約して承っているお仕事だけを納めましたら、今後のお取引は一切いたしません」


「なっ……貴様、王家に逆らう気か!」


 立ち上がったダリウスを一瞥もせず、ベルナールは深く一礼して執務室を出ていった。


 扉が閉まると、ダリウスは苛立たしげに机を叩いたが、すぐに「たかが老いぼれ職人の一人や二人、代わりなどいくらでもいる」と吐き捨てた。


 数日後、ベルナールの抗議を知った王都の他の有力工房の親方たちからも、コレットの追放を惜しむ声や王太子の態度への不満が上がった。


 それを聞いたダリウスは、反省するどころか「私に逆らう工房には二度と王宮の仕事を回すな」と圧力をかけた。


 力を示せば職人などすぐに泣きついて戻ってくるだろうと、ダリウスは疑いもしなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 それから二か月ほどで、魔族領にあるコレットの部屋には、少しずつ仕立ての相談に訪れる客が増えていった。


 ピナの姉に仕立てた小花の刺繍入りブラウスが職場で評判になり、その同僚や家族へと口コミが広がったのだ。


 ピナの時は世話のお礼として無償で作ったが、ピナの姉からは「これからも気兼ねなくお願いしたいから、きちんとお代を受け取ってください」と代金を渡され、それ以降は材料費と手間賃を受け取るようになった。


 自分が磨いてきた腕で対価を得て、誰かに喜んでもらえることが、コレットに確かな自信を与えてくれた。


「人間の国のおしゃれを、自分たちの体にも似合うように考えてくれる」


 そんな紹介で訪れる客のために、コレットは立派な角に引っかからないよう肩口にパールボタンを並べたブラウスや、美しい鱗の輝きを引き立てる透かし編みのショールなどを、一人ひとりの希望を聞きながら仕立てていった。




 ある日、ピナに案内されて客間へやってきたのは、艶やかな翠色の鱗を持つラミアの女性だった。


 上半身は人間と同じ姿で、下半身は長くしなやかな蛇の尾になっている。彼女は一枚の白いレースのヴェールを、宝物のように胸に抱えていた。


「近々、人間の商人と結婚することになったのです。婚礼の日にこのヴェールを使いたいのですが、私たちには尾に婚礼布を巻く習慣があって……」


「両方を身につけたいのですね」


「はい。彼のお母様が、ご自分の婚礼で使ったものを私に、とくださったんです。でも、人間の白いヴェールとラミアの婚礼布をそのまま合わせると、どうしてもちぐはぐに見えてしまって」


 困ったように微笑む花嫁からヴェールを受け取り、コレットは窓辺の光に透かしてその端をそっと見つめた。


「とても繊細なレースですね。縁のところに、白い小花の刺繍が施されています。……ラミアの婚礼布というのは、普段どのように巻かれるのですか?」


「腰から尾の先に向かって、薄い絹布を螺旋を描くように巻きつけて留めるのです」


 花嫁の説明を聞きながら、コレットの頭に一つの絵が浮かんだ。


「でしたら、尾の婚礼布は伝統の形と巻き方をそのまま守って、その飾り布の縁にも、このヴェールとまったく同じ白い小花の刺繍を入れてはいかがでしょうか? そうすれば、頭から尾の先まで同じ花が咲き誇る、一着につながった婚礼衣装になります」


「まあ……! それなら、お義母様のヴェールも私たちの伝統も、どちらも綺麗に残せますね!」


 花嫁は両手を合わせ、ぱっと表情を明るくした。


 その日から、コレットは花嫁の尾の寸法に合わせた淡い絹の飾り布を用意し、ヴェールの小花と同じ白い絹糸を使って、一針ずつ丁寧に刺繍を施していった。

 長い飾り布の縁を埋めていく作業は根気がいったが、花嫁と婚約者の笑顔を思い浮かべると、夜遅くまで針を動かしていても少しも苦にならなかった。




 やがて約束の試着の日が訪れ、花嫁は人間の婚約者と一緒に屋敷へやってきた。


 支度を終えて衝立の向こうから花嫁が姿を現すと、婚約者が息を呑んだ。頭から流れる白いヴェールの小花が、そのまま翠色の尾を包む絹の飾り布へと連なり、花嫁が動くたびに白い花々が光を弾いて波のように揺れていた。


「奇麗だ。母にも早く見せてやりたい」


「ええ、本当に嬉しいです」


 婚約者が花嫁の手を優しく取り、二人は幸せそうに微笑み合った。その光景を見つめながら、コレットも胸がいっぱいになった。


 ふと視線を感じて振り返ると、開いていた扉の向こう、廊下の入り口にクロードが立っていた。最近、彼は城内の見回りのついでに、コレットが客とやり取りしている様子を離れた場所から静かに見守ることがあった。


 花嫁たちが何度も礼を言って帰ったあと、クロードが部屋へ入ってきた。


「良い仕事をしたな。あの二人も心から喜んでいた」


「ありがとうございます。お二人が互いのご家族を大切に思っていらっしゃったからこそ、できた衣装です」


 コレットが散らかった糸くずや針箱を片付けながら微笑むと、クロードは窓際のテーブルのそばで足を止め、少し迷うように視線を落とした。やがて、静かな部屋に彼の低い声が響いた。


「……俺たちの姿は、恐ろしくないのか」


 コレットは針山に針を刺す手を止め、クロードの金の瞳を真っ直ぐに見上げた。


「見慣れなくて驚くことはあります。でも、ピナさんも、街の仕立て屋さんも、先ほどの花嫁さんも、皆さん親切ですから」


 そこまで答えてから、コレットは少しだけ頬を染めて、正直に付け加えた。


「ただ……クロード様は、最初は少し怖かったです」


 口にしてから「あ、いえ、翼があるからではなく、最初にお会いした時にお顔が険しかったので……!」と慌てて手を振るコレットを見て、クロードは目を丸くし、それから初めて喉の奥でふっと低く笑った。


「……それは悪かったな。最初から冷たく接したのは俺のほうだ。すまなかった」


 穏やかな声とともに浮かべられた柔らかな笑みに、コレットの胸がとくんと大きく跳ねた。怖いとばかり思っていた公爵の不器用な優しさに触れ、コレットもつられて笑顔を返した。




 その数日後の夜だった。


 コレットがランプの明かりの下でショールの縁かがりをしていると、静かなノックの音が響いた。


 ピナだろうと思って扉を開けると、廊下に立っていたのはクロードだった。その手には、湯気の立つ二つのカップが乗った盆が抱えられている。


「クロード様……!?」


 コレットは目を丸くし、それから扉の隙間から漏れる明かりに気づいて慌てて頭を下げた。


「あ、あの、夜分遅くまで明かりをつけていて、お邪魔でしたでしょうか……! すぐに片付けますので……」


「違う。廊下を通りかかったら明かりが見えたから、根を詰めすぎているのではないかと思ってな」


 クロードは少し苦笑し、部屋の入り口の小さなテーブルに盆を置くと、温かい果実茶の入ったカップをコレットに手渡した。


「君の仕事が喜ばれているのは良いことだが、無理をして体を壊しては元も子もない。……これを飲んだら、今夜はもう休め」


 陶器から伝わる温もりに、コレットは両手でカップを包み込んだ。邪魔だと叱りに来たのではなく、ただ自分の体を案じて足を運んでくれたのだと分かり、胸の奥がじんわりと甘く熱くなる。


「ありがとうございます……とてもいい香りです。あの日、保護していただいた時からずっと、クロード様には助けられてばかりですね」


「俺は何もしていない。君が自分の手で、この城や街の者たちと信頼を築いたのだ」


 クロードは自分のカップに口をつけ、ランプに照らされたコレットの顔を穏やかな金の瞳で見つめた。


「ただ……君がここで無理をしていないか、ちゃんと笑えているかは、気になる」


 ぶっきらぼうなようでいて優しい声に、コレットはカップを持ったまま頬が熱くなるのを感じた。


「おやすみ、コレット」と短い挨拶を残してクロードが部屋を出ていったあとも、果実茶の甘酸っぱい香りと胸のときめきがいつまでも消えなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 それからさらに数か月が経つ頃には、コレットの仕立てを求める客は城下町でもすっかり定着し、溜まった手間賃で街の一角に小さな店を構えることになった。


 店舗にする建物の場所探しには、クロードが自ら手を貸してくれた。休日、クロードと一緒に石畳の街を歩いて見つけたのは、大きな窓から柔らかな日差しが差し込む、木造二階建ての可愛らしい建物だった。


「ここなら一階を店と試着室にして、奥で作業もできるだろう。城からも近い」


「はい、とても明るくて素敵なお店になりそうです。クロード様、何から何までありがとうございます」


 こうして開いた小さな仕立て屋には、朝から様々な種族の客が訪れるようになった。

 店での仕事が軌道に乗ったある日、カランと店先の鈴が鳴り、聞き覚えのある力強い声が響いた。


「コレット様! ご無事でいらっしゃいましたか!」


「ベルナール親方……!?」


 布を裁っていた手を止めて顔を上げると、そこにはコレットが無事を知らせる手紙を送っていた職人ギルド長のベルナールと、王都の工房で顔馴染みだった数人の熟練職人たちが立っていた。


「お会いしたかったです、親方! どうしてこの街へいらしたのですか?」


「王太子の横暴にはすっかり愛想が尽きましてな。契約していた仕事だけをきっちり納めて、コレット様のいらっしゃるこの街で仕事をしたいと、同じ思いの仲間と参ったのです。どうか私たちにも、この街で腕を振るわせてくださいませ」


 コレットは目頭を熱くして駆け寄り、ベルナールたちとの再会を心から喜んだ。


 ちょうど店に顔を出していた現地の仕立て屋たちも彼らを温かく迎え、「ほう、人間の刺繍針はそうやって動かすのか」「こちらの革の仕立てこそ見事な手仕事だな」と、さっそく作業台を囲んで互いの技術に興味を示し、楽しそうに語り合い始めた。


 そんな賑やかで温かな日々の中で、クロードは仕事の用事がない夕暮れ時にも、コレットの店へ足を運ぶようになっていた。




 ある夕方、西日が差し込む店内にクロードの大きな影が落ちた。


「いらっしゃいませ、クロード様。今日はお洋服のご相談ですか?」


 コレットが作業台から顔を上げて尋ねると、クロードは少し照れたように視線を逸らし、けれど真っ直ぐな声で言った。


「いや。……君と夕食を食べたい。それも、来る理由にならないか」


 自分に会いに来てくれたのだと分かり、コレットの頬が一気に熱くなった。


「はい……! なります。すぐにお支度をいたしますね」


 コレットは慌ててエプロンを外し、クロードと並んで夕暮れの街へと出た。


 街角の落ち着いた食堂で温かいシチューと焼きたてのパンを囲み、今日店に来た客の話や城での出来事を語り合う。

 食事を終えて夜の石畳を並んで歩く帰り道、クロードがコレットの歩調に合わせてゆっくりと歩きながら言った。


「仕事の邪魔ではなかったか。こうして用もなく訪ねるのは」


「いいえ、ちっとも。私、クロード様と一緒にお食事をしたり、お話ししたりする時間がいつも楽しみなのです」


 コレットが微笑んで見上げると、街灯の明かりの下で、クロードは愛おしそうに目を細めた。彼と並んで歩くこの時間が、コレットにとって何より心ときめくものになっていた。




 後日、店を訪れたクロードが、いつもより改まった面持ちで口を開いた。


「コレット。今日は注文がある。君の国の意匠を取り入れた礼服を、俺に仕立ててほしい。……大切な相手に会うための服だ」


「クロード様の礼服を、私が……ですか? はい、喜んで承ります!」


 有翼種の服の背中の仕立ては、すでに街の仕立て屋から学んでいた。クロードが晴れの日の礼服を自分に任せてくれたことが嬉しくて、コレットはさっそくメジャーを手に取り、彼の背後から肩幅や胸囲を測り始めた。


 だが、彼の首元の寸法を測ろうとして背伸びをした瞬間、クロードがふっと息を吐き、自ら片膝をついてコレットと目線を合わせてくれた。

 すぐ間近に迫った端正な顔と、熱を帯びた金の瞳に、コレットの胸が大きく高鳴る。指先が彼の襟元に触れ、自分の速い鼓動まで伝わってしまいそうで、メジャーを持つ指先が少し乱れた。


「……やりにくそうだったからな」


「あ、ありがとうございます……」


 耳まで赤くして視線を動かすと、店の隅で布を畳んでいたピナが、微笑ましそうにこちらを見守っているのが見えた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 その頃、王国の王都では、看過できない混乱が起きていた。


 ベルナールをはじめとする熟練職人たちが次々と王家の仕事を離れたことで、数か月のうちに王室御用達の礼服の仕立てや儀仗馬車の装飾修理が滞り、王都の主要工房の生産も目に見えて落ち込んでいたのだ。

 新しい婚約者である侯爵令嬢からも「夜会に着ていく新作のドレスがいつになっても届かない」と不満をぶつけられ、ダリウスは苛立ちを募らせていた。


 そんな折、国王の前へ呼び出されたダリウスは、父――国王から激しい叱責を受けた。


「ダリウス、貴様の軽率な振る舞いのせいで、王室の行事の支度すらままならぬではないか! よいか、すでに担当させている魔族領との同盟交渉を、貴様に与える最後の挽回の機会とする。先方のクロード公爵に礼を尽くし、必ず同盟をまとめて参れ。次の失敗は許さぬ」


「はっ……必ずまとめてまいります」


 恭しく頭を下げながら、ダリウスは内心で都合の良い考えを巡らせていた。


 聞くところによれば、追放したコレットとベルナールたちは今、その魔族領の城下町にいるという。

 使節として乗り込み、同盟を結んだついでにコレットと職人たちを連れ戻せば、すべて一度に取り返せるではないか。

 コレットはいつも自分に逆らわず従順だった女だ。元の婚約者の立場に戻すと言えば、泣いて喜び、ベルナールたちを説得して自分のために働くに決まっている。


 そう信じて疑わないダリウスは、正式な外交使節団を率いて魔族領へと向かった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 魔族領の公爵城、その応接室には張り詰めた空気が流れていた。


 双方の随員が見守る中、到着したダリウスは同盟の本題に入る前に、コレットとの面会を要求した。

 彼女がどう答えるか、クロードはすでに知っていた。「私の口からきちんとお断りしたいのです」と、ダリウスの来訪を知らせた際にコレット自身から告げられていたからだ。


 やがて扉が開き、落ち着いた濃紺のドレスを着たコレットが入室して、クロードの隣に腰を下ろした。その姿を見るなり、ダリウスは満足げな笑みを浮かべて背もたれに身を預けた。


「久しぶりだな、コレット。わざわざ迎えに来てやったぞ。お前の追放を取り消す。婚約も戻してやるから、職人たちを連れて王都へ帰れ」


 恩着せがましい声が室内に響く。クロードが隣で静かに見守る中、コレットは背筋を伸ばし、澄んだ声で答えた。


「お断りいたします、殿下。私は帰りません。ここで仕立て屋の仕事を続けます。また、職人の方々はご自身で行き先を決めた方々であり、私が命じて連れ帰れるわけではございません」


 予想だにしなかった明確な拒否に、ダリウスの顔から笑みが消え、みるみるうちに怒りで赤く染まった。


「なっ……貴様、王太子妃の座に戻してやると言っているのだぞ! まだ自分の立場が分からぬのか! さては魔力もないくせに、隣の魔族に取り入ったな!」


「殿下、言葉を慎まれよ。彼女は自分の意思で帰らないと言っている」


 クロードが低く静かな声で制すると、ダリウスは立ち上がり、忌々しげにクロードへ指を突きつけた。


「黙れ! 化け物が、我が国の人間を囲い込んで領主を気取るな!」


 怒声が響き、応接室が凍りついた。王国側の随員たちが真っ青になって息を呑む中、クロードの金の瞳が鋭く細められる。


 やはり、人間は――。


 かつて魔族を蔑んだ使節たちの記憶が蘇り、胸の奥に冷たい怒りが湧き上がりかけた。だがその瞬間、隣で真っ直ぐに前を向くコレットの凛とした横顔が目に入り、クロードは思考を止めた。


 ピナと楽しそうに笑い合い、街の仕立て屋に頭を下げて教えを請い、ラミアの花嫁のために夜遅くまで針を動かしていた彼女の姿が思い浮かぶ。

 ベルナールたち職人もまた、魔族の職人と作業台を囲んで笑い合っていた。同じ人間だからと、目の前の愚かな男と彼女たちを一括りにするのか。


 ――違う、この男個人の問題だ。


 クロードはゆっくりと立ち上がり、ダリウスを真っ直ぐに見据えた。


「ダリウス王太子殿下。私は、あなたを対等に話し合える相手だとは認められない」


「なに……?」


「正式使節が領主と領民を侮辱した以上、今回の交渉は打ち切る。同盟については、王国の対応を見て考え直す」


 静かだが決定的な宣告に、ダリウスの顔から一気に血の気が引いた。


 『次の失敗は許さぬ』という父王の警告を思い出したのか、ダリウスは唇を震わせてコレットへ向き直り、取りなすよう命じた。だがコレットが静かに首を振ると、テーブル越しに身を乗り出してすがりついた。


「頼む、コレット! お前からもこの公爵に言ってくれ! この交渉が決裂したと父上に知られれば、私は……!」


 コレットは静かな瞳でダリウスを見つめて言った。


「殿下。謝る相手は、私ではありません」


 ダリウスははっとしたようにクロードへと向き直ったが、顔を歪めて言い訳を口にした。


「わ、悪かった。だが、あの程度の言葉で交渉を打ち切るなど大袈裟ではないか!」


 到底謝罪とは言えない言葉に、王国の随員たちが絶望したように目を閉じた。

 コレットはすっと立ち上がり、ダリウスに向かって穏やかに、しかしはっきりと告げた。


「魔族の服でも繕っていろ、とおっしゃいましたよね。私は、ここでそうして暮らしていきます」


 ダリウスは口を開いたが、何も言えなかった。

 クロードもコレットの隣に並び、彼女へと片手を差し出した。


「彼女の答えは聞いたはずだ。引き取っていただこう」


 コレットが迷いなくその手を取ると、ダリウスは蒼白な顔のまま、随員たちに促されて応接室を退去していった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 王都へ帰国したダリウスは、旅装を解くことも許されず、すぐさま国王の御前へと引き出された。


 公的な会談の場での暴言と交渉決裂の顛末は、同行した随員から余すところなく報告された。さらに王都では職人の離反による損害がいよいよ深刻化しており、言い逃れの余地はどこにもなかったが、ダリウスは床に手をついてなおも叫んだ。


「父上、お聞きください! あれはコレットが頑なに帰国を拒んだからで、コレットさえ素直に職人たちを連れて戻ればすべて解決したのです!」


 玉座の国王は、氷のような目でダリウスを見下ろした。


「まだそのようなことを言うか。お前は、戻ってほしい相手にさえ謝れなかったのだぞ」


 静かだが激しい怒りに満ちた国王の声が、謁見の間に重く響き渡った。


「度重なる警告を無視して職人を失い、友好を結ぶべき相手の領主を公の場で侮辱した罪は決して許されぬ。ダリウス、貴様を本日付で廃太子とし、北の離宮への終身幽閉を命じる! 私財の大半は今回の損害の補償に充てる。なお、新しい婚約相手の侯爵家からも、今朝をもって縁を切る旨の申し出があった」


「は、廃太子……!? そんな、お待ちください父上! 私はどうなるのですか!」


 国王は答えず、合図を受けた衛兵が歩み寄って、ダリウスの胸元から王太子の地位を示す黄金の印章を取り上げた。自分の手から権力の証が奪われる感覚に、ダリウスは血相を変えて近くの従者へ命じた。


「おい、何を突っ立っている! 私は王太子だぞ、この者どもを下がらせろ!」


 だが、かつて彼の機嫌を窺っていた従者たちは誰一人として動こうとせず、冷ややかに目を逸らすだけだった。

 そのまま衛兵に両腕を掴まれて引き立てられ、冷え切った北の離宮の部屋へと押し込められた。背後で重厚な扉が閉ざされ、冷たい錠前の音が響く中、ダリウスはその場に崩れ落ちた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 後日、王国からは正式な謝罪状を携えた別の使節が魔族領を訪れた。クロードは人間だからと門前払いすることはせず、誠実に頭を下げる新しい使節の姿勢を見極めたうえで、同盟交渉のやり直しに応じた。


 城下町に再び穏やかな日常が戻る中、コレットはクロードから注文された礼服の仕立てに心を注いでいた。彼の黒髪と金の瞳が一番引き立つように深い夜空のような濃紺の生地を選び、応接室で自分の手を取って守ってくれたあの温かな手のひらを思い出しながら、襟元から胸元へと銀糸の刺繍を一針ずつ重ねていく。


 そうしてついに礼服が完成したある晴れた午後、クロードがコレットの店を訪れた。


 試着室のカーテンが開き、礼服に袖を通したクロードが姿を現すと、コレットは思わず息を呑んだ。


 濃紺の生地に王国の宮廷衣装の技法を用いた銀糸の刺繍が気品よく輝き、背中側は有翼種の体に合う仕立てで美しく開かれ、黒曜石のような大きな翼が伸びやかに収まっていた。堂々とした礼服姿のクロードを見て、コレットは嬉しくなって微笑んだ。


「とてもよくお似合いです、クロード様。肩周りや翼の動かしやすさに、気になるところはございませんか?」


「ああ、驚くほど軽い。翼を動かしても少しも布が張らないのに、これほど着心地がよく美しい礼服は初めてだ」


 姿見の前で肩を回して頷いたクロードは、ゆっくりと振り返り、コレットの真正面に立った。


「きっと、お会いになる大切な方にも喜んでいただけますね」


 コレットが微笑んで見上げた、次の瞬間だった。


 クロードの背中で、大きな一対の翼が静かに左右へ広がった。普段は折り畳まれて見えない翼の内側を、コレットの正面へ向けて丁寧に見せる。そこには、深い夜空に銀の星屑を散りばめたような、息を呑むほど美しい模様が浮かび上がっていた。


「まあ……なんて綺麗な模様なのでしょう……」


 コレットがその美しさに見入っていると、クロードは翼の内側の模様を見せたまま、コレットに向かってゆっくりと片手を差し出した。


「俺たちの種族では、生涯を共にしたい相手に、こうする」


 静かで深い声が店の中に響き、コレットはぱちりと目を瞬かせてクロードの顔を見上げた。


「え……?」


「大切な相手に会うための服だと言っただろう。……君の仕立てた服を着たかった。君に、求婚するために」


 金の瞳が、熱を帯びて真っ直ぐにコレットを映している。『大切な相手』が自分だったのだと気づき、コレットの頬がみるみるうちに熱く染まった。


「コレット、これからも君と共に生きたい。俺の妻になってくれないか」


 胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。

 コレットは差し出されたクロードの大きな手に、自分の両手をそっと重ねた。


「……私も、クロード様をお慕いしております。これからもずっと、クロード様のおそばにいたいです」


 潤んだ瞳で微笑むと、クロードは安堵に顔をほころばせ、彼女の手を優しく、力強く握り返した。そのまま引き寄せられ、広い胸にそっと抱きしめられると、自分が仕立てたばかりの新しい礼服からクロードの温かい体温が伝わってきた。


「あの、クロード様。結婚しても、このお店で仕立てのお仕事を続けてもよろしいでしょうか?」


「もちろんだ。君が楽しそうに服を作っている姿が、俺も大好きだからな」


 頭を優しく撫でられながら、コレットは次に仕立てる自分の婚礼衣装を思い描いた。王国風の白いヴェールに、魔族の婚礼飾りを合わせてみたい。


 相談したい街の仕立て屋やベルナール、そして喜んで手伝ってくれるであろうピナの笑顔が浮かび、隣には自分を愛してくれる人がいる。


 コレットは光り輝く未来を思い描きながら、クロードに幸せいっぱいの笑顔を向けた。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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